ラベル 重松清 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 重松清 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年1月6日日曜日

【本棚】重松清の「定年ゴジラ」を読んで〜定年本に加える

自分も会社人生での定年が近くなってきているので、定年関連の本をボチボチ読んでいます。この本も何気なくAmazonで見つけたので読んでみました。

こちらはニュータウンを舞台に、戦後の高度成長期の日本を駆け抜けた、団塊の世代の少し前の世代の物語。「終わった人」(内館牧子)「孤舟」(渡辺淳一)」もそうですが、大企業で勤めたサラリーマンが主人公です。しかし、この2冊と比べてみると、あまりにもその世界観の違いに愕然とすします(定年本2冊を読んで)。

60歳定年が当たり前で、寿命もおそらく80歳くらいなもの。長寿問題はまだ先の時代で、親の介護など現代的な問題はまだ考えられていなかった、ある意味で平和な時代の物語。日本もこの時代は、今ほどはおかしくっていなくて、定年後の有り余る時間を、家族や近隣とともに、それなりに生きることができた、もしかしたら最後の世代なのでしょう。

重松さんの語り口は、定年を迎えて行き場のない男たち(重松さんの父親世代になるそうだ)に対して、限りなく暖かい目線で物語をつくっている。ニュータウンが中心だから、親しい人との別れや、新たな出会いなどはあっても、大きな事件は起きない。日々の喜怒哀楽が淡々と描かれてい、それがしみじみと心にしみる。

主人公たちは有り余る時間を持て余しつつも、「終わった人」のような焦燥感ややり残し感に苛まれることも、妻との関係が悪化して色恋に走るようなこともしない。あるがままに、今の人生と、歩んできた人生と、今の生活を愛おしみ、そして次の世界に向かう準備をしている。あまりにも普通の生活。

こういう物語ですから、読む人の年齢や性別、キャリアによって感想は全く異なるものになるでしょう。小説の主人公のようなサラリーマン生活を送った自分でさえ、重松さんの物語を否定したくはないものの、今の時代にあっては、過去の大人のためのファンタジーとしか読めません。

この小説は「小説現代」に連載され、1998年に単行本化されたものですから、たかだか20年前、しかし20年も前の時代なんですね。あまりにも時代が変わりすぎました。小説の中にインターネットやパソコンが少しだけ登場しますが、まだ電話回線のモデム時代です。これでは昔話となっても仕方がないか知れません。

それであっても読む価値はありましたか、なぜ現代は、あの時代のような幸福を求めることができなくなったのかを、改めて問う意味でも。

2007年9月30日日曜日

【本棚】重松清:流星ワゴン

重松氏の作品を読むのは二度目。軽い気持ちで休日に読む本と思って買ったのですが、久しぶりに一気読みしてしまいました。重松氏のストーリーテラーとしての上手さが際立ちます。

本作は三代にわたる父子の物語です。後悔と絶望と、そして希望の物語。読みながら自分に重ね合わせ、息子を、そして今は亡き父を思い出しながら読みました。更には親しい友人の家庭のことまで思い、今ならやり直せることと、もう取り返しのつかないことについて、そっと考えました。まあ、そんな本です。本書については、あちこちで散々絶賛されていますから、今更私が付け加えることなどなさそうです。

が、しかし、少しだけ感じた傍流的なことを書いておきましょう。

「流星」なんていうメルヘンチックな題名とは裏腹に、最初は残酷な物語が続きます。しかし、読み終えてみれば、やはりこれは男にとっての「メルヘン」だったんだなと。主人公が途中で甘い考えを抱き、少年にたしなめられるシーンがあります。作者も敢えて明確なハッピーエンドは用意しなかった。それでも、これは甘いメルヘンになっています。もっとも、小説にさえ「甘さ」や「メルヘン」や「希望」がなかったとしたら! 哀れで弱い世の男どもは憤死してしまうかもしれません。

父子の物語は、「子供の挫折とイジメ」「家庭の崩壊」という重松的なテーマも内包し、人生の意味とか希望ということにつて敷衍しています。

物語の中での女性が語られていないことは文庫本解説でも指摘されています。今回は父子にテーマを絞ったからなのでしょう。しかし、逆に考えると本作の主人公を含め、本書に感動する人は、女性の、いや、家庭における母であり妻のことを、結局は理解していないということを露呈してしまっているようにも思えます。都合の良いように女性像を崩し、そしてすがっている。

一方で主たるテーマが父子の関係性であったとしても、父は子に、子は父に何を求め、何をしたかったのか。数限りない後悔を覚えたとしても、それは「父性」という曖昧な中での関係性でしかない。女性の「母性」とは異質であることを、父親は自らの存在の内実から理解しています。男達は父と子であることの限界を知っているというのでしょうか。だからこそ、本作に男性は共感してしまうのか。父親とは虚構の世界でしか心底には分かり合えないのかと。

重松氏が書くテーマに「希望」というものがあります。以下は主人公が「死んじゃおうかな」と思ったときの気持ち。

絶望しているわけじゃないんです。でも、この先に、希望がないっていうか、なんのためにこれから何十年も生きていくのかわからなくなったっていうか。(P.43)

似たような文章は以下にも見られます。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだ。(P.381)

いま、ここにこうして、明日も生きられるということ。それが、まさに「希望」であり「幸福」なのかもしれない、とは彼の小説を読むまでもなく、このごろ強く思う次第です。あとで「後悔」しないように、今を生きているでしょうか。落ち込んだり嘆いたりすることさえ「幸せだった」と思わないように。

2007年9月3日月曜日

【本棚】重松清:疾走(上)(下)


救いようのない物語。14歳から15歳の、たかが中学生に、作者がここまで過酷な運命を背負わせたこと。絶望というには生ぬるく、物語は最初からお終いまで、壊れ堕ち続ける短い人生を描きます。ここまで極端なプロットを用いないと、現代の青少年を描き切れない程に闇は深いのかと。重松氏の「言葉」は、誰に届くのか、届いて欲しい人に。

友情が、兄弟が、親子が、夫婦が、家族が、親戚が、人間が、いや「にんげん」が壊れていくということ。絆も関係も消え去り「ひとり」が残る。恐ろしい程の虚空と「孤独」。「孤独」と「孤立」と「孤高」の違いが物語の途中で語られます。「強さ」とは、何に裏付けられた強さなのか。弱さを克服するとは。救いようのない孤独の中で、主人公が求めるもの、叫び、捨てられるもの、あがき捨てきれないもの。

主人公は、徹底的な孤独の中で、いったん「言葉」を捨てます。「風景」さえ捨てる手段を身に着けました。彼が最後のバランスを取って「生きる」ために取った手段だったのかもしれません。彼には兄のような「壊れ方」をする程には人間が安易にはできてはいなかった。まさに「考えたら壊れる」程の体験をさせられても、自分を捨て、そして自分を守りきります。

どんなに不幸だと思う時代であっても、後から考えると、その不幸なこと自体が「幸せ」であったという人生。主人公にとっては、作品評価の分かれる大阪のホテルにおける「地獄」でさえも、まだ最悪ではなかったのかもしれません。あれが取り返しの付かない、かけがえのない「時」であったと気付く時。それを過ごしている時には、絶対に分からない。だから。

言葉に絶望しながらも、しかし、彼は最後まで「言葉」を捨てられない。彼にとっての「聖書」は超越的な存在としての「神」ではなかったのでしょう。「言葉」そのもの。「ことばとはなんだろう」。主人公はかつて問いました。彼が最後のギリギリの場面で聞いたのも、見ず知らずの者の「言葉」。

物語に救いはあったか、彼は、救われたのでしょうか。彼を確かに見守っていた存在。彼の存在そのものを許し、信じていた存在。人生が、ここまで堕ちるほどに、人間がここまで壊れるほどに酷くないならば、いや酷くても、だからこそ信じ、そしてどこかに確かに救いの手はあるのかと。

読んで愉しい本では全くありません。ドストエフスキー*1)の過酷さ*2)は、いつか読み返す気になったとしても、本書を再び読み返したいとは思わないかもしれません。

  1. ドストエフスキーは最終的には魂の救済と神の問題を扱っていたような気がする。重松氏は「旧約聖書」を引用したとしても、宗教に救済を求めたわけではなさそうである。amazonの書評もざっと眺めたが、聖書の「言葉」は読者には「届いていなかった」ように思える。
  2. この小説の「過酷さ」はゲンダイ日本における「過酷さ」であって、これより「過酷な」人生は、実は他にも存在する(した)ハズで、そういう点からは、彼ら主人公さえ「あれが不幸なら、世の中に不幸なぞ存在しない」と言い切る人も、どこか遠い世界と時代には居る(た)かもしれない・・・。ロクに不幸とか絶望を知らないクセに蛇足でしたか。