先日、フィリッポ・ゴリーニのピアノ演奏による「フーガの技法」を聴いたので、改めて昔の名盤と言われている、グレン・グールドの演奏を聴いてみました。
https://music.apple.com/jp/album/glenn-gould-edition-bach-the-art-of-the/179940316
しかし、アルバムや演奏云々をする前に、この演奏は別格でした。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
先日、フィリッポ・ゴリーニのピアノ演奏による「フーガの技法」を聴いたので、改めて昔の名盤と言われている、グレン・グールドの演奏を聴いてみました。
https://music.apple.com/jp/album/glenn-gould-edition-bach-the-art-of-the/179940316
しかし、アルバムや演奏云々をする前に、この演奏は別格でした。
以前紹介したように、グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタはとても個性的です。ピアノの先生は間違っても生徒にグールドのモーツァルトを薦めないと思います。本盤は抜粋版ながらも、そんな異様なモーツァルトの片鱗を堪能することができます。
異様に遅いK.311《トルコ行進曲付》を除いてテンポは極端とも言えるほどに速い。繰り返しをバッサリと削除しているようで演奏時間もとても短い。従って、ともすると冗長で退屈になりがちな曲が、キリリと引き締まりドライな印象を与えます。ドライと言えば、これ以上に乾いた表現は考えられません。あの愛すべきK.330さえもがグロテスクなまでに変形し無数の音の粒が跳ね回ります。
ピアノ音に混じってグールドの調子はずれの鼻歌も聴けます。彼の歌を聴いていると、本当にグールドはモーツァルトが嫌いであったのかと疑問になります。グールドのモーツァルトは他の誰の演奏にも似ていず、その天衣無縫さは驚くばかり。こんなのはモーツァルトは認めないという人もありましょう。しかし、これが私には何とも小気味良い。音の煌きと躍動するリズム感。まるでチェンバロのような反応の良さ。そして、モーツァルトが秘めた哀しみと悦びの表現は、グールドの演奏であっても全く損なわれることなく、聴くものに愉悦と快感を与えてくれます。
この演奏にハマってしまうと、抜粋盤では全くモノ足りなくて、全曲を聴いてみたくなります。いつか入手することとしましょう。
K.310イ短調はモーツァルトの中でも数少ない短調のソナタです。作曲は1778年のパリ滞在中のもの。最愛の母を亡くした哀しみが表現されているのか、あるいは思うようにパリで評価されず、満足な職を得ることができない不満をぶつけているのか、実際のところは分かりません。第二楽章こそモーツァルト的な優しさに満ちているものの、第一楽章と第三楽章の暗さと情熱は一度聴いたらなかなか忘れられません。
そして、グールドの演奏のユニークさと激烈さも特筆モノと言っていい。木で鼻をくくったような出だしの響き、極度に乾燥した音色は詩情をほとんどたたえず、冷徹に曲を虚空に放り出します。あまりにこの演奏は厳しく、突き放した孤独の中を駆け回ります。しかし激烈ではあっても曲や作者への感情移入は聴かれない。冗長さは全くなく、研ぎ澄まされた演奏から聴こえるのはグールドの皮肉とその裏に隠された意図か。
異様に速いテンポと相まって、この演奏を聴いてしまうと他の演奏は「生ぬるく」聴こえてしまう。私は非常に面白く聴いていますが、モーツァルト好きには受け入れがたい演奏かもしれません。
ファジル・サイの解説を読んでいると、グルダやグールドと比較している文章に出くわします。サイがジャズも弾くからグルダと似ているとか、グールドのように調子はずれに弾きながら歌っているからグールドの再来だとか、そういう表層的なことではないとは思うのですが、本当に二人にサイは似ているのでしょうか。
例えばグールドです。彼は1955年の《ゴールドベルク変奏曲》で有名になり、サイも1997年のモーツァルトがフランスでブレイクしました。どちらも録音媒体で有名になったのですね。ただ、フランス人というのは自分達とは異なったキャラクターを好む傾向があるようですから(>雑駁な偏見)、ちょっと眉に唾して評価を考えなくてはいけないとは思いますが。
で、他の人の評価はおいておいて、グールドのモーツァルトを改めて聴いてみました。とりあえずシングルのこの盤からK.331《トルコ行進曲》です。ちなみにグールドはモーツァルトが嫌いであったとされています。「モーツァルトの作品が嫌いだというのではない。もっと否定的だ。つまり許し難いのだ」という言葉も残しています。グールドはモーツァルトのどこが嫌いだったのでしょう。その冗舌性、俗に溺れ媚びた音符が許せなかったのでしょうか。
従ってといいますか、このK.331は極めて異質です。グールドのピアノのテンポのユニークさは今更言及するまでもないのですが、この演奏のテンポ感(遅さ)は曲を全く別物にしてしまっています。例えば私の好きなK.310イ短調のソナタの激烈な速度と比較しても、それをあざ笑うかのごとくに対照的なのです。曲が裸になって、むき出しになってしまったような感じとでもいうのでしょうか、虚飾も興奮もない。サイがジャズにまで変奏して弾ききった魅力は片鱗さえ見せません。そして、そこに、どこか諧謔的雰囲気とともに此方にはない安寧を求める孤独を感じます。
サイは、モーツァルトの「哀しさ」を表現しても、間違っても「孤独」は表現しない。こんな表現をしてしまう演奏者とサイが「似ている」とはどういうことなのか、と考えてしまいます。何度かこの盤を繰り返し聴いていますが、意識せずに涙がこぼれてしまう。サイのモーツァルトを聴いても嬉し涙は流しても、決して泣きはしません。
定期的に拝読しているブログ日用帳で『インヴェンションとシンフォニア』についての言及がありました。グールドの盤がiTunesに入れてあったなあと思い出し、エントリで触れられている四方田犬彦氏の文章を読みながら演奏を聴いてみました。