ラベル 靖国問題 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 靖国問題 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2005年8月23日火曜日

靖国問題って話題なんですか・・・?


高橋哲哉氏の「靖国問題」について言及したエントリに幾つかのTBをいただいています。こんなミーハーでノンポリ(>死語)なサイトにまでTBがかかるくらいですから、巷のネット界ではイロイロな意見がかわされていることと推察いたします。


高橋氏の論点の甘さは他人に指摘されるまでもなく明白ですし、武力なき国家とか外交など稚戯に等しいとする意見も多いと思います。それはそれで正しいし、いまの近代国家を前提とする限り武力放棄など(大国の傘下にあることも含め) 幻想に過ぎぬことも自明なことなのかも知れません。


しかし、その自明な論点から先のビジョンはどうなんでしょう。現実路線を取るのか、あるいは別なパラダイムを提唱するのか。別なパラダイムを提唱するには米国との関係を根本から問い直すことを意味します。それは武力を放棄するサイドにとっても、武力を持って自立するサイドにとっても、あるいは米国依存ではなく例えばアジア協調を提唱するサイドにとっても、今までなかった決意と決断に迫られることになります。


最近読んだ「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」(浅羽通明:筑摩書房 4480061738)によると、どちらもナショナリズムの発露ではあるわけでが、ここらあたりは政治家が真剣に考えて欲しいところです。

2005年8月12日金曜日

国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?

「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」の高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)にある一文であります。「国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?」 この問いは難しい。




近代国家が武力を背景としての国防と領土拡大(天然資源と労働力確保)を前提として成立していたものとするなら、国家間の利害を解決するため場合によっては「戦える国家」であらねばならなかった。いやこれは「近代国家」に限定せず、有史以来の「国家的」なものが有した属性であったのかもしれません。過去の歴史は戦争の歴史であり、人類が戦争をしていない時期などないかもしれないのですから。


「戦う」前提には共同体=国家に対する帰属意識と愛着(ナショナリズム)があり、それは国家が個人に対して、例えば人権保障や選挙権や庇護という、国家と個人の間での権利と義務があったはずです。


そのような国家においては「戦える国家」であることは議論の余地がないのですが、日本は戦後の米国との関係を含め捩れた関係と観念に支配された時期が長く、ここを本気で議論したことがなかったのではないかと思っています。逆に言えばナショナリズムが育たぬ故に、国家意識の希薄化と「靖国問題」が問題化する土壌が出来てしまったのかと。


好悪や感情論に帰結させるならば、国家が戦う国家であってはならない理由は、国際法的に紛争解決に戦争が禁止されておらず、どんなに戦争の大義をうたおうと、戦闘行為は破壊と殺人を伴うからという点に尽きます。相手を抹殺しなくてはならないほどの絶対悪である規定することなど倫理的にできるのでしょうか。だからといって「非武装中立」が現実的でないことは承知しますが。


で、新たな疑問が更に沸きます。では「国家」とは何なのか。真面目に考えたことないですからね学生時代も。

2005年8月11日木曜日

靖国問題は「問題」ではない


松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOGから靖国問題に対するTBをいただきました。考えがまとまっているわけではありませんが、ここにメモしてきます。松尾氏は高橋氏に対立するスタンスです。




ブログにおいて松尾氏は、長谷川三千子さん(女性の保守系言論人)の批判について長谷川さんの「靖国問題は問題ではない」の一文に私は激しく同意するとして、


国家が兵士たちを「戦争に動員して死に追いやった」などという言ひ方ほど、「人間不在」の言ひ方はありますまい」 「なによりも決定的なのは、国や人は時として、戦はざるを得ないことがある、といふ洞察が完全に欠落してゐる、といふことです」(同書・124頁)


「さしあたつて、近代民主主義といふものを基盤に話をしてゐるかぎり、国家が戦争や武力行使を想定しなかつたら、などといふ空想にふけるのは止めにした方がよい。(中略)この本の価値は、ほかでもなく「靖国問題」は問題ではないと気付かせてくれるところにこそあるのです」(同書・129頁)



と長谷川さんの一文を引用されています。「靖国問題」の孕む問題が国家のありようを規定するところにまで膨らんでいることには同意します。近代民主主義を基盤にする以上は「軍隊を有しない国家」など考えようもないことも理解します、従って「靖国的なるもの」は不可欠なものであることも仕方ないことであると思います。


長谷川さんは「戦はざるを得ないことがある」と指摘しますが、本当に戦う必要があったのか。というよりも、日本は正しい判断のもとに戦争を継続し続けようとしていたかという点に私の疑義があります。大東亜戦争と日露戦争の日本のありようは例えば司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」を思い出すまでもなく非常に違っていたようです。


ヒストリーチャンネルで放映(8月6日)された日本映画社「海軍戦記/陸軍特別攻撃隊」は涙なくして観ることができませんでした。特攻隊ですから生きて帰らぬことを前提とし「再び会うのは靖国の杜で」と誓いながら無謀な戦いに挑んでいった若者を描いています。彼らは心底から「戦はざるを得ない」と感じて命をかけたのでしょうが、その国家判断は間違っていなかったのか。政府は戦争の引き際をどう考えていたのか、大東亜戦争においては児玉源太郎は存在できなかったのか。


日本の敗戦後の戦争責任については歴史を紐解けばすでに決着済みでありますが、なぜこんなにも尾を引くかと言えば、日本国内での総括と歴史観が形成ができていないからでありましょう。現状においては高橋氏の結論の「非武装国家」は確かに妄想でしかないと思いますが、そうであったとしても愚かな指導者の間違った政策の下に死にたくはありません(>と最後は好悪などの感情論に落とすか?)。世論や政治家や評論家の言説にはまだまだ注意が怠れません。

2005年8月1日月曜日

高橋 哲哉氏:「靖国問題」



サンデープロジェクトの「靖国問題」を見た余勢で、最近本屋に山積みされている高橋哲哉氏の「靖国問題」(ちくま書房)を購入して読んでみました。
非常に丁寧に「靖国問題」が何であるかについて、

 第一章 感情の問題~追悼と顕彰のあいだ
 第ニ章 歴史認識の問題~戦争責任論の向こうへ
 第三章 宗教の問題~神社非宗教の陥穽
 第四章 文化の問題~死者と生者のポリティクス

と大きく四つの面から論理的に説明しています。最終章は

 第五章 国立追悼施設の問題~問われるべきは何か

として筆者の見解をまとめています。

「靖国問題」を問うことは、A級戦犯の合祀のみならず「東京裁判史観」を問うものであることは、私も何度も書いてきましたし、問題がそこにあるからこそ政治的問題に発展する要素を孕んでいるわけです。高橋氏の態度は明白です。

東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(P.69)

歴史はひとつではありませんし、国によって同じ事象が全く正反対の歴史として記述されるのも珍しくありません。また時の為政者により「造られる」のも歴史です。安倍氏のように判断を未来に委ねることも一つの手でしょうが、それではあまりにも日本的な曖昧さに満ちすぎております。政治家としての責任についても疑問を呈してしまいます。

高橋氏の態度は上記のようなものですから、現在の靖国神社のありようには否定的な見解を示すこととなります。靖国の本質については以下のように喝破します。

靖国の論理が近代日本の天皇性国家に特殊な要素-とりわけ国家神道的要素-を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を備えているすべての国家に共通の論理にほかならない(P.197)

とし、

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205 太字本文ママ)

と説きます。従って彼の結論は、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)

となります。靖国問題が過去の戦争責任と将来の国防のありようにまで結びつく故に「靖国問題」は政治的であり、また日本政府が戦争責任を明確化していない点でアジア諸国からは「外交カード」として使われ、多くのアジアの人の感情を逆なでしています。一方で日本の戦死者たちをもある意味でないがしろにしているわけです。

「将来の国防のありよう」についても議論百出でしょうし、いまだ「日米安保」さえ明確にできない日本において「靖国問題」が決着することなどありえないと本を読んで感じるのでした。

これで「靖国問題」の全てが語られているとは思えませんが、わかり易い点であることとタイムリーである点から「売れる」本かもしれません。

2005年7月31日日曜日

サンデープロジェクトの靖国問題


本日のサンデープロジェクトでは自民党・安倍晋三幹事長代理と共産党・志位和夫委員長が「靖国問題」を議論しておりました。安倍さんと志位さんですから、どこまで行っても平行線であることは最初から見えていましたが、それにしてもここまで全くかみ合わない議論を聞かされると正直ちょっと辟易します。




志位氏が安倍氏に対し「A戦犯は戦勝国の一方的な裁判による、"ぬれぎぬ"に過ぎぬと考えているのか」「過去の戦争は侵略戦争ではなかったと考えているのか」と問うても「一政治家がそのような判断をすることは影響が大きすぎる」「判断は歴史が定める」との回答から外に出ることはありませんでした。


大東亜戦争が「正戦」であったのか「侵略」であったのかは議論が分かれているところですし、「過去の判断を現在の価値観から評価することはできない」とする安倍氏のスタンスも理解はできます。「正しいか悪か」という二元論で割り切ることの危険性も確かにあるでしょう。


それであっても、いやだからこそなのでしょうか「靖国問題」は極めて政治的な問題でありますし、過去の歴史認識と現在の国家をも炙り出す問題であると思うだけに、明確な意志を表明できない日本政府代表の一人にはある種の失望を感じます。結局過去を清算も総括もできていないのだと。


安倍氏が引用していた塩野さんの「ハンニバルは罰せられなかった」ということは、先日紹介した「文芸春秋 八月号」のコラムでも書かれていたエピソード。塩野さんは戦犯という言葉からして私には馴染まない敗戦イコール戦犯と見なされるようになったのは、第二次世界大戦からの現象にすぎないとの立場。


また塩野さんは靖国問題は、たいした問題ではないことをたいした問題にしてしまった、歴史上の好例と書きますが、靖国のありようを考えるとそれを利用しようとする人たちが居る以上「捨てては置けない問題」であると私は感じるのです。特にこれを「日本文化」と結びつけて論ずることには全く同意できず、「文化論」が出てきた瞬間に、これは何かをカモフラージュするためのレトリックでしかないと思っています。

2005年7月30日土曜日

靖国問題と宗教観

そろそろ8月になります。国会が8月13日まで会期延長され、終戦記念日の8月15日に突入するわけです。「文藝春秋 八月号」は靖国問題に関して以下のような特集を組んでおり、興味深く拝読いたしました。

  • 決定版 日VS中韓大論争 靖国参拝の何が悪いというのだ~櫻井よしこ、田久保忠衛、劉江永、歩平
  • 小泉「靖国参拝Xデー」の内幕~富坂聰
  • 胡錦涛「靖国非難」は世界の非常識~古森義久

コラムにおいても

  • 日本人へ・二十七 帰国中に考えたこと~塩野七生
  • 人声天語 十年前の夏に私は『靖国』のプロローグを執筆していた~坪内裕三

と言う具合です。「文藝春秋」ですから、首相の靖国参拝については肯定的な味方なのですが、例えば「大論争」においては、日本と中国および韓国の歴史認識はどこまで行っても交わらない平行線で、相互理解は不可能とさえ思え正直ゲンナリしてしまいます。

それでも、一連のコラムやら論文を読んでおりますと、「靖国問題」の根底には日本人の「宗教観」が深く横たわっていることを思い知らされます。これだけ面倒な問題なんだから「分祀」すればよいではないかと単純に考えても、「神道」において「分祀」ということはそもそも考えられないという大前提のもと全否定されてしまうのです。

「人は死ねばみんな神様」や、お盆には仏様がこちら側に来る時期というのも「日本人の宗教観」なわけです。中国や韓国には日本人の文化に根ざした宗教観が理解できないのだろうと、主張するわけです。

中国や韓国が政治カードとして「靖国」を利用している点も理解できるものの、靖国擁護派が主張する「日本人の宗教観」や「死生観」も一体どこまで浸透しているのか、日本人は「無宗教」といわれていたはずですが、実は深い信仰心を持ち続けている民族であったのか。「無宗教」とは西洋的概念での「無宗教」でしかないのか、同レベルに考えることが間違いなのか。私は「文藝春秋」を読んで、混乱するばかりです。

坪内裕三氏のコラムでは柳田國男氏の文章を引用しながら日本民族における死後や霊の認識に触れ、

(従来の日本信仰などの)そういう「なつかし」さの喪失、すなわち超越的なものに対する感受性の摩滅への不安が私の『靖国』の最大のポイント

と書いています。死しても国土を離れず、故郷の山の高みから子孫を見守っているという宗教観、それが「靖国」の基本であると主張するならば「靖国」問題は解決不能という気になります(中国や韓国があきらめるか別のカードを見つけない限り)。

ただ、この種類の「魂」の問題は、今の日本において「靖国」をキーワードとしてしか語られてはいないようにも思えるのですが、どうなのでしょう。

2004年5月31日月曜日

サヨクを論破する理論武装?


産経新聞社の月刊誌「正論 2004年6月」は《サヨクを論破するための理論武装入門》という、ワクワクするような記事でしたので、買って読んでみました。文責は石川水穂氏、産経新聞論説委員です。

15頁ほどの記事は全部で7章に分かれており、1.自衛隊イラク派遣と集団的自衛権 2.国旗・国家問題と朝日社説 3.首相の靖国公式参拝は合憲 4.朝鮮人強制連行という歪曲 5.間違いだらけの慰安婦問題 6.南京事件の重大なうそ 7.竹島・尖閣諸島はまぎれもない日本の領土 という内容です。

集団的自衛権に関しては、『どうしても必要』であると説きますが、その理由の第一が『日本国民にとって、イラクより深刻な北朝鮮の脅威が現実化』することに危惧を抱いていることにあるようです。北朝鮮の脅威が消えたらどうなるのでしょう、新たな脅威を作るのでしょうか。

国旗・国歌問題は、ここのブログでも数度触れましたが、東京都の通達に関しての教師処分とからめて朝日新聞を批判してるのですが、産経は授業で『国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば[...]むりなく国旗に向かって起立し、国家を歌うことができるのです。[...]生徒の自主性とは何の関係もありません。』と書きます。それって、政治的プロパガンダとどう違うのでしょう。

教員には当然、国旗・国歌の指導義務』があると書きますが、「良心的行為の自由」についてはどう考えるのでしょう。そんなもの公僕には存在しませんか。

靖国神社に関しては、『戦没者慰霊の中心施設として、遺族をはじめ日本国民の崇拝を集めて』いる、靖国参拝は『遺族や国民が待ち望んでいる』と書きます。「遺族」の部分は正しいでしょうが、「国民」と書くのはいかがなものでしょう。少なくとも国民である私は、崇拝も待ち望んでもいませんが。

同じような論法は『靖国代替施設構想は遺族や多くの国民から批判』『どんな形で死んだにせよ、死者を必要以上にムチ打たないのが日本の伝統的な国民感情』などというすり替えを行っていきます。死者にムチなど打ちたくありませんが、罪については裁かれ罪を贖ってこそではないですか、単なる恩赦ではないでしょうに。それとも戦犯たちにも「受命の抗弁」が成立するのですか。

続いて首相の靖国参拝を意見とした福岡の判決について、『裁判官個人の政治的信条の吐露』でしかなく『独善的』『裁判を利用した一種の政治運動』と舌鋒鋭く批判しています。これは、「SAPIO」(小学館)に掲載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」でも同様のことが書かれており、小林氏に至っては、私的なサヨク的見解を述べたに過ぎない『暴論』であると怒りをあらわにしています。(SAPIO 5/26号)

しかし、現段階では、福岡地裁の判決の背景がどのようなものであるにせよ、靖国参拝がグレーゾーンであることに変わりはないというのが私の実感です。

朝鮮人強制連行や慰安婦、南京大虐殺に至っては、もはや根も葉もないでっち上げとする主張なのですが、例えば、

  • 「朝鮮人強制連行」は、朝鮮総連系の学者の造語
  • 徴用は法律に基づく戦時勤労員動員であり、それを「強制連行」とはいわない
  • 日本の群や警察が強制連行したことを裏付ける資料は一点もない
  • 「従軍慰安婦」という言葉は戦後の造語
  • 創氏改名の「強制」も間違い、差別もなかった
  • 南京大虐殺の「40万人」は学問的に検証された数字ではない、荒唐無稽な数字
  • 南京の人口は日本軍の攻略後もほとんど変わっておらず、10万単位の虐殺などありえない
  • 「南京大虐殺」は戦後、米国経由で東京裁判に持ち込まれた

などなど、いろいろと列挙してくださいます。自虐史観から抜け出し、自国の歴史を問い直そうという態度には、何度も述べますが敬意を払いますし、「学問的に検証」しようとする努力にも頭が下がる思いです。

しかし、私はサヨクではありませんが、残念ながら産経の主張には全く論破されませんでした。

ああそうなんだ、以前のエントリーにトラックバックしてくれた、k-tanakaさんの言葉を思い出した。

藤田の指摘から産経のつまらない主張に立ち戻って考えれば

そうだ、つまらないのだ産経の主張は、そんな暇があれば藤田省三の著作でも紐解き、天皇制とか国家について内省した方がましであると、ようやくにして気付いたよ。

2004年5月1日土曜日

「正論」の靖国論

月刊誌「正論」は産経新聞社によるオピニオン誌で、編集方針は岩波書店の「世界」とは対極にある雑誌といってよいことは皆様ご存知の通りです。

2004年5月号は『靖国・英霊「分祀」論の妄を弁ず』と題して、かの東京大学名誉教授の小堀桂一郎氏が執筆しておりました。キワメて楽しそうな話題でしたので思わず購入して読んでみました。

これまたご存知のように小堀氏は我が国を深く愛されており、中国や韓国や東南アジア諸国の内政干渉など無視して堂々と首相は終戦記念日に靖国参拝を行わなくてはならないと強く主張している方です。

小堀氏の批判は今年2月15日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」に出演した元衆議院議員中曽根康弘氏の靖国神社の発言に対し『歴然たる無知と誤認がある』と批判することから初め、靖国神社に対する世間の誤解について力説しています。

本号では小堀氏のほかに、弁護士の稲田朋美氏、アジア経済人懇話会会長の前野徹氏も寄稿しておりますが、どれもこれも論旨は同じです、ポイントとなる点をいくつか引用しておきましょう。

(中曽根氏を初めとする「或る党派の人々」は)中共政府の走狗となつて護国の英霊を辱めることを敢へてし、結果として祖国を敵に売る行為に加担した(小堀氏)

殉難者の英霊の「分祀」を言ひ張る人は、結局は、当人が東京裁判をどう見るか、といふ踏絵を踏まされることになるのである。(小堀氏)

「A級戦犯」を、"分祀"するようなことがあれば、現在の日本人が東京裁判の正当性を認めたことになり、サンフランシスコ平和条約発効後、国民の総意で戦犯釈放等を早期に実現させた先達の努力を水泡に帰し、わが国の将来に遺恨を残す(稲田氏)

(靖国神社に象徴されているのは)祖国に対する忠誠心、すなわち命を懸けて国を守るという崇高な精神(稲田氏)

本来なら東京裁判によって断罪された日本の汚名を晴らすべき日本の首相が自虐史観に染まっている(前野氏)

日本にはA級戦犯など存在しない[...]靖国神社に祀られる英霊は戦犯などではない(前野氏)

自虐史観に対する舌鋒の鋭さは相変わらずですが、さらに中国や韓国に対する不信感もかなり凄いものがあります。

(南京虐殺記念館の入場が無料になったことに対し)でっち上げの南京虐殺事件を自国民の心に強く刻み込み、反日感情を高めようという意図が見え隠れ(前野)

(南京虐殺記念館を中国政府が「世界文化遺産」としてユネスコへの登録申請を計画したことに対し)南京事件の虚構性を暴く実証的研究の続出によつて、中国当局は形成不利と知り、焦り始めたのである。(小堀)

韓国では密かに日韓の歴史の塗り替への布石が着々と打たれている。[...]水面下では日本の神話を自国の歴史にすり替えるための研究が韓国の歴史学者たちによって進められている。[...](韓国には)日本列島全体を属国化しようとする意図すら隠されている可能性もある。(前野)

日本はアジア諸国から見下され、今や食い物にされようとしている。中韓の対日批判の高まりはその狼煙である(前野)

ふう、もうたくさんですね。でもこういう方が以下のように主張するのですよ。

共存共栄、強者は弱者をいたわるという日本の美風(前野)

その論理ですと、日本はアジアの強者ですから、大東亜共栄圏という発想から弱者であるアジア諸国を貧困と列強諸国から解放しようとしたのですし、その「日本の美風」の精神の延長線でイラクを独裁政権から解放することのお手伝いをしているということになるのでしょうか。

たとえ南京大虐殺(の規模や瑣末的なディテール)が虚構であったとしても、日本人が民間中国人を殺したという事実は残るわけですし、一人殺しても虐殺した過去は変わらないと思うのです。今アメリカがファルージャで行っていることも、フセインがクルド人に対して行ったことも虐殺であることに異論がるでしょうか。

小堀氏を始めとする東京裁判否定者は、戦勝国の一方的利害による偏向した裁判は不当であり、冤罪であるとまで主張するのですが、ある時代の歴史が下した審判を否定し去ることで日本に名誉と栄誉が回復するのでしょうか。

彼らのような主張をする人が率いる日本がどういうものなのか、中国や韓国に敬意を(全くといってよいほど)払わず、不信と蔑視と利用価値しか感じないような主張の中でどうやってアジアで共存できるのでしょう。彼らの描く日本に住みたいと思いますか?

2004年4月10日土曜日

福岡の靖国違憲判決に対する産経抄

「クラシック音楽」のサイトを放棄して「プチサヨク」のサイトへと変化したと思われそうですが、それでも記録しておきたい記事が9日の産経新聞『産経抄』にありました(このごろすぐ忘れてしまいますので)。福岡地裁の首相靖国参拝の違憲判決についてです。

裁判官に対する不信を強く感じた [...] 死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑った』と書き出し、以下のように展開します。





  • 国のために死んだ人びとは英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる

  • (靖国を)おまいりすることはいわゆる宗教的活動ではない

  • (靖国参拝は)先祖をうやまう人間的で自然な儀礼

  • 判決自体が、裁判官の主義主張に基づく“政治的性格”

  • なぜなら判決がでるやいなや、中国と韓国は「大いに評価する」とコメントしてきた(から)




大変勉強になりました。私も国のために死んだら「英霊」となって「靖国」に名前を連ねて「神」(『欧米でいう“ゴッド”とは違う』)になれるのですね。イラクの自衛隊員は靖国の神にはなれませんから、これから国のために死んでくれる若者のために、しっかり下地を作ってあげようと、ありがたい処置ですね。これは、日本古来の自然観や習俗とか国家神道に基づくものであって宗教ではないのですし、日本人なら誰もが持つ自然な美しい心から発露したものですから、いやおうなく「愛国心」は醸成されますね。「靖国」「日の丸」「君が代」三点セットに「教育勅語」を付けますか。

死者の慰霊と鎮魂と、神話の神々を祭った神社と天皇と、一体いつどう結びつきましたか。それは靖国の歴史でしょうが。しかも官軍だけを祭った。それが日本の伝統文化ですか。守ろうとする「国体」って何でしょうかね。私は産経の主張する「国家」に命を捧げる気には、今のところなかなかなれません。(とこう書きますと、「国家に所属していながら自己矛盾」だとか「日本にいる価値なし」とか、感情的に激昂する人が多いんですよね)

2004年4月9日金曜日

小泉首相の靖国参拝に違憲判決


��日の新聞報道ほかによると福岡地裁(亀川清長裁判長)は、小泉首相の就任後初めての靖国神社参拝について違憲と判断したそうです。首相の靖国参拝は全国6地裁で起訴されており、今回は3番目の判決で始めての違憲判断になったものです。福岡地裁に訴えを起こしていたのは、九州や山口県などの宗教関係者、在日韓国・朝鮮人ら211人。

参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる』とした判決の骨子は以下。





  • (小泉首相は)参拝後、総理として参拝した旨を述べており、総理の職務執行と認められる

  • 宗教とかかわり合いを持つことは否定できない

  • 自民党や内閣からも強い反対意見があり、国民の間でも消極的意見が少なくなかった。一般人の意識では、参拝を単に戦没者の追悼行事と評価しているとはいえない

  • 戦没者追悼場所としては必ずしも適切でない靖国神社を4回も参拝したことに照らせば、憲法上の問題があることを承知しつつ、あえて政治的意図に基づいて参拝を行った

  • 参拝が神道の教義を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長する効果をもたらした

  • 社会通念に従って客観的に判断すると、憲法で禁止される宗教的活動にあたる

  • 靖国参拝は合憲性について十分な論議も経ないまま繰り返されており、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、同様の行為が繰り返されることになる



憲法20条3項の政教分離には違反しているとしましたが、原告への慰謝料請求については、『参拝で原告らの信教の自由を侵害したとはいえない』として棄却しています。


さて、これに対する大手新聞の8日の社説を引用しておきましょう。

朝日新聞 社説は『首相がこだわる靖国神社とはどんなところなのか』と靖国神社成立の歴史と『軍国主義の精神的な支柱という役割』に言及し、


  • 日本国憲法が国は宗教的活動をしてはならないと戒めているのは、そうした過去の反省に立っている

  • (伊勢神宮参拝は)違憲の疑いがあるが、靖国神社が背負う歴史を見れば同列には論じられない

  • 個人的心情だと開きなおる前に自分の立場を考えなければならない

  • 首相が参拝すれば、それは靖国神社を特別扱いし、援助していると見られても仕方がない


とした上で『憲法違反という司法の警鐘に素直に耳を傾けるべきだ』と結んでいます。

朝日として当然の論理でしょう。

一方、読売新聞は朝日の否定した歴代首相の靖国参拝に関する訴訟事例と伊勢神宮参拝などに簡単に触れながら、以下のような論旨を展開します。



  • 首相の靖国神社参拝は戦後も、伊勢神宮参拝などと同様、日本の伝統や慣習に基づいて歴代首相が行ってきた、ごく自然の儀礼的行事

  • なぜ靖国神社参拝に限って、近年になって違憲かどうかが問題にされるようになったのか

  • 小泉首相の靖国神社参拝を「政治的意図」とする今回の判決自体が、政治的性格を帯びた内容



と判決に真っ向から疑問を呈しています。

さて、最後は産経新聞です。まず『これまでの判例を著しく曲解した判』と冒頭から強い語調で地裁判決を非難し、



  • (首相の参拝によりその年の終戦記念日の参拝者が前年の2倍になったことに対し)参拝者が増えたのは結果的にそうなったのであり、首相が事前にそれを意図して参拝したわけではない

  • 重大な判例違反

  • 福岡地裁の違憲判断を推し進めていくと[...]恒例の伊勢神宮参拝も憲法違反に問われることになる

  • 福岡地裁の判決は、特定の主義主張に偏っている

  • 福岡靖国訴訟は、首相の靖国参拝に反対する僧侶や牧師、市民運動家、在日韓国・朝鮮人らが全国各地で起こしている靖国訴訟の一つ

  • 一連の訴訟は、裁判を利用した一種の政治運動



としており、読売と同様に特定の団体の意向に基づく政治的色合いの判決だと結論付けています。

読む前から結論の分ってしまう社説というのも、げんなりしてしまいます。

読売と産経は政治色が強いと批判しますが、靖国参拝自体が政治色の強いものです。外圧とかマイノリティとかを論じる気はしませんが、福岡地裁の亀川裁判長その人が、今後政治的どう影響されてゆくのか(あるいは司法の独立性を維持し続けられるのか)そこら当たりを報道は追求していてもらいたいものです。

-----------------------

【過去の意見箱】

2001 08/14 小泉首相の靖国神社 電撃参拝

2001 08/14 歴史認識の違いと他国の干渉

2001 08/15 予想とおりの反日感情

2001 08/15 13日の参拝と小泉首相の公約

2001 08/16 靖国神社と東京裁判

2003 01/14 小泉首相の靖国神社参拝

2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2004年1月26日月曜日

昨日のサンデープロジェクトに小沢さんが出ていましたね

あまり真面目に見ていませんがでしたが、以下のような発言が耳に止まりました。

小泉首相は正月の靖国神社参拝を「初詣」と称した。一国の首相が靖国参拝するということは政治的決断を伴うもので、それを「初詣」と称するとはデタラメもいいところだ。マスコミも誰も騒がないのはオカシイ。

全くもって同感です。こんな首相を支持している日本は脳死状態ですな。田原氏に小沢さんは靖国に参るのかと問わましたが、明治の官軍以外でも等しく戦死した日本人を祭るような施設になるならば、参拝すると答えていました。

でも、そういう施設はやはり戦没者慰霊碑ですよね。神社という概念が私には馴染めません。

2003年1月14日火曜日

小泉首相の靖国神社参拝

あれれ、というカンジだ。小泉首相の靖国神社の参拝である。大手新聞5詩の翌日の社説は、そろって靖国問題を取り上げている。

各誌は読む前からご想像の通り、朝日、毎日、日経は反対、産経は賛同という論調である。

朝日は「よりによってこの時期の参拝とは、耳を疑う」、毎日は「極めて思慮に欠ける行動」、日経は「A級戦犯を合祀(ごうし)している靖国神社に国を代表する立場の首相が参拝するのは基本的に好ましくない」と主張している。一方、産経は「この時期を選んだことについて分かりにくい面もあるが、首相として国民を代表し、戦死者の霊に重ねて哀悼の意を表しようという姿勢は評価」としているわけだ。読売は賛成も反対もしていない。「靖国問題をどう考えているのか。首相はもっと明確に語る必要がある。」と言うのみだ。

それにしても靖国である。靖国の実態については私はあまりにも無知だ。その思いをこめて昨年7月18日の意見箱に書いた。私は新聞各誌の「主張」を読み比べ、なにか核心をつかない、あるいは靴の底からかゆいところを掻いているようなもどかしさを感じる。靖国問題は歴史認識(戦争の意義と東京裁判)と憲法議論にまで直結している。直結する管の途中にいろいろな障害やら破れがあって、出るべきところから水が流れてこない。

徹底的に議論しようとせず、マスコミ事態もあきらめの気持と共に、おざなりな(各社横並びの、ほとんど主張を感じない)社説を読んでいると、彼らはこの問題に正面から向き合う気がないのだと感じさせられる。

首相と遺族会との公約ということもあるのだろうが、首相の行動は国の意思の反映であるべきはずだ。特定の団体や感情論で行動することは許されない。

靖国参拝についてのアジア諸国の反感は、決して「内政干渉」ではないと思う。日本政府の歴史認識を問いただしているのだ。占領米国主導の日本の歴史が誤りだとする論調も分からないでもない。しかし、どこかで日本政府としての統一的な見解が必要で、それを諸外国に示す必要があるのではないか。

ドイツのヒットラーを清算しているドイツ、未だにスターリンを総括できないロシア。日本にどのような路が赦されているのか。小泉首相も、隠居爺かボケ老人のようなのんきなことを言っている場合ではない。>「お正月ですし、新たな気持ちで平和のありがたさをかみしめて」

私は、原則として靖国神社参拝には反対です。靖国に参拝することが平和希求の気持であるとは受け取りま せん。現行憲法は素晴らしい憲法であり、決して米国の押し付けではない世界に誇れる憲法であると、私は信じている(そう信じるように教育されてきた)

絶対的平和主義、あらゆる武力放棄も理念としては素晴らしい。素晴らしいだけに困難さと不断の努力と勇気を伴う、非常につらい選択だ。武力装備は結果として楽な選択でしかも極めて不幸な選択だ。それにも相応の覚悟が必要だ。他人事ではないのだ。

日本には(もちろん私にも)そのどちらの覚悟もない。

靖国には行った事がないのだが、東京に行ったら今度訪れてみようと考えている。

2002年7月18日木曜日

真夏近しの怪談見るおもひ~靖国神社の遊就館

産経新聞HPに「今週の正論」という欄がある。毎日の社説ではなく、週変わりで誰かに意見を書いてもらうというものだ。今週は、東京大学名誉教授 小堀 桂一郎氏による【教育施設としての新遊就館】 「歴史の声」に深く耳傾ける体験を ≪「約束の日」における決断?≫というものであった(産経新聞HPの記事は、今週を逃すともう有料版サイトでしか読めなくなる)。遊就館というのは靖国神社の戦争資料館で、7月13日に新装開館する「日本近代戦史博物館」である。

小堀氏はご存知の通り、産経新聞的主張のオピニオンリーダーであるため、小泉首相が靖国参拝することに賛意を示し、早く戦争贖罪意識を払拭すべきであるというのが大きな主張だ。彼の文章を引用することに生理的な抵抗や、禍禍しさを感じてしまうが、論理の主幹となる部分のみ紹介したい。戦争贖罪意識に関しての部分だ。

彼等(現官房長官とその一派)の姿勢の根元には北京政府への迎合の心情に加へて、どうしても振ひ落すことのできない負の歴史認識、つまり平成七年の村山謝罪談話と通底する所の戦争贖罪意識が伏在してゐる。この罪責感を払拭しない限り、対中位負け外交にせよ、悪評高き国立追悼施設推進の企みにせよ、彼等の陥つてゐる誤謬と迷妄を根底から正すことは難しいであらう。
それは謂(い)ふ所の東京裁判史観の呪(のろ)ひから未だ解放されてゐない人々であつて、彼等を如何にしてこの古びた魔語の呪縛から解き放つかが、現下の国民の教育といふ大問題の中の極めて重要な一項目になつてゐる。

そして、この主張の後に、遊就館の展示内容が《此処には「東京裁判史観」から遂に完全に絶縁し得た、自らの眼で見、自らの理知で判断した歴史観が展開されてゐる》と説明しているのだ。

こういう論理事態は珍しいものではない。探してみれば廻りにも似たような考えの方がみつかるものと思う。ところで遊就館というのがどういう場所なのか、わたしには初耳であったので、サイトで検索したところ、見つけることができた(2004年5月に確認したところ、2002年当時とはサイトのイメージが随分変わっている)。

トップページを見て先ず絶句、一瞬思考が停止した。戦闘機の絵が大きく飾られたトップページ、戦史博物館だものさもありなんと思いなおす。次に、大ホールの紹介を見る。ここでは「彗星」「回天」「桜花」「九十七式戦車」の四つの写真が掲示されている。どうやら実物が資料館にあるらしい。ここで、背筋が寒くなるのを覚えた。「回天」といえば人間魚雷、「桜花」といえば自爆ロケットではないか・・・・! さらに写真をクリックして現れる説明文を読むに至り、全身に冷水を浴びせ掛けられたような寒さを覚えた。まさに怪談を見る思いである。

戦争で亡くなった兵士(国民)の御霊を祭る、という発想を、その説明文からはわたしは読み取ることが全く出来なかった。「回天」の説明は、当時の技術と殺人兵器を賛美する姿勢しか感じない。その必死兵器によって日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんと願い馳せ参じた若人たちと共に、次々と南溟に征き、再び還らなかった。 という文章から何を感じるだろう。わたしの説明を読むよりもアクセスして判断してもらいたい、入館料は取られないのだから。もしかしたら、実際は戦争の悲惨さを訴えた展示になっているのかもしれない。世界平和を希求する思想が貫かれているのかもしれない。機会があれば実際に確かめてみたいものだ。

それにしてもだ。前回わたしは、田中元長野県知事の問題を通して、「情報の非対称性」ということに言及した。今まで何度も8月15日を迎えてきた。そのたびに、なぜ靖国がこれほど問題になるのか理解できないでいた。小堀氏の意見と靖国のHPを見てもその思いは弱まらない。靖国を守ろうとしているのは何故なのか。

そして、それ以上に、靖国がこういう存在であるということを報道しないマスコミとは、いったい何なのだろう。一体わたしは何を知らないのかと、絶望の念にとらわれる。愚民には知らせずということか、あるいはわたしが鈍感で無知で幼稚なだけなのか。だとしたら、なんと成功している情報操作だろうか。靖国を訪れた人のサイトも見つけた。興味があればこちらも読んでもらいたい。



2004年5月4日の朝日新聞社説による紹介(全て引用)
■靖国神社――遊就館を訪れてみては
 連休の昼下がり、東京・九段の靖国神社では、初夏の日差しの中を人々がゆっくりと行き交っていた。時間が静かに流れ、自然と厳粛な気持ちになる。
 拝殿の前に掲げられた遺書を読む。「神州日本が、一億皇國臣民が一路驀進(まいしん)する光景を、姿をはっきりと見た 私は信念を得た 私は戦ふ」
 第2次大戦の末期、ハノイ近郊で戦死した29歳の陸軍大尉が書いたものだ。
 神社の一部をなす「遊就館(ゆうしゅうかん)」に入る。日常とはよりいっそう異なる空間だ。
 「今甦(よみがえ)る日本近代史の真実。戦争を知らない世代に伝えたいこの感動」とポスターが入館を誘うこの施設こそ、靖国の思想を凝縮したような場所である。
 この博物館の紹介にはこんな文章もある。「我が国の自存自衛のため、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧(ささ)げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し……」
 展示されているのは、日清、日露戦争を経て「大東亜戦争」に至る日本の「武」の歴史だ。軍服や遺品、遺書など収蔵品は10万点に及ぶ。特攻機や人間魚雷「回天」といった兵器の陳列に目を奪われる。記録映画も「よく戦った日本」一色だ。そうした展示を通じて、国に殉じたことの尊さが強調される。
 「回天」搭乗員が出撃前に吹き込んだ録音を聴いた。「怨敵撃攘(おんてきげきじょう)せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ」。雑音の向こうから聞こえてくる20歳の声は切ない。
 だが、館内を歩きながら奇妙な思いにとらわれる。ここでは時間が止まっている。英霊たちは今も戦い続けている。そんな強烈な印象が襲う。
 戦争には相手があった。しかし、展示や説明には、あくまでも当時の日本から見た敵国への憎悪や世界の姿があるだけだ。戦争をする日本を世界がどう見たのかという客観的な視点は、およそうかがえない。ただひたすら戦地に散った日本人の心の尊さをたたえるのだ。
 出口近くに来館者が感想を記すノートが置いてある。「息子は平和ぼけの日本に育ち、怠け者になっています。皆様が立派に守って下さった日本が今溶けかかっています」と書いた年配者がいた。
 「戦争を美化しているだけにしか思えない。すごく恐怖を覚えました」と綴(つづ)った19歳の大学生もいた。
 小泉首相の参拝写真もある。参拝は「自然な感情」と語る首相だが、見終わった所に飾られているだけに、靖国の歴史観を丸ごと認めているようにも映る。
 そんな遊就館を一度訪ねてみてはどうだろう。祀(まつ)られている死者を思う。同時に、そこに祀られていない死者のことも思いたい。空襲や原爆などで亡くなった日本人のことを。家族や国や民族を守るため日本軍と戦った他国の人々のことを。そして、首相がここに参拝することの意味をしばし考えてみたい。

■正論 東京大学名誉教授 小堀 桂一郎

【教育施設としての新遊就館】 「歴史の声」に深く耳傾ける体験を ≪「約束の日」における決断?≫

 四月二十一日の靖国神社春季例大祭清祓(きよばらい)の日に、首相就任以来二回目の公式参拝を果たされた小泉純一郎氏は、参拝は年一度で宜(よ)いと思ふ、本年は是で義理を果たした、といふ意味の発言をされた。それは本年の八月十五日停戦記念日の参拝についてはどうするお心算(つもり)か、との当然予想される質問に対して予めその回答を出されたとの意味にとれる。それは氏自身にとつても甚だ残念なことである。  と言ふのは、昨年八月十三日における小泉氏の参拝は、昭和六十一年八月の中曽根首相の対中屈服以来十六年の空白を置いてしまつた、我が国の国家主権の不可侵を証示する象徴的行為を十全に復活すべく、その寸前にまで迫り得た壮挙といつてよいものだつたからである。中国に対し、何らの引け目も有(も)たぬ、完全に対等の立場にたつての外交を爾後(じご)展開できる様になる、その機会を確立するのにあと一歩の押しが足りなかつた。しかし、その一歩の不足は今夏の「約束の日」における決断、そして参拝の実行を以て優に取返しをつけることは可能だ、と期待されてゐた。ところが国民の大多数が抱くこの期待を、総理は又しても自ら裏切らうとしてゐるかに見える。 ≪抜けない戦争贖罪意識≫  総理自身に英霊への畏敬の誠を捧げようとの心の丈(たけ)と、国家主権の尊厳を守らうとの気概があることはよくわかる。ただ北京への迎合に汲々たる現官房長官とその一派が総理の足を引張り、踏み出すべき一歩の妨害に是努めてゐるといふ事態が誰の眼にも明白である。彼等の姿勢の根元には北京政府への迎合の心情に加へて、どうしても振ひ落すことのできない負の歴史認識、つまり平成七年の村山謝罪談話と通底する所の戦争贖罪意識が伏在してゐる。この罪責感を払拭しない限り、対中位負け外交にせよ、悪評高き国立追悼施設推進の企みにせよ、彼等の陥つてゐる誤謬と迷妄を根底から正すことは難しいであらう。

 彼等と同じ錯迷に囚はれてゐる者は一般大衆の中にもその数はまだ多い。それは謂(い)ふ所の東京裁判史観の呪(のろ)ひから未だ解放されてゐない人々であつて、彼等を如何にしてこの古びた魔語の呪縛から解き放つかが、現下の国民の教育といふ大問題の中の極めて重要な一項目になつてゐる。 ≪これは「近代歴史博物館」だ≫  所で最近この緊要な課題の解決に資する甚だ有力な社会的手段が一つ提供されることになつた。それは靖国神社の境内なる遊就館が一年半を費した全面的な増改築工事を完了し、七月十三日のみたま祭前夜祭と日を同じうして新装開館の運びとなつたことである。遊就館の名称はその由来を聞かせられても、少々難しい命名だとの評が以前からあつた。その評を考慮して新開館のそれには「日本近代戦史博物館/遊就館」との説明的な付称がつくことになつたのだが、筆者はこれを「戦史」に拘泥(こだわ)ることなく、端的に「近代歴史博物館」と受取つてゐる。その内容も、広く国民一般が我が国の近代(大凡(おおよそ)黒船来航以降と考へて)の歴史の動きについて、極めて正確な、まさに然(し)かあるべき様な正しい知識を得ることができる、立派な教育施設として再生したものと評価したい。  現今の「博物館学」と呼ぶのが相応(ふさわ)しいのであらう、精密に体系化された展示・解説技術の水準の向上には実に眼覚しいものがある。小・中学生の見学者ならば、視聴覚的に色彩豊かで動きの多い、映画的手法を存分に駆使した展示に魅せられて、おそらく時間の経つのを忘れて館内を逍遥(しょうよう)し続けるだらう。成人の見学者にしても、その動的な展示と数多くの戦争記念物の「実物」に触れて尽きない興趣を覚えると同時に、効果的な展示の行間から切々と語りかけてくる「歴史の声」に深く耳傾けずにはゐられない思ひを経験するであらう。  筆者が靖国神社当局から依頼を受けたかの如き誤解を招くのも不本意なので、宣伝的辞句は控へておくが、とにかく一言しておきたいのは、此処には「東京裁判史観」から遂に完全に絶縁し得た、自らの眼で見、自らの理知で判断した歴史観が展開されてゐる、この一事である。加へて、同時代の国際社会が近代日本の歩みを如何に観察し、批評してゐたかといふ観点を十分に取込んであるのも賛成であるし、要所々々の説明には専門家による厳しい校閲を経たものといふ英訳文が付けられてゐるのも外国人見学者に親切な配慮である。八月半ばまで、日本全国が例年の如き歴史回顧の季節を経験する。新遊就館は疑ひもなく、その一の眼玉となり得るだらう。(こぼり けいいちろう)

2001年8月16日木曜日

靖国神社と東京裁判

昨日の日記の視点で欠けているものがあることに気付いた。それは、「東京裁判」というものについてである。「東京裁判」とは言うまでもない、連合国の戦勝国が日本の戦争犯罪人=国家の指導者を裁いたという裁判だ。そこでA、B、C級戦犯が裁かれた。東京裁判の正当性について疑問視する主張があることも薄々は知っているが、それ以上の深い議論にまで立ち入って調べたことは、恥ずかしながら私としては皆無だ。

しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。

戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。

一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。

2001年8月15日水曜日

予想とおりの反日感情

ニュースを見ていたら小泉氏の靖国参拝に抗議してのデモや小泉人形を燃やすなどの反日行動が韓国と中国で行われたらしい。この反日行動が、ごく一部の人の間だけのもので一般市民は冷ややかなのか、あるいは、大多数がこの行動を喝采しているのか、本当のところはどうなのだろう。ニュースだけ見ると、規模や広がりについてほとんど伝わってこない。我々が受ける感情は「やっぱりな」ということくらいだ。

それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。

さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?

例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。

翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。

やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。

2001年8月14日火曜日

小泉首相の靖国神社 電撃参拝

小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。

新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。

新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。

私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。

宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。

��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。

首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。

私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。