時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2002年1月3日木曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第7番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
演奏時間は22分3秒であるので比較的遅目の演奏と言えるかも知れない。非常にゆったりしたテンポで朗々と唄われているように感じる。演奏は今までのベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の特徴として挙げられる、クリアさ、そして明るさというものが透徹した演奏になっていると思う。弦楽器の美しさなどはシベリウスの禁欲的な性質の音楽をよく表現するかのように、滑らかにして優しくそして美しい。冒頭のアダージョ部分の抒情性の表現は見事であり特に聴き入ってしまう。
ベルグルンドの演奏は、感情表現についても抑制的で、非常に淡々と音楽を進めているようにも聴こえる。したがって、先のデイビス盤の方が劇的に聴こえてしまう。特にティンパニの扱いなどはそれを全面に出すことなく柔らかくそして乾いた音で響かせることで、幽玄たる雰囲気を作っているように感じられる。
この曲の持つ魅力については、デイビス盤で大まかに言い尽くしてしまった。しかし私はベルグルンド盤を聴くことで、この音楽に込められた独特の寂寞感と永遠への憧れのような感情を改めて強く感じることができた。またシベリウスの音楽には煌きがある、とは何度も書いてきた。ここに至っては音楽の全ての部分に無数の煌きを感じ、永遠なるものに向かって一歩ずつ歩いてゆくかのようなイメージが強く浮かぶ。
��番交響曲は、ダラダラとアダージョが続くといった類の音楽ではない。Allegro や Vivace に相当する部分もあるように、爆発的な頂点なども用意されている。しかし、それを開放的な爆発とは表現していない。抑制し溢れてしまったあとに来る寂寞感の方が強調されるようである。従ってこの部位は、やたらと激しくうるさいよりは、ポイント的に激したような表現の方が適切なのかもしれない。
この曲でのトロンボーンのテーマは象徴的でさえあると思う。主題は全部で3回登場するのだが、最後の18分頃に再現されるトロンボーンのテーマは、何かを突き抜けた先の世界を表出しているようだ。混沌とした中に白色に煌く光、そしてそれに包まれるかのような至福のひと時を感じる。ここの表現はまさに圧巻と言えるかも知れない。19分後半の爆発的な頂点の後の弦の寂寞感も素晴らしく、深い感動の中で音楽が閉じてゆくさまは大きな感動を与えてくれる。
シベリウスの音楽も抑制的かつ禁欲的だが、ベルグルンドの演奏解釈も、それに忠実かつ禁欲的である。従って、ここに大きなドラマや劇的な感動を求める方には、あるいは物足りない演奏と聴こえる可能性もなきにしもあらずだ。これは、シベリウスという音楽家に何を求めるのかということにも関わる問題かもしれない。
2001年11月26日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)による交響曲第6番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)
録音:1970
BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。
ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。
シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。
この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。
断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。
ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。
第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。
第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。
終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。
シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。
同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。
ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。
シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。
この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。
断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。
ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。
第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。
第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。
終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。
シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。
2001年9月9日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。
この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。
上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。
ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。
このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。
強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。
それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。
例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。
もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。
2001年7月18日水曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第4番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Sep 1995 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
シベリウスの4番は本当に暗く救いのない音楽なのだろうか。今まで、デイヴィス、カラヤン、マゼールと聴いてきたが、これらの演奏は暗さだけではなく静かな煌きを感じさせる演奏であるように思えた。
ベルグルンドの盤も、どちらかというと美しさや静謐さが強調された演奏であると思える。加えるに、先の盤と比べて決定的なのは、ベルグルンドとヨーロッパ室内管で奏でられる音楽の純度の高さと、孤高という言葉さえ浮かぶような美しさ、そしてシベリウスの音楽に対する深い造詣のようなものさえ感じることができる演奏であるということだ。
端正さという点では、思わず居住まいを正して聴かざるを得ないような雰囲気さえある。演奏自体に贅肉がなく、室内楽を聴くかのごとき簡素さを感じるが、それが何と曲の雰囲気に合っていることだろうか。以前にも書いたが、オケの響きには雑なところや粗さは全く発見できず、完成された美しはまさに特筆ものである。隅々まで神経の行き渡った演奏からは、暗い楽句であっても救いや解決のないというイメージよりも、深い思慮に沈む哲学的静けさを感じる。いろいろな人が「別格級」と称する意味が分からないでもない演奏である。
第一楽章冒頭の低弦とチェロの響きは本作品を特徴付ける部分だと思うのだが、この演奏からは余計な感傷や感情のようなものを感じず、虚空に投げ出されたかのような所在無い印象が受ける。その枯れた感じは極限まで切り詰められた緊張感に満ちており、何かひとつが加わっただけで崩れてしまうかのような、純度の高さを感じる。続いてかぶさるヴァイオリンの透明な美しさには宇宙的な広がりさえ感じ、音楽のイマジネーションの豊かさには陶然としてしまう。
曲の解説などによると、風光明媚で知られるコリへの旅行から曲のインスピレーション得たことに言及されている。シベリウスの音楽はR・シュトラウスのような標題音楽ではないことには同意するが、一方で過度に作品の成立背景を解釈の足がかりにするのもいかがなものかと思う。確かに聴きようによっては、視界がひらけたかのような音楽的な広がりが、「アルプス交響曲」にも似た感興を湧かせる部分がないわけでもない。しかし、音楽のありようと演奏を聴く限りにおいては、ベルグルンドは何か音楽そのものを忠実に演奏しているようなスタンスを感じるのだ。そこから湧き上がってくるのは、純粋に音楽的な満足と広がりである。
第二楽章にしても、風景描写的な演奏と感じるのは聴き手のイメージのふくらみ、あるいは思い込みのせいだろうか。俄かに翳をさすかのような音楽の移り変わりにしても、浮き沈みする感情の振幅と感じさせる場合もあれば、北国の短い夏を思わせる場合もある。しかし、音楽に深く耳を傾けるならば、そのどちらもイメージは正しくないのだと思い至る。あるのは、流れ行く音楽だけだ、この楽章も言葉には還元できないことを知らされる。
第三楽章はフルートの調べやホルン、チェロの響きがあたかも幽玄の世界をさまようかのごとき感がある。フィンランドの深く暗い森の中を、あてどもなく逡巡する姿や、楽章最後に現れるテーマが断片的に見えるさまは、霧の中から垣間見える雄大な景色か、あるいは作曲者自信の哀愁の感情表現なのだろうか。風景描写的と思って聴けば、そう聴こえるし、過度に思い入れを入れると、あたかも悲愴なる運命との出会いのようにも、シベリウス本人の嘆きにも聴こえる。
シベリウスはこの曲を「心理的交響曲」と呼んだらしいが、これにさえそれほど拘泥する必要はないのかもしれない。主題群が断片から姿をあらわし始めるさまなどは、ここでも宇宙的な創造を、あるいはブルックナー的な峻厳ささえ漂わせているではないか、何と美しき音楽であることか。もしかすると、この楽章はシベリウスの書いたレクイエムなのではないだろうか。
終楽章の明るい煌きから、全てが解体され殺ぎ落とされるラストの対比も見事である。今までの虚飾や光を全て失い、丸裸の状態で放置されるという音楽のありようは、残酷さや救いのなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、ラストは決して孤独や絶望、諦めだけではなようにも思える。
もっとも、以上のイメージとて、これを聴いたときの感情に支配されるものだろう。ただ、ひとつだけ言える事は、交響曲第4番というのは、暗いだけの音楽ではなく、素晴らしくイマジネーション豊かな世界であり、また北欧的な美しさや静謐さ、北国的な生命力や死生観、人生における喜びや哀しみ、感情の振幅など多くの要素を、非常に凝縮した音楽に結実した稀に見る名曲なのではないか、と思い至ったのである。地味目の曲だが広がりはまさに宇宙的なのである。
繰り返すが、まさにそういう印象を与えるという点においても、ベルグルンドの演奏は別格級であるのかもしれない。こうなると、暗さの極致といわれるケーゲル盤をぜひとも入手して聴きたくなるのであった。
2001年6月11日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第3番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
先のデイヴィス&ボストン響の演奏を何度も繰り返し聴き、交響曲第3番は愛らしくも節度のある曲という印象を持ち始めていた。いいかげん慣れ親しんだつもりで改めてベルグルンドの演奏を聴いてみるたのだが、これがまた全く新鮮であり、静かにして深い感動が沸き起こってくるのを避けることができないかった、非常にすばらしい演奏である。
抑えられた感情表現が深く音楽の中に透徹しており、シベリウスが「混沌の中から明らかになる思考」と表現した何かが見えてくるかのようである。演奏の感想を書こうとしたが、書いてみたら、演奏から得られたイマジネーションを書くに終始してしまったが、ご容赦願いたい。弦がどうのとか打楽器がとかいう評は、本来的には音楽を聴いていることにはならないと思うので、こういう感想でも良いじゃない、て、言い訳に近いが(^^;;
第一楽章はクリアな音質とスピード感により曲が浮き立ってくる。第一主題から盛り上がってゆくところは霧が晴れたかのような印象を受けるが、迷いからの開放の象徴なのだろうか、非常に内的な満足感を覚える部分である。この数分間はこの交響曲を貫く基本的なイメージを凝縮しているように思える、極めて密度の高いテーマ設定だ。
引き続く第二主題との明暗の対比も見事であり、ここには深く考え込むかのような姿勢が見える。中間部の静かにして複雑な絡み合う部分は、テーマが展開されてゆき色彩豊かに語りかけてくる。弱音の中にも聴き所が多くハッとさせられる美しさが込められている。
再現部は歯切れのよさと粒の際立ちがすばらしく、シベリウス自身の内的な心情の吐露のようでもあるし、あるいは北欧の光に満ちた風景の描写のようにも聴こえる。透明感と輝きはシベリウス独自の世界であり、この楽章だけでシベリウス的な音響を十二分に満喫することができる。
第二楽章は、森の精が優しく語りかけるのに耳を傾けている、あるいは、そよ風が頬をなで、移ろい流れてゆく光と影を追うかのような印象を受ける。重層的に単純なテーマが展開されてゆき、ひとつひとつの感情が織り込まれてゆく。さまよい探るように進める歩みは、何かを発見する期待と喜び、はたまた、見つけることのできない不安と戸惑いを感じさせる。この楽章のテーマは聴くたびに、違った感情を抱かせ驚くばかりである。ピチカートにより導かれる後半は、何かを見出し歩み始めた姿を見ることができる。着実に歩みはじめるが、彼の見つけたものは何だったのだろう。風を感じる・・・・・全身を吹き抜ける風・・・、立ち止まって全身で風を感じるが心は満たされており、進むことに不安はない。
第三楽章では、いきなり扉は開けられたと感じる。新たな生命の宿りと息吹をイメージさせるような冒頭、止まることのない運動性を感じる楽章である。経過的な断片的フレーズを積み重ねながら、ある結末への期待を孕ませたまま、賛美歌風の終結部に至るのだが、その移行部分の厳かさと敬虔さには、胸を打たれる。決して大げさに歌っていないのに全身に喜びのようなものが満ち溢れてくるのを留めることが出来ない。この部位でも光を感じることができ、それは、何かに対する大いなる祈りと感謝の気持ちに昇華してゆく。解説にある「賛美歌風」という表現の適切さに納得させられる。
こうして聴いてくると、この短い交響曲だが3番を抜きにしてシベリウスを語ることはできないのではないかと思う。初演時、聴衆には4番ほどではないにしろ「わかりにくい」と取られたらしが、この曲のどこに難解さがあろうか。
この演奏からは、シベリウスの描き出した光と風を全身に浴び、その至福の中に生きていることの喜びと素晴らしさ、あるいは自然の美しさを、感謝の気持ちを込めて静かに深く祈るかのような気持ちを感じ取ることができる。世俗的な雑事を離れた純粋なる感情であるだけに、曲には質素さと清潔さが必要であり、彼のテーマから得られた必然による交響曲の構成という気さえしてくるのだ。
デイヴィス盤も決して悪くはない。しかし、これほどの内的な満足を感じさせてはくれなかった。聴くほどに全く別物の演奏であると感じ入るばかりである。
2001年5月15日火曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第2番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
オーケストラの音色はオーボエの音で決まるという人がいる。その人は、有名どころのオケであればオーボエの音だけでどこのオケであるのか言い当てられるという。さて、このヨーロッパ室内管の音も、出だしのオーボエの音が非常に特徴的といえるかもしれない。端的に言ってしまえば、ある種の明るさと軽妙さが感じられるのだ。また演奏の歯切れがよく、そして音がきらめいているようだ。全体にフットワークも軽く、さらさらと流れるように音楽が動いてゆくのを感じることができる。この演奏に初めて接したときハッとする何かを冒頭から感じさせてくれることは特筆に価すると思う。
軽妙と書いたが「軽い演奏」ではない。むしろ全く逆であり、終楽章を聴き終わったあとには、ため息しか漏らすことができなかった。音楽が心の深いところから満ちてきあふれてしまうのを留めることができないのである。いやはや凄い演奏だと全面的に降参である。
音のきらめきは第一楽章の出だしからして顕著である。第一主題が奏でられた後の弦セクションの透明にして艶やかな響きや、その裏での木管の複雑な伴奏など、陶然とさせられてしまう。それにピチカートの響きの繊細なこと。第一主題と第二主題が混じり合う部分においてさえ、見通しのよさがあり、それに引き続く複雑な音形からの盛り上がりも非常に正確に聴こえる。中間部、ファゴットにより第二主題が再現すると雰囲気が一変するが、あたかも回りの空気の色さえ変えてしまうかのようだ。
ここまで聴いてきて、流れるような演奏の中から、見事な音の牙城が築き上げられてゆく様を感じることができる。先のデイヴィス盤と比較してしまうと、むしろデイヴィスの方が情景描写的と思えてくる。この演奏からは、大いなる風景を前にしたような感動というよりも、内から満ち足りてきて大いなる情動と、その後に祝福と光を受けたかのような深い満足感を覚えるのである。
第二楽章のピチカートは一楽章とは雰囲気を一転させ、内面に深く降りてゆくステップのように思える。その深く降りていった先に(あるいは深い洞窟をもぐっていった先に)見えるのは、オーボエのほの暗いテーマである。それは光なのだろうかあるいは陰なのだろうか。見知らぬ場所で、ふと死の陰をまとった老人に出会ったかのようである。
この楽章は、聴けば聴くほどに幻想的であり、まるでひとつの交響詩のようにさえ感じられる。賢者のようなものから啓示を受けてひれ伏すような場面(トランペット)や、慰めのテーマなど(トランペットとフルート)。ラストの木管のトリルは確かに哄笑か悪魔的な響きにさえ聴こえるではないか。しかも、この楽章を聴くと、テーマの裏の伴奏て木管などが非常に複雑な動きをしていることにも気づかされる。オーケストレーションに独特の深みを与えているようだ。
第三楽章はさらにオーケストラは色彩豊かになってゆく。何度か挿入されるゲネラル・パウゼをはさんで、緊張と弛緩を繰り返しながら、わしづかみにされるようにしてひとつの頂点(第四楽章)に連れて行かれるさまは圧巻である。四楽章の第一主題は、山の頂から大地を望むような壮大さとも雄大さとも呼べるような感興を呼び起こす。何かひとつ抜け出たという印象を与えるところが、この交響曲の標題性を喚起させるのかもしれない。
第二主題が再現される後半で、三拍子の裏でティンパニが鳴らされる部分がある。哀愁を帯びたテーマが綿々と奏される部分だが、この部位、デイビスはティンパニを十分に響かせ効果的に感情を高めているのだが、ベルグルンドはむしろティンパニを目立たせない演奏をしている。感情を抑えた演奏のように感じたのだが、しかし、どうしたことなのだろう、コーダに至ったときに、いつの間にか臨界点に達していたかのように大いなる感動を覚え、打ちのめされてしまっている自分に気づくのだ。
ところでラストの圧倒的な高揚感は、いったい何に対する勝利だったのだろう。こうして聴いてみると、Johansenさんが自分のHPで述べられているように(曲の解説を参照)、民族的な勝利とは別の要素を感じずにはいられないのだ。1楽章の叙情性や明るい世界と、2楽章のひたすら内面世界に沈み込むような世界、このふたつの曲のありようを考えると、3楽章から4楽章への移行を単純に民族的高揚には結び付けにくいという印象を受ける。シベリウス自身の非常に内面的な葛藤と克服(Johansenさんは宗教的エネルギーとまで言う)という見方の方が、的を得ていると思うのである。我々はシベリウス鑑賞に当たって、あまりにも「フィンランディア」に拘泥されすぎてはいまいかと自省するのであった。
CD評とも曲の解説とも付かないような駄文を、またしても書いてしまったが、まあ、シベリウス的ということの解釈はさておき、つまりは最初に書いたように、もはやため息か涙しか漏らすことができない演奏であると言いたいだけなのである。どこがどうとか、うまく説明はできない、しかし、なんだか「格が違う」と思ってしまうのであった。え?これも「先入観」だって? そうかも知れないけれどね。ま、いいじゃない。
2001年5月8日火曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第1番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Oct 1997
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
2001年5月6日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ボーンマス響による交響曲第1番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ボーンマス交響楽団 録音:Sep 1974 EMI TOCE-19004 (国内版)
曲について
シベリウスのこの第1番交響曲は1899年、彼が34歳のときの作品である。
この曲を聴くと分かるが、既にシベリウス独特のサウンドが充満しており、非常に立派な交響曲に仕上がっていることに改めて気付きそして驚かされた。
彼のオーケストレーションは、激しく燃え上がる部分であっても、どこか冷ややかであり、青白き炎がたぎるという印象を受ける。彼のこの1番交響曲は、その成立過程からしても、解説にもあるように「フィンランド的情緒」とか「民族としての共感を代弁する」などの要素を汲み取ることはできるかもしれない。しかし、そのような歴史的な背景を考えずにこの曲に接したとしても、内から鼓舞されるかのような印象を受け、力が漲ってくるのを禁じることができない。
そういう意味からすると、第一楽章が一番力強く、そしてエネルギーに満ち、そしてなおかつシベリウスらしいと言える。曲の構成と分かりやすさと共感のしやすさという点でも、第一楽章が一番かもしれない。メロディラインも美しくそして、ハープが独特の色彩を与えている。力強さだけではなく、何か物悲しさと不安感の間を揺れ動くような微妙な感情も聴くことができる。しかし、総体的に支配しているのは、やはり誇りともいうべき堂々とした雰囲気であろうか。
第二楽章は緩徐楽章であるが、冒頭の弦と木管のメロディはゆったりとして、ロマンチックな気分にさせてくれる。途中に入るトライアングルやフルートのトリルも美しく効果的である。しかし、この甘さをシベリウスは余り引きずることをしない。不安げな木管のメロディに乗って到達するのは、やはり揺れ動く感情であるようだ。4分半から始まるチェロのテーマとその裏で奏でる風のようなフルートの伴奏の部分は、ものすごくシベリウス独特の色彩であり、ここを聴くだけで背筋に電流が走るような感情を覚える。そして、この楽章のラストは高揚感のある力強き感情の高まりである。激しいテーマの奏し方やその後の静かな歌い方は、チャイコフスキーの影響を感じる部分である。
スケルツォの第三楽章は、この盤の解説によると「トリオはフィンランド的田園の調べ」とある。確かに田園風景を感じさせる部位もないわけではないが、楽章の印象は性急にして非常にゴツゴツとしたものであり経過句的な印象を与える。
第四楽章は「Quasi una fantasia = 幻想曲のように」と記されているように、自由な形式をとっている。第一楽章のクラリネットの暗い主題がここでは弦で再現されるが、前楽章の性急さは受け継がれある方向性を持って動いてゆくように感じる。3分半ころから始まる、弦による第二主題は何かの唄だろうか、ハープの響きも加えられ、この曲の聴き所の一つと言えるかもしれない。この旋律にかぶさるように始まるトランペットの響きの扱いなど、本当にシベリウス独自の世界だと思う。激しさと性急さと、そしてメランコリックな雰囲気をごちゃ混ぜにしたような印象で、「幻想曲のよう」と言われれば納得はするのだが、気まぐれな印象を受けないわけではない。最後に向けてひとつのところに求心してゆくようなエネルギーには少し欠けているようにも思える。もっとも、9分に再現される第二主題は、以前よりも確信を持っており決然とした感情さえ漂わせている。二つの感情の間を揺れ動いていたシベリウス自身が、ある結論をみたようであり、ラストは今までにないほどの明確な意思をもって曲を終えるのかと思いきや(!)、弦のピチカートによるで(第一楽章と同じように)締めくくられる。私はここに、不安を残したまま煮え切らない印象を受けて少々当惑する。
このような感情の揺らぎや自身と不安の表出は、シベリウス自身の境遇や、当時のフィンランドの情勢を映しているものであることは予想がつくのだが、いまの段階ではあまり詳しく調べていないのでここに書ける事はない。また、シベリウスの交響曲はチャイコフスキーの影響を色濃く受けていると良く評されるようだが、私が聴く限りにおいては、二つの交響曲は目指すテーマにおいても別物であると感じざるを得ない。
確かに形式だけ考えれば、第一楽章冒頭のクラリネットのテーマが第四楽章において弦楽器で復活するなどの手法も、チャイコフスキー的と言われれば、なるほどとは思う。また、民族的なものを鼓舞するような部分も見られはするが、一番の違いは、チャイコフスキーのような「激情の赴くままの吐露」というものは、彼の曲からは感じない。むしろ不安さとナイーブさの点ではシューマンに近い感情を感じるのだ。
この演奏について
シベリウスといえばベルグルンドというくらいに有名なのだが、この盤は彼の3つの全集のうち、一番古い録音で、ボーンマス響とのものである。
弦の音色の重心が低く、そして打楽器も決然として力強い。そのため、ちょっと粗削りな印象は受けるものの、シベリウス独特の冷ややかさと劇的さがうまく表現されているのではなかろうか。緩徐楽章なども甘くメランコリックになりすぎず、節度をもった奏し方であると思う。
この段階では、ベルグルンドの最新盤を聴いていないので、彼の解釈がどこを指向しているのかを明確に言うことはできないのだが・・・・
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