Voice 4月号(PHP研究所)が『目覚めよ、自衛隊』という特集記事を載せていましたので、面白そうなので買って読んでみました。
執筆は、中曽根康弘氏、田原総一朗氏をはじめ、拓殖大学教授の森本敏氏や同じく拓殖大学海外事情研究所の佐瀬昌盛氏などの『私の自衛隊改造計画』という私論、そして西尾幹ニ氏と志方俊之氏との『自衛隊は戦えるか』という対談、最後はハドソン研究所主席研究員の日高義樹氏の『外務省は自衛隊を見殺しにする』という記事まで、結構盛りだくさんです。
論調には多少の温度差はあるものの一律です。彼らの主張をかなり乱暴ですが意訳すると以下のようになりますでしょうか。
- 日本には国防に関する意識が欠如している。
- 冷戦時代とは世界の情勢が変わった。冷戦時代は安保の傘のもと憲法を持続させることが国益に適っていたが、現在は事態が変わった。
- 日米安保は維持させるべきである。それは今でも核を持たない日本に対する抑止力となっている
- 世界がテロとの戦いへと移行した以上、憲法九条ニ項は少なくとも変えるべきである。
- 現行憲法であっても自衛隊の集団的自衛権は認められていると考えるべきである。独立国である以上、集団的自衛権を持つのは当然である。
- 集団的自衛権に関する日本政府の見解は、昭和30年2月29日の衆議院内閣委員会における鳩山一郎総理大臣の答弁から変わることはない。すなわち集団的自衛権につては現行憲法下でも既に30年前から認める考えを集団的自衛権の行使は当然のことである。
- 自衛権の行使を認めない、自衛隊を専守防衛に限定するのは自虐的歴史観に基づいている、あるいはアメリカのいう「ビンの蓋」理論に他ならない。
- 自衛隊は軍隊ではないため、軍法などが整備されていない。国際貢献として海外に派遣されても自分の安全も確保できないばかりか、行動に制限が多く十分な貢献活動が果たせない。
- 自衛隊を派遣するたびに法律を作るという状況はおかしい、防衛基本法の整備がぜひとも不可欠である。<
- 日本にとっての脅威は明らかに北朝鮮であり、あるいは中国と台湾の紛争の結果も懸念しなくてはならない。国益とともに国際関係の中での情報収集など強化してゆくべきである。
- 外交カードとして「戦争」も最終手段としてありうると国外に示すことは重要なプレッシャーである。
読めばそれなりに妥当性を感じます、国際関係がきれい事の外交や理想論的な平和主義では立ち行かないことは、さすがに分かります。国防なくして国家が成り立つかと強く言われれば答えに窮しますし、君は身の危険が迫ったら座して死を待つのか、家族が危機に瀕したら立ち向かわないのか、と問われればこれも、立ち向かわないとはいえないでしょう。
絶対正義の戦争などこの世にあるのでしょうか、あるいはあったのでしょうか。本雑誌の「ボイス往来」という読者欄で、80歳の男性が「(イラク戦争は)古今往来、洋の東西を問わず、人類史上でこれこそが100%の正義の戦いであったと断言できる戦争」と言っているのを薄ら寒く感じます。
しかしです。彼らからごっそりと抜け落ちているのは、最終的に戦争を覚悟するということは、戦地で殺し合いをするのだという皮膚感覚です。湾岸戦争からアメリカは精密兵器を使ったピンポイント攻撃を全面に打ち出し、従来のドンパチ型の戦争とは質が変化したことをアピールしています。中曽根氏も近代兵器をもっと充実させるべきだと説きますし、西尾、志方両氏はもっと民間技術を活用して軍事利用せよ(新型兵器を作れ)と主張しています。
ここでも抜け落ちているのは、ピンポイント爆弾の下に居る者たち、ピンポイント爆弾のボタンあるいはレバーを押すものたちの肉体と意識です。アフガニスタンでも大量に投下されたレーザー誘導弾GBU28(バンカーバスター)、燃料気化爆弾BLU82(ディジーカッター)、クラスター爆弾などなど。その下には軍事施設の鉄とコンクリートだけではなく、生身の人間も居るわけです。
現在の自衛隊の武器使用は警察官職務執行法に準じているため、軍隊としての武器使用ができないと論客の方々は口を揃えますが、ここでもそうです。危険が迫ったら、自らの機関銃で相手を掃射せよと言っているわけですよね。
Voiceの執筆人の方々は、決して「好戦論者」ではなく、戦争と平和とどちらが良いかと問われれば間違いなく平和維持と答えるでしょう。外交と国防に関する考え方は、結局国益と国家というところに行き着くようですが、ここに平和主義者とは絶対に相容れない溝があるように思えてきました。
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