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2021年12月4日土曜日

ジョバンニ・アントニーニによるハイドンシリーズ、第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」

ジョバンニ・アントニーニによる「HAYDN 2032」、ハイドン生誕300周年の2032年までに全交響曲を実演・録音するというプロジェクトの10作目。

今回のリリースは、1786年、ハイドン初期の第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」の三部作に加えて、モーツァルトのセレナード第6番「セレナータ・ノットゥルナ」が納められています。

2021年4月10日土曜日

【音盤】ジョバンニ・アントニーニによるハイドン交響曲シリーズ第9弾は「告別」

イル・ジャルディーノ・アルモニコを主宰するジョヴァンニ・アントニーニが、この団体とバーゼル室内管弦楽団を指揮して進めているハイドンの交響曲録音シリーズの第9弾。今回の演奏はイル・ジャルディーノ・アルモニコのようです。

このシリーズはハイドン生誕300周年となる2032年までに交響曲を全107曲録音するという壮大なプロジェクトで2014年から始まっています。まだ半分に達していない!パンジャマン・アラールのバッハ鍵盤作品全録音プロジェクトといい、こちらといい、気の遠くなるような旅が続いています。



2019年3月20日水曜日

【音盤】クリスティアン・ベザイデンホウトをAppleMusicで聴く

クリスティアン・ベザイデンホウトのフォルテピアノをいくつか聴いてみました。


パーク・パドモアの歌もとても素晴らしいものです。

2007年4月16日月曜日

Naxos MLでいくつか曲を漁る

NMLで音楽をいくつか。
ファイのハイドンはNMLの「今週の一枚」。ファイの音楽は相変わらず良い。彼の演奏をNMLなんかで聴いていて良いのだろうか?
ハイドンの作品の中でも異色な存在であるこの「受難」を、古楽系の中で最も異色な指揮者であるトマス・ファイが指揮しました。弦はモダン楽器でノン・ヴィブラート、管はナチュラル・ホルンとモダン・オーボエを採用。師アーノンクールゆずりの過激なアクセントが印象的な録音です。(satt)
というのが推薦文。ファイが古楽系で最も異色ですって? モダン楽器でハイドンといえば、アダム・フィッシャーもそうだったかしらなどと、拙い知識をゴソゴソしても何も出てこない。

ランパルのフルートは、久しぶりに聴けばやっぱり惚れ惚れするんだけど、曲がつまらない。というか、ベートーベンのリズム、旋律が物足りない。全部聴き通す忍耐が今日は得られず。

春だし、やっぱり「四季」だよなと、CDでイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏を聴いた後に、NMLに戻ってPinchas Zukermanのヴァイオリンの演奏を聴いたら、重くて音悪くて聴きとおせず。口直しに何かないかなと選んだのが、Paul Dyer指揮、Elizabeth WallfischのヴァイオリンでAustralian Brandenburg Orchestraの演奏。ABOは音楽監督のDyerがオーストラリアで初めてのピリオド楽器によるオーケストラとして1990年に結成したものらしく(→公式ページ)。悪くないっす、こういう四季は安心して聴けます。ヴァイオリンのWallfishも品があって良いです。無知な私は彼女の名を初めて知りますが、情報はhyperionに(→こちら)。

ラウタヴァーラは鎌倉スイス日記のSchweizer_Musikさんが「良いぞ」と書くものだから(→http://suisse.exblog.jp/5873821)聴いてしまいました。いや、よかったです。なんたってヴァンスカっす。良いものを良いとだけ書いてオシマイにするというのは、これくらい楽な作業はないっす。

それで、今プレートルのラヴェルっす。私はフランス音楽は全く苦手なんですが、このオーケストレーションには、やはり脱帽です、敵いません、御免なさい。泣きそうになります、ラヴェルの音楽って、マーラーとかとは違う地平において。
  1. ケータイEdyとか、Google検索とか、ブログとか、私は普通だと思っていた。しかし同年代の友人らに会うと、Edyを使う奴なんて始めてみたと言われる。ブログを書く友人も中には居るが、ディープさが違うみたいだということに、最近気付きつつある・・・。
  2. 私は煙草は吸わない。しかし飲みに行くと、スーツに染み込む煙草の匂い! 喫煙者よ、この不快感を貴方達は理解しているかね?
  3. ハンカチの「耳」ってどこだ?
  4. 東京単身赴任生活も今年で5年目になってしまった・・・。

2007年4月12日木曜日

ハイドン:ピアノ・ソナタ/ファジル・サイ

  1. ピアノ・ソナタ第37番ニ長調 Hob.XVI:37
  2. ピアノ・ソナタ第43番変イ長調 Hob.XVI:43
  3. ピアノ・ソナタ第35番ハ長調 Hob.XVI:35
  4. ピアノ・ソナタ第31番ホ長調 Hob.XVI:31
  5. ピアノ・ソナタ第6番ハ長調 Hob.XVI:10
  • ファジル・サイ(p)
  • naive V5070
ハイドンの鍵盤曲に私は全く馴染みがありません。従って、サイ*1)のピアノで初めての曲に、しかも愉悦の宝庫であるハイドンを聴いていいものか*2)、若干の迷いはありました。しかしモーツァルトの世界でも異色ではありながらも、実は極めて繊細で真っ当な音楽を聴かせてくれたサイでしたから、やはり聴かないわけにはいきません。 

 サイは本アルバムで、ハイドンの曲に対する愛情と敬意をライナーで示し、演奏においてハイドンの曲の魅力を余すところなく伝えてくれています。ハイドンの鍵盤曲は、おそらく(他の作曲家に比し)技術的にはそれ程難しくないのでしょうが、平易と思われる曲、あるいは聴きなれた曲から驚きと輝きを引き出すことにかけてサイは天才的です。 

 アルバムはHob.XL:31の軽快なallegroから始まります。最初から唸り声も聴こえ早くもファジル・サイ節が炸裂です。ハイドン的な明確な明るさを、サイが楽しげに軽やかに奏でます。バッハを思わせる深みをたたえた、サラバンドを模した荘厳なLargoの中間楽章を経た終楽章の対比は鮮やかで、この1曲だけでハイドンの鍵盤曲とサイの演奏にノックアウトです。 

 バッハを思わせるといえば、極めて完成度の高いHob.Xl:31も魅力的です。allegrettoは確かにバッハ的ですが、それをはさむ両端楽章の鍵盤の高度な技術はまさにハイドンの世界です。 ハイドンの持つ明確さ、明朗さ、至福感は、どの曲からも聴くことができます。例えばHob.Xl:35のallegro con brioときたら。これまた輝かんばかりの明るさ。あたかも子犬と戯れる少女の幸福。無数のシャボン玉が舞う緑と光あふれる公園。サイがどの曲のどの楽章をイメージしたかimpression of two little girls playing the gardenといった言葉そのままの世界。

続く打って変わった雰囲気に驚かされるadagioの美しさ。疲れた子供が午睡する、それを眺めるゆったりとした時間の流れ。ああ、これ以上の至福がありましょうか、本当にここは涙が出るほどに美しくそして軽い。サイの絶妙のペダルワークによるソフティケーとされた弱音の美しさには溜息以外発することができません。

もっとも、ハイドンの明と暗の対比、あるいは光と翳の対比は、モーツァルトのような深さとか、何か深淵を覗きこんでしまったかのようなところはありません。(というか、それがモーツァルトのモーツァルトたる所以なのですが・・・) ハイドンの真作かどうか疑われているHob.Xl:43にしても、ライナーにも書かれているように、それがこの曲を堪能することの支障になるものではありません。両端楽章における粒立ちの良い音の転がり、弱音部の羽毛を地肌に着るような肌触り、強打部の品の良いそれでいて決然とした表現。サイのピアニズムを充分に味わいつくせます。クレバーなハイドンの洒脱でそれでいて高度な遊戯。

 ◇
  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. 2004年来日時にハイドンを演奏しており、評論家の宇野功芳氏はその演奏を絶賛している(→梶本音楽事務所)

2007年3月26日月曜日

[NAXOS ML]ハイドン:ピアノ三重奏曲

syuzoさんがハイドンのピアノ三重奏曲が良いというものだから、NMLをガサガサ*1)やってGryphon Trioによるアルバムを聴いてみる。


Gryphon Trio*2)はトロントを拠点としたカナダのトリオ。ハイドンばかりではなく、ベートーベン、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、モーツァルトそしてカナダの作曲家の音楽も録音している。


演奏は鋭角的なバロックではない、Prestoもひたすらに柔らかいので安心してハイドンの明るさを満喫することができる。練習曲みたいなものですって? とんでもない! 確かに一聴して平易なようですが、この楽しさときたら!まさに春ってカンジかなァ。有名な25番の第2楽章Poco Adagioの優雅さときたら*3)




  1. ネットなので「ガサガサ」なんて音はしない、書くなら「チクチク」である。
  2. Annalee Patipatanakoon, violin、Roman Borys, cello、Jamie Parker, piano
  3. いい加減、買ったCDの感想書けよと言われそうですが・・・

2007年3月19日月曜日

ハイドンに満たされる休日

syuzoさんがハイドンに嵌っているようです(ハイドン2007/03/11)。このごろ頻繁にチェックする古楽系ブログでもハイドンの話題は尽きない。今日はWhittardのアール・グレイを淹れ、SEEDS ON WHITESNOWのエントリ(トーマス・ファイとその仲間たち-ハイドンとベートーヴェンの録音を通じて-2004/6/20)*1)などを読みながら、NMLでトマス・ファイとハイデルベルグ交響楽団の演奏を聴いてる。

SEEDSNOWさんも指摘している例えば第39番 ト短調。冒頭のフレーズが一瞬ではあるがモーツァルトの弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516を思い出させる。ハイドンのそれはモーツァルトの短調ほど内的には陥らず、随所にハイドン的明るさが解放される。

ファイの演奏はキビキビとして推進力があり、それでいて美しい*2)。一度聴きだしたら止まらない。こういう演奏をNMLで聴ける幸せと、「所有していない」ということの不満とストレス。

  1. このエントリには(も?)恐ろしい数のコメントが続いている・・・
  2. などと評せるほど私は古楽に接していない。正直に書いておくが、まともにアーノンクールさえ聴いていないのである。こんなことでクラ・サイトしていて良いのだろうか・・・

2004年5月5日水曜日

【音盤】オーケストラ リベラ クラシカ/ハイドン交響曲ほか

  1. 交響曲第15番
  2. チェロ協奏曲ハ長調
  3. 交響曲第44番「悲しみ」

  • 指揮:鈴木秀美
  • 演奏:オーケストラ・レベラ・クラシカ
  • 録音:2002年11月29日、浜離宮朝日ホール ライブ録音

定評のある鈴木秀美氏が率いるOLC(オーケストラ・リベラ・クラシカ)の第三弾の録音です。プログラムはオール・ハイドンで交響曲がふたつとチェロ協奏曲が納められています。この演奏も評判に違わずに素晴らしい演奏で、思い出したように何度も繰り返し聴いています。

定評のある鈴木秀美氏が率いるOLC(オーケストラ・リベラ・クラシカ)の第三弾の録音です。プログラムはオール・ハイドンで交響曲がふたつとチェロ協奏曲が納められています。この演奏も評判に違わずに素晴らしい演奏で、思い出したように何度も繰り返し聴いています。

ハイドンという作曲家は沢山の曲を残している割には曲の知名度は低いようで、かく書く私もハイドンに親しんでいるわけではありません。以前にアダム・フィッシャー指揮によるオーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団のCDを聴き、ハイドンも捨てがたく、いやいや聴きようによってはモーツアルトよりも余程よいかもしれないなどと思ったものですが、それ以来は再びご無沙汰でした。

��LCの奏でるハイドンを聴いてみましたところ、何と生き生きとしていることかとびっくりしてしまいました。生命力と躍動感に溢れ、CDから音楽の粋が飛び出してくるかのような演奏です。古楽器と小編成のオケによる音は恐ろしいほど統制が取れていて、それでいて繊細さや華やかさをふんだんに振りまいてくれます。

交響曲第15番も楽しめる曲ですが圧巻はやはりチェロ協奏曲でしょうか。鈴木氏のチェロの迫力ときたら、これが古楽の演奏かと思うほどにスリリングかつエキサイティングです。そして、どの音の断片にも音楽の喜びが溢れているかのような演奏です。枯れていていながら肉感的であり、繊細でありながら図太く、優雅でありがなら力強い、こんな感覚をハイドンから得られるとは思いもしませんでした。第一楽章後半のチェロのカデンツァなど鳥肌ものです。

アダム・フィッシャーの演奏もそうでしたが、ハイドンの曲には(モーツアルトとは異なる)疾走感が伴っているように思えます。鈴木氏の演奏もアダージョとアレグロでの緩急や表情の対比が見事で、それゆえに優雅なところはあくまでも典雅で、疾走するところは限りない運動性能を感じさせてくれます。つまり全くダルではなく、高揚したハイテンションな感情が維持されます。

ふと考えるとこれが古典派の音楽なのだろうかと、無知無学な私などは思わずにいられませんが、私的にはこういう演奏は全然OKではあります。

交響曲第44番は短調の曲で「悲しみ」という副題がついていますが、第一楽章の引き裂くような弦の強い響きから始まる曲もキビキビと極めてキレのよい演奏に仕上がっています。やるせない冒頭のテーマが第一楽章は繰り返されますが、一度聴いたら頭から当分離れません。

『クラシック・ジャーナル002』(アルファベータ)で石原俊氏は、

第三楽章は長調で書かれているにもかかわらず、サウンドが《悲しみ》の方向に引っ張られるのだが、鈴木はそのあたりに透明感を持たせている。終楽章は透明な悲しみに向けてオケ全体が疾走してゆく。

と書いていますが、成る程音楽評論家というのは的確な表現をするものです。

悲劇的なテーマではあっても、ベタベタしたロマン派的感情ではなくドライな表現になっています。キレが良くてドライとくればアサヒビールになってしまうのですが、キレだけでどこか物足りなさや欠乏感を感じることはついぞ無く、聴き終わってみればまたしても楔のような深い感動を覚えているのでした。