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2007年10月6日土曜日

【本棚】山田昌弘:希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く


格差論の火付け役となった本書も文庫本化されましたので、ようやく読んでみました。

本書は、ニュー・エコノミー下の社会において、格差が「量的格差(経済的量的格差)」から、個人の努力では超えられない「質的格差(職種やライフスタイル、ステイタス)」の格差を生み、最終的に「心理的格差(希望の格差)」に繋がると捉えた点が斬新でした。現在の格差の最大の問題点は、将来に希望を持てる人と将来に絶望している人に分裂してゆくのだと。

学者は、とにかく分析が仕事です。山田氏は1957年生まれ東大卒。彼の主張するところの「パイプライン」(下図 本書P.193より転載)がうまく機能していた時代の成功者です。私を含め高度成長やオールド・エコノミーの時代に生まれた者は、将来の見込みも持たずに(持てずに)過ごす現代の一部の若者に対して根本的な疑問を持っています。自分の子供が住む日本社会に対する漠然たる不安もありますが、このままでは自分の年金が受け取れなくなるという利己的かつ現実的な不安が本音でしょうか。何故こんなことになったのか、自分たちと彼らは何が違うのかと。


そういう疑問には、本書はキッパリと明確な回答を用意してくれています。その点においては評価できる内容といえましょう。しかし、分析というのは目的があってするものです。人を納得させるための分析では、思考の遊戯でしかありません。分析結果をもとにどういうアクションを提示するのかが最も重要で、その点において本書は愚書の類と同一です。

最終章に「9 いまなにができるのか、すべきなのか」という章が設けられています。現在生じている問題は経済的格差以上に心理的格差(希望格差)であるとし、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵であると主張しています。努力すれば豊かな生活が報われる社会を実現(復活)させるために、山田氏は以下の提言をしています(P.276-282)。

  • 能力をつけたくても資力のないものには、様々な形での能力開発の機会を、そして努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みを作る → 学校システム、職業訓練システム、誰でもできる比較的単純な仕事に対して、努力してスキルをつければある程度評価されるというシステムの導入
  • 自分の能力に比べ過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策 → 過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化
  • 公的に(個人の)コミュニケーション能力をつけることを支援する → 自分のコミュニケーション能力のなさを自覚し、自分の理想通り(の相手)など存在しないことを経験から学ぶ
  • 収入は低くてよいからのんびり農業をやりたい、テレワークで暮らしたい、一生一人で生活したいなど、新しいライフスタイルを目指す人(中略)に対する具体的な実現支援策を用意
  • 政府がキャリアカウンセリング事業を、学校教育、生涯教育に大々的に取り組む
  • 若者にも「逆年金」制度

提言はこれだけです。こういう対策を行わなければ、若者は「希望」を持つことができず、アディクションに逃避し、さらに「エンビー型」の嫉妬心による犯罪、すなわち「不幸の道連れ」が増える可能性のあることを別箇所で指摘しています。

「エンビー型」犯罪の究極が赤木氏(→http://www7.vis.ne.jp/~t-job/)の「希望は戦争」でしょうか。ここまで書いてきて、赤木氏をはじめとしてして「フリーターを罵倒している」という論調の意味が、何となく分かってきたような気がします。分析は一面正しいのですが、何かがまた抜け落ちているのだなと。

2007年9月29日土曜日

【本棚】三浦展:下流社会 第2章 なぜ男は女に“負けた"のか


「下流」という言葉と「下流」の定義において格差社会の論調に対し火に油を注いだ(P.230)と筆者自らが書く前作(→レビュ)は相当売れたようで、本書はその続編。三浦氏の統計の扱いや論理に関する批判は、ネット上に山のように溢れています。本人も確信犯的に統計を用いて自論を展開*1)していますから、それを前提とした上で読む方が良いと思います。

ある種の「いい加減さ」や「うさんくささ」を割り引いて読んだにしても、三浦氏が何を書きたかったのか、いまひとつ判然としません。前書は意欲、能力が低いのが「下流」(前P.6)と明確に定義したところが斬新でした。今回は副題にあるとおりなぜ男は女に“負けた"のかです。しかし読んでみると、その点の言及はいまひとつ。男性が最近女性に比べて弱くなってきたとは感じますが、男性社会と女性社会の優位性に関する問題は上流・下流の問題ではないと思います。

正社員率が高いSPA!男、フリーター系のSMART男(P.39)とか下流は「反中」「反韓」「反米」、非正社員はスポーツイベント(P.157)などの言い切りは、それが実際は間違っていたとしても一人歩きしがちです。世の中の感覚に何となく合致していると、あたかも時代を切り取った真実のように思われがちです。ここの分かりやすさが、三浦氏が指示される理由のひとつなんでしょうが、表層的過ぎます。

概してアマゾンやブログでの評は三浦氏に批判的で、「下流を罵倒している」との感想も散見されます。私も本書は評価しません。彼の分析は「下流の消費行動」や「購読パターン」から「下流」をステロタイプ化しているに過ぎないように思えます。それが一体何なのかと。「下流」と定義された人たちへのメッセージもない。「地域限定社員」ということを提唱していますが、付け足しとお詫びみたいに感じます。

それにしても、何故「下流本」がかくも売れるのでしょう。これは、自分を安全圏において「他人の不幸または失敗を眺めることから喜びを得る」、すなわちシャーデンフロイデ(Schadenfreude)と呼ばれる情動*2)によるものなのでしょうか。あるいは、自ら「下流」と自認する人たちが自らを再確認し自己強化する行為なのか。だとすると巷の下流本は問題提起という体裁を取りながら、エンタテイメントでありヒーリングに堕しているのかもしれません。これ程に格差論が盛んな割には、政策や企業活動*3)の具体的対応が見えてきませんし。

さて、三浦氏関連のネットでの感想を斜め読みしているさなか、そんな「安全圏」*4)に対して痛烈な批判を浴びせている文章が目に止まりました。随分前から有名になっていた、いわゆる「赤木論考」(→「丸山眞男」をひっぱたきたい続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」 )です。標記論考*5)については、それこそ識者を含め多くの言及と批判がなされているようです。それを参照した上で三浦氏の本を考えますと、洞察の甘さと初めに結論ありきのようないい加減さが目に付いてしまうのも否めません。

  1. 三浦氏は「あとがき」で以下のように書いている。
    『下流社会』に対するいくつかの批判に、引用しているデータのサンプル数が少ないことがある。そんなことは百も承知であるが、まあ、私も分析のプロだから、サンプル数が少なくても、さほど間違った分析はしないつもりだ。

    「サンプル数は少なくても思っている結論に結びつける」でしょうか。

  2. たまたま9月29日の日経新聞コラム「モードの方程式」(中野香織)を読んでいて、ああ、これもそういうことなんだと合点した次第。ちなみに、Schadenfreudeに対して「シャーデンフロイデをおぼえたことを深く悔いる」という意味のグラウケンシュトゥック(Glauckensuck)という新語もあるそうな。
  3. 10月1日からは、企業が労働者を募集・採用する際に年齢制限を設けることを原則禁止する改正雇用対策法が施行される。中高年や30歳を超えた年長フリーターなどの就職機会を広げる狙いがあるといわれる。また、トヨタなどは、ようやく全従業員に占める非正社員の割合を30%以下とするような目標を設定した。バブル後遺症で新卒採用を絞り込んだため社員年齢カーブが歪なものとなり、企業活動に支障が出ることを痛切に経営的危機と感じる企業は、登用や中途採用を含め柔軟な人事プログラムを策定する可能性がる。しかしそれが「非正社員」とひとくくりにされる全ての人に朗報であるとは思えない。ここでも「勝ち負け」は生ずるはずだ。
  4. 最初「絶対安全圏」と書いて、「安全圏」に書き替えた。考えてみるまでもなく、今の位置が今後ずっと続く保障=「絶対安全圏」などありえない。そう考えると、自分がいつ「赤木氏」にならないとも限らないのだ。だとしても、ではあるが。
  5. 赤木氏の主張は、フリーターは機会どころか人間的尊厳さえ奪われており、再チャレンジなどできない。今の正社員は「たまたま」正社員になっているだけで彼らの努力とは全く無縁だ。自分たちが這い上がれないならば、中流が下がって来いと。すなわち社会を流動化させるためには戦争さえ辞さない、いや「戦争こそが希望」であると説くものである。戦争になれば東大卒で政治思想犯とされた丸山眞男の横っ面を、中学にも進んでいないであろう一等兵が引っ叩くことも可能なのだと。

2006年7月29日土曜日

【本棚】桐山秀樹:ホテル戦争―「外資VS老舗」業界再編の勢力地図


昨今の東京は雨後の筍のように街中にクレーンが林立し、さながらバブルのような建設ラッシュです。さまざまな表情を魅せる超高層ビルの中に、超高級外資系ホテルが鎮座している様を眺めるにつけ、世の中本当に変わってしまったという思いを強くします。

これからオープンするザ・リッツ・カールトン東京(東京ミッドタウン)やザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、または既にオープンしたマンダリン・オリエンタル東京(日本橋)などなど、一昔前ならば余程海外旅行通でもなければ名前さえ知らなかった外資系ホテル、このホテル攻勢は一体何なのかと、気になる人は気になることと思います。

桐山氏は東京のホテルを(1)スモール・ラグジュアリーホテル (2)グランドホテル (3)老舗ホテル の三つにカテゴライズし、これから外資を巻き込んだ新たな「ホテル戦争」が始まるのだと主張します。著者自らホテル好きで(仕事の取材でなのか、プライベートかは分かりませんが)いくつもの海外のホテルを泊まり歩いた(らしい経験に基づく)評価は興味深いものです。 

しかし、内容的にはかなり食い足りない。眼の肥えた顧客のホテル紀行文的な領域を超えず、ホテル経営という観点からの詰めは少ない。読みやすいけれど内容が薄いというのは、最近の「売れ筋」新書の特徴そのままです。ホテルの財産が建物のハードにはなく「サービス」というソフトと、それを支える人であるという指摘にも何の目新しさも新しい発見もありません。石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出すまでもなく昔から変わらないことです。

私が知りたかったのは、それぞれのホテルの生き残り戦略。すなわち対象とするセグメント(客層)、それに対する収益の見通しなどだったのですが、この点の分析はほとんど皆無。ホテル経営的な分析を考えても、桐山氏の指摘する三つのカテゴリーはほとんど分類の体をなしていません。

もともと東京のホテル客室数は3万5000室ほど、これが一気に4万室まで増えるのだそうです。しかも、宿泊料金は最低でも5~6万円以上の高級ホテルなんです。誰が泊まるのか、こんなに出来て大丈夫なのかとは、業界関係者でなくても知りたいところです。

例えば日本銀行や三越に隣接してオープンしたマンダリン・オリエンタル東京に関する記述。

そのターゲットは日銀、兜町といった東京の中枢部の金融を訪れる、アジアや欧米の金融関係者と外国人投資家たちである。そして、日本橋の超高層ビルの最上階で、高級スパやエステを楽しんだ後、日本橋三越本店やコレド日本橋でショッピングを楽しむ「日本人女性客」をもう1つのターゲットとしている。(「第1章 外資ホテルの持つ「武器」と「戦略」について」P.38)

ちょっと画一的な解釈に感じます。(投資家がわざわざ日本に来て投資行為をするものなのか?) むしろ日本の上場していない企業オーナーや病院経営者(いわゆる日本の富裕層)を加えた方が良いのでしょうか。マンダリンの条件は、他でオープンする高級ホテルでもすげ替えが可能です。「日本橋三越」を「銀座や六本木、六本木の高級ブランド店に、「金融関係者」を「IT企業家」「海外賓客」などと入れ替えればどこのホテルでも通じるコンセプト。

おそらくは、こういう客を満足させる五つ星級の超高級ホテルが東京には今まで存在しなかったということ、更にそのようなホテルに宿泊する層が増加したことが一因なのでしょう。まさに今、開拓すべき新マーケットだったということか。

であるならば宿泊金額 数万円以上出すことを躊躇しないセグメントが、どこに、どの程度居て、彼ら彼女らがどのくらいの頻度でこれらのホテルを利用すると予想し、客単価として幾ら期待するのか。現在のホテル投資が将来の変化を見据えた「適切な投資」であるのか否かについて、もっと深く語って欲しかった。(>新書に期待する方が間違っています!)

それにしても、です。このような超高級ホテルが乱立する世界というのは、以前には想像できませんでした。そういうものが成立するマーケットが育っていなかった。やはりパンドラの箱がここでも開いてしまい、ホテル業界も極めて鮮烈な二極化傾向にあることを示していると考えるのは簡単。二極のどちら側にも入れないホテルや旅館、自らのポジショニングを定め切れないホテルは、本当に消え去るしかないのでしょうか。

2005年10月28日金曜日

【本棚】三浦展:「下流社会 新たな階層集団の出現」

三浦展氏による、最近の階層化社会に関する指摘を総括するような本です。三浦氏はパルコなどで長くマーケティング活動を行ってきた人ですので、最近の階層化についても年代別・性別のセグメンテーションを行い、それぞれのセグメントについて様々な角度から嗜好や結婚観、消費行動、価値観などの変化を示すことで現在の日本、特に最近の若者の姿を炙り出すことに成功しています。

「あとがき」で三浦氏も書いているように、本書に示されたデータはサンプル数が少なく、統計学的にも優位性に乏しい(P.283)とは思いますが、それでも昨今の時代雰囲気を見事に数字で見せている点、秀逸といえましょうか。逆に時代雰囲気に合うようにデータを選択したという批判もあるかもしれませんが、そんなことをしても何の得にもなりませんから、ここは素直に数字を読み取る方が良いのでしょう。

本書の末尾には「下流社会」を考えるためとして、最近の国内文献リストがずらりと並んでいます。そのほとんどが2001年以降に書かれた本で、21世紀の日本は新たな階層化社会の入口(あるいは岐路)にさしかかっていることを改めて感じさせます。

本書の「はじめに」三浦氏は、

単にものの所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。(P.6)

と「下流」を定義します。ここに氏独特の対象に対するアプローチの仕方が現れているようです。マーケティングは「割切り」と「規定」や「線引き」が重要で、ファジーで曖昧な要素とは余り馴染まないものなのかもしれない、などと余計なことを考えてしまいました。

三浦氏が本書で延々と説明している内容を読みながら、読者は自分がどこにカテゴライズされているかを知り、そこで規定されたセグメントの性格と自分考えや価値観に一致や不一致を見出すことになります。私の場合は広義の「新人類世代」にあたりますが、そのものズバリであったり違う世代の価値観を有していたりと、まあイロイロでした。

自分のことはさておき、本書で面白いのは団塊世代と団塊ジュニア世代を比較した場合の価値観の逆転現象(あるいは崩壊)ですが、日本を今のような姿に内面的にも外面的にもしてしまったのは、おそらくは団塊世代に一因があり、たとえば

団塊ジュニア女性の子供が成人したとき、今まさに拡大している格差がさらに拡大し、固定化し、階層社会の現実をまざまざと見せつけられることになるのではないかと懸念される(第7章 「下流」の性格、食生活、教育観 P.235)

と発する警告は、いまを生きている私たちが将来を規定するという意味において、三浦氏の論理を受け入れると拒否するとに関わらず、軽んじて受け止めるべき問題ではないと思います。

もっとも、「おわりに-下流社会を防ぐための「機会悪平等」」の章は、一気に論理を飛躍させており、ちょっといただけないと思うのですが、これは三浦氏ひとつの思考パターンなんでしょうか。

2005年10月23日日曜日

【本棚】林信吾:「しのびよるネオ階級化社会」


 題名に吊られて購入してしまった本です。不勉強にして林信吾氏がどのような方なのか全く知りませんが、この程度の内容が「新書」として740円で売られているということに疑問を感じないでもありません。平凡社新書はせいぜい、このレベルということでしょうか。

と辛辣な事を書いてしまいましたが、だって題名が「しのびよるネオ階級化社会~"イギリス化"する日本の格差」などという大そうな割に、内容ときたら、せいぜいが「ぼくの十年間にわたるイギリス滞在経験から考えた最近の日本」くらいのものでしかないからです。

視点は極めて個人的経験に依拠しており、たとえば森永卓郎氏の「年収300万円時代を生き抜く経済学」などを森永氏の論の立て方はてんで雑で、説得力に欠ける(P.200)と書いたりするのですが、そっくりそれは林氏の本書に返してあげたいくらいです。

林氏の指摘する「最近の日本は機会不平等の傾向が強くなってきている」「特に教育機の不平等は階層の固定化を招くこととに繋がり、それは日本の活力を奪う可能性がある」ということは、多くの人が指摘していることです。この「固定化された階層」が「イギリス型階級社会」に似ているとしている点のみが氏独自の視点と言えるでしょうか。

それでも、本書を読んでいくらか考えるべき点はあるようです。たとえば「中流意識の崩壊」ということについても、努力次第で誰もが享受できると信じられていた成長=幸福という果実が実りなきものであると認識され始めた故だとするならば、社会全体が感じ始めている無力感の根は深いと改めて思います。

どうやら林氏が一番書きたかったのは「教育機会の不平等」ということらしく、そこから生まれる固定化された階層の社会の底辺に押し込められた人たちは、のんびり生きるのではなく、単に向上心を持たないその日暮らしになると指摘し、

頑張っても大したものは得られない、という社会には、未来はない。(P.208)

と主張します。

しかし、それでは問う「大したもの」とは何なのかと。森永氏の「年収300万円生活」に対する胡散臭さなどはさておいても、結局問われるのは個人の生活であり人生であり幸福論に行き着くはずで、「階級社会」を選択するか否かも、政治家や資本的強者が仕向けているわけではなく、もしかすると「弱者」と規定されつつある、まさに私たちの日々のあり様がそれを決定付けているのかもしれません。

2004年10月23日土曜日

予感・・・

あまり好きな言葉ではないですが「勝ち組」「負け組」とか「二極化」という言葉を少し前から目にするようになりました。おそらく小泉政権発足と機を同じくして登場した言葉かと思われますが、彼の推し進めた政策の結実でもあります。あるいは「東京一極集中」「地方切捨て」という構図であると指摘する人もいます。


確かに東京は、バブルの頃の東京を知る者にも目を見張らせるほどの変わり方をしています。そこに現出した風景を見ると、いやがうえにも「二極化」の傾向は進んでいることを思い知らされます。




例えば都心のマンションも地価と建設費の下落により、バブル時点よりは買い求めやすいものになりましたが、嗜好性はより高級化しています。オフィス街に近い高層マンションや巨大再開発、あるいは百貨店のリニューアルオープンのあり方、銀座、青山を中心とした海外ブランド店の進出などを眺めていますと、華やかさに幻惑されつつも、いったいに、これほどの需要を誰が消費し尽くせるのだろうか、と一瞬溜息が出ます。


その一方で、依然として安売りに近い世界も存在するわけです。ただ世の中は、雰囲気として高級にシフトを始めたとように思えるのですが、その果実を全ての人が享受できるほどには甘くないようです。


木村剛氏はブログでも宣伝しているように「ファイナンシャル・ジャパン」というビジネス誌を刊行しました。


本物志向のビジネスパーソンをターゲットとした雑誌はいくつもあります。しかし、実際にビジネスパーソンが必要としている企業経営情報や、資産運用のための実践的な情報が提供できている雑誌はあったでしょうか。この疑問点から、「フィナンシャル ジャパン」はスタートしました。

読者は「一流とは何か」を希求する、知的レベルの高いビジネスパーソンやアクティブな投資家の方々です。みなさんがほしくてもなかなか手にすることができなかった奥の深い情報を、私の情報ネットワークを駆使してお届けします。ステイタスの高いエスタブリッシュな経済情報誌の新創刊にご期待ください。

KFi代表 木村剛



というウリです。(一流の=勝組の)ビジネスパーソンと、投資を出来るほどに裕福な投資家のための雑誌と明言してるわけです。明確なセグメンテーションです。立ち読みをしてみましたが『月間!木村剛』という、それより以前に創刊した実験誌とは全く趣の異なる、本格的なビジネス誌です。ここまで質実に構成するとは、と驚きました。


ハナシは変わりますが、Harvard Business Review 11月号(日本版)という雑誌で興味を引いたのが、「新富裕層のマーケティング」という記事でした。雑誌ではアメリカにおける世帯所得分布の変化を示し、新たな消費者層=新富裕層が登場したことを説いています。日本の所得分布は、アメリカと異なっているのではと予想するのですが、しかし、日本においても新たな消費者層と消費イメージが形成されつつあることは、何となく感じます。


それは、逃げ切ることのできた団塊の世代だけではなく、ディンクス的な生き方をする世代、あるいはライブ・ドアや楽天の成功ストーリーを追う者達の出現に繋がるかもしれず、なにやらひたひたと、しかし急激に、気付いたら腰まで水につかっていたというような時代の変化を予感するのでした。


新たに商売を始めるなら、この新しい消費者層をターゲットにすることが、一つの鍵なのではないだろうか、とは誰もが考え始めていることかもしれません。最近の雑誌創刊ラッシュもこの流れと無縁ではありますまい。


しかし、翻ってわが業界・・・うーーーん。古い、遅い、重い、高い、疑わしい。>聞くな!触れるな!

2004年2月6日金曜日

【本棚】森永卓郎:続年収300万円時代を生き抜く経済学

題名の通り続編です。読んでみますと前編の実践編ということになりましょうか。

森永は金持ちなのにどうしてそういう本を書くのか、というキモチは私も持ちましたが、そう思った読者の方は多かったようです。

前作を読んで成る程と思う反面、ちょっと違うなあということも感じたのですが、共感できる部分も多かったため、ついでに続編である本書も読んでみました。前書が2003年3月1日発行、本書が11月25日発行ですからその間約半年程度しか経っていません。ですから森永氏の経済に対する考え方には全く変化はありません。(むしろ半年の間で経済状況は悪化していると指摘していますが。)

そういう本書のテーマは「まえがき」の以下の部分に要約されています。

前作を読んでいただいた方々から、たくさんのご意見をいただいた。[...] 一つは、具体的にどのような対策をとれば年収300万円で暮らせるのか教えて欲しいというもので、もう一つは年収300万円で暮らせると言いながら、実は森永は金持ちではないかというご批判だった。(P.4)

このように書かれていますので、前編の実践編というふうになりましょうか。森永氏は所得格差は絶対に進む、数年後には必ず意図的なデフレ脱却が起こり土地や資産は上昇し、そうなったらもう日本は過去のような皆が平等であった時代には二度と戻れないと警鐘を発しています。

彼はそういう市場原理と戦っていくという姿勢よりも、300万円で身の丈にあった生活をした方が人間的な生活を回復できますよと説いているのです。第4章で森永氏で自らの前書の書評を紹介していますが、まさに「『逃散』の勧め」というわけです。ですから、そういう生活を選択した方々の生活ぶりについても第3章「心豊かなライフスタイルを模索し実践する人たち」として紹介しています。

ちょっと違うのではと思うのは、世の中が1億以上稼ぐ社会の数パーセントの人と、社会の6割り程度を占める年収300万円代の人と、年収100万円以下の三つの層に分化するということでしょうか。(P.65) 確かにアメリカ社会は数パーセントの超金持ちと一般の人に分化しているという話は聞きますが、本当にそうなるのかとなると、鈍いせいか実感を伴いません。それでも彼は書きます。

一つだけどうしても言っておきたいのは、「これから日本が市場原理主体の社会に変貌するなかで、能力や成果が政党に評価されるようになるのだから、きちんと仕事で成果を出していけば、それが出世に結びついていく」と考えるのは、完全な誤りだということだ。(P.235)

会社生活にはもはや夢も希望もないと言い切っているのと同じです。会社の中で「ラットレース」を繰り返し身も心もボロボロにするよりもっと豊かに暮らせというのですが、確かに会社生活は厳しい面もありますが、皆そこの中で自己実現を重ねてきているわけです。急にそういう人生を止めなさいと言われても、実のところ戸惑うばかりです。自分の足元の階段をはずされるようなものですから。

森永氏の考え方に同調できる部分も実は多いだけに考えどころです。思うに、日本の会社勤めの人の大部分はあまりにも忙しすぎ、家庭はおろか、近隣や社会、自国の政治、さらには国際社会としての役割に、個人的に関わっている時間がないと感じています。あるいはすごく忙しく働くことが、社会やその他の人たちと直接結びついている人たちは幸せかもしれません。多くの会社勤めの人は、自分の成果を社会に還元して納得できにくくなっているのではないでしょうか。

会社勤めはどんなに頑張っても、役員や顧問にならない限り長くて60歳で定年です。リストラ後の再就職がままならないように、普通の会社勤めの人が、そこでのキャリアを定年後にも生かせる機会は稀有と言ってよいでしょう。会社という肩書きを外れた個人として、自分が自分以外のものとの繋がりが薄すぎることが日本人とそして日本の最大の不幸なのかもしれないと思うこのごろです。

2004年2月5日木曜日

【本棚】森永卓郎:年収300万円時代を生き抜く経済学


先のようなことを考えていたのは、森永さんの本を読んでいたからです。

森永さんの経済に関する考え方についての論評はできませんが、内容は示唆に富むものでした。相容れないところもなくはありませんが。

テレビ朝日のニュース・ステーションに出演されている森永さんの本です。最近この人の書いたものを良く目にします。特に経済系の週間・月間誌、30代ビジネスマン向けの雑誌をぱらぱらと捲れば、人の良さそうな彼の写真をすぐ探すことができます。だから本の題名が良くないですね。「あちこちで結構稼いでいるくせに、人には年収300万円で生き抜けとご教授を垂れるのか」と、やっかみにも似た反発を覚えるものです。

そうは言っても、何を言っているのか、とりあえず読んでみました。

景気回復と不良債権処理の考え方は、竹中金融相や木村剛氏の考えとは真っ向から対立しているようです。森永氏は不良債権をなくしてもデフレからは脱却できず景気も回復しない、むしろマネタリー・ベースを増やして流通現金量を増やし、更に土地担保主義の金融システムを復活させよと主張しています。一方の木村氏は「悪臭の源は不良債権である」(日本資本主義の哲学:木村剛)と言い切っているのですからね。

デフレ処理と不良債権処理に関するテクニカルな問題については、私はその是非を判断する知識を持ち合わせていません。興味のある方は両者の著書を読み比べて判断されると良いかもしれません。

私が面白かったのは、「日本に新たな階級社会が作られる」(2章)、「1%の金持ちが牛耳る社会」(3章)などの部分で、全てではないにしてもかなり説得されてしまいます。薄々私が感じていることと似ているからです。森永氏は最初控えめながら、こう書きます。

不良債権処理を進めても、マネーは増えず、景気も回復しない。[...] (政府は)何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか。一つの可能性は、小泉内閣のブレーンたちが、とてつもなく頭が悪いということだ。[...] (そんなことはありえないので)むしろ、小泉内閣の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている (P.49)

これを実現させる手順は以下のようだと書いています。

  1. ITバブルを引き起こして「頭金」を作る。
  2. 金融引き締めによるデフレを仕掛けて、資産価格を急落させ、不動産を借金で購入した企業を追い込む。
  3. 不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。
  4. デフレを終わらせて、買い占めた不動産価格でキャピタルゲインを得る。
  5. 一度たたき落とした旧来肩の企業や一般市民が、這い上がってこないように弱肉教職社会へ転換する。

今、東京で起きている現象に妙にラップする部分を感じてしまうのは私だけでしょうか(まさに日々そういう事象を仕事でも目にしていますから)。現象は②~③に達しています。

しかしここからが良く分からないのです。森永氏の言う「勝ち組」とは具体的にどこに居る人たちのことなのでしょう。私の業界(完全な「負け組」ですから)では、全く実感を伴いません。

また彼の論では、家族もかえりみず寝る暇も惜しんで働き1億円の年収を得る一部のサラリーマンと、「負け組」の年収300万円のサラリーマン、更にそこにさえ達さない三つの層に分かれると書いています。これは少し私の感覚と異なります。年収1億円のサラリーマンも、年収300万円のサラリーマンも、同じように死ぬほど働いているのが現実のような気がします。(死ぬほど働く期間は異なるでしょうが)。

真に恩恵をこうむるのは、どこに居るのか分からない、死ぬほど働くことを一生しないですむ「資産家」「投資家」のような気がします(それこそ、そんな人たちはどこに居るのだと思いますが)。また、森永氏が主張するように300万円でよしとして、ガリガリ働くことを放棄して優雅に過ごせるような人など、それこそ僅少であるように思うのです。

日本において価値観の転換が必要ということは、おそらく言われなくても皆が気づき始めています。でも理不尽に思うことは、世界でもトップクラスの平均年収を誇り、物質的にも衣糧・教育環境とも豊かな日本国民が、なぜにこんなに「幸福感」を実感できないでいるのでしょう。それは労働時間や高い地価だけのせいでしょうか。

彼の主張は私に色々なことを考えさせてくれました。それはまたおいおい書いていきましょう。