2001年9月9日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Dec 1996 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。
この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。
上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。
ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。
このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。
強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。
それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。
例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。
もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。

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