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2019年5月22日水曜日

【音盤】アンスネスが弾くシベリウス

 

2004年12月8日水曜日

ムター/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

  • アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
  • アンドレ・プレヴィン(指揮)シュターツカペレ・ドレスデン
  • GRAMMOPHONE

師走になりましたが、今日も釧路地方では地震がありましたね。余震だそうですが、寒くなってきましたし大きな地震にならないことを祈ります。

今年は天地がちょっとばかり変で、日曜日の札幌は大雪の大荒れの天気でしたが、東京は25度だったそうですね。飛行機でたかだか1時間15分ほどの距離しかないのに、まさに別世界。

ということで、別世界のムターのシベリウスを聴いてみました。感想はこちらです。

かなり濃い目のムターのチャイコフスキーを聴いたので、実際彼女の芸風はどうだったかしらという意味から、34歳の時のシベリウスを聴いてみました。

冒頭からノンヴィブラートの音、チャイコフスキーの第二楽章で聴かれた音です。嫋嫋たると表現する人もいるようですが、絞り上げるような表現力には只者ならぬ雰囲気を感じます。

音色の変化は、ここでも見事であり、それは饒舌とも豊穣とも違ったもの、クレッシェンドになるに連れ、音は太くなり分厚さをましてきます。メタリックな感じでゴリゴリと奏する様はかなり迫力あります。しかし、そこはムターです。あくまでも多彩な表現力の一面ということですから、力まかせな乱暴さということではありません。繊細さと強烈なところのレンジが広いということでしょうか。

ムターの音楽は、極めてエネルギッシュで感情の振幅が大いものの、泣きや浪花節に落ちることはありません。ですから演奏を聴いて感情移入をして感極まるようなことはありません。ひたすらに見事だなあとは思うのですが。

第一楽章のカデンツァなど奔放さの限り、かなり好きなことをやっているように聴こえます。完全にムター節で、自分の世界を表現しているような熱演です。凄い演奏だとは思ですが、シベリウスを聴いているという温度感は希薄です、プレヴィン率いるバックのオケもしかりです。

「好きな演奏か」と問えわれれば「感心はしても感動はできません」ということになりますね。シベリウスに特別な思い入れを持っているヒトには特にそうかもしれません。

PS.年末締め切りの仕事がバタバタと入ってきたり、今までうっちゃっていた仕事の催促が来たりと、さすがに師走は忙しくなってきました。かなりしつこい風邪もひききったので、あとは驀進かァ。ブログはぼちぼちですな。

2004年3月2日火曜日

アイノラ交響楽団の演奏会

アイノラ交響楽団の第1回演奏会に行ってきました。アイノラ交響楽団というのは、シベリウス愛好家が集まって、シベリウスの音楽を演奏するために結成したそうです。今回の演奏会にこぎつけるまで3年を費やしたそうです。
 
アマチュア団体でしかも特定の音楽家に特化するというのは、ユニークでありながら非常に冒険でもあるように思えます。シベリウスの曲は私も好きですが、二つの組曲はあまり馴染みがないためどのような演奏になるのか、期待と不安を持って聴き始めました。 アマチュアとは言っても在京のオケですから技量は高いオケのようです(比較対象なしの独断)。ffにおける音量も十分で、ダイナミックレンジの大きな迫力のある演奏を聴くことができました。特に、金管群の音量は十分すぎるほどで、想いの丈が伝わってくるかのようです。弱音や弦楽器による細かなトレモロなど繊細な動きもなかなか聴かせてくれました。多少表情が固いかなと思うこともありましたが、オケとしての初々しさなのでしょうかね、あるいは私の勝手な思い込みでしょうか。 

さて、肝心のシベリウスの音楽ということに関しては、これは表現するのがなかなか難しいものがあります。というのも、シベリウスの何を好きかということになるのかと思うのですが、これはオケの想い、団員個々人の思い入れ、そして指揮者の解釈、聴衆の求めるもの、それぞれが「シベリウス」というキーワードのもとに微妙に異なるからです。そういうわけですから、自分の中の勝手な「シベリウス像」を演奏からどこまで聴くことができるか、ということに興味は尽きるたわけです。巨匠の演奏やプロの名演と比較してということではなくて、ですが。 

私が好きなシベリウスというのは、どこか曖昧であり自然と一体化したかのような喜びと霊感を感じさせてくれるようなところ、よくマーラーと対比されますが、ギリギリまでに鋭敏に贅肉を落としたところの澄みやかなる美しさと冷涼さ、キリスト教の神とは違う意味での神聖さを感じさせるところなどなどです。演奏を聴きながら考えたのは、上とは逆のシベリウスの持つ愛国心と大衆性ということで、それはそれでシベリウスが愛されてやまない理由だとは思うのですが、個人の中でどう音楽的に両立していたのだろうということです。 

本日の演奏会のプログラムは、さすがに第一回の演奏会と銘打つだけあり、よく練られていると感心するとともに、シベリウスの両面を上手く表した曲が選曲されていると思いましたが、最初の組曲ふたつは馴染みがないせいか、どうも焦点を絞りきれず、実は余り楽しめませんでした。「フィンランディア」だけがあまりに有名ですから、そこだけ浮き上がって聴こえてしまったのは私の経験不足というところですね。(世のシベリウスファンは、この曲を生で聴くために足を運んだ人も多いことでしょうに) 

それでもシベリウスの考えている音楽やアイデアがそこかしこに断片のように散りばめられているのを聴く事もでき、曲を再認識した次第です。 シンフォニーの方は、よくまとまっていたと思います。第2番についでポピュラーな曲ですが、終楽章の6つの和音による決然とした終わり方は釈然としない思いが常に付きまといますが、それもそれとして聴かせきってくれたように思えます。指揮の新田さんは和音と和音の間をかなり長めにためて振っていましたが、彼女なりの想いがあるのでしょう。この不自然なまでの間が、かえって曲に一貫性を持たせたように私には感じられました。

 アンコールのアンダンテ・フェスティヴォは非常に良かったですね。フェスティヴォという題名とは裏腹な静けさと清涼さ、まさにシベリウスの音楽を堪能することができました。 まあ、そういうことで、いろいろと楽しむことができた演奏会でした。えらそうにいろいろ書いてしまいましたが、本日の演奏会に至るまでには関係者の方々には並々ならぬご苦労があったと思います。ごくろうさでしたと思うとともに、今後の活躍を期待しております。 ちなみに開演を告げる鐘の音はシベリウスの作品65の「カッリオ教会の鐘の調べ」だったのですね、さすが!! 
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アイノラ交響楽団 第1回演奏会 2004年2月29日(日) 14:00開演(13:30開場) 
大田区民ホール アプリコ大ホール ��JR蒲田駅から徒歩3分、京急蒲田駅から徒歩7分)) 
指揮:新田ユリ 
シベリウス/組曲「白鳥姫」 作品54 
シベリウス/「歴史的情景」組曲第1番 作品25 
シベリウス/交響詩「フィンランディア」 作品26 
シベリウス/交響曲第5番ホ長調 作品82 
(アンコール) アンダンテ・フェスティヴォ 交響詩「フィンランディア」 作品26

2002年2月27日水曜日

田部京子/ シベリウス ピアノ小品集 (PIANO WORKS)


5つのロマンティックな小品 作品101 - Five Romantic Piecess
5つのピアノ小品(樹木)作品75 - Five Pieces for Piano('The Trees')
5つのピアノ小品(花)作品85 - Five Pieces for Piano('The Flowers'
5つのスケッチ 作品114 - Cinq Esquisses
5つの性格的な印象 作品103 - Five Characteristic Impressions

ピアノ:田部京子
英CHANDOS CHAN 9833(輸入版)

田部京子がシャンドスにシベリウスの小品を録音したと話題になった盤だ。しかし、田部が室蘭出身のピアニストで世界的にも評価が高いこと、吉松隆の「プレイアデス舞曲集」の録音などがポピュラーであることは知っているものの彼女の盤を買うのははじめて。そもそもシベリウスのピアノ曲演奏は舘野泉さえ聴いたことがない。だからそれほど期待していたわけではなかったのだが、聴きとおしてみると、レビュを書かずにはいられないような内容であった。とにかく素晴らしいというに尽きる、まずは聴いてみてと素直に薦めよう。

シベリウスといえば交響曲や管弦楽曲、それにバイオリン協奏曲などが有名であるものの、ピアノ曲となると、メジャーとはいえない分野だろう。交響曲作家が室内楽やピアノ曲を描く場合、作曲家の本心に近い内声を反映させたものとなることがある。たとえばベートーベンやショスタコービッチの弦楽四重奏曲などがそうだ。

シベリウスのピアノ曲も、シベリウスの交響曲などに表現されない別の心象の表出なのかと思えてくる。誰の曲か知らずに聴いていると、これらの小品がシベリウスの作品であると気付かないかもしれない。聴きようによっては、ドビュッシーのようにもラベルのようにも聴こえるし、アルベニスのような雰囲気の旋律さえ漂わせる。

作品番号75は交響曲4番と5番の間、作品番号114は交響曲7番の後の作品である。シベリウスの位置付けとしては、初期の民族高揚的な音楽を越えて彼独自の内面的な世界へと入りつつある時期からの作品と言えるだろうか。5つの小品群は、交響曲が後期に進むにつれて簡潔さとともにある種の晦渋さを併せ持つようになったのとは対称的だ。儚さにも似たもろさと美しさをたたえ、しかもシベリウス的な透明感と清涼感を感じる。さらには、繰り返して私が彼の曲から受ける煌きが随所に感じられる。こんなに素晴らしい曲を彼は描いていたのかと、改めてシベリウスという作曲家の認識を新たにする。

演奏を耳にする機会が少ないだろうと思われるこれらの曲の素晴らしさは、もの珍しさだけではないと思う。それにしても田部のピアノも良い。シベリウスの曲の雰囲気にタッチや音色が非常にマッチして、ため息がこぼれるような演奏に仕上がっている。何度も繰り返し聴きたくなる宝物のような一枚と言えようか。

この演奏については、以下のサイトでレビュが公開されているので併せて読まれると興味が尽きない。

2002年1月5日土曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第7番


指揮:ロリン・マゼール 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:3/1966 EMI DECCA POCL-6043 Legends (国内版)
マゼールのシベリウスである。録音は1966年であるので、考えてみれば今のようにシベリウスの名演が氾濫してはいない時期の演奏ということなのだろう。4番のレビュでも解説を引用したが、当時は絶大なる評価を受けた演奏だ。ベルグルンドの三度目の録音や、ヴァンスカ&ラハティなど高度な演奏を聴くことのできる現在において、マゼールの演奏は過去のもので、もはや価値のないものであろうか。
私はこの演奏を聴くと、どうしてもっと評価が高くないのだろうかと不思議でならない。それは同時期のチャイコフスキーの交響曲の演奏にも言えることである。ビルトオーゾ的な彫りや深みなどは少ないかもしれないが、ここに聴かれるのは、圧倒的な運動性能である、言い換えれば音楽の持つ推進力というものかも知れない。
シベリウスの7番に「推進力」など求めない、と人は言うだろう。しかし私がここで述べた推進力とは、ただ速い演奏とか性急な演奏という意味ではなく、曲の到達点に向けての説得力と音楽の構成を崩さずに表現を形作るというような意味だ。
こう書いてみて、そんなものは一流のオーケストラが演奏しているのだ、基本の「き」であって、あって当たり前ではないか、と言うものもいるかも知れない。それはそうなのだ、しかし、何かが他の演奏とは、本当に微妙に違うのだ、あるいは気のせいかもしれないし思い込みであるかもしれない。音楽レヴュなど書くという作業は、一瞬の思い込み(思い違い)を文章にしているだけなのだろうし。
��番交響曲では、トロンボーンによる核主題が重要なテーマを与えていることは、お聴きになれば分かるだろう。ここでは、4分30秒、9分50秒、そして16分50秒頃に現れる。この三つの核主題を改めて聴いてみたが、どれもが曲のクライマックスで登場してはいるものの、それぞれを明確に性格を異なえて登場させている。最初のそれは静かなクライマックスの中で、まさに大自然の呼吸というような印象を受ける。二回目のものは荘厳な雰囲気のなか、後ろで支える弦が音は小さいものの、音楽に深みを与えているのに成功している。三回目はテンポを落とし弦の高音でのトレモロを伴うことで、全く違った煌きが与えられてその存在を感じることができる。三回目でテンポを落とすのは他の演奏も同じだが、たとえばベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏と改めて比較するとかなり性格が違うことが分かる。
全体に演奏の性格としては、抒情的にしてロマンチックに少し傾いた演奏であるかもしれないが、過度なものではない。こういう演奏を聴くと、現代のマゼールは良く分からないが、若かりし頃のマゼールは、己の溢れる才能と、ともするとどこまでも加速してしまいそうなその勢いと情動に、計算しつくしたブレーキをかけつつ演奏しているような気がするのだ。従って非常にクレバーな印象を受ける。ただ、ベルグルンドの緻密さと濃密さとは異質だが・・・(これとて、マゼールを知って書いているわけではないので見当違いかもしれないが)
18分以降のコーダに向かうラストは、この演奏の中では最高の出来になっていると思う。決然とした響きを聴かせた後の、ヴァイオリンが奏でるテーマの中での休止の使い方のうまさ、緊張感を生んだ後にトロンボーンのテーマがふとよぎりフルートの優しい音色が聞こえてくる。緊張から弛緩へ移行し限りなき安寧を受ける。ラストの不思議な和音の終わり方も美しい。
名演という評価のない演奏のレヴュを、またもや長々と書いてしまった。「7番の名演として薦めるか?」と問われれば「否」と答えるだろう、わざわざ本演奏を聴かずとも7番の真髄に触れることはできる演奏は多いだろう。ただ、なんと書いて良いのか分からないが、この時期のマゼールの才能を改めて確認した次第である。
また、この盤を聴いた上でベルグルンドの演奏を聴くと、彼の演奏の特異さと気高さがさらに認識される気もするのであった。

2002年1月4日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第7番

指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:Oct 1988 DG (国内版)
バーンスタイン最晩年のウィーンフィルとのシベリウスの7番である。まず、この時期のバーンスタインの特徴であるテンポの遅さ。速い演奏だとこの曲は20分を切る演奏もある。しかし、そこを彼は25分もかけて演奏している。2番交響曲のレビュでも書いたのだが、もはやこれがシベリウスかという疑問も湧こう。
冒頭のAdagioからして、涙々たる抒情性を帯びており、ウィーンフィルの艶やかにして厚みのある弦の響きがそれを一層に引き立てている。響きは壮大でドラマチックだ。
この演奏を聴いていると、バーンスタインが呼吸し、うたい、生命を音楽へと同化してしまっているようなリズムを感じてしまう。うねるような音楽の旋律は何かとの交信のようでさえある。ベルグルンドの演奏で感じるような寂寞感や(この演奏でも寂寞感はあるが)、人間の体温を排したような音楽とは対極にあると言えるかもしれない。
だからといって、シベリウスの本質を見失った、バーンスタイン独自の解釈の演奏だと言えるのだろうか。
例えば二度目のトロンボーンの核主題が現れる部位では、ことさらにテンポが遅くなるが、ここを聴いたときには背筋に旋律が走るような感覚さえ覚えた。ここの存在感の神々しさと存在感、過度な表現ではあると同意するものの、立ち現れた音楽はシベリウスの他の交響曲でも何度も感じた存在そのものだ。その後に現れるアレグロ・モデラートの弦と木管の旋律の優しくも慈しみに満ちていることといったらどうだろう。
Vivace部分も、音符のひとつひとつがはっきりと、そして遅い。他の駆け抜けるように演奏しさったものとはまるで異なる。噛みしめるかごとく音を演奏させることにより、音の一つ一つが澱のように心に溜まってゆく。静かで軽い塵でも積み重なることで、ずっしりと重みを何時の間にか増してゆく、そんな風な表現に感じる。
やっぱり、私はバーンスタインのような演奏が好きなのだと思う。シベリウス云々を超えてしまい、三度目のトロンボーンの核主題が現れたところで、私は落涙してしまった。もうどうでもいいや、という感じになってしまう。それにしても、何だこの遅さは!そして劇的さは! こいつはマーラーというよりシェラザードではないかあ!と思うものの、許してしまう。
ラストに至る部分も、抑制なんかまるでしていない。バーンスタインが目をつぶり音楽に身を捧げている姿が目に浮かぶ。
これがシベリウスか、改めて問う。私がシベリウスの音楽に感じてきた(他の人はどうだか知らぬが)煌きにも似た光は、ここには全くない。そんな繊細なものは重厚なる音楽に塗り込められてしまっており、どこにも見出せない。しかし、それでも紛れもなくシベリウスだ。彼が表現している存在を、これほどまでに生々しく演奏しきっているものが他にあるだろうか。
ラストを聴き終えて感じたが、この演奏は重い、ずっしりとくる。ケーゲルの4番も暗く重い演奏だった。しかしこのバーンスタインの7番ときたら再び聴く気力が当分は沸かない。同時進行でテキストを作ったため、普段なら聴き直し、おかしな部分を修正するのだが、勘弁していただく。こういう演奏は、何度も聴いてはいけないのだ。

2002年1月3日木曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第7番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
演奏時間は22分3秒であるので比較的遅目の演奏と言えるかも知れない。非常にゆったりしたテンポで朗々と唄われているように感じる。演奏は今までのベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の特徴として挙げられる、クリアさ、そして明るさというものが透徹した演奏になっていると思う。弦楽器の美しさなどはシベリウスの禁欲的な性質の音楽をよく表現するかのように、滑らかにして優しくそして美しい。冒頭のアダージョ部分の抒情性の表現は見事であり特に聴き入ってしまう。
ベルグルンドの演奏は、感情表現についても抑制的で、非常に淡々と音楽を進めているようにも聴こえる。したがって、先のデイビス盤の方が劇的に聴こえてしまう。特にティンパニの扱いなどはそれを全面に出すことなく柔らかくそして乾いた音で響かせることで、幽玄たる雰囲気を作っているように感じられる。
この曲の持つ魅力については、デイビス盤で大まかに言い尽くしてしまった。しかし私はベルグルンド盤を聴くことで、この音楽に込められた独特の寂寞感と永遠への憧れのような感情を改めて強く感じることができた。またシベリウスの音楽には煌きがある、とは何度も書いてきた。ここに至っては音楽の全ての部分に無数の煌きを感じ、永遠なるものに向かって一歩ずつ歩いてゆくかのようなイメージが強く浮かぶ。
��番交響曲は、ダラダラとアダージョが続くといった類の音楽ではない。Allegro や Vivace に相当する部分もあるように、爆発的な頂点なども用意されている。しかし、それを開放的な爆発とは表現していない。抑制し溢れてしまったあとに来る寂寞感の方が強調されるようである。従ってこの部位は、やたらと激しくうるさいよりは、ポイント的に激したような表現の方が適切なのかもしれない。
この曲でのトロンボーンのテーマは象徴的でさえあると思う。主題は全部で3回登場するのだが、最後の18分頃に再現されるトロンボーンのテーマは、何かを突き抜けた先の世界を表出しているようだ。混沌とした中に白色に煌く光、そしてそれに包まれるかのような至福のひと時を感じる。ここの表現はまさに圧巻と言えるかも知れない。19分後半の爆発的な頂点の後の弦の寂寞感も素晴らしく、深い感動の中で音楽が閉じてゆくさまは大きな感動を与えてくれる。
シベリウスの音楽も抑制的かつ禁欲的だが、ベルグルンドの演奏解釈も、それに忠実かつ禁欲的である。従って、ここに大きなドラマや劇的な感動を求める方には、あるいは物足りない演奏と聴こえる可能性もなきにしもあらずだ。これは、シベリウスという音楽家に何を求めるのかということにも関わる問題かもしれない。

2002年1月2日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第7番

指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
全体が単一楽章で構成された有機的な形式、とは、この曲の解説の中で必ず出てくる言葉だ。演奏時間も、せいぜい20分を少し越える位の演奏であるので、一聴すると簡素にして高度に凝縮された音楽という印象を受ける。そして何度もこの音楽に耳を傾けると、ここに表現されているものは、交響曲という形式がフィンランドという極北の地で究極の形に結実した作品であると思えてくる。この交響曲に比類するものは存在せず、またこれ以上簡素にして雄大なる純音楽的世界を表現した作品もないとさえ思えてくるのだ。
同時代にドイツにおいてマーラーがたどり着いた方向とは、全く違ったベクトルを有している作品であり、これを交響曲の極北と位置付けるならば、この先に表現される音楽として何が考えられるのだろうか、という評が生ずることも止む無しと思える。
この曲の評としては、解説本などには「精神的」「原始的霊感」「渋さ」「幽久」「単純」「簡素」「無限性」などのキーワードが出てくる。このようなものを読むと、一体これ以上何を私が付け加えられることが出来ると言うのだろう。
ここで聴いているデイビス盤が、本演奏の白眉のものとはいえないであろ。それでも、この音楽が表出している世界が(それは複雑でありそして、湧きあがってくるのは言葉に換言しにくい極めて音楽的な感興であが)ひしひしと伝わってくるではないか。
冒頭からの悠久の時間を思わせるような音楽の進行は、今までの聴いてきたシベリウスの音楽の性格を持ちながらも、5番以降に聴かれたような内部から湧き上がってくる感興を抑えることが出来ない。それとともに、聴いていて不安の象徴なのかあるいは至福の表現なのか、判然としないすわり心地の悪さ、ある意味の不安定さを内包している点も曲を特徴付けていると思える。
発散しカタルシスを開放しようとしつつも円環のごとく主題が巡ってくるのを聴いていると、大いなる満足感と至福に包まれていることに気付かされる。この境地は、今まで何度もシベリウスの他の交響曲で感じたものと変わるものではない。しかし、ここでは更なる洗練が見られるということだ。
今更ここで、C・デイビス&ボストン響の演奏の特徴を挙げるつもりはない。聴きとおした印象としては、今までの演奏のスタンスと変わるところはないと思われる。非常に素直に、そしてストレートに音楽の構成と美しさを表現している。
一方で、この繊細なる音楽を表出するには、少し雑な印象を受けないわけではない。この音楽は触れれば壊れてしまうような、微妙さと脆さもかね合わせているように思える。何かが表現上足りない(あるいはやりすぎている)と思わせる部分がなきにしもあらずだと思うのである。
例えば、打楽器の扱いにしても、彼は始終ティンパニの音を全面に打ち出し、劇的な効果を曲に付与しているが私には少しうるさく感じる。また、金管群のフォルテッシモにおける響きも混沌として雑な印象だし、それに対比する弦の響きは透明で美しいというものではない。ここらあたりがボストン響の限界なのだろうか、と思わずにはいられないがいかがなものだろうか。
もっとも、だからといってこの演奏が、聴く価値のないものであるとは思わない。デイビスのある時期の彼のシベリウスの演奏解釈としても、またそういうことを抜きにしても、十分に感動を与えてくれる演奏であるとは思う。それは、デイビスのストレートさが聴くものに伝わるからだろうかと思うのであった。

2001年11月26日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)による交響曲第6番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ベルリン放送交響楽団(東ドイツ) 録音:1970 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。
ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。
シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。
この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。
断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。
ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。
第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。
第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。
終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。
シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。

2001年11月25日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第6番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲の中で何を最高傑作としてあげるのかを考えることは、難しくも楽しい作業だ。シベリウスをこよなく理解し愛している人にとっては、ことさら悩ましい問題であるとは思うものの、おそらくは7番を、交響曲の示した形式と内容を含めて一番にあげるのではないかと予想する。私としても、まだ7番のレヴュウは書いていないが、その考えに同意する。一方で、シベリウスを余り聴いたことのない方は2番をもって最高と考えるかもしれない。これとて無理のないことだ。シベリウスの演奏機会を考えれば2番とバイオリンコンチェルトが演奏される機会が圧倒的であろうし。
しかし、この6番をじっくり聴いてみると良い。たかだか30分弱の短い曲ではあるが、まさにシベリウス的な世界が、それもフィンランディアや交響曲第2番のような主張的な部分のない、独自の世界が広がっていることに気付くだろう。7番と優劣をつけにくいと思わせるのだ。
デイビス&ボストン盤を幾度も繰り返し聴きイメージを固めてみた。聴くにつれ、この曲の持つ深遠さと美しさに文章にとして記すことの限界を痛切に感じたものである。標題性や人間的な克苦などを感じさせない、純粋にして音楽的な感動が広がるのだ。それでもレヴュを書くに当たってはイメージしたことを文章にせざるを得ない。ある比喩は、その瞬間に浮かんだ心象でしかないため、明日あるいは数年後に同じようなイメージが浮かぶことは保証できない。ましてや作曲家のイメージとはかけ離れたものであろう。それでも、そのような文章でしか今は音楽を語ることができない、ということを前提に読んでいただきたい(久しぶりに書くとくどいな)。
さて、この曲を語るときに第一楽章の美しさは圧倒的であるということからはじめなくてはならい。冒頭のヴァイオリンで奏でられる第一主題の透明感と広がり、そして神々しさはシベリウスの作った最も美しいメロディにあげられるかもしれない。彼の音楽の持つ独特の煌きの中に永遠にも続くと思われる至福の時間が込められていることを思うのだ。
私は今までに何度か、シベリウスの音楽の魅力は煌きのようなものだと書いてきた。この冒頭主題にいたっては、氷点下の凍て付いた空気の中でキラキラと輝く氷のような煌きさえ感じるのだ。
曖昧な捉えどころのない副主題からチェロのモチーフに至る部分も聴き所だろう。チェロは若干哀愁を帯びるものの感傷的ではない。この後も、冒頭のテンションがひとつも緩むことなく駆け抜けてゆく感があり、あたかも広々とした雪原を颯爽と馬車で駆け抜けているかのようなイメージが続く。
最後に総休符をはさんだ後の金管群による額句が挿入されるが、これは何をイメージしているのだろうか。私は、その厳かさと神々しさに何か偉大なる存在さえ感じる。他の交響曲でも感じたことだが、それは極めて崇高で宗教的体験に近いが、キリスト教のような特定の宗派を想定させるものではない。むしろ自然に対する畏敬や畏怖から生じるようなものといったほうが適切かもしれない。
第二楽章と第三楽章は非常に短い。繊細さと静けさを感じさせる冒頭から後半の明るさの対比が美しい第二楽章、スケルツオ風の騎行的なリズムにのって軽快に唄われる第三楽章など曲としての面白さも多い。響きも極めてシベリウス的でありしかも内省的であると感じる。第三楽章の軽快なリズムさえ、どこかへと一足ごとに進んでゆく足音を感じる。
第四楽章は再び深遠にして崇高なる世界に引き戻される。冒頭の切迫と哀愁を帯びた弦と木管による上昇と下降の音形による応答が繰り返され変形しながら音楽は進んでゆく。何かに対し問いかけている作曲家の姿なのだろうか。優しい調べがフルートで添えられる。音楽はその後急速に駆け出し盛り上がりを作り始めるが、開放し外に叫ぶような高揚ではなく、内部の高まりと喜びを抑制しながら歌い上げているように感じる。
金管によるクライマックスがあるかと思ったら、はぐらかすように音が殺ぎ落とされ冒頭主題が回帰するあたりは第4交響曲を彷彿とさせる。この部分は何度聴いてもぞっとする。最後に盛り上げて終わることをせず、あえて素朴なる弦による結尾主題で静かに曲を閉じたシベリウスの意図について推し量るのは難しい。消え入るような終わり方は、冒頭主題へ円環のようにつながる永遠性を感じるというと、考えすぎだろう。この主題の終わり方には何かへの深い祈りのようなものを感じさせずにはいられない。
��・デイヴィス&ボストン盤を本シリーズのベース演奏にしているが、これがシベリウス演奏の最良盤であるからという理由ではない。たまたま家にあった全集版であるという以外には明確な理由はない。それでも、こうして聴いてくると、クセのない素直な演奏なのではないかと思えてくる。デイヴィスには新録もあるし、ボストン響も十分に上手いわけではないという評価もあるのだろう。それでもストレートに曲のよさを、過度の装飾や思い入れを入れずに演奏しているという点では評価できるものであると思うのだ。

2001年9月30日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ヴァンスカ指揮 ラハティ響による交響曲第5番(1915原典版)


指揮:オスモ・ヴァンスカ 演奏:ラハティ交響楽団 録音:May 1995 BIS KKCC-2206
交響曲第5番 オリジナル1915版での演奏としては、この演奏が最初で最後のものかもしれない。演奏するに当たって、遺族の許可を得て一度だけという条件付きで録音されたらしい。
オリジナル版と現在耳にする原稿版との違いをひとつひとつあげつらうことはここではしない。CDを買うと吉松 隆氏による二つの違いが細かく書かれているのでその必要もないだろう。
ただ、この曲を聴くと原稿版との印象がまるで異なって聴こえてくることに少なからず驚きを覚える。たとえば楽章構成を4楽章から3楽章形式に変えた構成的な違いは大きな変更点だろう。もっともここでの演奏は1楽章から2楽章への移行をごく自然に行っているため、不自然さを感じないのだが。
全体を通して聴こえてくるのは、よりピュアな響きで、さらさらと流れ行く風の音を聴くかの感がある。これはオリジナル版のオーケストレーションの特徴なのか、あるいはヴァンスカ&ラハティの独特さなのかは今の段階で断定することができない。決して「軽い」というのではないが、明らかにここにはシベリウスの核心に近い精神があるように感じられる。
厳密に聴き比べて書いているわけではないので、正確さに欠けるとは思うが、気になる点をいくつか挙げてみたい。
まず冒頭のフレーズから「あれ」と思わせる。何か音が足りない、そうホルンの旋律がなく、よりもやもやした感じなのだ。それでもオリジナル版が原稿版と比べて劣っているとか、悪いという気はしない、むしろすがすがしさを感じさせ好ましい始まり方であると思うこともできる。
また、2楽章の終わり方なども原稿版のようにさらに一歩踏み込んだ壮大さを示すのではなく、比較的あっさりとまとめたという風に感じる。
ほかにも特徴的な違いはあると思うが、最大の印象の違いは終楽章の終わり方にであることには異論がなかろう。あの特徴的な断続的和音による終結が、この版では聴かれないのだ。はじめて原稿版のラストを聴いたときは、その唐突さと不自然さに違和感を覚えたものである。それでも、ああいう終わり方をせねばならなかったシベリウスについて、思い馳せるのだったが、それが初稿版ではないのである。
吉松隆はこのオーソドックスな終わり方の方が「自然のような気がする」と書いている。確かにそうなのだが、やはりそうならば、考えてしまう。どうしてあんな不自然さを最後に持ってきたのかと。
この曲を聴いた後に、誰のでもよい、原稿版を聴くと音楽的和音とか構成がしっかりとした輪郭を得ているように思うかもしれない。そしてより感動的に仕上がっている。逆に言えば、オリジナル版はどこか不安気な印象や捉えどころのない茫漠たる印象を受ける。ひんやりとした空気を漂う妖精の音楽を、水滴を集めるかのように一粒一粒、葉に受けて音楽をつくっているかのような霊感と神秘性を漂わせていると感じるのは私だけだろうか。それゆえにオリジナル版として気に入らず、破棄したのだろうか。
曲を聴きながら、同時並行に文章を書いているので脈絡がなくなって恐縮だが、4楽章は吉松隆の解説によると「ホルンが二分音符で呼応する『大自然の呼吸』のような印象のテーマ」とあるが、なるほどと思わせる表現だ。そうやって聴いてみれば、木々深き霧の森のなかでの息吹をひやりと肌で感じたような気になる。確かにオリジナル版のこの楽章は長い、しかし、吉松も指摘しているように「ブルックナーを思わせるような壮大で充実したオルガン的響き」が続き、それはそれで面白いと私は思う。
音楽的な完成度という点では、やはり原稿版の方に軍配が上がるのであろう。しかし、オリジナル版からは、何か世俗的なものを一枚はぎとったピュアさを感じとることができ、シベリウスファンであれば聴いてみる価値はあると考える。
二つの版の違いの詳しい解説などは、だれかがどこかでしてくれないものだろうか。

2001年9月9日日曜日

尾高忠明指揮 札幌交響楽団のシベリウス

札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子

シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43

最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。

どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。

結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。

さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。

しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。

私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・

竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。  

最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。

打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。

金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・

木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。

尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。

しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)

シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。

一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。

ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。

そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。

シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。

そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。
この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。
上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。
ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。
このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。
強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。
それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。
例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。
もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。

2001年9月3日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル 演奏:ライプチヒ放送交響楽団 録音:1969 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。

2001年8月17日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番




指揮:バルビローリ 演奏:ハレ管弦楽団 録音:Dec 1952 The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)
シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。
「深い谷間にいる。おぼろげながら登る山が見え始めてきた。するとその瞬間、神がその扉を開いて、神のオーケストラが演奏する…」(「北欧の巨匠」音楽之友社 より)
いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。
もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。
このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。
このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。
例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。
以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。
��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。
最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。

2001年8月16日木曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。
シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。
なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。
そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。
終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。
しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。
いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。
特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。
先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。

2001年7月18日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第4番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Sep 1995 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
シベリウスの4番は本当に暗く救いのない音楽なのだろうか。今まで、デイヴィス、カラヤン、マゼールと聴いてきたが、これらの演奏は暗さだけではなく静かな煌きを感じさせる演奏であるように思えた。
ベルグルンドの盤も、どちらかというと美しさや静謐さが強調された演奏であると思える。加えるに、先の盤と比べて決定的なのは、ベルグルンドとヨーロッパ室内管で奏でられる音楽の純度の高さと、孤高という言葉さえ浮かぶような美しさ、そしてシベリウスの音楽に対する深い造詣のようなものさえ感じることができる演奏であるということだ。
端正さという点では、思わず居住まいを正して聴かざるを得ないような雰囲気さえある。演奏自体に贅肉がなく、室内楽を聴くかのごとき簡素さを感じるが、それが何と曲の雰囲気に合っていることだろうか。以前にも書いたが、オケの響きには雑なところや粗さは全く発見できず、完成された美しはまさに特筆ものである。隅々まで神経の行き渡った演奏からは、暗い楽句であっても救いや解決のないというイメージよりも、深い思慮に沈む哲学的静けさを感じる。いろいろな人が「別格級」と称する意味が分からないでもない演奏である。
第一楽章冒頭の低弦とチェロの響きは本作品を特徴付ける部分だと思うのだが、この演奏からは余計な感傷や感情のようなものを感じず、虚空に投げ出されたかのような所在無い印象が受ける。その枯れた感じは極限まで切り詰められた緊張感に満ちており、何かひとつが加わっただけで崩れてしまうかのような、純度の高さを感じる。続いてかぶさるヴァイオリンの透明な美しさには宇宙的な広がりさえ感じ、音楽のイマジネーションの豊かさには陶然としてしまう。
曲の解説などによると、風光明媚で知られるコリへの旅行から曲のインスピレーション得たことに言及されている。シベリウスの音楽はR・シュトラウスのような標題音楽ではないことには同意するが、一方で過度に作品の成立背景を解釈の足がかりにするのもいかがなものかと思う。確かに聴きようによっては、視界がひらけたかのような音楽的な広がりが、「アルプス交響曲」にも似た感興を湧かせる部分がないわけでもない。しかし、音楽のありようと演奏を聴く限りにおいては、ベルグルンドは何か音楽そのものを忠実に演奏しているようなスタンスを感じるのだ。そこから湧き上がってくるのは、純粋に音楽的な満足と広がりである。
第二楽章にしても、風景描写的な演奏と感じるのは聴き手のイメージのふくらみ、あるいは思い込みのせいだろうか。俄かに翳をさすかのような音楽の移り変わりにしても、浮き沈みする感情の振幅と感じさせる場合もあれば、北国の短い夏を思わせる場合もある。しかし、音楽に深く耳を傾けるならば、そのどちらもイメージは正しくないのだと思い至る。あるのは、流れ行く音楽だけだ、この楽章も言葉には還元できないことを知らされる。
第三楽章はフルートの調べやホルン、チェロの響きがあたかも幽玄の世界をさまようかのごとき感がある。フィンランドの深く暗い森の中を、あてどもなく逡巡する姿や、楽章最後に現れるテーマが断片的に見えるさまは、霧の中から垣間見える雄大な景色か、あるいは作曲者自信の哀愁の感情表現なのだろうか。風景描写的と思って聴けば、そう聴こえるし、過度に思い入れを入れると、あたかも悲愴なる運命との出会いのようにも、シベリウス本人の嘆きにも聴こえる。
シベリウスはこの曲を「心理的交響曲」と呼んだらしいが、これにさえそれほど拘泥する必要はないのかもしれない。主題群が断片から姿をあらわし始めるさまなどは、ここでも宇宙的な創造を、あるいはブルックナー的な峻厳ささえ漂わせているではないか、何と美しき音楽であることか。もしかすると、この楽章はシベリウスの書いたレクイエムなのではないだろうか。
終楽章の明るい煌きから、全てが解体され殺ぎ落とされるラストの対比も見事である。今までの虚飾や光を全て失い、丸裸の状態で放置されるという音楽のありようは、残酷さや救いのなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、ラストは決して孤独や絶望、諦めだけではなようにも思える。
もっとも、以上のイメージとて、これを聴いたときの感情に支配されるものだろう。ただ、ひとつだけ言える事は、交響曲第4番というのは、暗いだけの音楽ではなく、素晴らしくイマジネーション豊かな世界であり、また北欧的な美しさや静謐さ、北国的な生命力や死生観、人生における喜びや哀しみ、感情の振幅など多くの要素を、非常に凝縮した音楽に結実した稀に見る名曲なのではないか、と思い至ったのである。地味目の曲だが広がりはまさに宇宙的なのである。
繰り返すが、まさにそういう印象を与えるという点においても、ベルグルンドの演奏は別格級であるのかもしれない。こうなると、暗さの極致といわれるケーゲル盤をぜひとも入手して聴きたくなるのであった。

2001年7月10日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】交響曲第4番 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第4番

指揮:ロリン・マゼール 
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 
録音:4/1968 EMI DECCA POCL-6043 Legends (国内版)

マゼールの演奏は、数あるシベリウスの録音の中でどのような位置付けだろうか。少なくともシベリウスの名演という点では候補からはずされてしまうかもしれない。しかし、チャイコフスキーの交響曲の特集でも感じたのだが、この時期のマゼール&ウィーンの演奏は若さと切れの良さが程よくマッチし、多少粗削りな印象を受けるものの、曲の持つ構成を見事に浮き彫りにしてくれる名演であると感じる。全ての音が明確に聴こえ、複雑な音楽の見通しが非常に良いことも演奏の特徴だと思う。音楽が余計な感情を抜きにして聴く者にせまってくる迫力があるのだ。実際、解説によると当時の評価としてはマゼールのシベリウスの全集の中でも4番の評価は非常に高く「この音楽の神秘に近づいたビーチャム以来の初めての指揮者」とされたらしい。
第一楽章の出だしから切り込むよな激しさが感じられ、続くチェロの音の枯れた音と低弦の支えには、一切の妥協のなさを感じる。そこから立ち昇ってくる金管の和音にも厳しさと激しさを感じ慄然とさせられる。音楽により導かれた先は、澄み切り凍てついたかのような虚空の世界さえ感じ取ることができようか。しかし、何と美しい世界であることか。
第二楽章のスケルツォをどう考えるかは演奏のポイントかもしれない。マゼールの演奏からは、素早い動きの中から生命感や若々しい躍動感を感じ、前向きのムーブメントを表現しているように思える。不安さはすぐに翳を落としはするものの、ポジティブな方向での音楽作りを目指しているように思える。また、この楽章については、やたら懐古的や田園風に描写するのを避け、むしろ推進力を前に出し厳しい走句を形作っているように聴こえ、それがかえって心地よく響く。
第三楽章の冒頭はフルートの主題が象徴的である。続くホルンの音色を契機に深く想いに沈んでゆくような音楽つくりは曲想に従順であるように思える。時々現れるチェロのテーマは、ここでも何の飾り気もなく澄み渡り、あたかも波ひとつない湖面を眺めるかごとき静謐さがある。後半になりテーマが展開され大きなさざ波が立ち始めるが、ここでもマゼールは感情の波を押さえ込み冷静に棒を振っているように思える。感情の波は山を迎えても崩れることはなく、再びうちに秘められてゆくのだ。クライマックスの苦悩でさえ救済を求めるかのように吐露しているが、一人日記に感情をぶつけているかのような感がある。
第四楽章はマゼール盤でも鉄琴が使われている。音楽は素早く進行してゆく。この楽章でもそうなのだが、とにかくマゼールの演奏はイキがよく勢いが最大の魅力だと想う。さらに先に述べた音のクリアさと構成の明快さにより音楽的にスリリングに仕上がっており、辛口にして全く退屈しない演奏に仕上がっている。後半に明るさが消え失せてゆく部分の劇的さは余りにもドラマチックで、背筋に刃物を突きつけられたかのような冷ややかさと恐怖さえ感じる。
もっとも、4番へのアプローチというのは、苦悩や暗さよりも、むしろ明るさと推進力に重きを置いた演奏に聴こえる。ムダを配したキリリとした(多少、粗いという印象も受けるが)音作りは辛口の印象を受けるが、演奏解釈的には希望をもたせた演奏であると感じる。ラストにしても救いが全くないという終わり方ではないと思える。

2001年7月9日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第4番


指揮:ヘリベルト・フォン・カラヤン 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:12/1976 EMI TOCE-3441 Grandmaster Series (国内版)
この演奏は、1976年のものでカラヤンのシベリウスの4番としては最後にして3回目の録音でのものである。カラヤンがシベリウス指揮者の一人であるということは、定評のあるところだ。カラヤンはこの演奏からはシベリウスの何を抽出したであろうか。
第1楽章からそうだが、デイビス版よりもゆっくりとしたテンポで演奏されている。そのため、デイビスを聴いた後に聴くと、雄大さやオーケストラのハーモニーを心行くまでに堪能することができる。また、カラヤン流というのであろうか、ティンパニの響きも激しくまた低弦部分は地響きのような迫力で迫ってくる。また他の演奏でもそうだが、アダージョな部分は耽美的とも言えるほどの美しさで思わずため息がでるほどである。しかしそれゆえにというのが適切かはさておき、デイヴィスで感じたような怜悧さは感じられない。
第2楽章の出だしにしたって、ゆったりとしたテンポは変わらずにオーボエが旋律を奏でるが、田園交響曲を聴くかのような趣さえ、ひと時だが感じてしまう。いや田園的な情緒というよりも都会でワルツを踊るかのような趣のほうが強いだろうか。上品にして典雅であるが、さらに豊穣さを感じる。考えてみれば、シベリウスが死の予感に打ち震え、社交界での思い出に浸っていたという解釈だって間違ってはいるまい。この楽章でもそうだが、表現の幅はあざといほど大きく聴く者をのみこんでしまうかのような迫力だ。
第3楽章は「瞑想的な雰囲気」とか「非現実的な雰囲気」「内的緊張感」などが特徴と本CDの解説には記されている。確かにもの思うかのようなフシや、抑えられたものを感じる部分もある。しかし、どうしてもチェロ以上の弦が奏でる、この楽章全体を貫く主題が強く支配しているように感じてしまう。この交響曲で唯一覚えやすいモチーフであるからかもしれないが、姿や形を変え、色々な断片で演奏されるこのモチーフはシベリウスの散り散りになった思いの現われだろうか。楽章後半で全容を表すさまは、巨大な氷山のごとき寒々とした巨大な感情の塊りを見るかのような気にさせられる。カラヤンは実に見事に、最後の収束に向けてこの楽章を組み立てている。しかしながら聴いていて、R・シュトラウスの交響詩を聴いているような気にならないわけでもない。「あれ、これはシベリウスだったっけ?」てね。
第4楽章はこの演奏でも鉄琴(グロッケンシュピール)が愛らしい。本来は鐘(グロッケン)が使われるような指示らしいが…デイヴィスも鉄琴だったな。カラヤンはエネルギッシュにしてエモーショナルにこの楽章を開始しており、3番以前のシベリウスの曲を彷彿とさせ心地よい。中間部の弦の刻みにのった曲の推進感は見事で、さすがと思わせるつくりだ。オケも十分にドライブして鳴らしまくり分厚い音を作り上げている。強弱のポイントも的確であり見事だ。ラストの終わり方も、大きな悲劇を演じた後に、主人公は舞台に突っ伏して幕というような重々しい雰囲気であり、それはそれで劇的でありかつ感動的であることは否定できまい。
カラヤン・ベルリンのコンビだけあって、オケの個々の技量がボストンと比べると光るし、音響的にも非常に重厚感あふれるものになっている。デイヴィスを素材の味を生かした魚料理とするならば、こちらは凝ったソースをかけたステーキといった趣だろうか。
カラヤン盤も満足を持って聴くことができるとは思うのだが、これがシベリウス的なのかと言うと、少し首を傾げざるを得ない。というのは、ここで表現された音響的世界にしても思索的な組み立てにしても、シベリウスの独自性というものが、逆にこの演奏からは薄まっているように思えるのだ。こういうアプローチなのであれば、素材はシベリウスではなくても良いのではないか、という印象をぬぐうことができない。
しかし、私の言う「シベリウス的」というもの自体が、自分でもはっきりと文章にできないだけに、論点がボケてしまうことは認めざるを得ない。まだ今の段階で「シベリウス的」を表現することができない。ただ、一つだけ言うとするならば、カラヤンの世界は饒舌にして豊穣すぎる音楽であり、シベリウスの目指した(と私が考える)簡素さとか無駄のなさという方向とは逆の世界であると感じるのである。彼の描いた世界は、暗くはあっても限りなき美しさに彩られているのだ。
だからといって、この演奏が価値のないものだとは全く思わない。演奏から受ける感動は紛れもないものであるし、このような演奏があってこそであるのだから。

2001年7月8日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第4番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:11/1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲第4番を聴くのは、結構しんどいものである。今までの交響曲とは違い、雰囲気も非常に暗く、救いがない音楽という人もいる。いわゆる主題を展開してゆくような明快な音楽構成もとられていないため、音楽的にもとらえどころがない印象を受ける。
全曲を通じて、鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすような部分もほとんどなく、ひたすら内省的に内側へこもってゆく世界を聴くことになるのだが、暗さを聴くことで得られるカタルシスも得にくい曲ではないかと思う。プロの演奏家でも「二度と演奏したくない曲のひとつ」という感想も、どこかのBBSで読んだことがある。
シベリウスがどうしてこのような暗い曲を書いてしまったかは、CDの解説やシベリウスのHPを参照くだされば詳しく書かれているので割愛させていただくが、人生のどん底のような気分においても曲を描かなくてはならなかった彼が、このような音楽を描く事で癒されたのだろうか、と考えずにはいられない。モーツアルトのようにいかにも天上の音楽としか聴こえないような曲を描いたのとは対照的ではあると思う。
この曲を最初に、C・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみた。この演奏を通して曲の概要を眺めてみたい。
第一楽章のチェロの出だしの不気味さと続く寂寞とした主題は、まさに死の淵を思わせる絶望さに満ちている。この雰囲気は全編を支配する感情だと思う。中間部分も色々なモチーフが受け継がれながら、感情の浮き沈みのようなものを感じるのだが、楽器が和音を奏でている中からスッとソロが現れる部分の寂しさなどは、ふと気付いたら自分しか残されていなかった、というような気にさせられる。楽譜を見ながら演奏を聴いているわけではないので、ぼんやり聴いていると、捉えどころのない楽章である。徐々にたかまり、ひとつのクライマックスに達するかに見えるが今までのシベリウスのように弾けることはなく、再び最初の暗い雰囲気に何時の間にか連れ戻されている。
第二楽章は田園風のスケルツォで始まるのだが、下降音形から金管に受け継がれたあたりから、急速に日は翳り暗さが支配してくる。フルートが軽妙に主題を奏で、彩りを添え上に駆け上ろうとする雰囲気が現れはするのだが、もやもやした感情が抜けきることはない。切り込むような弦のやコントラバスの低い響きが、暗雲が立ち込めるかのような寒々さや不安定な感情を表出しているかのようだ。
第三楽章はフルートが非常に印象的なテーマを奏でて始まるが、この楽章にくると明るさは全く消えうせる。前楽章の田園的な雰囲気も何か良き遠い日の思い出と感じるようで、深く内省的で、自分の中にひたすらこもってゆくかのような音楽で、思いは取りとめがない。中間でチェロが哀愁ただようテーマを奏でるが、これは嘆きのテーマなのだろうか。寂寞茫洋とした楽章の中で唯一発展を感じさせ、核となって聴こえてくる。聴き様によっては泣きの旋律であろうが、うたいすぎるとチャイコフスキー的にいやらしくなりそうなテーマだ。デイヴィスはそうはなっていない点、演奏的にはマルである。
第4楽章は鉄琴が効果的に使われており、煌きや光が垣間見えたかのような印象で開始される。音楽の構成もシベリウス的な雰囲気が漂い、曲としての救いが見えてくるように思える部分である。シベリウスの上方と光や希望を希求する気持ちが込められた部分だろうか。しかし、ポジティブな気分はこの交響曲を支配しない。ティンパニの連打とともに、剥ぎ取られるかのように明るさは掻き消え、何時の間にか回りは冬になっているかのような寒々とした風景が広がり、またしても自分だけが取り残されていることに気付かされて、音楽は終わる。
シベリウスがどう意図したかは別として、私はこの部分を聴くたびに「北国の作曲家の音楽だな」と思わずにはいられない。北国の短い夏、太陽を満喫して馬鹿騒ぎしているのもつかの間である。秋とは名ばかりの季節が駆け足のように冷たい風とともに通り抜け、気が付くと冬景色になっている、という感覚。何かやり切れず、取り残され騙されたと思うような感覚。こういう気持ちは、南国育ちの人にはなかなか分からないかもしれないと思うのである。
さて、このような曲をC・デイヴィスは、しかしながら、ひたすら暗く内省的になることを避けるような演奏をしているような気がする。
聴きとおした後に、虚無に教われるような絶望感や疲れはあまり感じない。むしろ、そこかしこにちりばめられた、何か光を予感させるような響きの方が印象に残り、果てしない絶望感を救っているように思えるのだ。
何が何でも作曲家の心象や当時の境遇を曲や演奏に反映させなくてはならないというものでもない、という意思表示のような気もする。曲を曲としてありのままに捉えた演奏というのだろうか。ラストにしても、一人舞台の中央にスポットが当たった状態で、取り残されはするが、そこからどこにも歩めないというような終わり方には聴こえてこない。
演奏自体も新鮮な響きに満ちており、低い重心で押しまくるという演奏ではない。感情をこめた重い演奏とはせずに、この曲のもつ怜悧な美しさと寂寞感をうたいあげている。それが、この演奏の弱さや説得力のなさにつながると感じる人もいるかもしれないが、私はそうは感じない。この演奏を、「聴きたい」と思ったときに余り抵抗なく、しかもシベリウス的な響きを感じながら思いに耽ることのできる演奏だと思うからである。良く聴き込むと「とりとめがない」と感じる断片が、輝きをもって立ち上がってくる部分も多々あり、「暗い、重い、救いがない」というレッテルだけで聴かずにいるにはもったいない曲であると思うのである。