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2005年8月21日日曜日

甲子園 駒大苫小牧 4

普段は野球なんて見ない人たちも街頭のTVスクリーンの前で一喜一憂する。地元の新聞(北海道新聞や朝日新聞地方版)はブチ抜きの大見出しで駒苫の勝利を報道している。TVのニュース番組では「もうっ最高!」と涙を流す人たちの姿や、便乗商戦に踏み切るスーパーやデパートの姿を映し出している。

��7年振りの夏連覇は、昨年の北海道勢の初優勝以上に全国的ニュースバリューを持っているとは思うものの、たかが「甲子園」という閉ざされた世界での偉業である。必要以上のフィーバーやだらだらと脳が麻痺したかのような感動の再生産にはちょっと辟易。

それにしても駒苫に全く関係のない人たちをも感動の渦に落とし込んだことは確か。高校野球を通じて発揮される「郷土愛」を思いながら、「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」(浅羽通明:筑摩書房 ISBN:4480061738)を読了。「郷土愛」というのは「思想」や「理論」ではなく、体に染み込んだ皮膚感覚みたいなものだと感じる。もっとも「郷土愛」=「愛国心」でないことは自明。感想は気が向いたら、そのうち表へ。

つーか、休み中に読んだ本はこれ一冊だよ、トホホ。

2005年8月12日金曜日

国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?

「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」の高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)にある一文であります。「国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?」 この問いは難しい。




近代国家が武力を背景としての国防と領土拡大(天然資源と労働力確保)を前提として成立していたものとするなら、国家間の利害を解決するため場合によっては「戦える国家」であらねばならなかった。いやこれは「近代国家」に限定せず、有史以来の「国家的」なものが有した属性であったのかもしれません。過去の歴史は戦争の歴史であり、人類が戦争をしていない時期などないかもしれないのですから。


「戦う」前提には共同体=国家に対する帰属意識と愛着(ナショナリズム)があり、それは国家が個人に対して、例えば人権保障や選挙権や庇護という、国家と個人の間での権利と義務があったはずです。


そのような国家においては「戦える国家」であることは議論の余地がないのですが、日本は戦後の米国との関係を含め捩れた関係と観念に支配された時期が長く、ここを本気で議論したことがなかったのではないかと思っています。逆に言えばナショナリズムが育たぬ故に、国家意識の希薄化と「靖国問題」が問題化する土壌が出来てしまったのかと。


好悪や感情論に帰結させるならば、国家が戦う国家であってはならない理由は、国際法的に紛争解決に戦争が禁止されておらず、どんなに戦争の大義をうたおうと、戦闘行為は破壊と殺人を伴うからという点に尽きます。相手を抹殺しなくてはならないほどの絶対悪である規定することなど倫理的にできるのでしょうか。だからといって「非武装中立」が現実的でないことは承知しますが。


で、新たな疑問が更に沸きます。では「国家」とは何なのか。真面目に考えたことないですからね学生時代も。

2004年7月30日金曜日

国旗や国歌に関する軽い話題


最近は下火になってきましたが、国歌、国旗について議論が百出です。日本の場合、国歌や国旗に問題があるから新しいものにしようという動きがなかなか出てきませんよね。逆にモンク言っても愛着があるのかなと。

「拍手は指揮者が手を下ろしてから」というサイトで、新ロシア国歌の浸透度というエントリーがありました。これには、

大国意識を国家発展の原動力にしたい大統領は、3年前、旧ソ連国歌に新歌詞を付け復活させた。だが、ある調査によると、歌詞を知っている者は「30人に1人」とされている。

という新聞記事を引用しながら、サッカー欧州選手権に国家演奏中にガムを噛んでいる選手にプーチン大統領が苦言を呈したということなのですが、まあ、そんなものでしょう、と私など思ってしまいます。国家が押し付けたって、愛着がなければガムでも噛んでます。

一方、田中宇の国際ニュース解説の最近の記事「キリストの再臨とアメリカの政治」においても、イラクの国旗のことが紹介されており、

昨年からのイラク戦争では、米占領軍政府が、キリスト教右派勢力に対するイメージ戦略ではないかと感じられるいくつかの政策を行っている。その一つは、今年4月末に制定されたイラクの新国旗である。この国旗は、白地に青色の三日月が描かれ、その下に2本の青・黄・青の順番に3本の線が入っているもので、イラク人たちは「イスラエルの国旗を想起させる」として猛反対した(イスラエルの旗は白地に青色の星が描かれ、上下に青線が入っている)。

と書いています。

このように、国旗も国歌もプロパガンダとして利用する格好のものなんですから、やっぱりまともにお上の言うことなど聞いていられないと考えるのは「反日」ですかね? 日本の出るサッカーで高らかに「君が代」が斉唱されていますが、やっぱり私には、あまり気分のいいものではないですね。つーか、節がしみったれてんだよな。

じゃあ、新しい国旗や国歌をつくろうとは誰も言わない。結局は何かのアイデンティティは欲しいけど、今のものもモンダイあるけど、ま、いいかというところなのでしょうかね。






2004年3月17日水曜日

何のために戦うのか

他国が我が国の利益を侵略しそうになった場合、戦うかといわれた場合、普通であれば「断固として戦う」と答えるべきなのでしょうか。例えば第二次世界大戦での敗戦国であるドイツや、隣国の韓国と比較しても日本は「戦う」と答える人が少ないという話を聞いたことがあります。以下は私の疑問です。



何のために戦うのか?



さて「戦う」とした場合なのですが、戦うのは何のために戦うのでしょう。自分の家族や財産を守るのは当然としても、それ以外に何を守るのでしょうか。「私は日本が好きですから」と「戦う」ことを是とする人は答えるでしょう。愛すべき日本とは具体的に何を指すのでしょう。四季豊かな自然、細やかな日本の情緒、安全と豊かさと住みやすさ、基本的な保護された人権、たてまえとしての平等、民族や階級などの差別や格差や貧富の差の少なさ、スラムや犯罪の少なさ、テロなどのなさ、などでしょうか。総じて世界の他の国よりも、まだまだ日本はムラ社会的であり安全で住みやすいようです。(そのどれもが変質しつつあるのが現代の日本のようですが)


では、これらは他国に侵略されたら失われてしまうものなのでしょうか。現在もあちこちで民族自立の動きは盛んですから、侵略された小国の気持ちは分らないかもしれません。一番守りたいのは、日本人としての「誇り」なのかもしれません。こういうものをまとめて「愛国心」と呼ぶのでしょうか。


ただ、守るべきものが国家であるという考えは、ちょっと考えてしまいます。「愛すべき日本」の姿とは少しずつ違う方向に動いているのが現在の日本ではないでしょうか。また享受している「安全と豊かさ」も、何に拠って実現されているのか考える必要もあるでしょう。現在の政権あっての日本であるとしても、ホンネとしては現在の政権を守るためには誰も戦わないのではないかなと、ふと思ったのでありました。

国際貢献って何なのか?



現在のイラク派兵やPKOというのは「国際貢献」と目的での軍隊の派遣です。国際協力という枠組みの中での軍隊の役割と防衛のための軍隊の役割というのは、分けて考えるべきなのかもしれません。国際協力に対する意味と目的というのも十分に議論されなくてはなりませんが。


さて、国際貢献という名のもとで海外に派兵しますが、テロに対しては「武器の使用」でも「武力の行使」でもどちらでも良いのですが、自分達が死なないために武器を相手に突きつけることになりますよね。さて、テロリストという定義も実は非常にあやふやなものなのですが、テロリストが「自分たちの権利を守るため」に戦っている以上、それが国際的に許される行為だろうとなかろうと、逆転して考えた場合、立場は同じなのではないかと思うのです。価値観が違うだけということで。

他国の救済と復興とは?



さて、そう考えると私には「戦う大義」や目的が見えなくなってきます。フセインや金日成は「絶対悪」であるから、また政権下の民衆は圧制を強いられ、恐怖と困窮に喘いでいるので、政権は倒さなくてはならない、独裁者は殺さなくてはならない、ということでしょうか。


でも誰も表立って「北朝鮮政権を早期に転覆させ一刻も早く民衆を解放すべし」とは主張しませんよね。国家の主権に関わる問題だからでしょうか。「倒すべき動かしがたい事実」が不足しているからでしょうか。今回のアフガニスタンにしてもイラクにしても、植民地支配の時の考え方、大東亜共栄圏とかいって、欧米諸国の植民地支配からアジアを開放すると主張した考えと、実は何も変わっていないのではないかと考えるわけです。


勉強不足な私は、そもそも自衛隊の「国際貢献」というのが、具体的には何を成し遂げているのか、いまだ理解しておりません。

2004年3月3日水曜日

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。