2010年3月31日水曜日

ブログ移行に伴い当面休止








2001年1月から始めてきたホームページとブログですが、この度Bloggerに切り替えました。

過去ログはlolipopサーバーからbloggerに移動、自分の防備録を兼ねてネット上に残しておくこととします。(ほとんど手作業による引っ越しとなりました。すべてのログを移動できたわけではありません。)

画像リンク、ログの固定リンクは変更していないので、ほとんどはリンク切れになっています。

この10年の間で、あらゆるものが変わってしまいました。世界の変わるスピードは速く、今までと同じようなやり方では生きていけない。いくつかのクラッシュと再生への道のり、あるいは脱皮と変革、そして進化?


2010年3月27日土曜日

香山リカ:なぜ日本人は劣化したのか

日本人が劣化したのは「なぜか」と題していながら、それに対する答えとして、「市場主義」に原因を求めている点は、ベストセラーとなった『国家の品格』(2005年)と同じ論旨であり追求の仕方としては一面的でしかない。本書が書かれたのが2007年4月であり、彼女の認識に古さを感じる。すなわち、時代を貫く論理にはなりえていないということだ。

「劣化」とひとくくりにしても、香山氏も指摘するように、学力、体力、(生きる)気力、マナー、「日本人らしさ」など、多岐にわたる。筆者は、それをバラバラに捕らえるのでは、間違った対処療法的な解決策しか出てこない、これらの病根は同じなのだからそれを認めて処方を論じよと解いている。その前提意見に同意することはできない。なぜなら、それはかえって問題を曖昧模糊なものとし、思考停止に陥る危険性を感じるからだ。全てに効く万能薬などない。

日本人が(この言葉に問題はあろうが)エリートから下流まで、程度の差こそあれ「劣化」していることは、何も香山氏に指摘されなくても日々目にするところである。政治の劣化は目を覆うばかり、だから「政治が悪い」では解決にも何もならない。

そもそも、本書のような内容でも「本」として発売されうるということ。そのこと自体が出版界と知的階層の劣化を象徴し、劣化を助長している。そのような本であることを分かっていて読む小生も「劣化」している。賢明な著者は、そのことに気づいていながら、あえて、このような愚書を出さざるを得ないほどに、書き手は焦燥感を覚えているのだと解釈しておきたい。

2010年3月13日土曜日

FREE

読んで損はない、話題の本である。どうしてGoogleの各種サービスや「無料アプリ」が商売として成立しているのか、分からない人にはタメになるだろう。

「フリー」すなわち「タダ」のサービスは昔からある。しかし誰かがコストを負担していた。そのコストが限りなく、無視できるくらいにゼロに近づいた時、あるいはそのコストを全く気荷しなくて良くなったとき、大きなブレイクが生じる。それは「何で稼ぐか」というビジネスモデルを破壊してしまうこともあるからだ。

この流れは止まらない。音楽や出版業界がよく遡上に上る。旧来型のモデルにしがみつく業界は早晩に市場から撤退してゆくか、ニッチな産業となっていくとの指摘も、ある意味で正しいのだろう。

結局は、「何で稼ぐのか」というビジネスモデルの本質を問う作業であり、何をフリーにすればよいのか、ネットをどう使えばよいのかという話ではない。何(コンテンツ)をどうやって売るのか(=稼ぐのか)を明確にしなければ、いくら評判を得てもそこから利益は得られない。

我々は簡単にコピーできるものに、お金を払う気持ちが沸かなくなってきている。いくら知的所有権云々と言われてもだ。では、「顧客は何になら御金を払う気になるのか」あるいは「どうやったら御金を払わせることができるのか」を考えろということだ。アトムだろうがビットだろうが、結局は変わらない。

音楽や出版会、あるいはパソコンのソフト販売は企画から製作、流通、販売というモデルでは稼げなくなっただけのことだ。ブツに対する需要はなくならないが、ブツの販売経路では稼げない。中抜けになって「不要となった産業に働く人たち」は、どこで「稼ぐ」のか。考えなければ業界突然死に見舞われて路頭に迷うのか。ビジネスにおいて「ネットの普及が世界をフラットにした」「中間管理職が不要となる」ということと通ずる世界であると感じた。

しかしながら、上記の世界観は正しいとしても、フリーにできるものとできないものは存在する。フリーにはならない、リアルで重量を伴ったブツを提供する世界は、どこになるのだろうか、という視点は、当たり前だがこの本からは得られない。

2010年3月12日金曜日

佐々木 譲 :警官の血

三代にわたる警官に関する物語で、読み応えのある小説である。佐々木氏の小説は、実は読むのが初めてであるこを前提に書かせてもらうが、本作に関していえば描写が非常に丁寧であり、ディテールに味ともいうべきリアリティがある。特に戦後の谷中や学生運動さなかの時代風景の描写は格別である。だからといってくどいというわけではない。一方で、描かれる人物は淡白な描写だ。主人公たちの人生に対する目的や受容の仕方も、ある意味で悩みもなく芯が一本通っている。読んでいて清冽な印象を受ける。

彼があえて「血」というものを題名に持ってきた理由は明白である。代々受け継いだ「血」は、警官になることを通して描く自分の周りの小さな人生であり、祖父や父が背負った人生を精算しながら自らも受け継ぎ濃くしてゆくという、人間としての連綿とした生き方そのものであろう。三代に渡って、清濁併せ持つキャラクターに磨きがかかっていく様は見事である。そこに、あえて言うならば現代が全く見落とし見捨てた世界観があるのではないか。事件やミステリーは脇役でしかない。従って、事件の真相が肩透かしをくらうようなものであったとしても、それゆえにこそ、といったところなのだろう。