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2009年5月30日土曜日

宮下誠氏の訃報

クラシック音楽界で今年に入ってから黒田恭一さんなど鬼籍に入られた方は多い。その中で、黒田氏の訃報には反応しない私ですが、『カラヤンがクラシックを殺した』宮下誠氏(國學院大學教授)の突然のそれには驚かされました。5月22日か23日に、出張先のホテルで心不全で亡くなったとのこと。春先に入退院されていましたから、そのことと関係があるのでしょうか。詳しい情報は分かりません。1961年生まれですから、私と同い年なんです。

氏のブログは死の直前、5月15日「不在の代償」が最後になってしまいました。リンクしたページもいずれネット上からは消えてしまうかもしれません。

氏の提示した考え方には、クラシックファン以外の方々も反論を申し立てました。かなり激しいやり取りがネット上でかわされたようです。特に2チャンネルのそれは、凄まじかったと氏はブログで書いていました。私はそのような「熱い」議論に興味はありません。それでも、氏が提示した「音楽とは何であるのか」というテーマが投げかける社会に対する問題提起は、私にとっては小さくはないものであっただけに、氏の訃報を残念に思います。

『カラヤンがクラシックを殺した』の激しいやり取りの後、氏が2月16日にブログで書いたコメントを引用しておきます。

(上記書に関しての2チャンネルでの論戦、そして筆者の不明による謝罪などを説明した後に)しかし、そのような措置には、膠着状態が長く続き、文化の貫流が淀み、腐臭さえをも発している今日を生きる筆者の、絶望に裏打ちされた怨嗟と、明日への希望に対する渇望があった。何よりも、「目に見えないもの」に対する敬意のあまりの軽視への灼熱する怒りがあった。これだけは誤読されてはならないと思う。傲慢だが、これについてだけは大多数の同著に否定的な読者は間違っていると思う。

今日の文化、芸術、社会状況を肯定的に是認しうるだろうか?

(中略)

衆愚は良質の文化を、己の間尺に合わせて切り刻み凡俗へと凋落させる、恐ろしい力だ。権力だ。

こういう認識を現代社会で持っている方は、生き難いと思います。氏の前提である現代社会の「悪意」「世界苦」そしてそれゆえの「絶望」が理解できないと、氏の主張は「ハア~?」てなもんでしょう。真摯に哲学的なんです。

氏が指摘したかったことの一部は、『アレグロ・オルディナリオ~マーラーを中心としたクラシック音楽のことなど』というブログの「『カラヤンがクラシックを殺した』を創造的に読むために。(前編)」が、サブカルチャーと自我という点にまで敷衍し、非常に端的にまとめてくださっています。

氏の『逸脱する絵画』『迷走する音楽』も買っておかないと、絶版になっちゃうかもだな・・・。

2009年3月13日金曜日

哲学博士 宮下誠氏のブログ

『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。

あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。

音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、

この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。

感動!!!

そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。

安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。

神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。

こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。

「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。

2009年2月8日日曜日

宮下誠:カラヤンがクラシックを殺した


「20世紀音楽」「20世紀美術」などの著者として知られている宮下誠氏の問題作「カラヤンがクラシックを殺した」を読んでみました。宮下氏のブログなどを読むと、相当にネット上で叩かれたようです。しかし彼の書いたメッセージについては、納得できる点も多い。

カラヤンの音楽を綺麗なだけで、人工で自己欺瞞的な「美」の幻影(P.49)とする見方に同意するクラシックファンは少なくないでしょう。そこまでは良いとしても、カラヤンの音楽を精神史的な観点の中に位置付け、戦後の世界観を支配する平板で欺瞞的な知のあり方の象徴と見なしていること、そしてカラヤンを受容した一般大衆を容赦なく、お前たちも同罪だと断罪しているところは、大きな反発と批判を浴びたように思えます。あるいはクラシックに詳しくない読者には、音楽とはかくも恐ろしいものかという拙い印象を与えたかもしれません。

もう少し詳しく書きましょう。宮下氏は20世紀から21世紀にかけての世界を荒廃した絶望的歴史風景(P.50)と捉えています。そこには世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望があり、このような自己も含めた人間存在の本質的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さ「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」という言葉で代表させています。

カラヤンの音楽は、「世界苦」に対して恐ろしく鈍感、同情が欠如しており、「世界苦」を欺瞞で糊塗してきた世界の象徴的存在であるがゆえに、一般大衆に与えた影響は甚大で、

カラヤンは断罪されなければならない。(P.56)

と宮下氏は主張します。そしてカラヤンの音楽が美しければ美しいほど、また聴衆=一般大衆がそれを受容するほどに、その無自覚なイノセントさは罪であるのだとします。

宮下氏の一般大衆に対する批判は、実はカラヤンのそれ以上に強烈です。例えば次のような一文です。

「大衆」はいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げにして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物(P.64)

彼の大衆批判はそこかしこに読み取ることができますが、このくらいで良いでしょう。強烈な批判ではありますが、私は「価値切下げ」という部分に、首肯できる主張を感じます。

さらに宮下氏が指摘した「アウラ(オーラ)」とは何でしょう。所謂「カリスマ性」みたいなものとして氏は定義していません。そういうものではなくて、観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であるとしています。難しいですね。しかし、この部分も、おそらくは氏の主張の根幹をなす部分でしょうから引用してみますと、

それは音楽を語ることを挫折させるまさにそのもの、神秘的な、エーテルのような、あることを証明することは到底不可能だが、決してないわけでは「なさそうな」、曰く言い難い、神秘的な「何かあるもの」であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した(P.119-120)

ものが氏の言う「アウラ(オーラ)」だとします。カラヤンにはそれが全くないのだと。

これはいわゆる、「芸術解体」ということに繋がる大きなテーマです。今の世にあって、もはや「芸術」という言葉は、死語か悪い冗談にしかなりません。日常の中から「芸術」という言葉が排除されはじめたのは、私の記憶では80年代中頃ではなかろうかと思います。「芸術」は「アート」という言葉に置き換わり、サブカルチャーなるものが台頭してきました。そして、この頃から大衆の「欲望」があからさまに「拡大再生産」されるようになり始めたように思います。もしかすると、ここが氏の一番大きな批判の論点なのではなかろうかと思うのです。

宮下氏の「西洋音楽」に対する考え方は、いまをもっても精神芸術的あるいは哲学そのものとして捉えているようです。つまりこういうことです。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもありえるものととらえ、悟性による認識を通じて音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴く~そのような聴き方を聴き手に迫っている(P.34)ものであるとしています。宮下氏は、音楽全般の価値が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」こそ悪い冗談(P.277)であり、

悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている(P.277)

と最後まで、聴き手をも断罪しまくります。

氏がカラヤンの対極として、クレンペラーとケーゲルを上げていることは、私にはさほど重要なこととは思われません。ここを強調すると、いわゆるクラヲタ系批評家と変らなくなりますし。

宮下氏は1961年生まれですから、私と同年齢。その氏がかくも現代社会と今を生きる大衆文化に深く絶望していること、そのことにこそ、私は驚き、そして自省の念を覚えます。確かに氏の指摘をそのまま受け入れるならば、私たちは他人や世界の痛みを遠ざけられるような愚昧な情報に溢れており、それゆえ利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることを当然のこととして、快楽的、享楽的に生きていることになります。

これらの原因を、全て「カラヤン」に象徴することには、かなり無理があるものの、彼が「カラヤン的なるもの」として批判したものに対して、自覚的になることは重要であろうとは思います。ただし、この手の自己批判は、全て自分が受け入れる必要があるだけに、アクションとして結びつかない限り、最終的には自己矛盾と自己欺瞞に行き着くため厄介です。

いずれにしても氏の嘆きと希望がどこまで伝わったかは、はなはだ疑問には思うところです。このように考えると、本書のタイトルさえ誤解を招くものであったと思わざるを得ません。