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2006年8月6日日曜日

【音盤】シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ラトル

  1. 第1楽章:アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ(16.48)
  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート(16.26)
  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.13)
  4. 第4楽章:フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.15)
  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
  • TOCE-55790

AmazonやHMVのカスタマーズ・レビュなどを読むと真っ二つに感想は割れています。かつての巨匠の名演を知っている人にとっては、冒涜に近い演奏と感じている人もいるようです。しかし私はこれはこれで面白く聴くことができました。

そもそも「グレイト」って、そんなに退屈な曲でしょうか。確かに執拗なまでのフレーズの反復、いつ終わるとも知れない音楽は冗長という印象を与えます。それゆえに、他の作曲家の交響曲などに比して深みにも欠けるという評価も受けているようです。何が「天国的な長さ」かはさておいても、そういう点を全てひっくるめてがこの曲の魅力だと思っています。

おそらく若い世代の感覚には、ラトルのようなアプローチの方がこの曲には好ましいのかもしれません。演奏スタイルを含めて退屈することなく、そしてクール(カッコイイ)と感じることでしょう。ラトルがこの曲に対して何を意図しようがベルリンpo.の演奏技術は圧巻ですし。

私のiPodにはジュリーニ指揮 バイエルン放送響の「グレイト」が入れてあって愛聴しています。ジュリーニの演奏と比べると、ラトルの演奏は全く別物ではありますが、これはこれでひとつの斬新な解釈だろうなと許容します。このような演奏も好ましいと思いますから、私も場合によってはラトルの演奏を聴きたくなります。それはビールを飲むときに、エビスやギネスもいいけれど、スーパー・ドライも飲みたいときがあるよね、といった感じでしょうか。

それであったとしても、例えばジュリーニの演奏を聴いた後に感じる、音楽を聴き通した後の至福と内側からこみ上げてくるような感情の波をラトルの演奏から感じることはありません。


ただ音楽にそれが必須な要素なのかと問われれば、私は敢えて否と答えます。いつもいつも大きな感動で襲って欲しくないという気持ちもあります。同じ曲を演奏しながらも(聴きながらも)、求めているものも、結果も全く違うのだと思うだけです。

2005年2月6日日曜日

【音盤】ラトル/オルフ:「カルミナ・ブラーナ」



カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」


  • シルヴィア・グリーンバーグ(S) 
  • ジェイムズ・ボウマン(C-T) 
  • スティーヴン・ロバーツ(Br)
  • ベルリン国立大聖堂合唱団
  • ベルリン放送交響合唱団
  • リッカルド・シャイー指揮
  • ベルリン放送交響楽団
  • 1983年6日、
  • Jesus Christus-Kirche,Berlin、
  • LONDON名盤1200 POCL-9982

年末恒例のベルリン・フィル「ジルヴェスター・コンサート」での演奏で、NHKでご覧になった方も多いと思います。HMVで輸入版が1990円、国内版が2000円でしたから国内版を購入しました。この価格差はイロイロな意味で微妙です。


さて「カルミナ・ブラーナ」と言えば、冒頭の"O fORTUNA (おお、運命よ)" と、続く"Fortune plango vulnera (運命は傷つける)"ばかりが有名で、また土俗的なパワーがバリバリというイメージだったのですが、ラトルの版を聴いてみて、この曲を今まで真面目に聴いていなかったのだと思い知りました。




確かに強烈なリズム、シンプルな反復旋律、劇的コーダは聴きごたえがありますし、刻み付けるようなラテン語のリズムはニ三日は脳内でグルグルと永久運動を起こすかのような力を持っています。しかし、対訳とともに仔細に聴いてみますと、土俗的なパワーばかりではなく、非常に変化に富んだ構成であることに気付かされます。


テーマも「春に(自然と青春)」「居酒屋にて(苦情と日常生活)」「求愛(男女とエロス)」と三部構成、どれもこれも味わいがあります。第二部の"Olim lacus colueram (焙られた白鳥の歌)"のブラックさ、"Ego sum abbas (余は大僧正様)"のオカシ哀し大迫力な嘆きなど、凄い歌詞と音楽です。


しかし一番の聴きどころはワタシ的には第三部でしょうか。歌詞も結構どぎつく、児童合唱に歌わせる曲かよというような内容をシレっと歌わせています。圧巻は"In trutina (ゆれ動く、我が心)"のソプラノ独唱から"Dulcissime (私のいとしい人)"~ここだけでも5回以上は聴いたな~を経て"Venus generosa! (気高きヴィーナス)"と最高潮に達し"O Fortuna"となだれ込む場面でしょうか、ここでのティンパニの強烈にして硬質な響きは凄い。


ラトルの演奏がどうの、ということは上手く書けませんが、ベルリンの性能を最大限に発揮させながらも、単なる土俗的な演奏に陥ることなく、曲のもつ現代性や美しさを引き出しているように思えます。第一部"O Fortuna"での速度変化なども、楽譜に忠実な演奏ということらしいですが、かなり刺激的です。また、第1部の終わり"daz diu chuegin von Engellant lege an minen armen. He! (英国の女王を 私の腕に横たえるためなら)"の最後における打楽器の猛打も凄まじいの一言、ライブで聴いていたら"Hi!"で吹っ飛んでいるます。


曲のあちこちで活躍バリトン歌手クリスティアン・ゲルハーヘルはハリのある朗々とした、そして説得力のある歌声を聴かせてくれます。ソプラノのサリー・マシューは、声質としてはメゾ・ソプラノに近いのかな、最後のキレる寸前の高さで歌う"Ah! totam tibi subdo me! (私のすべてをあげましょう)"も悪くはないですが。


書き始めると、ツッコミところ満載の曲ですからキリがないので、このあたりで。

2004年9月27日月曜日

【音盤】ラトル/メシアン:彼方の閃光


今日は暑さもようやく一段落し、細かな雨がひそやかに中に舞っているような天候でした。ということで、今日は落ち着いて音楽などを聴くことができました。普段はほとんど手に取ることのないメシアンです。ラトル+ベルリンの話題作ということで買ってみたのですが、果たして・・・

サイモン・ラトルが率い、そのカラーを再び変え始めたベルリン・フィルがメシアンの最晩年の作品「彼方の閃光」を録音しました。ラトルの新作ということで話題になっている盤です。メシアンは私にとってほとんど馴染みがない作曲家ですが、ラトル+ベルリン+話題ということでミーハー的に聴いてみたところ成る程凄い曲であると得心。

「彼方の閃光」のテーマはヨハネの黙示録を題材としており、キリストの出現からサタンとの最終戦争を経た後、キリストを信じたものに祝福を与えるという内容です。「閃光」とは復活した者たちの光となるキリストのことであります。

キリスト教的テーマは、黙示録どころか聖書に馴染みのない私のようなものには手ごわく思えるのですが、通して聴いてみますと宗教的テーマ性を土台としながらも、カレイドスコープのような音響の大伽藍や研ぎすまされた美しいフレーズを聴くことができ、細かいことは抜きにして楽しめる音楽でした。それでも一聴しただけではピンと来ないところもあるため、全体の音楽像を掴むには数度聴いてみる必要がありましたが。(例えば黙示録の展開だけを追って1、4、6、7、11楽章だけ聴くとか、鳥のテーマの3、9楽章だけ繰り返すとか)

それにしても起伏の激しい曲です。第5楽章の《愛にとどまる》の弦楽器による繊細な緩徐楽章にウトウトとしていたと思ったら、凄まじい打楽器の強打で始まる第六楽章《7つのトランペットと7人の天使》に肝を潰します。打楽器の音圧は貧弱なスピーカーやヘッドフォンを通しても充分に迫力があります。また圧倒的なホルン軍団の演奏にも驚くしかありません。

鳥の声を模した第9楽章《生命の樹にやどる鳥たちの喜び》のフルート・クラリネット族の超絶演奏にも唖然、一体どんな楽譜でどんな指揮をしているのやら。メチャクチャな音楽なようでいて美しい。

第11楽章の《キリスト,楽園の光》でのかすかに聴こえるトライアングルの音色もまた特筆もの。この楽章は、ある意味で彼岸の彼方のような曲ですが、あまりウェットな感情表現ではなく、ひたすらに美しい演奏になっているようです。

オーケストラの編成は128人にまで増強されており、フルートやクラリネットはそれぞれ10人も居るというのですから驚きです、打楽器の種類も多彩。オーケストラの性能をフルに活用したスーパーカーのような編成ですから、適うなら実演で接したいと思わせます。私の貧相なオーディオ装置では、実のところこの曲の魅力は半減以下です。

他の演奏と比べたわけではありませんが、ラトルの演奏はメリハリを効かせたキレの良い演奏に仕上がっているようです。「閃光」という題名に象徴されるような煌びやかさも感じます。また木管をはじめとして個人技も凄まじく、有無を言わせぬ圧倒的な音塊感でぶちのめすというより、そこかしこの表現に驚かされる演奏になっているように思えました。全体的にポジティブな明るさを演奏からは感じるのですが、それが本来の曲のイメージなのか、テーマから考えると少し疑問なのですが、いかがでしょう。

2002年11月11日月曜日

ラトル/ベルリン・フィルの「マーラー 交響曲 第5番」

  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo. 
  • 録音:2002年9月7-10日  Philharmonie, Berlin (Live) 
  • EMI TOCE-55463(国内版)
マーラーの交響曲を評することは難しい。特にマーラーの中でも比較的ポピュラーであると考えられているこの第5番交響曲さえも、作品解釈における正しい理解のもとに接しているかと自問するならば、否と答えざるを得ないだろう。
マーラーの交響曲としては、第1番交響曲に次いで親しみやすいため名演奏も多い。家にあるCDだけでも、定番とも言うべきバーンスタイン&ウィーン(1987)、同じくバーンスタイン&ウィーンの87年ロンドンライブ、テンシュテット&ロンドン響(1978)、ドボナーニ&クリーヴランド管(1988)、ショルティ&シカゴ(1970)、ガッティ&ロイヤル・フィルハーモニー(1997)などがある。
以上の演奏の中ではバーンスタインのロンドンライブの圧倒的な演奏、ガッティの熱い演奏、そしてショルティの精密機械のような演奏などが特に印象に残る。
意外なことに、私の持っているCDでベルリン・フィルのものがないことに気付いたが、そういう偏った方手落ちなCD試聴経験からラトル&ベルリンの新盤を聴いてみたが、今までのどれとも異なる演奏が展開されているように思えた。
演奏にはラトルらしい歯切れの良さ、そして独特の強調された強弱のつけ方や緩急などが際立ち、音楽的な立体像がくっきりと浮かび上がってくる印象だ。さらに、何か颯爽としており、瑞々しささえ湛えた演奏で、これが何度も聴き慣れたマーラーの5番かと思わせる部分がなきにしもあらずだ。少しただれたような、そしてとろけるような耽美的にして廃頽的な香りは、この演奏からは感じられない。
音楽の盛り上げ方シャープであり劇的である。例えば第一楽章冒頭のトランペットのファンファーのすぐあとに来るオーケストラによる表現なども、音のカタマリとなって聴くものを圧倒する、しかし決して暴力的ではない。よく耳をそば立てれば、随所で色々な音が聴こえてきて、曲の持つ構成にパースペクティブを与えているようにも思える。
ラトルはニコラス・ケンヨンとのインタヴュー(2002年8月2日)の中で「この曲は有名で、演奏される機会が多いという理由で、演奏は簡単だと思われがちですが、本当は演奏が大変難しい曲」と述べている。以前はラトル自身、曲の意味や構造を全くつかめなかったという。
ラトルはこの曲を録音するに当たり、随分と研究を重ねたらしい。もっともだからと言って、微分的に分析的な演奏というわけではない。むしろマーラーの心情(それがアルマへの迷える愛なのかは分からないが)が揺れ動く、しかも複雑な多層的心情の揺れが、あるときは時系列的に、あるときは過去も未来も前後して、混沌として渦巻く様を追体験しているような気にさせられる。音楽は感情的に高まるよりも、内省へと傾き最後に行き着くように思える。作曲者の心情と一体化するのではなく、かといって心理学者のようなスタンスでもなく、客観的に捕らえているという印象だ。
もっとも、これは私の個人的な感じ方だ。CD解説の中でコリン・マシューズはこの作品を「全体的に個人的感情を交えない作品」、4楽章のみを「ここだけ内面を見つめた個人的な内容」と記している。
一方ラトルは、先のインタビューでこの曲を「死すべき運命への答えは何か?」との問いに対する「愛との対位旋律こそが全てを癒す」というマーラーの答えだと述べている。
ところで私は、あまりにも、バーンスタインのような、思い入れの強い演奏に慣れ親しみすぎているのだろうかと思わざるを得ない。もしラトルの演奏に物足りなさを感じるとすると、そういう点だ。聴きながら握りこぶしを固めてしまい、音楽に没頭するような瞬間は少ない。
例えば第2楽章の「嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで」という指示の曲も、泣きが入るような感情の吐露ではなく、一歩引いた、窓の外の実際の嵐を見ながら自らの心情を確認しているような響きを感じる。有名な第4楽章のアダージェットにしても演奏時間は何と9分半という短さだ。死の匂いのする耽美主義は感じられない。
だからと言って、ラトルが「死」というものを避けて演奏を意図したというわけではなさそうだ。彼の棒からオーケストラが奏でる響きは、時として残酷なくらいの深く鋭い人生の深淵を垣間見せている。そのざくりとした裂け目の暗さが冷たく鋭いがために、逆に曲の最終テーマであろうか、深淵からの復帰と勝利は、強い憧れととともに見事な賛歌となって我々を打つ。
あまり良い聴き方ではないが、ここで第5楽章の最後3分、いわゆる金管軍が咆哮するラストのコラールのみ、いくつかの演奏と聴き比べてみた。アルマが「取って付けたようで古臭い」と評し、マーラーが「だってブルックナーだってやってるぢゃない」と言った部分だ。(ラストのたった3分のみで比較することに意味があるとは思えないということは分かっているが、座興として読んでもらいたい)
まずはバーンスタインのロンドンライブ。ここの部分だけであっても、バーンスタインの演奏を聴くと、全身の細胞が熱を帯びたように振動し、涙腺は緩み、地に足がつかないかのような感じに私は陥ってしまう。たった数分間でバーンスタインの魔力にあてられ、押し潰され、演奏後の爆発するような拍手を聴きつづけることができない。
次にテンシュテット&ロンドン(全集盤)。バーンスタインとは全く違ったアプローチでありながら、ゆったりとしたテンポの中に、音の大伽藍が築かれており、思わず頭を垂れてしまうほどの荘厳さだ。
最後はガッティ&ロイヤルフィルだが、この演奏の構築力と旋律の対比の見事さは、他のどの演奏をも押して顕著でありクラシックを越えた新鮮さを感じる。
��これ以上やるとヲタクと思われかねないので、もうやらない)
振り返って、ラトルのコラールも、実に見事な立体像で我々に迫ってくる。スピード感とダイナミックさを伴い「颯爽」と駆け抜けるといった趣だ。聴き終った後にふと我に返って恥ずかしくなるようなことはない。
マーラーに「颯爽」は要らないと評するファンの声も耳にする。どちらが好きかは、趣味の問題だろう。ただ、バーンスタインの演奏を再び、そして何度も聴こうとは思わない。あまりにも特別なのだと改めて感じた。
ラトルとベルリン・フィルのこれから10年間を、私たちクラシックファンは、おそらく期待と不安、そして肯定と反感を感じながらも、無視することができずに眺めてゆくことになるだろう。そういう新しい時代を拓くという意味において、そして20世紀的なマーラー呪縛からの解放という意味でも、一聴の値はあると思う。(ブーレーズのマーラーというものあるが、あれは別物かもしれないので言及しません)

2002年5月26日日曜日

【音盤】サイモン・ラトルのシェーンベルク 「グレの歌」


  • サイモン・ラトル(cond) 合唱指揮:サイモン・ハルゼイ ベルリンpo.
  • ライプツィヒ中部ドイツ放送合唱団(合唱指揮:ホワード・アーマン) 
  • エルンスト・ゼンフ・ベルリン男性合唱団(合唱指揮:ジーグルド・ブラウンス)
  • ベルリン放送合唱団(合唱指揮:ジーグルド・ブラウンス)
  • カリタ・マッティラ(トーヴェ:S) アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(森鳩:Ms) トーマス・モーザ(ヴァルデマル王:T) フィリップ・ラングリッジ(道化のクラウス:T) トーマス・クヴァストホフ(農夫、語り手:Bs、Br)
  • 2001年11月ライブ録音 EMI TOCE-55391-92

シェーンベルクというと無調の12音技法を駆使した難解な現代音楽というイメージがあが、「グレの歌」(1901年)は、彼が20代後半に作曲した作品で、ドイツ後期ロマン派の影響を強く受けた音楽である。実際彼の生まれたころは、ワーグナー、マーラー、ブルックナーの全盛期であったのだ。この作品にもワグネリズムの影響を聴く事ができるかもしれない。彼の「浄夜」(1899年)と同じような系列にあって「甘美で叙情的」な音楽といっていい。

しかし「浄夜」は弦楽合奏だが、「グレの歌」はマーラーの千人の交響曲を凌ぐ規模の大きさだ、肥大化したオケは極限とさえ言っても良い。五管編成以上に三つの合唱団、5人のソリストが加わり、演奏者は総勢400人にものぼる、数字を聴いただけでたまげてしまう。この編成から鳴らされる音響は驚異的であり、さらに陶酔的さえある。

さて、そういう音楽を話題のラトル&ベルリンの録音で聴いてみた。

2001年9月18日、20日、11月9日のデジタル録音、同年のベルリン芸術週間の目玉となった記念碑的公演をライヴ収録したもの。サイモンラトルがベルリン・フィル芸術監督就任後の初レコーディング盤である。この壮大なる音楽を、非常に緻密にそして美しく表現している。

日本盤の解説によると、ラトルは「グレの歌」を昔の恋人のようと称している、それこそ10歳か11歳のほんの子供だった当事、この総譜の虜になってしまったと言うのだ。それだけに、満を持してという感じなのだろうか。

冒頭の序章からして瑞々しく美しい、まるでラヴェルの「ダフニスとクロエ」のような優雅さが漂う。実際ラトルは"ダフニスとクロエ"のように演奏すれば良いとオーケストラに言っていたらしい。だとするとその試みは大成功しているといえる。フランス的な感性が、ドイツ的ロマンを身にまとい、ほんとうに見事な音楽を形作っている。

「グレの歌」のストーリーについては割愛するが、簡単に言ってしまえば悲恋と魂の救済のようなものだ。こういう音楽をラトルは、感情の奔流が溢れるというような情緒的な演奏ではなく、理知的にまとめているように感じる。メリハリがないとかいうのでは全くない。それはむしろ全く逆で、そこかしこに劇的なオーケストラの効果を聴き取ることができる。それでいて、音楽としての透明感とパースペクティブがきっちりした演奏というように感じるのだ。今の段階で他の演奏と比較しているわけではないので何とも言えないが・・・。

いずれにしても、壮大なるオーケストレーションによる音の洪水を体験することができる盤である。できうるなら、大音量で楽しみたいものである。

2001年8月29日水曜日

【音盤】「今さら『運命』?」と言うなかれ!~三つのライブ録音

ラトルの「運命」が話題になっている。これを機会にと思い、その他の気になる演奏をふたつほど(フルトヴェングラー、テンシュテット)聴き比べてみた。
このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。


ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 指揮:サイモン・ラトル 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ EMI TOCE-553311
ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)
国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。
カルロス・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。
どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。
ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。
ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。


ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:フルトヴェングラー 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1947年5月27日 DG
解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。
石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。
さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。
半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。
CDであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。
「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。
「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。

 



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:テンシュテット 演奏:ロンドン交響楽団 録音:1990年8月30日 米RARE MOTH RM 401/2-S
札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。
テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。
フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。
最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。
しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。
確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。
カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。