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2008年10月11日土曜日

ランニングのおとも カラヤンのブルックナー


ランニングのおともとして聴いている曲にカラヤンのブルックナー全集(→DG版:HMV)があります。これもITSでダウンロードしたものです。



カラヤンのブルックナーは、まさに豪華絢爛。田舎くささやトロさ、深刻さは全く感じられず、ひたすらに美的快感原理が追求されているように聴こえます。それゆえ正統派のブルクネリアンは、おそらく今でも彼の演奏をかなり批判的に評価するのではないでしょうか。


録音は1975年から81年にかけて。カラヤンも70歳前後と高齢ですし、ベルリンフィルとの絶頂期は過ぎています。しかし、それではあってもテクニック的にも音響的にも世界最高峰のオケです。そこから至福を感じるかあるいは壮大なる空虚と浪費を感じ取るか。これは人により大きく異なるでしょう。


カラヤンの音楽は、彼があまりにも強大な権力を持ったが故か、日本の音楽界や音楽マニアの間で貶められた時期がありました。音楽に快楽より深い精神性を求めること、正統派ドイツ音楽への追求などなに対するアンチテーゼでもあったのでしょう。そういう当時にあっても、カラヤンのブルックナーのあまりの美しさを、控えめながらも強く主張する声もあったように覚えています。


今ではクラシック音楽を巡る状況も変化しました。カラヤン生誕100年の今日にあって、こういうブルックナーを受容する層も増えたのではないかと思います。私もこうして改めて聴いていますと、ブルックナーだって深刻ぶって聴かれるばかりが能ぢゃないと思ったりする次第です(>って、走りながらとか、眠りに落ちる間際でしか聴かないんですけどね)。

2002年4月22日月曜日

【音盤】カラヤン指揮/ベルリンフィル ショスタコービッチ交響曲第10番(モスクワライブ)


カラヤン モスクワライブ
J・S・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
録音:1969年5月29日

指揮:カラヤン
演奏:ベルリンフィル
露ARS NOVA ARS 008


以前掲示板で話題にしたカラヤンのショスタコービッチ交響曲第10番 モスクワライブを聴いた(通称カラタコモス)。

ショスタコービッチ(以下ショスタコ)の作品について書くことは難しい。どうしてもその歴史的背景などに言及せざるを得ない気にさせられるからだ。しかし、ショスタコの全ての作品をスターリンや戦争と結びつけたり、「証言」を参照したりすることが、作品を鑑賞する上で幸福なことなのかは疑問がある。作品が作られてから50年の歳月が経っている、作品背景の束縛がいつまで有効なのかを考えることは難しい判断かも知れない。

それで、このカラヤンの演奏だ。カラヤンはショスタコに関しては10番だけ録音しおり、この盤も入れると4つの録音を耳にすることができる。81年のBPOとの演奏がタコ10の演奏として名高いことはファンとしては周知のことだろう。最も現時点で私は81年盤は未聴であるし、また作品背景についてもCDライナー以上の知識があるわけではないので、ここは素直にCDを聴いた印象だけを記しておきたい。

この演奏は、カラヤンがモスクワに乗り込み、会場にいるショスタコービッチの前で演奏したもので、終了後ショスタコービッチが感動のあまり舞台に上がったという有名な演奏である(カラヤンとショスタコが一緒に写っている写真もある)。今回のCDはLPからの復刻盤であるらしくLPのノイズも聴き取れるが音質は非常に良好。

カラヤンの他の演奏と比べ、このモスクワライブがどういう演奏であるかを論ずることもできないが、はっきり言って私はたまげた。カラヤン壮年期の演奏であるが、流麗とか華麗とかいうものでは全くなく、非常にアグレッシブにして戦闘的な演奏が展開されている。作曲者自らの前で演奏するという気負いもあるのだろうか、また東側諸国というアウェーでの演奏と言う意味もあるのだろうか、とにかく攻めに攻めている。その演奏からは、恐怖感さえ感じるほどだ。(2楽章を何度も聴いていたら、家人が何事かと部屋に飛び込んできたよ)

演奏を聴いて印象に残るのは、これでもかというぐらいに重い低弦の響きだ。LPからの復刻ということもあるのだろうか、多少もこもことくぐもった音であるのは残念だが、低い重心から奏でられる弦の響きは圧巻である。そして、もうひとつは打楽器、とくにスネアドラムの機関銃掃射のような硬質にして破壊的な響きである。実際の演奏でこんなにもスネアが響くだろうかと疑問を感じないわけではないが、このスネアの響きが演奏そのものの方向性を強く決定付けていることに異論はなかろう。それ以外の打楽器でも、特徴的なフレーズを与えられている木管群(オーボエ、クラリネット、フルート、そしてピッコロ)もすごい。強烈なトランペットの響きと共に炸裂するシンバルの音などは、破壊的でさえあり、何か鬼気迫るものを感じる演奏である。低弦とスネアに支配された音楽は、アダージョだろうとアレグロだろうと、一部の隙もなく怒涛のごとく進む。

タコ10と言えば、暗い出だしと短いアレグロの2楽章、そして少し冗長な3楽章と混沌とした4楽章という感じで、決して親しみ、理解しやすい音楽ではない。圧迫や慟哭、葛藤や闘争、諧謔やユーモア、そしてカタルシス、非常に多くの複雑な心情がこめられた曲で、一筋縄でゆくものではない。「今日はちょっとブルーだからタコ10でも聴くかな」なんていう気分で聴ける曲ではない。クラシック初心者に「これ聴いてみたら」と薦められる曲でもない。はっきり言って、レビュを書くためにこの曲を聴きつづけるのはしんどいものである。しかし、一度は聴くべき衝撃の音楽であることは認めざるを得ない。

ショスタコも恐るべしだが、それ以上にカラヤン恐るべしである。カラヤンがここに示されたような危険なアグレッシブさを発揮できるとは考えてもいなかった。

2002年4月20日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く

ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。

カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年

私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。

演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。

チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ

チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。

チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。


ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ

ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。

2002年2月25日月曜日

カラヤンのチャイコフスキー5番と6番



 音楽の掲示板にも書いたが、「クラシック招き猫」でカラヤン&BPOのチャイコフスキー交響曲第5,6番(71年イエスキリスト教会 EMI録音)のリマスター盤が静かな話題になっていた。
(不思議とMusikvereinでは話題になっていないようだが>いかがマラドーナ?)

 掲示板や紹介されているサイトの書きこみを読むほどに「これは入手せねば」と思い、市内のCDショップを当たってみた。するとHMVの企画であるため店頭には並ばないことが判明。そこで、オンラインショップで注文することとした。>早くHMV札幌に進出しないかね。

 実は、これだけパソコンやネットを使っているようなフリをしていながら、オンラインショッピングするのは始めて。HMVなのでセキュリティなどの心配はないと思うが、若干の不安を感じないわけではない。

せっかく買うのだからCD1パッケージだけではもったいないので、ヴァント&BPOのブルックナー交響曲第8番(RCA 2001.1.19~22)も購入してみた。注文から3日後には配送されてきたが、これは便利だなと思う。

ところで、届いてカラヤンのパッケージをあけてみてびっくりした。ライナーがないどころか録音データもないのだ。これでは予備知識が無い状態で店頭に並んでいたとしたら、購入していたかは疑問だと思った。ネットショップと店頭買いというのは、そのあり方が微妙に異なるようだ。

 とりあえず話題の「悲愴」を聴いてみる。圧倒的な音量と推進力には脱帽だ。しかし、ヴァントのブルックナーを聴けるのはいつになるだろうか。

2001年7月9日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第4番


指揮:ヘリベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:12/1976 EMI TOCE-3441 Grandmaster Series (国内版)
この演奏は、1976年のものでカラヤンのシベリウスの4番としては最後にして3回目の録音でのものである。カラヤンがシベリウス指揮者の一人であるということは、定評のあるところだ。カラヤンはこの演奏からはシベリウスの何を抽出したであろうか。
第1楽章からそうだが、デイビス版よりもゆっくりとしたテンポで演奏されている。そのため、デイビスを聴いた後に聴くと、雄大さやオーケストラのハーモニーを心行くまでに堪能することができる。また、カラヤン流というのであろうか、ティンパニの響きも激しくまた低弦部分は地響きのような迫力で迫ってくる。また他の演奏でもそうだが、アダージョな部分は耽美的とも言えるほどの美しさで思わずため息がでるほどである。しかしそれゆえにというのが適切かはさておき、デイヴィスで感じたような怜悧さは感じられない。
第2楽章の出だしにしたって、ゆったりとしたテンポは変わらずにオーボエが旋律を奏でるが、田園交響曲を聴くかのような趣さえ、ひと時だが感じてしまう。いや田園的な情緒というよりも都会でワルツを踊るかのような趣のほうが強いだろうか。上品にして典雅であるが、さらに豊穣さを感じる。考えてみれば、シベリウスが死の予感に打ち震え、社交界での思い出に浸っていたという解釈だって間違ってはいるまい。この楽章でもそうだが、表現の幅はあざといほど大きく聴く者をのみこんでしまうかのような迫力だ。
第3楽章は「瞑想的な雰囲気」とか「非現実的な雰囲気」「内的緊張感」などが特徴と本CDの解説には記されている。確かにもの思うかのようなフシや、抑えられたものを感じる部分もある。しかし、どうしてもチェロ以上の弦が奏でる、この楽章全体を貫く主題が強く支配しているように感じてしまう。この交響曲で唯一覚えやすいモチーフであるからかもしれないが、姿や形を変え、色々な断片で演奏されるこのモチーフはシベリウスの散り散りになった思いの現われだろうか。楽章後半で全容を表すさまは、巨大な氷山のごとき寒々とした巨大な感情の塊りを見るかのような気にさせられる。カラヤンは実に見事に、最後の収束に向けてこの楽章を組み立てている。しかしながら聴いていて、R・シュトラウスの交響詩を聴いているような気にならないわけでもない。「あれ、これはシベリウスだったっけ?」てね。
第4楽章はこの演奏でも鉄琴(グロッケンシュピール)が愛らしい。本来は鐘(グロッケン)が使われるような指示らしいが…デイヴィスも鉄琴だったな。カラヤンはエネルギッシュにしてエモーショナルにこの楽章を開始しており、3番以前のシベリウスの曲を彷彿とさせ心地よい。中間部の弦の刻みにのった曲の推進感は見事で、さすがと思わせるつくりだ。オケも十分にドライブして鳴らしまくり分厚い音を作り上げている。強弱のポイントも的確であり見事だ。ラストの終わり方も、大きな悲劇を演じた後に、主人公は舞台に突っ伏して幕というような重々しい雰囲気であり、それはそれで劇的でありかつ感動的であることは否定できまい。
カラヤン・ベルリンのコンビだけあって、オケの個々の技量がボストンと比べると光るし、音響的にも非常に重厚感あふれるものになっている。デイヴィスを素材の味を生かした魚料理とするならば、こちらは凝ったソースをかけたステーキといった趣だろうか。
カラヤン盤も満足を持って聴くことができるとは思うのだが、これがシベリウス的なのかと言うと、少し首を傾げざるを得ない。というのは、ここで表現された音響的世界にしても思索的な組み立てにしても、シベリウスの独自性というものが、逆にこの演奏からは薄まっているように思えるのだ。こういうアプローチなのであれば、素材はシベリウスではなくても良いのではないか、という印象をぬぐうことができない。
しかし、私の言う「シベリウス的」というもの自体が、自分でもはっきりと文章にできないだけに、論点がボケてしまうことは認めざるを得ない。まだ今の段階で「シベリウス的」を表現することができない。ただ、一つだけ言うとするならば、カラヤンの世界は饒舌にして豊穣すぎる音楽であり、シベリウスの目指した(と私が考える)簡素さとか無駄のなさという方向とは逆の世界であると感じるのである。彼の描いた世界は、暗くはあっても限りなき美しさに彩られているのだ。
だからといって、この演奏が価値のないものだとは全く思わない。演奏から受ける感動は紛れもないものであるし、このような演奏があってこそであるのだから。

2001年4月22日日曜日

【音盤】カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる「春の祭典」

ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(cond) ベルリンpo.
録音:1963、1964 DG(LP国内版)

カラヤン・ベルリンの63年の演奏である。この組み合わせなのだから、立派な演奏にならないはずはなく、ここでも力強く構成美豊な音楽が展開されている。 音楽雑記帳でも書いたが、この盤を買ったのは高校1年生のときであったと思う。非常に衝撃を受けたと同時にクラシック音楽の奥深さを垣間見た思いがしたものである。

久しぶりに聴いてみたが、かつての記憶がよみがえるかのような名演であると思う。しかし、バーンスタイン、ブーレーズと聴いてきて、カラヤン盤の特徴や限界(?)も見えてきたような気もする。素人の戯言であるので、あくまでも印象と思っていただきたい。

この演奏だけ聴いている分には迫力も満点であり、豊なの色彩美を感じることもでき、非常に満足を受ける。他の盤になくてこの盤に聴こえるものとするならば、無数ともいえる細かな光と色彩の乱舞であるともいえるかもしれない。それは、冒頭の部分から明らかであり、聴き進むにつれて豊なる音の洪水となって押し寄せ、音楽に酔うことができる。そういう点から考えると、この演奏に難を付ける部分はどこにもないと思う。

しかしなのだ、音の迫力も音楽の推進力もあるにも関わらず、何か物足りなく感じるのである。それは何なのだろうか?よくは分からないのだが、カラヤンがこの曲に求めているもが、少なくともバーンスタインやブーレーズとは若干異なっているのではないかと感じるのである。具体的に指摘することは難しい。不正確な表現を承知で書くとすると、どうもカラヤンは、この20世紀の幕開けたるべき偉大なる前衛の音楽を、非常に真っ当に、前衛的にとか原始的なエネルギーを込めてというのではなく、19世紀までの音楽的手法の延長のようなアプローチで立派に演奏している、というように感じるのだ。

先にも書いたように、音楽的には申し分なく、明の部分から暗の部分への移行や対比も見事であるし、暗い戦慄の奥で鳴る複雑な音色も良く聴き取れる。どこを切っても、豊穣なる音の塊が聴こえるしそれで十分とも言えるし、この音楽の持つ複雑性を見事に表現しているとは思うのだが、何か肝心なものが嗅ぎ取れないのだ。それは、ギリギリの線からはみ出しているかのような、危うさやスリル、鋭さなどが欠如していると言ってもいいかもしれない。もっともこれは「好みの問題」だとは思う。

この盤に対する他者の評は読んだことがないし、聴いた盤もポンコツプレーヤーで昔のLPである。ノイズがカリカリ言うのを我慢しながら聴いているので、再びもっと良い音で聴けば、印象は変わるかもしれないが・・・

2001年4月16日月曜日

【音盤】「春の祭典」聴き比べ

行きがかりで「春の祭典」を聴き始めてしまった。バーンスタイン・NYP(58)、ブーレーズ・クリーブランド(69)、 カラヤン・ベルリン(63)の三種類の盤を聴きくらべてみようと思う。私のルーツ版のLPを聴くために、ぶっ壊れかけたプレーヤーも 復活させた。
ハルサイといえばブーレーズが定番だったので、 91年盤にしようかと思ったが、69年盤を入手してしまった(^^;;
まずはバーンスタイン盤から始めよう…、この盤が数ある「春の祭典」の中でどういう評価を受けているのかは知らないが 衝撃度はピカ一なのではと思う。それは単に私が、バーンスタインの音楽を受け入れやすい性格だからなのかも知れないが。

ファジル・サイ
2000年夏に発売され、方々で話題になったファジル・サイ。かのClassicaJapanでも絶賛されていた(当該HPのDISK WOW!参照)。キワモノ的なイメージが付きまとい、気にはなっていたのだが購入意欲までは湧かずにいた。春になったし、やっぱりここはディーリアスかハルサイかななんて思って購入(1000円ちょっとだし)。続きはCD試聴記で!


カラヤン ベルリン・フィル
春の祭典を初めて聴いたのは、たぶん高校1年のときだったと思う。友人「凄い音楽がある」と教えてくれた。その時に買ったのが、カラヤン・ベルリン(63-64年)の演奏であった。「春の祭典」は紛れもない前衛的な音楽で、不協和音のカタマリであったのに、それは衝撃的な音楽として深く心に刻み込まれた。LPのノーツによると年をまたいで録音した演奏のツギハギということなのだろうか?非常なる名演ではあると思うが、何かが足りないと思うことも事実なのであった・・・

 


バーンスタイン ニューヨーク・フィル
バーンスタイン・NYPの58年の演奏。ハルサイといえば、ブーレーズが有名らしいが、クラシック初級者の私は聴いたことがない。それを前提として書くと、改めてこの演奏を聴いてみると、体の底を貫くような衝撃を覚えてしまった・・・・。残念ながらCD試聴記はまだ書けない。ここ数日、ハルサイ漬けである。
 

ブーレーズ クリーブランド管
バーンスタイン版(58)の後に聴くのは、「春の祭典」の歴史的名盤とまで言われる、ブーレーズ・クリーブランドの69年の演奏である。ブーレーズは91年にも同オケと再録している。「歴史的名盤」といわれるものであるため、嫌でも色いろな批評が目に入ってしまう。それらから全く先入観なしに曲を述べることは、難しいと感じざるを得ない

2001年3月7日水曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第6番


交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」 
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
録音:1975 DG POCG-3870/1(国内版)
曲について
「悲愴」はチャイコフスキーの交響曲としての到達点であると思う。第4番交響曲から追求し始めた「運命のテーマ」が、ここでは「悲愴」という標題に象徴されるように、大いなるかなしみと諦念と陶酔的な死の陰で彩られている。彼はこの曲のわずか数週間後に命を落とす。彼の死はコレラとも、自殺とも、または同性愛であるがゆえに、当局から自殺を迫られたとの説まである。耳タコな曲だが、カラヤン・ベルリン盤でまずは曲をたどってみたい。
��楽章は憂鬱なオーボエの旋律で始まる。寄せては返すさざなみのようで、静かな夜の逝ってしまった世界(彼岸の彼方)を感じる。4分半前後から始まるバイオリンのテーマは、昔日に想いをはせ過ぎさりし幸せな日々を懐かしむような感じで胸が締め付けられる。この感情がたかまり更に心はざわめき乱れるが、全てはもう遅く万感の思いに満ちている。8分50秒くらいから始まるオーボエのテーマは、再び静かに椅子にもたれかかる老人をイメージさせる。(この手のイメージは数回書いてしまったな、ネタ切れか?)。
��分40秒に始まる突然の嵐のような激しさ、これもチャイコフスキーの交響曲によく見られる手法だ。心は千路に乱れ激しく疾走するが、解決をみないままに徐々に小さくなってゆく。しかし、不安の影は消えることはない。
��2分ごろ、再び激しく葛藤するかのような感情の渦に巻き込まれるが、ここに至っては大きな宿命の前で圧倒的屈服感と諦めの念に打ちひしがれてしまう。バイオリンのテーマが再び奏でられ慰めを求めるかのようだが、切迫感が伴い深い嘆きが聴こえる。16分ごろに先のオーボエのテーマが再び奏でられ、続くピチカートの伴奏に伴い歩むか夢見るかのような平安な旋律のもと、この楽章は締めくくられる。
��楽章はお得意のワルツである。非常に優雅な楽調ではあるものの、途中からは水をさすかのようにティンパニのリズムによる暗い影が投げ付けられる。忍び寄る運命への諦めの気持ちが支配してくる。この暗いテーマの音形がそのまま最初のワルツのテーマへと変わるさまは、幸福と避けられない宿命が表裏一体である、ということを示していると感じてしまう。もっとも、これとて、チャイコフスキーが今までの交響曲で表現してきたテーマであるのだが。解説によると、チャイコフスキー指揮者のアルトゥ-ル・ニキシュはこのワルツを、「涙を通じてのほほえみ」と称したとある。そうして聴いてみると、確かにと思わせるものがある。
��楽章はスケルツォだが、第4番、第5番の4楽章で見せたような、圧倒的な開放感と目くるめくような弦の動きにより、眩暈さえ覚えるのうな音楽となっている。打楽器の力強いリズムと弦の強振により行進曲風の堂々とした盛り上がりを見せる。運命に対する勝利感あるいは、最後の力を振り絞った抵抗と考えられなくもない。自らを鼓舞しているかのごとくであるが、この交響曲の性格を考えると異質であり、何故これほどの盛り上が必要なのか?と疑問を感じてしまう。
��楽章は、「ばか騒ぎ」とさえ思えた前章とは一転した楽章である。弦による哀しみのうたである。3楽章のでの喧騒の後だけに、一層さびしさが際立ち、一気に何歳も年を取ったかのような気を味わう。3楽章も昔日の自分の姿を表しているのだろうか、一度は宿命の力に打ち勝ったと錯覚した自分を。あるいは、この寂寥感を味わわせるために3楽章は存在しているのか。
��分30秒あたりで、ゆったりとした旋律がホルンなどをバックに流れるが、これはチャイコフスキーの到達した美の極致といっても良いかもしれない。ほとんど陶酔的と称してもよい。(カラヤン盤だからか?)
次第にクレッシェンドしてゆき、4分10秒に至って破れられる。寄せては返す哀しみの波と感情の高ぶりに、人生に対する侮恨と嘆きが聞こえる。もはや跳ね返すべき力はどこにも残されてはいない。弦楽器による半音階の上昇音形は何たる深い悲しみを表現していることか。チャイコフスキーが力なく漏らすため息や、泣き崩れている姿がだぶる。何故にここまで絶望しているのか。7分前後でティンパニーのロールのもと冒頭のテーマに戻るものの、最後は新たな悲しみを提示し、「人生は暗く厳しい」的な諦念をあらわにし、深いため息を漏らしながら、消え入るように終わる。
カラヤン盤について
この、哀しみの美学とも言うべき曲を、カラヤン・ベルリンのコンビは哀愁たっぷりに、そしてオーケストラが到達しうる最高の美しさで表現しているといっても過言ではないと思う。弦楽器を中心としたきめの細かさがすばらしく、どの断面を切り取っても深い感情が溢れ出してくる。哀愁は弦がほとんど、すすり泣いているかのごとく、明るい場面ではあくまでもきらびやかで、激しいところは怒涛を伴う鬼神のごとく、そして、ワルツはたとえ様もなく優雅である。  
ときに「耽美的」とも称されるカラヤンの演奏であるが、多くの感情や幾多のときを詰め込んだ、この偉大なる交響曲の演奏をするに当たり、逆にやり過ぎとさえ思えるほど美しく奏でられるが故に、人生のかなしみを表現するのにふさわしかったように思える。
久しぶりにこの演奏を聴いて、私は再び深く心を動かされた(だからって、毎回毎回涙はしないけどね)。感傷的過ぎる演奏という向きもあるかもしれない。しかし、曲が曲なのである。もうチャイコフスキーは諦めちゃって、どうしようもないのである。このような、特上の美しさで慰めを与えたって良いじゃないか、これはチャイコフスキーの遺書であり、また、自らに捧げる鎮魂の曲であると考えてしまうのも無理からぬことである。(しかし、こんなにストレートに悲しんでしまっていいの?て気もするんだけどね)

2001年2月22日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番


交響曲第5番 ホ短調 作品64 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1975 DG POCG-3870/1(国内版)
曲について
第4交響曲の10年後に書かれた交響曲であり、チャイコフスキー円熟の時期の作品と言っても良い。第4交響曲で示された「運命の主題」が明確に打ち出されている。
第1楽章は、まずクラリネットにより「運命の動機」が奏される、暗く物憂い主題だ。これは全楽章を貫く本交響曲の主要テーマであるばかりではなく、交響曲第4番で提示された「宿命」に対する、ひとつの回答でもある。
第2主題は切迫感を持ちながら、高揚してゆくように書かれている。中間部にゆったりした優しい部分や、昂ぶりを表現するようなテーマも現れるが、この楽章を聴いて受ける印象は、宿命に対する諦念や屈服感の方が強い。オーケストレーションは木管の響きと弦のゆるやかな歌いとピチカートなどが随所で聴かれ、多彩なオーケストレーションの楽しめる楽章になっている。
第2楽章は最初、弦の暗い旋律で始まるがその後のホルンのテーマは息を呑むばかりだ。私はマーラーのアダージョ楽章を知った後であっても、この楽章特有の美しさに、聴くたび心を打たれる。それは作曲家の心の深淵に迫るような、深く暗い森と湖が心象に浮かぶ。湖面には波ひとつなく晧々とした月明かりが映し出されている。あるいは、人生や仕事に疲れ、暖炉の前の椅子にもたれ深く昔を想うような、そんな優しさと哀しさにあふれた音楽だ。昔日のことを想い心さざめく瞬間があっても、そこには全てを受け入れた受容があるような気さえする。
中間部に「運命の動機」の変形が高揚感を伴って現れるところから、ピチカートを伴奏にした弦とオーボエの掛け合いの部分は、体の奥底に不思議なエネルギーを湧き出させているようである。突然訪れる「破」は人生の突風かはたまた、運命からの逆襲かと思わせるが、再び静かなテーマで楽章は締めくくられる。何時の間にかまた暖炉の前の椅子に座っている自分に気がつくのだ。
第3楽章はワルツだ。チャイコフスキーは今までも、交響曲の中に盛んにワルツ、舞踏の曲を挿入してきた。ここでも踊りは踊られるが、どこか淋しげであり、またファゴットによる不思議な跳躍旋律に代表されるような、独特のユーモラスさがある。しかし、この楽章も4楽章の主題が先取りされているようで、経過句的な意味合いになっていることにも気付かされる。
そして第4楽章である。運命のテーマは再び形を変えて堂々と奏される。これはこの楽章を貫くように流れる主要テーマだが、1楽章で聴かれた諦念はない。リズムに象徴されるように淡々と歩み始めているのだ。弦の伴奏が複雑な動きをしており、内的なもやもやを表しているかのようだが、そこには毅然とした決意が見て取れる。
��分前後からの部分は、歩みを速め疾走感がいやがおうにも増してゆく。もはや、運命は追いついてはこれないほどの爽快さだ。この楽章を聴くと、ややもすると、冷静な思考が私はできなくなってしまう。トロンボーンからトランペットに引き継がれる上昇音形のあたりになると、もう空を飛ばんばかりの快感である。考えてみると、ここらあたりを作曲者自ら「過剰すぎる」と称したのだろうか。
第4交響曲では運命への抗いを、馬鹿騒ぎとさえ思える喧騒で紛らわせた。ここに至っては、受容あるいは共存、そして疾走という相反する対応で逃げ切っているように思える。提示された運命の強さは、第4交響曲に示されたほど断定的でない点も、特徴かもしれない。
もっとも以上の解釈は、いままでの一連の感想と同様に、私個人の感じ方がベースになっている。厳密にチャイコフスキーの自伝や作品解説には違ったことが書かれているかもしれない。
カラヤン盤について
以上のことを、中学時代に刷り込みを行ったカラヤン、ベルリン・フィル盤(75年)より改めて聴き取ったのだが、書いていて非常にまだるっこしい。私の好きな曲にも書いたが、この曲は本当によく聴いたものだ。はっきり言って「運命の主題」だの、そんな能書きはどうでも良いのである。こんな風にこの交響曲を解釈したのは、実は今回が始めてだ。いい加減なリスナーなのである、本来は。
第2楽章のホルンの奏でる旋律の美しさで、私の脳内に麻薬物質がばら撒かれてしまい、3楽章のちょっとした休息のあと、第4楽章に至るともはや思考能力はなくなり、曲の疾走に身を任せるばかりとなってしまう。
この版の特徴としては、やはりベルリン・フィル奏者のソロ部分の美しさや抜群の合奏力が挙げられると思う。トロンボーンの音色や、2楽章の甘美というには言葉が足りないホルンの響き、随所で重要な役割を果たすクラリネット、ティンパニーの叩きなど(ものすごくクリア!)、数え上げればきりがない。チャイ5の権威 みっふぃーまにあ さんは、「合奏力はピカイチだが、いまひとつ」というのだが、私はこの合奏力の高さには脱帽せざるを得ないし、物凄いまでのオーケストラとしてのまとまりと、そこから生み出される緊張感があると思うのである。
カラヤン・ベルリンの4番交響曲においても書いたが、シンフォニーを聴くという面白さを中学生の私に開眼せしめた1枚であるし、4楽章の疾走部の眩暈を感じるような快感は、やはりこの版に特有のものだと思う。私はこの1枚を転校した友人に餞別としてあげてしまい、以来十数年この演奏を聴かずにいた。改めてCDとして聴いたときに「やっぱりこれだあ!」と叫んでしまったものである。なんとも、幼いころの刷り込みとはげに恐ろしい・・・
ただし、である。さんざん誉めておきながらであるが、この演奏がチャイコフスキーの目指した「5番シンフォニー」であったのかは分からない。「何か違う」と心にひっかかる部分があるのだ。みっふぃーまにあ さん推薦のカラヤン・ウィーン(84年)は聴いていないので、機会があれば比べてみたい。

2001年2月15日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルの交響曲第4番



交響曲 第4番 ヘ短調 作品3 
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
録音:1976 DG POCG-3870/1(国内版) 

カラヤンはチャイコフスキーの交響曲第4番をベルリン・フィルと4回録音しており、これはその4回目のもの。


チャイコフスキーの交響曲第4番というと、4楽章があまりにも有名である。中学時代に吹奏楽を経験された方であれば、自由曲として演奏したことがあるかもしれない。ついもすると、有名な4楽章ばかりに気をとられてしまうのだが、シリーズを書くに当たりこの曲を何度も聴くことで見えてきたことがあるので記してみたい。ベースとした盤は、上記のカラヤン・ベルリンのものである。 

曲について 
1楽章はヘ短調である。象徴的な運命を象徴するような、暗く断定的なテーマで始まる。ベートーベンの交響曲第5番ではないが、さながら「運命の動機」である。チャイコフスキーに特有の宿命のテーマ (Fate motif) と呼ぶ人もいる。運命の動機は、弦のせかせるような旋律と交互しながら何度も現れる。途中で賛歌的なところや美しい緩やかな舞踏の音楽も現れるが、楽章全体を支配しているのは、いかんともしがたい暗く不安な動機である。たとえば8分前後からの部分、喜びのテーマが高らかに、しかも力強く奏されるのだが、すぐその後で下降旋律が導入となり運命の動機へ直結してゆく。 

聴くものは喜びと不安が交錯した感情を抱くが、この楽章から受けるのは自分の力ではどうしようもない、まさに「宿命的な力」の前に諦念さえ覚える。このような音楽のありようは、フォンメック夫人に出会う前のチャイコフスキーの心理状態を表しているのだろうか、あるいは浮いては沈む芸術家としての苦悩なのだろうか。多くの要素が詰め込まれた非常に長い楽章である。 

2楽章は舞踏の曲だが、支配するのはロ短調という象徴的な調性である。舞踏としての華やかさや軽やかさよりも、憂鬱さや移ろいやすい不安を感じる楽章だ。捕らえどころのないこの楽章だけ、何度も聴いてみたが、なんともすわり心地の悪さを覚える。カラヤン・ベルリンの絶妙なるハーモニーで聴いてもだ。 

3楽章は脅威のスケルツォ。弦のピチカートの動きは、音楽を聴くものの足を地に付かせず、爪先立ちのまませかされ、どこかに移行するかのようなイメージを湧かせる。中間部の木管と金管群の絡みも見事であり、色彩感のある楽章だ。最期は再びピチカートに戻り、曲は進みせかされ消えいるように終わる。 

そして、3楽章の静寂を一気に突き破るかのような、4楽章のExplosion、突然ともいえる堰を切ったような大爆発に度肝を抜かされる。感情の暴発といってもいい。今までの不安感を吹き飛ばし、全ての感情を飲み込む勢いだ。そしてすぐその後に、ロシア民謡からのテーマが展開されるが、この華やかな喧騒のメインテーマの裏側では、やはり運命の動機が用意されている。今まで歓喜に叫んでいたのに、あたりを見渡すと1楽章の運命のテーマに移っていることに気づかされるのだ。しかしながら第4交響曲において最終的な曲としての結論は、避けられぬ運命ではなく、「ばか騒ぎ」とさえ思える喧騒さと歓喜だ。ホルンの不思議な助走から、再びめくるめく第1テーマが再現され、突き抜けた歓喜を歌い曲を締めくくる。 

長々とへたくそな解釈を書いてみたが、彼の初期交響曲でも不安や喧騒は曲にこめられていた。しかしこの曲と比べてみると、作曲者自身の内面に切り込むようなものではなく、第三者的な描写に留まっているように思える。第4番交響曲では、はじめて赤裸々な等身大のチャイコフスキーが曲に表現されているように感じられる。ベートーベンの5番「運命」のように、苦悩からの再生に向けてのドロドロした感情とまでは行かないが、チャイコフスキーの繊細な感情の揺れ動く様が、チャイコフスキーとしての様式感を感じさせながら表現しつくされていると言ってよいと思う。またこの交響曲には、鬱的な宿命論を全面的にまだ受け入れるのではなく、それをはね飛ばすエネルギーがみなぎっていると思う。 

こうして聴いてみると、初期の三つの交響曲と比べ音楽的に成長した姿を見て取ることができる。また「宿命のテーマ ( Fate motif )」というものが、チャイコフスキーに投げ掛ける意味ということも考え合わせると、今までの交響曲とは1線を画すものであることがわかる。色々な意味において、やはり第4番交響曲の人気の高いわけも、彼の代表作とするのもむべなるかなと改めて認識した。 

カラヤン盤について
カラヤン指揮、ベルリン・フィルの76年版といえば、カラヤンの絶頂期の演奏と言ってよいかもしれない。
この盤を聴いてまず感じるのは、消え入るようなppから壮大なffまでの(もしかしたら、4番もpppとかfffという標記があるのかもしれないが)驚くほどのダイナミックレンジの広さである。pppを聴き取ろうとしてボリュームを合わせると、間違いなく4楽章の冒頭ではその大音響に耳を覆ってしまうだろう。ff部分のすさまじいばかりの迫力は、まさに音の塊が洪水となって聴くものを包み込んでしまうかのようである(観てはいないが、さながら映画「パーフェクト・ストーム」だな)。
��fの一瞬後、ホール全体の空気が振動しているかのような残響音や、息を呑むほどのppの弦や木管の美しさなど、どこをとっても「シンフォニーの色彩感を楽しむ、音楽を聴く」という喜びに満ちている。
��楽章の断定的な宿命のテーマも迫力十分で迫ってくるし、4楽章の冒頭などその音量とスピード感から、ほとんど眩暈を感じてしまうような陶酔感さえある。全体に、豊穣にして琥珀色のような音楽が展開されていると言えようか。
私のチャイコフスキー原体験はこのカラヤン・ベルリンで刷り込まれている。したがって、この盤を聴いた後の充実感は格別であるのだが、ふと考える。チャイコフスキーの目指した音楽は、果たしてこの盤のような演奏であったのだろうかと。それに対する回答は、他の多くの演奏に接していないため、今のところ留保しておこう。