クラシック音楽の人気ブログ、BOKUNOONGAKUで、古くて新しい、音楽に対する精神性という論点での非常に長く、深い論考が掲載されていましたのでメモっておきます。
【ブログ更新】先日のマーラー復活の放送から、ちょっと思うところを書きました。クラシックにおける「精神性」のざっくり解説、殴り書きなので後日修正するかもです。今書いておきたくなりました。
— ボクノオンガク (@bokunoongaku) April 7, 2020
「精神性」とは何か――クラシック音楽に再び訪れる精神性の時代を予見する https://t.co/D6UioAcmmf
Twitterに対する返信で(返信なんて滅多にしないのですけれど)、自分はもはや音楽に精神性を求めない、と書きました。「精神性」とカギカッコつきで書かなくてはならないある種のスノビズムと胡散臭さを感じるからです。音楽に精神性云々を語ることが、クラシック音楽に対して垣根をつくっていることの一因であることも確かです。
かつては、こんなことも書いたことがあります。
- 「映画音楽のよう」という比喩 2001/05/08
- 岡田暁生:「西洋音楽史」を読んで 2006/2/25
- クラシック音楽の垣根・・・? 2006/3/6
- 音楽が語る以上のこと 2006/3/8
- 三浦篤:まなざしのレッスン〈1〉西洋伝統絵画 2008/11/4
- 哲学博士 宮下誠氏のブログ 2009/3/13
なんだか、懐かしくなって、コメントしてしまいました。
クラシック音楽に「精神性」を求めたたのも、またそれに反発する者が出てきたのも、またそれらを含めて反動がでるのも、すべては時代精神を反映しているんだよなあ、と思ったりしています。
BOKUNOONGAKUさんの論考で、思うことがあれば追記するかもです。
自分的には、もはや音楽に精神性を求めることはしていません。音楽が時代精神を反映するかどうかは、また別問題なんでしょうね(というか、反映しないわけがない)。コロナ禍を克服?することが仮にあったら、どういう音楽が鳴り響くのか、確かに考えてしまいますね。
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) June 7, 2021
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