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2021年6月7日月曜日

クラシック音楽の精神性について再び

クラシック音楽の人気ブログ、BOKUNOONGAKUで、古くて新しい、音楽に対する精神性という論点での非常に長く、深い論考が掲載されていましたのでメモっておきます。

2009年3月13日金曜日

哲学博士 宮下誠氏のブログ

『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。

あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。

音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、

この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。

感動!!!

そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。

安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。

神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。

こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。

「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。

2006年3月8日水曜日

音楽が語る以上のこと

「クラシック音楽の垣根・・・?」というエントリに、ぽん太さんからコメントをいただき、レスを書いていたら予想に反して長くなってしまいましたので、ここに改めることとしました。

(とりあえずコメントに対するレスなので)こんばんは、かの本を読み始めたのですね。私自身、久々に楽しめる新書であったと思っています。

ところで西洋芸術音楽の「時代を超えた大きな思想」とか「精神性」についてですが、そこに着目しすぎると音楽本来の持つ魅力からどんどんずれていくように思うことがあるのです。少し前まで(今も?)日本の音楽界の本流はドイツ・オーストリアの音楽であり、ベートーベンなどに比べてチャイコフスキーは「精神的に深みが足りない」などと評されたものです。また指揮者にしても、ドイツ・オーストリア系を振らない指揮者、あるいはピアニストは、どんなに人気があってもホンモノではない、という評価は未だに耳にするところです。

ところが、この「思想」とか「精神性」、あるいは「ホンモノ」というのが、どこか胡散臭い。純粋音楽に標題性や歴史性を、更にはそこから思想や精神性を聴き取ることは、妄想とは言わないまでも結局はごく個人的な事柄でしかないという思いが捨て切れません。

個人的なことになりますが、私は小学生の頃から国語が大嫌いでした。特に「この文章のテーマは何か、作者の言いたい事は何か」という問いは、ほとんどはずしていました。どんなに読んでも、回答のようには考えられない。それ以来、作者が意図したとおりに読者に伝わるということは、私の経験からすると、ほとんどありえない、万人が万人的に解釈することこそが正しく、正解を求めることが間違っている、と勝手に思うようにしました。

ですから、作曲家のごく個人的な事情(作曲の背景や主要主題の意味的なもの、あるいは極めてプライベートな書簡類)まで理解した上でないと西洋芸術音楽を理解できないとしたならば、それって一体何なんだろうと思うわけです。モーツァルトにしても、自分の音楽を聴く人が作曲家のスカトロ趣味や妻との性生活を熟知した上で作品に接することになるだろうなんて、想像だにしなかったハズです。

音楽ではなく美術に転じますと、キリスト教の宗教画や17世紀頃のオランダの静物画またはブリューゲルの幻想絵画などに隠された寓意を知ることは、作品解釈において重要なファクターですし、その理解する過程そのものがスリリングな楽しみを伴うことは否定しません。しかし、ぽん太さんのお好きな歌舞伎にしても、時代背景や文学性に拘泥しすぎると、歌舞伎本来のもつ魅力が硬直化したように感じる瞬間はないでしょうか。それらを知らなければ作品を楽しめないということは、決してないはずです(各人が各様に楽しむだけ)。

音楽も同様に「そこから聴こえる以上のこと」に拘泥しすぎること、何かが聴こえなくなることもある、音楽の聴き方を自ら制限することもあるのではないかと。(ここは、こう聴かねばならない、とか、こんな音楽ばかり聴いていてはダメだとか。中途半端な聴き方ではだとか・・・) 

私は学者でも音楽家でもなければ演奏家でもありません。そういう深い理解まで、作曲家が果たして期待していたのかと思うと、案外そうではないかもしれないと思うこともあるのです。

たとえば、トリノオリンピックで金メダルを取った荒川静香さんの演技の裏話は、週刊誌やワイドショー的には面白いでしょうが、彼女の過去や境遇を知らなければあの演技に感動できなかったか、といえば嘘になる。「演技が語る以上のこと」を知る必要が一体どこにあるのかと。

2006年3月6日月曜日

クラシック音楽の垣根・・・?

岡田暁生著「西洋音楽史」のエントリに対するぽん太さんのコメントを読んで、あれこれと考えていたところ、音楽ジャーナリスト林田直樹氏のブログ(LINDEN日記で引用されていた石田衣良氏の言葉がたまたま目に止まりました。

石田さんはモーツァルトや現代音楽などがお好きだった理解しています(確かロマン派はダメみたい)。

「実は本当に一番素晴らしいのは、芸術そのものではなくて、それを『素敵だ』『面白い』と感じることができる人の心である。三百年前のオーストリアの作曲家が注文仕事で書いた音楽を聴いて心から感動できる。人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ」(石田衣良)

全く同感。クラシックの敷居をすごく下げてくれる言葉ですね。「大作曲家の残した偉大な音楽」という権威よりも大事なもの、それは「聴き手の感受性」だと言っているのですから。

え? 本当にそうなのか?素晴らしいのは聴く人の心で、感受性が一番大事であるということ。

それはそうなのですが、魚の小骨のようにひっかかる言葉です。私の深層のどこが「違う」といっているか、掴むことができません。従って、このエントリは批判ではなく留保です。芸術を「面白い」と感じる心がなければ、その芸術がどんなに偉大な可能性を秘めていても当人にとって意味のない(つまらない)ものであるということは対偶として真でしょうか。

私は芸術が、作曲家の思想や理念こそが個人を凌駕すると思ってはいません。また、芸術の権威やブランドをことさら持ち上げる気持ちも、できるだけ少なくしたいと思っています。万年クラシック初級者の私のこと、ついつい有名作曲家の評価の高い演奏ばかり聴いてしまいがちですから。自分の目や耳を信じて、これが「良い」と感じること、すなわち自分の感受性や感性を信じて評価するということは、意外にも物凄く難しいことだと感じています。なぜなら、今まで積み重ねてきた自分が全て露見される瞬間だからです。

仕事の場面においても、「女性的感性」だとか「感性の豊かさ」が必要などという場面に遭遇します。感性は何もないところから生まれてくるものではないし、生まれつきのものでもない。それこそ、裏で磨いたり研ぎ澄ましたり鍛え上げたりすることをして、初めてキラリと光る感性が生まれる。感受性というのは、そういう極めて自発的で主導的な活動を通じた末の偶発的な産物であると思うのです。磨かれた感性は、モノの本質をズバリと見抜くことも場合によっては可能でしょう。

内田樹氏のブログにある以下の文章が、似たようなことに言及しています。(内田樹 研究室「言葉の力」より)

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

では、そういう練磨の上での感受性がなければ、例えば西洋芸術音楽(クラシック)を受け入れることができないかといえば、これまたそうでもない。ある瞬間にあるフレーズを聴いてバーン目覚めることもあれば、これってイイね、としみじみと思うこともある。しかし、何故目覚めたのかを自分の中で追求すると、感性の変化を生じた遠因がどこかに潜んでいることに気付くはずです。

ところで石田氏や林田氏の発言は『自分達の好きなものが素晴らしいもので、感受性の豊かな貴方達が聴けば、きっとどこかで「感じる」部分があるはず』ということをは一方的に期待しています。その発言の裏には、そういう音楽を、自分達はやっぱり素晴らしいと感じていて、感動できる自分達の感性が素晴らしいと認めています。では、そういう音楽を「面白い」と感じられない『感受性』の存在を彼らはどう考えるのでしょう。『え?こんなに素晴らしい音楽を「感じられない」なんて、君たちの心のキャンパスは濁っているのか?』とは言わないでしょうが。

こんなことをついつい無意識のうちに考えてしまったので、彼らの無邪気で無自覚な感受性賛歌には一瞬ひっかかってしまったようです。私のこういう回りくどい感じ方や態度こそが、知らずのうちにクラヲタ的偏狭さに陥ってるという査証なのでありましょうか。あるいは、今読んでいる本の影響でしょうか(その話題はまたいつか)。

ぽん太さんの問いには未だ答えられず。

2006年2月25日土曜日

岡田暁生:「西洋音楽史」を読んで

一部で話題(こことか ここ)の岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)を読んでみました。

新書で西洋音楽の中世から現代までを俯瞰するなど、随分と乱暴な企画だなと最初は思ったのですが、読んでみますとこれが実に面白く、私にとっては西洋音楽というものにくっきりとしたパースペクティブを与えてくれる内容でした。左帯にあるように、まさに「流れを一望」です。

読んでいて、いたるところで成る程と思い、いかに私がクラシックファンを自認していながら、何も知らずに音楽を聴いていたのかということを思い知らせてくれました。

本書ではバッハやモーツァルト、ベートーベンなど教科書的に偉大な作曲家に多くの頁を割くことはしていません。「西洋音楽という大河」の流れの中で、彼らがどういう意味をもっていたのか、なぜ彼らのような音楽が生まれたのか。それを時代背景などを絡めながら、実に簡潔に示してくれます。

記述の仕方に説明不足や決め付けのようなものを感じる部分もありますが、それは新書という制限の中では仕方のないこと。むしろ筆者が「あとがき」で書いているように、音楽の専門家ではなく一般読者が音楽史の大きな流れを理解できるような本にしたかったという意図は、見事に成功していると思います。巻末には豊富な「文献ガイド」がありますので、本書を契機にテーマを深めることも可能です。

本書は知識を問い直すとともに、音楽の聴き方も問い直してくれます。すなわち、何も知らずに音楽を聴いていたどころか、いかに「一面的」な音楽の聴き方に自分が硬直してしまっていたのか、ということにも気付かされるのです。音楽の聴き方は、おそらくは自らの嗜好の反映ではあるものの、一方においては日本の音楽教育や西洋音楽受容の歴史にも影響しているのだろうと思い知らされます。

岡田氏は中世のグレゴリオ聖歌から現代のポピュラー音楽までを、連綿と続く「楽譜として設計された音楽」である西洋芸術音楽を語り、第七章「二○世紀に何が起きたのか」の次の言葉で締めくくっています。

カラオケに酔い、メロドラマの映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々はどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。 (P.230)

筆者は、無意識的であるにしても宗教的なもの(人間を超えた絶対的なものへの寄与)が人間に必須であるとの前提に立っているようにも思えますが、ここだけは安易に首肯できない部分です。というか、数行で決め付けるには大きすぎるテーマですので。

2006年2月10日金曜日

ベスト100とかが、さらに売れていること

昨年の東芝EMI「ベスト・クラシック100」に引き続き、クラシックのサビだけ集めた部分のCDなどが売れているのだそうです。似たような企画は

  • 「どこかで聴いたクラシック101」(ユニバーサル)
  • 「100曲モーツァルト」(エイベックス)
  • 「クラシック・ベスト200」(ワーナー)
  • 「ベスト・オペラ100」(東芝EMI)
  • 「ベスト・モーツァルト100 6CD』(東芝EMI)

などで、かつての「アダージョ・カラヤン」のブームをふと思い出させます。

こういうCDの普及がクラシックファンのすそ野を広げることになるのかは議論の分かれるところ。昨今の「モーツァルト効果」「モーツァルト・セラピー」などの紹介のされ方と受容を含め、流行が過ぎ去った後に何が残っているのかが問題となるでしょう。

忙しい(とされる)現代人にとって、クラシック音楽は「長すぎる」娯楽です。映画だって2時間を越えると「いい映画なんだけど長すぎ~」という感想が目に付きます。コンサート・ホールやオーディオの前で1時間以上もぢっとしていることに耐えられない人も増えてきています。長時間にひとつのことに没頭することがなくなってきたということなのでしょうか。ロックやポップス系の曲でも1曲5分近くになると「長い」と感じる傾向があるようです。

じっくりと物事に取組めないという傾向は、例えば映画や演劇、出版業界にも当てはまるのではないでしょうか。映画はテンポの速さと刺激の倍増に反比例して内容は薄くなる。ベストセラーとなる新書は本の値段と厚さの割には活字数が少なく、結論ありきの理論の飛躍が目に付く。歌舞伎も刺激とスピード感のある勘三郎に人気が集まるなどなど・・・。こういう傾向は「白か黒か」というように単純化された理論が受けている最近の傾向とどこかでつながっている気がしないでもありません。(と、こういう考えそのものが、結論ありきの論理の飛躍ですが)

話を戻しますと、クラシック音楽は十八世紀頃から二十世紀における西洋の思想を代弁していたとする許氏の指摘には一理あると思っています、「普遍性」「真実」「真理」「理念」「理想」などが「嘘っぽい」「欺瞞である」という認識の土壌に現代人が立っているならば、クラシック音楽は耳障りの良い、あるいは爆音でストレスを解消させる、といった効用しかなくなるのではないかと思うのです。クラシックの断片化と商品化は、堪え性のない現代人の志向を強化することはあっても、その中から「のだめ」と「ベスト100」から脱皮した21世紀的クラシック・ファンが大勢育つと考えるのは楽観的かもしれません。それであっても「音楽の持つ根源的な力」を信じる人は、聴く人をいつしか目覚めさせることができるという希望を抱くのでしょうか。

〔追記〕 とここまで書いて、気になるブログのエントリが2件。

Syuzo's Weblogで紹介されていた「西洋音楽史」、これは是非とも読んでみなければ。次に「おかか1968」ダイアリーでの「クラシック音楽 ネット界での明暗」とうエントリ。西洋音楽(クラシック音楽)の受容のされ方は、私の固定観念を超えるとこころが、もしかするとあるのかもしれないなと。(February 10, 2006)

2001年5月8日火曜日

「映画音楽のよう」という比喩

ときどきクラシック音楽の評を読んでいて「映画音楽のよう」という言葉を目にする。例えば、ある人はR・シュトラウスの交響詩を称して、あるいは、ある人はマーラーのアダージョ楽章を称して、そのように言う。 

「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。 

実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。 

しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
 
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。

もっとも、「楽しければ何でもアリ」みたいな風潮も、行き過ぎるといかがなものかとも思うのだが・・・・

芸術という言葉自体が、現代においては死後と化してしまったことに、この種の議論の行き詰まりも感じるのだが、これはまた別問題だろう。