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2007年2月25日日曜日

【本棚】内田樹:下流志向~学ばない子どもたち、働かない若者たち

本書は内田氏の5時間近い講演内容をまとめたものです。内田氏が以前より自らのブログに書き続けてきた内容ですので、それらに一応目を通している人には、それほど目新しい知見があるわけではないものの、改めてまとめて彼の考えに触れると、イロイロと考えさせられてしまいます。

氏は、学ばない、働かない若者が発生した原因について「今の子供たちが労働主体として自分を立ち上げる以前に、消費主体として自己を確立している」という仮設を立てています。

消費は金銭と商品の「等価交換という無時間モデル」を前提としていのだそうです。ですから、消費を前提として確立された自己は、教育とか労働とか時間軸で考えなくてはならない活動さえ「自分にとって意味があるかないか(交換に値するか)」という狭い尺度で計ってしまうのだそうです。そういうような事が延々と書かれています。それ自体は非常に鋭い洞察であります。「等価交換の無時間モデル」と言うことが、ちょっと分かりにくいのですが、言いたいことは理解できます。

「等価交換の無時間モデル」ということを、私なりに考えると、自らの時間をどこまで対象にさく事ができるのか、ということに還元されるように思えます。内田氏は生徒が学校で授業を聞く対価として払っているのは不快という貨幣(P.47)であるとしています。面白い見方ですが、ちょっと理解しにくい。不快という「感情」ではなく、むしろ「不快な思いをしている時間」と考えた方が分かりやすい。「自らの時間の切り売りと、それに対する見返り」という簡単な観点から考えればスッキリします。

最近の新聞を見渡すだけで「ROI(投資利益率 )」とか「レバレッジ」などのビジネス用語が目に付きます。レバレッジとは金融用語として理解されていますが、要は「テコの力」、手持ち資金より多い金額を動かすこと。そんな言葉を使って「レバレッジ・リーディング」なんて本も出版されているようです。また最近の健康ブームの中で「デドックス」ということも流行っていますが、自分の老廃物を目で確かめるという行為が流行っているのだとか。

もう一つの例えで考えると、最近の男性は中年を含めてファッションに目覚めたことを指摘する人は多い。これらの行動も「デキてモテるビジネスマンへ(アッという間に)変身したい」という速効性を求める心理から来ているのでしょう。時間をじっくりかけて内面を磨くことで自分を高めたという従来型の時間モデルが過去のものとなったことを意味しているのかもしれません。納豆ダイエットに踊った人も同様かもしれません。

効率化とは、自らの時間(労力)を切り詰め速効性を得ようとする動きです。個人の最大のリソース、すなわち資源とは時間でしょう。イロイロなところを速効性と等価交換の無時間モデルが支配し、そこに消費の網が張り巡らされている。いや逆か、あらゆるところが消費に結びつくから無時間モデルになったのか。

成る程と関心ばかりもしていられません。そういう消費の網の目にさらされた我々と次の世代から等価交換とか消費によらない「時間モデル」を取り戻さない限り、ニートや格差問題どころか、福祉問題さえ解決できないことを本書は示唆しているようです。

内田樹氏ですから強引な解釈は多いものの、本書を読む程度の時間を割くことは、あなたにとって「損」にはならないはずです(笑)

2007年1月3日水曜日

【本棚】P.F.ドラッカー:経営者の条件

ドラッカーの多くの著書から12作品をセレクトした「ベスト・オブ・ザベスト」の第1巻、「The Effective Excecutive」が原題です。本書が書かれたのは1964年。

「経営者の」と邦題にあるため誤解されやすいのですが、決して「経営者」のための指南書ではありません。ドラッカーの他の本にも言えるように、これは組織で働く人のための本であり、すなわちマネジメントの本です。さらに言えば成果をあげるために自らをマネジメントする方法についての書です。

「まえがき」にある次の言葉ほど重いものはありません。

ほかの人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である。

私はこのフレーズを読んだときに、軽い衝撃さえ受けました。マネジメントの本質がここにあります。

本書はまず、エグゼクティブとは行動する者であり、物事をなす者であるとし、組織で働くエグゼクティブがいかにして成果を上げるかということについての提言が書かれています。

ドラッカーの本はすべからく人間を「組織」に結び付けます。一人の人間が成し得ることは小さく、組織的活動をすることで個人を越えることができ、組織で成果を上げることが自己実現(*1)の前提になるとの立場です。

ドラッカーの言葉で一番大きく影響を受けたのは、「自分が何をしたいか、ではなく、自分は(組織に対して)何ができるのか」を問えというものです(*2)。自分の能力に向き合うことで、自分の役割も立場も、そして成果も見えてくるのです。

第一に身につけるべき習慣は、なされるべきことを考えることである。何をしたいかではないことに留意してほしい。(P.3)

我々の世代は組織で働くことを「歯車」(*3)であるかのような否定的な印象で捉えるように教育されてきたような気がします。それが偏狭な見方でしかないことをドラッカーは教えてくれます。「組織」は人の弱みを無力化する、「強み」に焦点を当てろとの主張には目から鱗です。自ら属する組織が、あまりに「弱み」ばかりを嘆いてはいないかと自問せざるを得ません。

本書の内容は全てが至言でありまから各章の最初の数行だけを読むだけでも充分意味があります。自分のメモとして抜粋しておきます。

序章 成果をあげるには
    成果をあげるには、近頃の意味でのリーダーである必要はない。

第1章 成果をあげる能力は習得できる

    成果をあげることがエグゼクティブの仕事である。成果をあげるということは、物事をなすということである。企業、病院、政府機関、労働組合、軍のいずれにあろうとも、エグゼクティブは常に、なすべきことをなすことを期待される。すなわち成果をあげることを期待される。

第2章 汝の時間を知れ

    通常、仕事にについての助言は「計画せよ」から始まる。(中略)計画は紙の上で消える。よき意図の表明に終わる。実行されることは稀である。

第3章 どのような貢献ができるか

    成果をあげるには、自らの果たすべき貢献を考えなければならない。手元の仕事から顔を上げ目標に目をむける。組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に考える。

第4章 人の強みを生かす

    優れた人事は人の強みを生かす。弱みからは何も生まれない。(中略)組織は、人の弱みを意味のないものにすることができる。組織の役割は、一人ひとりの強みを共同の事業のための建築用ブロックとして使うところにある。

第5章 最も重要なことに集中せよ

    成果をあげるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない。

第6章 意思決定とは何か

    地位のゆえか知識のゆえかは別として、組織や組織の業績に対して重大な影響を及ぼすような意思決定を行うことを期待されている者こそエグゼクティブである。エグゼクティブは成果をあげるために意思決定を行う。

第7章 成果をあげる意思決定とは

    意思決定とは判断である。(中略)はるかに多いのは、一方が他方よりもたぶん正しいだろうとさえいえない二つの行動からの選択である。

終章 成果をあげる能力を習得せよ

どの頁を読んでも考えさせられます。そして、本書は組織で働く者(*4)に今でも希望と意味を与えると思います。

  1. 「自己実現」という言葉はクセモノです。先に批判的な事を書いた「健全な肉体に狂気は宿る」(内田、春日)の中で、「自己実現」ってことばも、もう死語にして欲しいと内田氏は主張していました。
    「自己」って単体で存在するものではなくて、人間たちを結びつける社会的なネットワークの中でどういう役割を演じるかということで事後的に決まってくるものなんですから。(P.51)

    内田氏の「自己」に対する定義には同意します。この後に内田氏は、

    (就職活動をしている学生たちは)「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問いは思いつかない。(P.52)

    と書いています。まさにドラッカーの言う「組織」と「成果」に対する言及になっています。そこから何故「自己実現」否定に繋がるのか、私の考える「実現」と、ロスト・ジェネレーションの「実現」の意味合いが違うのでしょうか。

  2. 私は新しい部下が配属された場合、彼が7年目以上であれば真っ先に「君は何ができるのか、何が得意で、何ができないのか」と聞くことにしています。たいていの者はキョトンとして問われた事の意味さえ理解できない顔をします。ある程度私の下で働いた部下には、今の君のミッションとコミットすべき事を説明せよと問います。これにもキョトンとした顔をされることがあります。上司としての私の指導不足を痛感する瞬間です(^^;;; (>え?自分がこの問いに答えられるかって??)
  3. 「労働者=組織の歯車」という図式はプロレタリア時代のものの名残であり、現在の知識労働者にとって当てはまるアナロジーであるかは疑問です。知識労働者が志向するフラットな社会においてはなおさらでしょう。
  4. 世の中には組織を必要としない能力の持ち主も居ます。そういう人はドラッカーの書の対象ではないのでしょう。何でも自分で出来て、成果を上げられるのですから。

2007年1月2日火曜日

【本棚】内田樹、春日武彦:健全な肉体に狂気は宿る


「健全な肉体に狂気は宿る」という秀逸なタイトルに惹かれて買った本。内容は内田樹氏と精神科医 春日武彦氏の対談(ということになっている)をまとめたもの。


タイトルの言葉は春日氏が放った言葉(P.164)、精神病は身体が悪くなると治る傾向にあるらしく、精神病は身体が健全であって初めて成立するというような意味らしい。この本に特徴的なように、放談に近い内容ですから、その点を深く議論したものではありません。成る程と思う見方ではあるものの、言葉の持つインパクト以上のヒネリはなく、肩透かしな感じは否めません。(つまり粗雑ということ)





この本は、誰に向けて書いた本なのでしょう。帯に「自分探し」禁止!!とありますから、最近の朝日新聞が作り出したがっている「ロスト・ジェネレーション」(*1)に対してでしょうか。世代論で捉えることの危険性は本書でも説かれています(第1章 世代論に逃げ込むな)。それでも、ここに書かれていることは一面的に過ぎるような気もして、素直に頷くことはできません。


そもそも、本書は「対談」ではありえませんしね。春日氏が結構面白い視点で話し始めるのに、すぐに内田氏がその10倍くらいの語量で自分のことを延々と話し始める・・・、この調子ですから実は最後まで読み通すのが結構苦痛でした。最初から「対談」ではなく内田氏の本と思って読めば、面白く読めたのかもしれません。本書を読んだあと、内田氏と春日氏のどちらを読みたいと思うかといえば、間違いなく私は春日氏です。


とはいえ、内田氏の持論である「自分が一番分からない」「次に自分が何を話すか分からないが、そういう分からない主体こそが自分であり、自らの言葉だ」という主張はここでも健在です。この主張は非常に深いものがあると感心はしていますし、そういうことを表現できる内田氏には敬意も感じています。でも、内田氏がここで話す内容は、春日氏のコメントに触発されて論理を飛躍させた「分からない自分」を装った自己談義と感じてしまい、おいしくいただけません。


私は、今更「自分探し」をやり始めることはありませんので、いくらリサイクル書店で安くて他にめぼしい本が見当たらなかったからといったって、この手の本を読む必要はなかったのでしょう。朝日の指摘するような「自分探し」とか「個性」を求めての無間地獄に陥っている人(*2)には助けになる本なのかもしれませんから、本書を全否定はしません(*3)。それに、実は至言も含まれていますので、とみきち読書日記にTBしておきます。


  1. 朝日の定義は、ガートルード・スタインのそれになぞらえて、日本の25~35歳代、失われた10年に就職年齢に達した、いわゆる「置き去り」世代を指す。

  2. 今年は2007年問題のひとつ、すなわち「団塊の世代」が大量定年を迎え始める年です。彼らの裕福さや価値観と対極にあるのが団塊の世代の子供、すなわち「ロスト・ジェネレーション」という構図で、ニートやフリーター、そして格差問題を考えるという視点は多いですね。日経新聞は「サラリーマン2007」と題して、団塊の世代の特集を組んでいます。

  3. 内容以前に、粗雑な本(新書に多い)の造り方に憤りを感じます。この頃の新書に共通のことで、今更憤っても仕方ないです。


2006年12月25日月曜日

「伊東豊雄 建築|新しいリアル」展を観たり


12月24日が最終日となる「伊東豊雄 建築|新しいリアル」展を観に、東京オペラシティまで行く。この展覧会のことは、弐代目・青い日記帳muhas lebenによりその存在を知り、家人からも「伊東さんの建築って好きだな」と言われるに至り(NHKかなにかで紹介したらしい)興味を持って観に行った次第。結果としては観ておいてよかったと思うことしきり。

私は会場にスンナリ入れたが、出る頃にはチケット買うだけで長蛇の列になっていた。来観者は若者が多く、やっぱり「それっぽい」人が多かった。感想は気が向いたら何か書く(→書いた)。


オペラシティは空間のスケール感と人混みがミスマッチで、行く度にいつも感慨を覚える。伊東氏が評したら何と言うのであろうか。

とは言え、この無機的な空間や人気の少なさは結構好きである。スタバとかエクセル系ではない旨い珈琲が飲みたいと思っていたら「面影屋珈琲店」というのを見つける。
早速入ってブレンドを所望、席が狭いのが難点であるが、珈琲的にはまずまず。

ゆっくりと珈琲を味わいながら、内田樹氏と春日武彦氏の「健全な肉体に狂気は宿る」(角川oneテーマ21)を読む。リサイクル書店で思わずタイトル買いした本だ。

"対談"ということになっているのだが、7割以上を内田氏がベラベラと喋っている点、ちょっと鼻に付く。内田氏の主張に強い説得力を感じつつも、違和感と限界も少しだけ覚える。それが何なのか今の段階で言葉にできない。いや、おそらくこの先いくら考えても、内田氏への対立軸など見つかるとは思えない気もする。







2006年3月6日月曜日

クラシック音楽の垣根・・・?

岡田暁生著「西洋音楽史」のエントリに対するぽん太さんコメントを読んで、あれこれと考えていたところ、音楽ジャーナリスト林田直樹氏のブログ(LINDEN日記で引用されていた石田衣良氏の言葉がたまたま目に止まりました。

石田さんはモーツァルトや現代音楽などがお好きだった理解しています(確かロマン派はダメみたい)。

「実は本当に一番素晴らしいのは、芸術そのものではなくて、それを『素敵だ』『面白い』と感じることができる人の心である。三百年前のオーストリアの作曲家が注文仕事で書いた音楽を聴いて心から感動できる。人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ」(石田衣良)

全く同感。クラシックの敷居をすごく下げてくれる言葉ですね。「大作曲家の残した偉大な音楽」という権威よりも大事なもの、それは「聴き手の感受性」だと言っているのですから。

え? 本当にそうなのか?素晴らしいのは聴く人の心で、感受性が一番大事であるということ。

それはそうなのですが、魚の小骨のようにひっかかる言葉です。私の深層のどこが「違う」といっているか、掴むことができません。従って、このエントリは批判ではなく留保です。芸術を「面白い」と感じる心がなければ、その芸術がどんなに偉大な可能性を秘めていても当人にとって意味のない(つまらない)ものであるということは対偶として真でしょうか。

私は芸術が、作曲家の思想や理念こそが個人を凌駕すると思ってはいません。また、芸術の権威やブランドをことさら持ち上げる気持ちも、できるだけ少なくしたいと思っています。万年クラシック初級者の私のこと、ついつい有名作曲家の評価の高い演奏ばかり聴いてしまいがちですから。自分の目や耳を信じて、これが「良い」と感じること、すなわち自分の感受性や感性を信じて評価するということは、意外にも物凄く難しいことだと感じています。なぜなら、今まで積み重ねてきた自分が全て露見される瞬間だからです。

仕事の場面においても、「女性的感性」だとか「感性の豊かさ」が必要などという場面に遭遇します。感性は何もないところから生まれてくるものではないし、生まれつきのものでもない。それこそ、裏で磨いたり研ぎ澄ましたり鍛え上げたりすることをして、初めてキラリと光る感性が生まれる。感受性というのは、そういう極めて自発的で主導的な活動を通じた末の偶発的な産物であると思うのです。磨かれた感性は、モノの本質をズバリと見抜くことも場合によっては可能でしょう。

内田樹氏のブログにある以下の文章が、似たようなことに言及しています。(内田樹 研究室「言葉の力」より)

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

では、そういう練磨の上での感受性がなければ、例えば西洋芸術音楽(クラシック)を受け入れることができないかといえば、これまたそうでもない。ある瞬間にあるフレーズを聴いてバーン目覚めることもあれば、これってイイね、としみじみと思うこともある。しかし、何故目覚めたのかを自分の中で追求すると、感性の変化を生じた遠因がどこかに潜んでいることに気付くはずです。

ところで石田氏や林田氏の発言は『自分達の好きなものが素晴らしいもので、感受性の豊かな貴方達が聴けば、きっとどこかで「感じる」部分があるはず』ということをは一方的に期待しています。その発言の裏には、そういう音楽を、自分達はやっぱり素晴らしいと感じていて、感動できる自分達の感性が素晴らしいと認めています。では、そういう音楽を「面白い」と感じられない『感受性』の存在を彼らはどう考えるのでしょう。『え?こんなに素晴らしい音楽を「感じられない」なんて、君たちの心のキャンパスは濁っているのか?』とは言わないでしょうが。

こんなことをついつい無意識のうちに考えてしまったので、彼らの無邪気で無自覚な感受性賛歌には一瞬ひっかかってしまったようです。私のこういう回りくどい感じ方や態度こそが、知らずのうちにクラヲタ的偏狭さに陥ってるという査証なのでありましょうか。あるいは、今読んでいる本の影響でしょうか(その話題はまたいつか)。

ぽん太さんの問いには未だ答えられず。

2005年4月4日月曜日

[読書メモ]内田樹のブログよりオルテガと苅谷

内田樹のブログより。(2005.03.302005.04.03


  • 苅谷剛彦「階層化社会と教育の危機」
  • オルテガ「大衆の反逆」

メリトクラシーの前提としての誤謬について、下記が幻想でしかなかったこと。


学力には「生得的・後天的なばらつき」があるが、創意や自発性はすべての子どものうちに等しく分配されているということを人々が信じていた(階層化=大衆社会の到来)



オルテガはただでさえ非平等に配分されている「努力する能力」そのものを組織的に破壊する制度として大衆社会をとらえた

(中略)


オルテガがたどりついた結論は「努力」とは「自分自身との不一致感」によって担保されるという、平明な事実であった。おのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いている人間はそれを埋めようとする。(ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」)



ニーチェもオルテガも読んだことはないが、注目すべき知見である。内田氏がオルテガに指摘する自分のうちにかかえこまれた<他者>という概念が真にオルテガの思想であるのかは判断がつかないが、内田氏の思想の根源にあるもののようである。