2001年8月16日木曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。
シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。
なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。
そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。
終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。
しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。
いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。
特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。
先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。

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