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2026年2月9日月曜日

衆議院選挙は自民党のランドスライド的な圧勝

2月8日の衆議院選挙の結果は、自民党優位と思われていたものの、ここまでの圧勝とは予想を超えていました。

いま見えている風景を改めて。





2021年1月5日火曜日

米大統領選の行方について

昨年11月の米大統領選の結果がまだ確定していません。

共和党トランプ大統領は、大規模な不正があったと主張し続けているものの、大手メディアも最高裁判所も、FBIも詳細を調べようとはせず、判断もせず、トランプが陰謀論まがいのことを述べているという論調で報道し続けてきました。

リンウッド弁護士、シドニー・パウエル弁護士などが、繰り返し証拠物件を裁判所や公聴会の場で提示しても、調べることさえしないというのはどういうことなのか。どちらに肩入れするわけでもなく、冷静に事の成り行きを見ていたとしても、これはおかしいと思うようなことばかりです。

民主主義において、選挙不正が疑われているのに、それを陰謀と一笑に付し、なかったものとして次期大統領がバイデンに決まったとしたら、これは民主主義や正義の敗北と言っていいと考えています。

自分的にはトランプ大統領を支持しているわけでもなく、日本にとってトランプ共和党とバイデン民主党のどちらが良いか、と問われれば、五十歩百歩なのではないかと思いもするものの、今回の一件については、やはり無視するわけにはいきません。

昨年からのマスコミやその他界隈を見ていると、どういうスタンスの報道なのか、どういう考えを持っているのか、図らずも透けて見えてしまいました。

明日から週末にかけて、米国その他の動きに最大の注目を払っています。

1月5日はジョージア州の上院議員決選投票が、1月6日には上下院合同会議が予定されています。予定調和で終わるのか、逆転劇があるのか。あるいは再び結果が持ち越されることになるのか。

結果が出る前に、あえて自分のスタンスを書いておきました。

2009年9月1日火曜日

ポピュリズム

昨日は台風の影響により暴風雨、政界も予想以上の暴風雨が明けた一夜でありました。今回の雪崩のような民主党への集票は、日本の流されやすい傾向を示しているようにも思えるということは昨日書きました。

民主党とて安定多数を得たからと言って安心できるわけではありません。組閣人事におて民主党内の意見調整にしくじるだとか、人事が期待はずれになるだとか、マニフェスト実現に向けてブレが生じるなど、国民から「自民党と同じぢゃないか」と思われれば、急速に民意は離れるでしょう。政権さえとれば、ばらばらな党内が一致団結する、というのも一理ありましょう。しかし、小沢、菅をはじめ、岡田、前原ら微妙に意見の違う党幹部を調整してゆくことは、今回選挙の結果からも難航が予想されます。

国民が望んでいるのは「分かりやすい」政治であり、最近の記者もキャスターも「YesかNoでお答え願いたい」「やるのか、やらないのか」と二者択一で政治家に回答を求める場面が多くなってきました。政治家は曖昧な回答で逃げる、その政治的曖昧さこそが、国民の苛立ちの一因であるのかもしれません。阿吽や辛抱ということはデジタルな社会にはなじまない。オバマの演説に感動した人は、政治家の言葉のストレートさにこそ打たれ、かつて小泉首相が圧倒的支持を受けたのも、ワンフレーズによる分かりやすさでしたか。

あまりにも見え透いた分かりやすさに騙されるほど、国民もバカではありませんけど、国民の移ろいやすさというのは、ある意味で危ない点もあると考えた選挙後の風景でした。

それにしても鳩山政権の行く先がどこにあるのか、いったい誰の利益代表足りえるのか。回答は見えているようでいて、いまだはっきりしないのが本音といったところでしょうか。

2009年8月31日月曜日

衆議院選挙の結果

衆議院議員選挙は、蓋を開けてみれば民主党の単独過半数確保、絶対安定多数確保の圧勝という結果で終わった。風が吹いたというより暴風というのが印象でしょう。

民主党の圧勝の理由として、国民の多くが、自民公明による一党独裁に近い戦後政治に嫌気がさしただとか、小泉政権が生み出した格差に対する不満とか色々な理由ありましょう。小泉政権下での郵政民営化を争点として争った前回の衆議院戦況。あの時は、鳩山代表などが伸び悩む当選者の報を前に暗い顔をしており、立場は逆転したものの、全く今回と逆の風景であったと思い出します。これが小選挙区制の怖さと言ってしまえばそれまでではあります。

今回の民主圧勝について考えるに、小泉政権が誕生した2001年あたりから、自民崩壊の芽は顕著になってきたのだと考えています。小泉氏は「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズで、当初、国民の圧倒的な人気を獲得しました。小泉氏が持ち込もうとしている政治とか制度が何であるのかも理解せずに「変革」というムードに乗ったというのが当時。それと同様に、郵政を象徴的なものとして「解体=改革」するというイメージを刷り込み、自民分裂に追い込みながらも、自民対自民の構図を作り上げ与党圧勝を演出したのが前回の選挙。世界同時不況後の米国でのオバマ旋風は「改革」を旗印にしたエネルギーを感じ、翻って更にわが国の閉塞感に、みなもう嫌気がさしていたというのが本音か。マニフェスト選挙とか言われたとしても、民主党を完全に信頼するほどに国民もバカでも無知でもない。しかし、それであっても自公政権の顔ぶれとやり口には、もうウンザリというのが正直なところでしょう。

ですから、積極的な選択としての民主党支持ではありえず、あくまでも私はムードとしての変革であるのだと考えています。民主党が今後どのような政権運営をするのか。民主党政権は、小泉政権の進めた規制緩和と市場主義(新自由主義)の反動からの格差社会を是正することを目的としています。当面は外交問題などよりも、弱者救済、セーフティーネットの拡大、既得権益からの利益再配分、平均的消費拡大による内需拡大とその結果としての経済再生という方向で考えるのだと思います。

それはそれで悪くはありませんが、結局は限られたパイの中での利益再配分ですから、誰もが果実を得られるわけではなく、それに気づいたときには、どこかから反発と反動が生じることは予測されること。国民の圧倒的多数による支持政党というのは、もはやファッショでしかありませんから、それほど民主政権が安泰とも思えない、いずれまた反動が生じるのではないかと考えています。

2009年8月26日水曜日

民主党政治に期待できるか?

30日の選挙が近づいてきた。民主党が300議席確保かなどと新聞や週刊誌では予想されている。もはや政権交代は既成事実のような雰囲気さえある中で、自民党の民主党に対するネガティブ・キャンペーンも熱を帯びてきている。「一度でも民主党に政権を渡すと破滅」などと、まるで麻薬か何かのような書き方だ。英ファイナンシャル・タイムズ紙では、日本も一度ギャンブルをしてみては、などと揶揄される始末。

野党の政策を並べてみても、民主、社民、共産、新党日本など、微妙な部分での食い違いはあるため、民主の圧勝という結果は政治風景として望ましいものではなかろう。民主の中でも党員の出身母体から寄り合い所帯という批判もある。しかし、政権を取ればある程度まとまることは期待されようし、逆にその多様性が政策的議論も高まるということもある。

何と言っても、私たちは自民党政権しか経験したことがない。現状の閉塞感から「変革」を求めるムードだけで決定されてしまうことに恐れがないとも言い切れない。政治は対立を含む。対立とは並存する利益団体とそれに属する者たちと属さない者たちとの対立であり、パイが限られているならば利益の再配分を意味する。そういう点において、現在の政治風景は自分たちの利益代表が誰であるのかが見えにくい。地方農民にも都市農民にも、中小企業社員にも大企業社員にも、あるいは子供のいる家庭にもいない家庭にもフィットする政党の存在ということそのものに無理があるように思えます。

2009年8月1日土曜日

マニフェスト政治

8月30日の衆議院議員選挙に向けて、各党のマニフェストが出揃いました。今回は「政権選択選挙」なのだという触れ込みで、民主党は悲願の政権奪取に向けて必死です。対する守りの自民も日本を守るのは自民だとばかりに抗戦しています。

マスコミはやたらと対立軸をあおりますが、そもそもが、自民も民主も「誰に向けての政治」であるのかが問題です。自民はかつては農村票を母体としていました。今では農村支持は民主のものでしょうか。都市の浮動票やサラリーマン票を狙うのは自民なのか民主になるのか。

「<国民>の生活を守るのはどの政党か」と麻生首相は問いかけます。格差社会を増長させ経済を疲弊させたという反省と責任は自民にはないかのごときです。しかし<国民>と一言でくくれるほどに、日本は単一ではない。都市住民も居れば、地方住民、農漁村住民も居ます。農民であっても都市近郊農民と稲作農家では全然違う。新富裕層も年収200万円世帯も<国民>。高齢者とか子育て世代、あるいは大企業、中小企業、役人とか自営業とかの軸もある。疲弊した産業には<国民>ではない労働力も注入されている。

各政党は誰の利権を守ることを政策の基本としているのか。逆に言うと、自分の属する枠組みをどこの政党であれば守ってくれるのか。<全国民>が、今よりも更に<利得に与る>社会は目指しようがないことだけは確かか。

<国民>という枠組みが複層的な枠組みの中にあり、それぞれが何らかの「既得権益」を有し恩恵にあずかっている。昨今の派遣切りとかフリーターは、既得権益から完全に排除された人たちといえます。既得権益は時代とか世代により異なり、本人能力を超えた偶発的な要因で決定されることが大きくなってきている。これは不可逆な流れなのか。政権を代えれば流れが変わるのか、漠とした期待はあっても実は誰も分からない。

日本は、そして日本の政治システムは疲弊しているという見方は当たっている。<疲弊から回復した後の日本>をどれだけイメージできるか。ここは観念的ではありますが、もう少しマジメに考えられても良い。

2009年7月24日金曜日

選挙の予測

今度の総選挙では民主党を含む野党が地すべり的に政権を奪取するのではないかとの期待が多い。衆議院の定数480議席に対し、現在の野党は146議席(民主112議席、欠員2議席)ですから、過半数を獲得するには97議席以上の議席数の獲得が必要となります。自民公明が334議席が240議席以下になることを意味しますから実に3割も議席数を減らさなくてはならない。

前回の2005年の衆議院選挙では、自民が84議席も議席数を伸ばし、反面民主が64議席を失いました。小泉首相の郵政選挙での圧倒的な勝利であったとしても、この議席数です。このときほどのインパクトを持って政権交代となるほどの議席数の移動が本当に生じるのか予断を許しません。

2001年に小泉内閣が生まれたときを思い出します。<国民>は<改革>という言葉に酔いしれ、<小泉政権>を熱烈に支持歓迎しました。その当時、<小泉政権>が実現する<世界>がどういうものとなるのか、<痛み>とは何かを具体的にイメージできていた人はどのくらいいたでしょう。余りにも<国民>はイノセントでありすぎはしなかったか。

そして今回、<政権交代>という果実のみに着目することも、当時と変わらないイノセントさと<世界>に対する不明を思わずにはいられません。かといって、解決方法も見つかりませんけど。

2008年10月7日火曜日

今の状況に関するメモ

昨年8月のサブプライム問題の深刻化。2008年当初は問題は深刻化、長期化しないだろうとの楽観的予測がまだあったし、デカップリング論に対する期待もあった。8月の北京オリンピック後の中国経済に対する不安はあったものの、エコノミストは今日これほどまでに経済が深刻化、破綻するとは考えてもいなかった。

そもそもバブル崩壊後の日本経済の復調は、中国、インド、ロシアなどの需要が高まった外需効果が高い。リストラ、不良債権処理などにより企業体力がついたという面もあるが、基本的には途上国特需である。

今回のサブプライム問題から端を発した経済破綻は、アメリカ主導の高度化した金融技術によるレバレッジ経済の破綻との論調が目に付く。ファニーメイとフレディマック、ベア・スタンダーズ、リーマン・ブラザーズなどの破綻、AIGをはじめとする生保の再編など、1年前の金融界とはガラリと風景が変わりつつある。その波は欧米にも波及しており、ユーロ安などにつながっている。その中で比較的傷の浅い日本の円が高くなっているというのは、消極的選択の結果でしかない。

改正金融安定化法案が可決されても不安と不満は去らない。米ダウ平均は1万円を割り、日経平均も1万500円を割り込み、さらに底が見えないという状況である。企業業績や体力は悪くないから必要以上に株価が下落しすぎた、PERが低すぎるとの論調もある。

しかし輸出主導で回復した日本経済が、この先株価下落による含み益を減じられ、更には円高に振れた中で業績を維持できるかは疑問が残る。金融不安とリセッションが負のスパイラルに入っている印象があり、出口が見えない。

これほど急激な経済変調は最近では見たことがなく、スピードと規模の大きさに驚くばかりというのが正直なところ。資産はリスク商品を避け、資金が回りにくくなる状況がどこまで続くのか。

鋼材、原油などの資材高、資源高も08年夏がピークであった。中国経済の減退とともに鋼材などはだぶつきはじめ、原油はマネーの逃避先ではなくなった。資源高を業績に盛り込んでいた素材産業は収益見込みを修正せざるを得ないであろうし、途上国経済への輸出を見込んで莫大な投資を行っているメーカーも業績見直しが必要かもしれない。日本の輸出主要メーカーの業績が今後悪化する方向に向かうならば、株価を含め日本経済の暗雲は更に深まる予感がする。

そんな世界経済の激変の中で、日本の政治家は相変わらず井戸の中の政権争いに終始している。

2005年1月17日月曜日

あなたは普通の政治家ぢゃないんだから

今日のサンデープロジェクトで安倍衆議院議員が、いつにない不機嫌な表情で疑惑を否定していました。 ことの真相は分かりませんが、火のないところに煙は立たず、立った煙を消すのもひと苦労てか。というか、何故この時期にとかイロイロ裏はありそうですが、バックドロップをくらわないように祈るのみです。
「NHKを呼びつけた」「番組内容を変更するように圧力をかけた」という報道や発言は全くの誤りである。昨日私が事実誤認を指摘するコメントを発した後も、引き続きそうした報道が行われているのは、誤りというだけでなく悪意に満ちた捏造と言わざるを得ない。

衆議院議員 安倍 晋三

安倍氏のブログより

「あなたは普通の政治家ぢゃないんだから」は、田原総一郎氏が安倍氏にカマをかけている時のせりふ。

2004年1月28日水曜日

古賀議員の学歴詐称について

昨年11月の衆院選福岡2区で自民党の山崎拓前副総裁らを破って初当選した民主党の古賀潤一郎議員(45)の学歴詐称事件が話題ですね。
 
本日の全国紙の社説(朝日、産経、毎日)ともそろって議員の資質そのものを批判しています。福田官房長官も「何なんですかねぇ。過失なんですか。それともウソをついたんですか。『ウソは泥棒の始まり』と言いますからね」などと相変わらずとぼけたことを言っています。
 
さて、私も古賀議員は議員を辞職すべきだと考える一人です。選挙によって選ばれた議員であるという責任ですよね。 結局学歴社会を否定するような風潮がありながらも、学歴なしには生きてゆけないことを自ら示してしまったこと、また誤魔化しをしても、謝れば責任を取ったことになること。志が多少高ければ、多少の不正は目をつぶっても良いと考える倫理観。加藤紘一の「みそぎ行脚」を思い出しますが、そんなものが許されるのでしょうかね。 

大人がこれですから、子供がおかしくなっても当然ですね。最近の「借金は踏み倒すが勝ち」とか「開き直ってごまかす」というのも、どこかの大企業や、どこかの国の首相の態度に顕著ですからね。 子供の最近の意識の変化を「栄養が足りない」と主張する一派もいますが、彼らこそムカシ栄養が足りなかったのではないでしょうか・・・

2002年7月15日月曜日

 田中長野県知事の不信任決議

15日、田中康夫長野県知事が県議会から不信任決議案を提出されたのを受け、議会を解散せず辞職し再出馬する意思を固めたらしい。この問題についてどのように考えるべきなのか、私は戸惑ってしまう。

田中知事が「脱ダム宣言」により県議会と対立していたことは知っている。脱ダム後の治水問題についても研究もしていたと聞く(県治水・利水ダム等検討委員会、浅川及び砥川の「総合的な治水・利水対策について」の答申)。双方とも納得できる妥協点を模索していたのだろうとは推察する。

全国の自治体において、公共事業の見なおしの機運は高まっている。特に、素人目にはムダとしか思えない道路や港湾施設、農場空港などを紹介される報道に接すると、その思いは強くなる(ムダなダム=怪文だな ^_^; )。実際に、走行台数の極めて少ない高規格道路や高速道路を通ると、さらにその思いは強くなる。

しかし、これらの事象は本当に正確に伝えられているのだろうか。事業のコストパフォーマンスについて、公正かつ正確に説明されているかと考えると疑問を感じる。推進であっても反対であっても、双方の主張は判断可能な形で提示してもらいたい。だから、信濃毎日新聞の7月14日の社説を読んでも曖昧さが払拭しきれない。地元新聞でさえ「何が理由の不信任であり、何を争点に争う知事選かが明確にならなくてはならない」と書いている。

日曜日のサンデープロジェクトでは、田中知事と県議が出演し、意見を述べ合ってた。これを聞いていると、脱ダムはひとつのきっかけに過ぎず、根底には知事と県議の深い溝を感じる。田中知事になってから、県政、県経済は停滞しているではないか、というのが県議達の主張のようだ(県議の代表意見は毎日新聞の記事から伺い知ることができる)。この点は、小泉内閣の「痛みを伴う構造改革」とラップする部分があるように思える。

感情論で反対するなどという愚考は避けねばならない。不信任を出せば解決とかいうような問題ではない。小泉・田中に代表されるような、現状の閉塞感の中から改革を求める気持は私とてある、改革に対する期待もある。それは、より豊かで(物質面ではなく)住みやすい社会へ向けてという前提で、やみくもな破壊者を望んでいるわけではない。

理念としての「望ましい社会」と納得のゆく実現に至るアクションプランを我々は求めている(田中氏の理念は毎日新聞のインタビューから伺い知ることができる)。私はこの問題を考え始めると、情報量の少なさから先に進むことができない。


2002年5月16日木曜日

内閣官房内閣とは大本営か、そして哀しき絶望

天下の外務省がボロボロである。機密費問題に始まり、田中外相との対立、瓢箪から駒のような鈴木宗男疑惑、そして今回の中国瀋陽の日本総領事館亡命事件での不手際である。

現在のところ日本と中国側の主張が大きく異なっていることは報道にて周知の通りである。TVを見ていると、小泉総裁や福田官房長官は「日本の報道よりも外国の報道を信じるのですか」と開き直る。

この論理を聞いて、私は怒りを通り越して絶望を感じた。確かに中国は当初、この問題を国内で全くと言っていいほど報道しなかったらしい。日本が現地検証などをTVカメラ監視のもと実施していても、何が起きているのか理解している市民は少なかったという(私の情報源はTV朝日のニュースステーション:偏向していると言われりゃそれまでだが)。それは報道管制かもしれないし、あるいは、何かを守るために事を大きくしたくなかったと言う配慮だったのかもしれない。守る対象が中国政府かもしれないし、もしかしたら日本政府そのものだったかもしれないのだが、それは分からない。

客観的な事象に基づいて、双方の主張をどこまで信用すべきかを我々が知る手段はないのだ。

しかし、少ない報道情報から両者を比較した場合、どちらにより真実が多く含まれるらしいかということに気づかないほど、我々はばかではない。中国政府発表を全面的に信用しているというわけではないものの、最近の日本政府および内閣官房のやり方を、どうして信用できようか。

現在国会は、経済再生については「底を打った」とし、有事関連法案、個人情報保護法案などの超重要案件を通そうとしているのだ。この2関連法案の提出のされ方からして、政府あるいは内閣官房の言を信じることはできない、思い上がりもはなはだしい!

書いていて、あまりのことに情けなくなってくる。国民には一番重要な事を知らせず、話さず漏さず、政府の言うことだけ信じろという。「民は知るべからず」か、まさに今の内閣官房は戦時(有事)中の大本営そのものなのではないか。

この事件を機に、私は今の内閣をついに全否定しているということにやっと気づかされた。信頼しないということは、支持しないということだ。もう福田官房内閣は支持しません、あ小泉内閣か。

蛇足だが、先日のニュースステーションで、久米宏がビルマ(ミャンマー)のスー・チー書記長に「ちなみに最近の外務省がガタガタなことはご存知ですか」と愚問を発した。スー・チー女史は、笑いを押し殺し、そして少し困ったように(私には見えた)「それは外務省だけではないのでは」と答えたのだったよ、トホホ・・・

2001年7月16日月曜日

党首のTV討論

参議院選挙まであと2週間。昨日の日曜日の朝は、NHKおよびテレビ朝日で党首すべてがTV出演し、論戦を張っていた。私はNHKの方は観なかったが、「サンデー・プロジェクト」はなかなかに面白かった。

その中で、司会の田原さんがしきりに「YesかNoか、やるのかやらないのか」と二者択一的に回答を迫っても、相変わらず回答を濁す小泉首相の答弁が気になった。首相たるもの、おいそれと白黒つけることは難しいのだろうが、首相としての真意と自民党の真意の微妙なずれを、浮き彫りにすることができないもどかしさを感じた。

一方、野党の方は野党で、扇国土相に「選挙のためだけの団結、不良債権処理さえ意見がばらばらではないか」と指摘されるように、足並みの乱れとスタンスの不確かさが逆に露呈してしまったように思える。国会の党首討論よりもよほど面白いと思うのは私だけだろうか。

さて、それぞれの政党の論点を書く気はないが、「痛みを伴う構造改革」とは「倒産し失業する可能性」であることを出演党首は全て認識していたし、与野党含めてそれを「止む無し」とする姿勢も明らかにはなった。それならばである、50万人の雇用創出にしても、セーフガードにしてももっと具体的な対策として打ち出されなければ、本当に未来があるのかは見えてこない。5年後に自分は失業していないと言い切れるだろうか?

さて、ここで、全くレベルの違うことを、ついつい思ってしまう。以上の議論は、「発展すること、進歩することが是である」という、前提のもとに全ての議論は展開されている。そうなのだ、京都議定書の件についてもなのだ、「進歩しつづけること」が前提なのである。それは人間社会が高度に経済的な活動に置きかわっているからだけではなく、「常に進歩しつづける=新たな刺激を求めつづける」動物としてプログラムされてしまったことからくる悲劇なのだろうか・・・と。

2001年6月8日金曜日

党首討論と外交戦略など・・・

国会での党首討論が行われTVで放映された。私はその模様を見てはいないが、小泉首相の「集団的自衛権、周辺事態、米国のミサイル防衛戦略」に関する考え方は、真意を測りかねる。

小泉首相は『「実現すれば安全保障上の考えは一変する。核兵器、弾道ミサイルがまったく意味をなさなくなるかもしれない」と高い関心を示し』『集団的自衛権は研究の余地がある』(毎日新聞)と答えているらしい。

「研究の余地がある」とは、彼一流のかわしかただが、政府の今までの見解から少し踏み込んだ、米国の期待にそった発言であるとの印象を受ける。

一方、田中外相は風聞を否定することに必死で、自らの外交理念については封印したかのような感がある。しかし田中外相の一連のリーク発言からは、米国よりの安全保障に立脚した政策からの転換を見据えているようで、21世紀の世界と日本という観点からは、二歩くらい先を進んだ理念を持っていると高く評価できると私は考えている。

「周辺事態」という造語まで持ち出して、自衛権の拡大と米国よりの戦略をとろうとするのが、大きな流れなのだが果たしてこれでよいのか、という議論、どこから火の手が上がるのだろうか。自民党内部からのはずもないが、立脚点が揃わない野党でもなさそうで、何とも情けなさを感じる。

鳩山代表や土井代表の発言を聞いていると、政党の枠組みさえ緩やかに崩壊してきたことを感じずにはいられない。

派閥どころか、政界大編成が行われなければ日本の未来への舵取りはできないのではないかという気にさせられた。

2001年6月2日土曜日

経済財政諮問会議つらつら

経済財政諮問会議の経済・財政運営に関する基本方針が出され、徐々に改革の内容が具体化してきた。
色々な分野や、改革をすることで不利益を被る団体からの反発は予期されるだろうが、大きな流れとしては賛同できるものである。もっとも、ワタシの業界は不利益を被る典型的な団体のひとつなのだが・・・

改革に当たって、資源の再配分ということが言われていて、ひとつ気になった。
産業的には今までの土建業中心の経済から情報産業へと移行させたい、生活の場も都市型を目指すというのが根底のようだ。

さて、今後の日本社会を考えた場合、少子化は避けられず、投資をシフトさせた先の産業が隆盛になるのかというとこれには大きな疑問を呈せざるを得ない。現状の教育システムと文部省(今でもあったっけ?)の掲げた教育方針では、日本の教育は荒廃するだろう。今の企業の体力が維持できるという前提は実は破綻していると思わざるを得ない。

一方で、外国人をどのように受け入れ、日本社会を活性化させるのか。グローバリゼーションの流れにさらされ、日本社会が大きく変質してゆく様を、もしかしたらこれから体験することになるのかもしれない。

外国人に限らず、公的な負担と受けることを約束された利益(医療・福祉)という問題も横たわっており、長期的なシミュレーションのもとに正確な現状認識が、この21世紀の初頭に必要であると思わざるを得ない。

最終的に笑うのは、誰になるのだろう? 実は政治家たちだけだったりして・・・・(だって、高齢なのにあんなにバリバリ仕事して、ボケ知らず。地位も名誉もあって、というのは政治家しかいないんじゃない=て、そこに落とすなよ)


2001年5月16日水曜日

国会中継や報道のバカさ加減

ここ数日、報道も野党も田中外相の「ドタキャン」や「具体策無き改革」を集中的に攻撃しているが、ちょっと待っていただきたいという気持ちがある。

我々は、田中外相がなにやら外交上の予定を取り止めたことは知っている。しかし、その交渉の内容や、予定していた出席者、実際に出席したメンバー、そして何よりもその外交予定が何を目的としており、結果どういうことを確認し合ったかについての具体的な内容について知ることが少ない。実際は報道されているのかもしれないが、「真紀子タタキ」に比べて比重が小さいのではないか?

あるいは、「具体策なき改革」というが、首相になってから具体策を検討する時間が今のような状況であるのだろうか。我々はむしろ、国会での無益な答弁よりも、1ヶ月程度で改革にいたるためのアクションプランと具体的な達成目標、またそれを実現するためのメンバーなどを提示してもらうことを期待したいのだ。

だって、会社経営にしても小グループの活動にしても、まずプランありきじゃないの?何ヵ年計画とかさあ、中長期の計画と短期計画が明確に示されるべきじゃないの? どこの公共事業をけずるとかは、具体的施策であってそれ以前の部分じゃないのかと思うのだよ。

その実現可能な計画の項目として、何を絞るのか(重点目標てやつだよね)という議論ならばすべきだと思うけど。具体的じゃないのは野党の民主党だってマスコミだって同様だよ。「経済対策」と「構造改革」て、じゃあ何をするの(してほしいの)?

マスコミからは、知りたい情報が全然伝わってこない、野党は追及して欲しいことを全然追及してくれていない。あんたら、バカじゃないの?といいたくなってくるのだが・・・

まあ、政治音痴にしてノンポリ、俄か政治談義を吹っかける輩に言う資格があるとも思えないのではありますがね・・・・


2001年5月12日土曜日

田中外相のドタキャン

田中外相のドタキャン続きの理由は何か。

政治家には、アカウンタビリティの責がある。ある行動が批判の対象となるならば、国民が納得する形で説明しなくてはならない。そういう立場にいると思う。その上で、行動や言動に対する批判が成立する。

政治というものを動的なものに変えるという流れの中で、今回の件は決して小さな問題ではないと思うのだが。

2001年5月11日金曜日

9日の衆議員代表質問

TVニュースで何気なく見ていましたが、代表質問の小泉首相の答弁は独特でしたね。ああいう場で、与党側の肉声に近い言葉を聞くのは新鮮なものです。
「改革という言葉は41回も使っているが、何ら具体的な内容が示されなかった」と鳩山民主党代表は批判しているが、まだ内閣始まったばかり、もう少し様子を見たい。
ただ、与野党の対立構図や政策論争まで考えると、従来の政党や派閥の枠組みがゆるやかに溶け出しているのを感じずにはいられない。自民党や連立内部が一枚板ではないのは自明だが、民主党も鳩山氏と菅氏の間の溝が浮き彫りにされてくるかも知れない。
政治に疎い私でさえ、なんとなく感じるのだから、もっと政治にセンシティブな層はどのように今の動きを捉えているのだろう。
「期待先行内閣」とは言われる。しかしだ、政治家たちを含め、我々は何を今期待しているのだろうかと疑問になる。「ただ変ればよい」というものでもない。既得権益に踏み込むことは「天に向かって唾を吐く」のと同義であるかもしれない。だって、私だってあなただって、既得権益の恩恵のどこかには関わっているのではないだろうか。
目指すべき政治・経済そして社会の姿はどこにあるのか、改革の結果の着地点はどこなのか? 例えば全てがうまくいったときの理想の社会とはどんな社会なのか。私には見えないなあ・・

2001年4月24日火曜日

小泉新総裁

ちょっと早いかもしれないが、小泉氏が総裁に選出されるのは確実となった。国民の意思なのかはわからないが、彼に今までにない何かを期待する雰囲気が作られ、選出されたことに間違いはないだろう。

 しかし、その何かとは、必ずしも彼の掲げる政策ではないのだと思う。「今までにない、何か変えてくれるだろう」というムードが先行したような気がする。

 今の閉塞的な状況(これの定義さえ難しいが)において、ムードでしか希望を示せ得なかったことにも政策論議の限界が見える。

 政策論においては、野党がどのように小泉氏と対してゆくのか。私には、政策論においても野党と与党の差異が見えてこない。「日本再生」というキーワードにおいては同じなはずである。

 しかし「再生された日本」の着地点をどこに見据えているのか。このヴィジョンこそ重要であると思うのだが、一体それを誰が示してくれているのだろうか? また、我々はどういった社会を望み、子孫に伝えてゆきたいと願っているのだろうか。

2001年4月23日月曜日

政治報道について

昨日(4月22日)の朝日新聞日曜版で、筒井康孝がコラムで最近の政治ジャーナリズムに対する批判を述べていた。

 要約すると、あまりにも最近のマスコミは政治家の悪い部分のみを強調して、面白おかしくスキャンダラスに報道しすぎる。分かりやすいという理由で、芸能人を扱うのと同じようなスタンスで政治家に接している。ジャーナリズムがスキャンダル性を前面に出すため、それを覆い隠すために「正義」という仮面をかぶる・・・・というものであったと思う(手元に紙面がないため、不正確だと思うが)。かの失策という烙印を押された橋本元総理でさえ、あの時期の勤めとしては仕方なくいのではないか、むしろ「失策」というのはマスコミが作り上げたイメージが大きいと読み手に印象を与える一文さえあった。

 橋本氏の部分はおいておくにしても、何と的確に、最近のマスコミの馬鹿さ加減を言い表していることか。確かに、マスコミは政治を冒涜しすぎたのではなかろうか。政治家が醜聞にまみれていることも確かである。しかし、いまの社会において、マスコミはどこにも「希望」を見つけ、若き世代に提示してやることもできていない。

 私の小学6年になる息子は、マスコミ報道の政治家の馬鹿さ加減(そればかりだから)にあきれ返り、政治や社会にたいして不信感というものを植え付けられつつあるようだ。平安時代の蘇我氏などの歴史などを覚えるにつれ、「全然変ってないんだね」と感想をもらすのである。