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2020年4月8日水曜日

【音盤】レ・シエクルの展覧会の絵

 

2004年12月27日月曜日

【音盤】キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵


今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
  1. ムソルグスキー:展覧会の絵
  2. トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
  3. ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
  4. 組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
  • キーシン(p)
  • 2001年8月4,5日、フライブルク
  • RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2003年7月5日土曜日

【音盤】ホロヴィッツの展覧会の絵など

Mussorgsky:Pictueres at an Exhibition
Scriabin:Etude Op.2 No.1、Prelude Op.11 No.5、Plelude Op.22 No.1
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever

BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。

ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。

音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。

他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。

「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。

ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。

いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。

2003年6月16日月曜日

【音盤】恐るべきアファナシエフの展覧会の絵


ムソルグスキー:
 組曲《展覧会の絵》
 ピアノ小品
     間奏曲、情熱的な即興曲、お針子、瞑想、夢
 
ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ
1991年6月3-6日 フランクフルト、ドイツ銀行ホール
DENON COCO-70530 CREST1000(国内版)

アファナシエフの演奏は「遅い」ことで有名である。CD解説にも『「現代」という時代に鋭い一撃を加える狂気の一枚』『徹底的に遅いテンポで作品に潜む狂気に光を当てた快演』とある。簡単に"狂気"などという言葉を使うものではないとは思うのだが、一聴してみて、いったい私は何を聴かされたのだろうかと呆然となってしまったことも否定できない。

《展覧会の絵》といえばオーケストラバージョンにしても、ピアノバージョンにしても、それほど深刻にならず、美術館を軽く散歩しながらワクワクし、ドキドキし、最後は心地くも壮大なるカタルシスを得ることを期待していたはずだ。

しかし、何かが違う。

《プロムナード》からして驚きだ、彫りの深い響きでのっけから圧倒する。《グノームス》も恐ろしく異様だ、いや異形と言って良い。反響が消えるまで引き伸ばされた、一瞬間違えたのではないかと思うほどの長い間、その後に重なる和音の鈍い色彩。まさにグロテスクを絵に描いたような小人の姿がそこにある。


異形なのは《グノームス》だけではない。《古城》はもはや枯淡の境地に逝ってしまっているし、明るいはずの《チュイルリー》は憂鬱を引きずり、ヒナたちは殻をつけたまま転げまわることはしない。音響の濃淡やダイナミックさは極端なまでに大きく、そこから何かがふつふつと湧き上がってくる。いや何かが姿を現してくる。

特に最後の《キエフの大門》に至っては、大門の建設に掛けた情熱とその虚構と幻影が、もはや現代音楽を聴いてるのではなかろうかというほどの歪な音塊とともに暴露されてゆく。こんな、痛々しいまでの《キエフの大門》は始めて聴いた、こんな《展覧会の絵》は一度も聴いたことがなかった。おそるべしアファナシエフ!

アファナシエフ自身、文学や演劇にも造詣が深く、もはや音楽家とは言えないほどの幅広い活動を展開していると聞く。写真は《展覧会の絵》のためにアファナシエフ自身が書いた台本をもとに上演された人形劇らしい。(全ての写真CDジャケットより)

演奏が遅ければ良いわけでも、「精神性」が深まるわけでもない。アファナシエフは中沢新一や浅田彰などの思想界のオピニオンリーダー達に絶賛されているという。彼らの思想を全く理解できない私には、彼らが絶賛する理由を一生理解することはないだろう。しかし、ほとんど異形というべき演奏が付き付けるものは、鉛のように重たくそれでいて確かに鋭いと思わざるを得ない。



2002年4月27日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く(2)

引き続き「展覧会の絵」を聴いてみた。かのチェリがミュンヘンを振ったEMI盤である。これも有名すぎて聴きのがしていた1枚である。

チェリビダッケ指揮 ミュンヘンフィル
1993年 ミュンヘン、ガスタイクザール ライブ

この有名なる「展覧会の絵」を評することには大きな困難を伴うことをまず述べねばならない。CD解説の中で、チェリビダッケの息子が指摘するように、CDで聴く限り「遅すぎるテンポ設定」と感じてしまうからだ。しかし、ライブを重視し「与えられた会場の音響とそこで生じる副現象をすべて計算していた上で、いつも指揮していた」チェリビダッケにとっては、当然の帰結のテンポであり音楽だったのかもしれない。

1976年の演奏時間の比較を以下に示しておきたい。こういう対比自体が無意味であるとは思うのであるが・・・CDで聴く限りふたつの演奏はもはや別物である。

表 チェリビダッケ ふたつの演奏時間の比較
曲  目 1976 1993
プロムナード 2:10 2:33
グノムス(小人) 3:06 3:30
プロムナード 1:13 1:29
古い城 4:19 5:10
プロムナード 0:40 0:44
テュイルリーの庭 1:09 1:16
ビィドロ 2:39 3:42
プロムナード 1:00 1:09
卵の殻をつけたヒナの踊り 1:12 1:22
サムエル・ゴールデンベルクとシュレイク 2:42 3:01
リモージュの市場 1:22 1:36
カタコンブ 2:14 2:33
死者との対話 2:22 2:56
パパヤガーの小屋 3:42 4:22
キエフの大門 6:06 6:52

2002年4月26日金曜日

【音盤】チェリビダッケ指揮/ミュンヘン・フィル 「展覧会の絵」



ムソルグスキー組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
録音:1993年9月24,25日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
ムソルグスキー ボレロ
録音:1994年6月18日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィル
EMI TOCE-11608


音楽雑記帳に1976年のシュツットガルト放送響との演奏時間の比較を記載した。これを見ても分かるように尋常なるテンポ設定ではない、ここまで遅いとは思ってもいなかったというのが正直な感想だ。しかし、雑記帳にも書いたように、録音された演奏を聴くだけで、遅いだの速いだのと評することに意味があるのかは疑問である。チェリビダッケの演奏は、そのEMIからリリースされたいきさつからして、演奏評を拒絶しているところがある。そういう意味からはCDの感想を書くことには困難がつきまとうと感じざるを得ない。

しかし、考えてみれば私はクラシック初級者で一ファンでしかないので、まあそういうことを気にかける必要もないだろう。

さてだ。プロムナードの開始最初からして遅い出だしである。他の部分も全てが遅い。まるでオケが練習でもしているのではないかと思わせるほどのテンポだ。

しかし、その遅さゆえに、例えばトランペットの柔らかい響きはやゆっくりとしたリズムは、諭すようだったり、回顧するようだったりで、限りなく慈しみと優しさが根底に流れるかのようである。遅さが逆に音楽の構成や意味を見事に聴かせてくれるかのようだ。「死者との対話」がこんなにも美しい音楽であったか、しかも極めてムソルグスキー的なサウンドであることは、この演奏で再発見させてくれた。

「バーバヤガー」も「キエフの大門」も、止まるのではないかと思うほどだ。もはや今まで聴いたことがない音楽が展開されている。しかし最後まで聴き通したとき、言い知れぬ感動に包まれていることに気づかされる。なにか大きなものに懐かれるかのようなあたたかさと、安心感、そして宗教的な境地にも似た至福さえ覚える。

それにしても、遅いテンポが、音楽の構成をこんなにも残酷なまでに露わにしてしまうものなのだろうかと、驚きを感じてしまう。ここに納められている15の断片のどれもが、顕微鏡的な精度で眼前にその細部を表した上で、マクロな調和と統一の結晶を見せている。CD解説の中で、許光俊があらゆるリズムや音型が目の前で生々しい形をもって誕生し、全体を構成していくという壮大な演奏を実現したと書いているが、これには全面的に同意する。まさに私が感じた感覚もそういうものであった。細部の拡大と再構築された全体像のすばらしさは、言葉にできないほどだ。

私はチェリのこの作品を何度も聴き返すことは止めにした。チェリのEMI録音がどのような経緯で発売されたかは、皆さんはご存じだろう。チェリの息子の言葉をいまは尊重しておきたいと思うからだ。

聴き手は、録音を繰り返し再生すればするほど、自発的に演奏というイヴェントを共同体験する意欲を失います(セルジュ・イオアン・チェリビダッケ)

そうとばかり言えない面もあるとは思うが、とにかく今はその意見に賛同する。

2002年4月20日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く

ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。

カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年

私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。

演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。

チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ

チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。

チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。


ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ

ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。

2002年4月19日金曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/ウィーンフィル 「展覧会の絵」


ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
  録音:2000年4月28日、ムジークフェラインにおけるライブ
歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲(モスクワ河の夜明け)(ショスタコーヴィッチ編)
交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編)
ゴパック:歌劇「ソロチンスクの市」から(リャードフ編)
  録音:2000年12月22日、ムジークフェライン

指揮:ゲルギエフ
演奏:ウィーンフィル
PHILIPS UCCP-1053

何とも凄まじい「展覧会の絵」だ。私はゲルギエフのファンであるので贔屓として聴いてしまう傾向がなきにしもあらずではあるが、この演奏には心底驚かされた。あの「春の祭典」の後のリリースであるので、発売と同時に購入し(ゲルギエフ読本もオマケでついてくるし)何度も聴いているのだが、聴くたびに何度も打ちのめされてしまっている。

「展覧会の絵」というのはご存知のとおり、非常に描写的な曲である。そのため聴き所も多いと思う。「ブイドロ」の重々しさ、トランペットソロの秀逸な「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」、「カタコンブ」の暗さ、そして「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」に至るクライマックス。どこを取っても音楽的に申し分がない。

そういう音楽なだけに数多くの名演奏があるのだと思うが、これほどに衝撃的な演奏は少ないかもしれない。何といってもものすごいのは、ウィーンフィルの音である。もはやこれがウィーンの音なのだろうかと訝ってしまう。

ゲルギエフとウィーンの組み合わせと言えば、チャイコフスキーの交響曲5番もすごかった。この演奏を聴いて、改めて思う、オケのイメージなどどれほど正しいのだろうかと。ウィーンだから「洗練された美しさ」というイメージのみで語ることが間違っているのだと思わされる。彼らこそ世界一流のスーパースター軍団、指揮者の好みに合わせて優雅にもなれば破壊的な暴力を振るうことさえ茶飯事なのかもしれない。それほどにゲルギエフ的な(=と聴衆が期待し予測する)サウンドが展開されている。

それでもウィーンだけあってというべきなのか、細かな描写力もさすがである。力強く荒々しいだけの野蛮で雑な音楽になっていない。ソロの説得力もなるほどと思わせるし繊細な表現もある。

しかし、「バーバ・ヤーガの小屋」を聴いた瞬間には、あたかも棍棒で殴られているかのように脳天が白く弾けてしまい、正常なレビュを書くことができなくなってしまうのだ。それほどに凄まじき力と引力だ。「土俗的」とか「バーバリアンな」「ロシア的」「土臭さ」なとかのキーワード好まれるが、音楽を聴くとそれらの言葉の陳腐さと限界に思い知らされるだろう。

グイグイと引っ張られて強烈なシンバルの音のはじけた先の「キエフの大門」の広がりとパースペクティブの壮大さ。ものすごいドラマチックな音楽が構成されている。ラストに近くの鐘の音の乱舞と、ワンテンポ遅れて入る大太鼓の強靭なる響き(何と効果的なことか)に彩られた大伽藍を目の当たりにすると、もはや涙がこぼれてくるのを止めることが出来ない(・・・て、簡単に泣くなよ、音楽聴いて)。何度聴いても、何回聴いても、同じように打ちのめされる。音楽が終わった後の、壮大なるカタルシスときたら何に例えることができようか(たとえなくたっていいよ)。

この演奏はライブらしい。CDには拍手が入っていないので良く分からないが、こんな演奏を生で聴かされたら、理性を数万光年彼方へ吹き飛ばされたまま、当分社会復帰が出来ないかもしれないと思うのであった。(じゃあ、帰ってこなくていいよ)

ただだよ、付け加えておくと、「展覧会の絵」でこんなに感動するなんて、まだまだ甘いなあ、若いなあ、とも思うのだけどね、冷静になるとだよ。(冷静にならなきゃ分からんかね)

この盤にはまだ他にもイロイロな曲が収録されているのだが、力尽きた、他のレビュについてはマタコンブ(=また今度)!(ゲロゲロ)