ラベル 農業 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 農業 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年11月25日月曜日

食の安全について

東京大学 農業学部の鈴木宣弘教授が、日米FTAと日本の農業の将来、食の安全について深い憂慮を示した寄稿が優れていたのでメモとして。


鈴木教授は農業経済の専門家。

非常に長い記事ですが、後半になるほど重要なことが書いてあります。

見出しだけ以下に列挙しておきます。


・これ以上国民の命と暮らしを生贄にしてよいか

・片務的な「つまみ食い」協定

・米国の余剰食糧の廃棄場に

・「とどめ刺せ」人事の農水省

・自由化で進む輸入食料依存

・輸入農産物に潜む危険

・郵政の次に狙われる「JAマネー」

・米国で決まる日本の食品安全基準

・種もグローバル企業に献上

・規制改革で私腹肥やす「オトモダチ」

・生産者と消費者の強力なネットワークを

・総仕上げを許してはならない

2001年5月19日土曜日

所沢のダイオキシン判決

ねぎ農家の話題を書いたが、家に帰って夕刊(朝日)を読むと所沢のダイオキシン報道に関する訴訟の結果が新聞に報じられていた。99年のニュースステーションの報道を機として所沢の野菜がダイオキシンに汚染されているかのような印象を与え、農家に被害を与えたとする件である。原告側の主張を棄却という結果だが、これはいかに考えるべきか。

消費者としては正確な情報が欲しいことは昨日書いた。それはやたら扇情的な記事や客観性を欠いた情報を欲しているのではない。ましてや、「視聴率」とか「売上」に縛られた期間による調査ではないのである。マスコミの報道というものを、どこまで信用してよいのか。または、マスコミから発せられる情報の責任ということまで考えなくてはならない。

今回の裁判所の判決は、報道側に事実誤認と考えられるものはなかった、とするものだ。一部、不適切な表現があったことは認めているがだ。

所沢の農民には気の毒というしかない判決だが、彼らは自分たちの野菜が安全だというお墨付きや確信が得られたのだろうか。そうでないとしたら、二重の悲劇である。

私には不安が残る、実際は、どうなのかと。所沢の野菜だけではなく、市場に出回っているほかの食材も安全なのかと。あるいは、それを食べつづけるとどういう確率で、どういう結果が引き起こされるのか。そもそも、調査機関の客観性は検証されているのか。

環境ホルモンの場合は、「分からないことが多すぎる→IFで話せば、種の存続に重大な影響を及ぼすらしい→よって、避けるに越したことはない」という論理である。乱暴な言い方だが、例えば40を過ぎてもう子孫を作らないと決めた大人には環境ホルモンをいくら摂取しても、実害はないとも言える。

何度も繰り返すが、欲しいのは、情報を受ける側が適切に判断することの可能な、客観的な事実(分かっていることと分からないことまで含めて)なのである。マスコミはそのようなことをきちんと報道する責があるのではないか。

2001年5月18日金曜日

ねぎ農家のハナシ

ねぎ農家が中国とかの安い野菜に押されて参っているので、輸入品に関税をかけるとか数週間前に報道されていましたよね。
 
消費者が「安いねぎ」を買えなくなる=自分たちに不利益を被る ことを怒るのか、日本の農業を守ること=自国の生産性と一部の農民たちの生活の保護 を求めるのか、どちらの採択すべきなのだろう?

自国を保護するために関税をかけるのは当然とも思うのだけど、農業自体をどうしようというのか? 安全性を含めて、我々が何を食べて生きてゆくつもりなのか、そこが見えてこない。

環境ホルモンや発ガン性を含む化学物質などを含め、選択するのは消費者である。少ない確率にびくびくして高い食材を買うのも、関係ないとして安い食材を買うのも、それは消費者の判断に委ねられるべきだ。生産者や政府が選択すべき問題ではないし、ましてや、その選択の機会や選択に当たっての情報さえないというのは、議論以前の状態だと思う。

朝日新聞も「この葱が腐るだけ・・・」なんて報道してないで、もっと突っ込んで欲しい。
 
もっとも、選択の余地が増えるということは、おそらく「買える者と買えない者」という分化が進むことを前提としているような気もして、少々ひっかからないでもない。