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2001年3月29日木曜日

ヒラリー・ハーン(Vn) によるバーバーのヴァイオリン協奏曲 作品14


指揮:ヒュ-・ウルフ
Vn :ヒラリー・ハーン
演奏:セント・ポール管弦楽団
録音:Sep 1999
SONY SRCR2571 (国内版)

今年1月で廃刊となった「Gramophone Japan JAN 2001」で、「”ヒラリー・ハーン”という名の”引力”」というインタビュー記事が掲載されていたので、読まれた方も多いだろう。その中で同誌は彼女の演奏をして「過去の歴史の束縛から解き放たれ、限りなく伸びやか」と評している。また、「バーンスタインやバーバーの曲で表現している、友達のような親近感すら大作曲家達の曲に与えている。それでいて、作品そのものがもつ気品や、構成美も完璧な技巧の裏づけの下に提示してくれる」とある。

昨年、来日してショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲などを奏し話題になったので、生で接したことのある方も多いと思われる。  私は彼女の演奏は本CDが初めてであるが、私が彼女のこの盤の演奏を聴いて感じたのは、明確さと明晰さであった。

第一楽章はいきなりハーンの艶やかにして、そして確信を持った、たっぷりとした音色で開始される。スターン盤に比べて若々しく、青春のあこがれや若葉の煌めきを唄うかのようである。甘美さの中の陰影など逆にあまり感じられない演奏だ。録音が良いせいもあるのだろう、高音のトレモロの美しさや低音から中音域の音色は豊かである。音が非常に明確であり、それがある種の明るさを生んでいるように思える。言葉を変えれば、躍動する光と言っても良いかもしれない。

第二楽章は、哀しく美しいメロディがまず木管と弦で奏される。それに続くバイオリンソロにおいても迷いはなくストレートに曲が響いてくる。高音がなんとも言えずに美しく、また低音での歌も説明的ではない。聴き進むにつれ、いつの間にかバーバーの曲の流れに身を委ね、体の奥底からの深い充足感で満たされている自分に気付かされる。バーバーの音楽そのものがもつ魅力と、それを十分に引き出しているハーンの実力の賜物なのだろうか。

第三楽章は早いスケルツォの中にも、どこかユーモラスな響きを感じ取ることができる。これはハーンの余裕、あるいは遊び心だろうか。短い楽章だが心が浮き立ちせき立たされ、それでいて心地よい。少しバックのオケがもどかしく感じる部分もないわけではないが(後半の特にバイオリンとトランペットが絡むあたりから)それでも、ラストは激しすぎずに、しかし、決然と終わるさまは潔い。

この演奏を聴いてから、スターン盤を聴いてみて驚いた。そのスピード感の違いである。技巧を要すると言われるこの楽章を、それこそハーンは猛スピードで駆け抜けている。時間はスターンが3分54秒、ハーンは3分25秒。数値ではそれほどの差が無いように思えるが、実際聴いてみるとスターンは「ゆっくりと練習しているのではないか」とまで思ってしまう、それほどの違いだ。

全体を通じて、バーンスタイン・スターン盤で感じられたような「ハリウッド的」なメランコリックや、ガーシュイン的な響きは全く感じられない。先の演奏の感想を読んでみると、まるで別の曲を聴くかのようだ。彼女の演奏は現代的で爽快、曲の姿をくっきりと透明に描き出しているように感じられるのであった。

この感想を書いて気付いた。「ストレートに」だとか「説明的」などという抽象的な言葉が、あるいは「○○のような」などの比喩が、どれほど他の人にも通用する表現なのかは分からない。音楽を言葉にすることの難しさを感じずにはいられない。

2001年3月10日土曜日

【音盤】バーンスタイン・スターン/サミュエル・バーバー:ヴァイオリン協奏曲 作品14

  • 指揮:レナード・バーンスタイン
  • ヴァイオリン:アイザック・スターン
  • 演奏:ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:April 27, 1964
  • SONY SMK63088(輸入版)

サミュエル・バーバーは20世紀のアメリカを代表する作曲家で、「弦楽のためのアダージョ」やこのヴァイオリン協奏曲が代表作である。

この曲は解説によると、Iso Briselli というヴァイオリン奏者のために作曲されたものである。最初の2楽章を受け取ったBriselli は、ヴァイオリンのヴィルトオーゾを振るうところがないと評した。それを受けバーバーは第三楽章を作ったが、今度は難しすぎるという。そこで、Herbert Baumel というCurtis 音楽院の学生に「2時間後に弾けるようになってこい」と命じ彼は見事に弾ききったため、Briselli の主張は退けられた(要は委託金=commission fee をバーバーは受け取ることができた)との逸話が残っている。

この逸話に表されているように全3楽章のうち最初の2楽章は、叙情的な曲である。20世紀の作曲家というと「現代音楽」というくくりにされてしまうのかもしれない。実際は、そういうつまらない先入観を持つことの愚かさを思い知らされてくれるような曲調で、非常にイメージ豊かだ。バーバーが何をイメージしたかは分からない。曲を依頼されたのは1939年、第二次世界大戦勃発前の不安な時代である。しかし、そうした時代性を抜きにこの曲を、バーンスタイン・スターンの演奏で聴くいてみると以下のようなイメージが浮かんできた。

1楽章は非常に甘美なテーマで開始される。甘美でありながら陰があり、散ることを知った花のような儚げなさがある。楽章全体を支配するのはこのようなイメージと、田園的なおおらかさである。中間部のゆったりした旋律や、ピアノが打楽器的に奏されるところでは逡巡や迷い、あるいは、ためらいや苦悩が聞こえる。5分頃ひとつの盛り上がりを見せるが、ここに至っては何かに大きく決心したかのようで、最後は安らかな解決を見る。

曲から受けるイメージとして、大時代的、語弊を覚悟で敢えて書くとすると、ハリウッド的な印象を受け、音楽の奥から女性像が透けて見えてくる。

2楽章は弦楽器に誘われて登場するオーボエの優しいテーマが奏でられる。不安な気持ちや戸惑う心に、やさしく語りかけるかのようないたわりに満ちている。2分50秒頃に始まるヴァイオリンのソロは、切々と歌われるアリアを聴いているかのよう。低音域でのうたは恋歌にさえ聴こえ、甘く限りなく切ない。儚さは1楽章と同じムードを有している。「歌えどもあの人は振り向かない」的な悲嘆が聞こえ、最後はソロが歌われ静かに終わる。こう思うのも、アメリカ=ハリウッド=恋愛映画みたいな図式からかとも思う。我ながら単純な発想である。

3楽章は演奏不可能と言われた楽章。一転して早いバイオリンの動きが続き、叙情的な楽章とは性格を異にする。短く切られた音の連続で、落ち着かなさと不安感が強調される。前の二つの楽章が田園的にして女性的叙情性に彩られていたのに対し、都会的な喧騒に満ちている。人ごみの雑踏とざわめき、車のクラクションさえ聞こえるかのような雰囲気のなか、バイオリンは極度の技巧を駆使して駆け回り、不安げな喧騒のクライマックスの後、唐突に終わる。演奏時間も4分弱と3楽章のうちで一番短く極度の緊張が凝縮され、プラスチック爆弾が炸裂したかの印象を受ける。

こうして聴いてみると、最初の2楽章は叙情的ではあるものの技巧的には緩やかなのかもしれない。時代の雰囲気を考えた場合の3楽章のありさまというのは、やはり世相を反映しているのかと思わせる。オーケストラにピアノを持ち込むことにより、音楽的雰囲気はガーシュインなどを思わせるところもあり、アメリカ的な音の作曲家であると思うのであった。

2001年3月4日日曜日

【音盤】BERNSTEIN & The New York Philharmonic ADAGIO FOR STRING

  • 指揮:レナード・バーンスタイン
  • 演奏:ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:Jan 12,1971
  • Sony SMK63088(輸入版)

このような名曲を知らずに過ごしてきたことを、恥ずかしいとしか今は言えない。たかだか69小節程度のこの曲、弦楽四重奏曲の第二楽章の編曲版らしい。予備知識が全くない状態でこの曲を聴いた。聴きはじめて、そう最初の15小節が過ぎたあたりからだ、涙腺が緩み涙がぼろぼろとこぼれてしまった、それは止めようもない、自分でも制御不能となった感情の高まりであった。  

楽譜を見るとフラット5つのb-mol、音階に限りなく近い音符が並んでいるだけである。それが、どうしてこんなにも人の心を揺さぶりを感動させるのであろうか。

人間の持つ神聖さ、敬虔な祈り、悲しみや慈しみなどの、非常に気高くも冒しがたい感情の動きが表出されているのか、いや、言葉はこの音楽の美しさとかなしみの前では無力でしかない。あまりの深く静かな衝撃に呆然とするばかりで、文章を書くことを放棄せざるを得ない。今できることと言えば、深く頭を垂れこの10分弱の体験の中に身をゆだね、全ての許し受け入れることだけだ。私の葬式の場ではこの曲を流してもらおうとさえ思った。恐るべきバーバー、そして、恐るべきバーンスタイン!

曲のもつ雰囲気を、George Santayana がよく言い表していると解説にあるので、そのまま引用しておく。(誰かうまい日本語訳していただけないだろうか・・・)

"Thus divine beauty is evident, fugitive, impalpable, and homeless in a world of material fact; yet it is unmistakably individual and sufficient unto itself, and although perhaps soon eclipses, is never really extinguished: for it visits time and belongs to eternity."

感情の赴くままにキーボードを打つことは自省せねばと思うが、それでもこの衝撃を書かずにはいられなかった。なお楽譜は、フルート編曲版を基にしているので実際とは異なるかもしれない。