「電線絵画展」という意欲的な展覧会が、練馬区立美術館で2月28日から4月18日まで開催されています。初日に行ってきました。
サブタイトルは小林清親から山口晃まで。(過去の書込みを調べると、山口さんの<忘れじの電柱>のインパクトが凄い「望郷」と題された銀座エルメスでの個展を思い出します。開催は2012年でしたか、そんなムカシとは思えない程に歳をとってしまった)
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) February 28, 2021
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
「電線絵画展」という意欲的な展覧会が、練馬区立美術館で2月28日から4月18日まで開催されています。初日に行ってきました。
サブタイトルは小林清親から山口晃まで。(過去の書込みを調べると、山口さんの<忘れじの電柱>のインパクトが凄い「望郷」と題された銀座エルメスでの個展を思い出します。開催は2012年でしたか、そんなムカシとは思えない程に歳をとってしまった)
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) February 28, 2021
練馬区立美術館で開催されている「石田徹也展」に行ってきました。行かずにはいられないと思って西武池袋線の中村橋まで足を運びましたが、これは正解。というか、衝撃の世界が練馬の小美術館で展開されています。必見です(→石田徹也公式HP)。
「NHK美術迷宮館」で、かの「飛べなくなった人」が紹介され、気にはなっていたのです。しかし、彼のこれらの作品をどう評価するか。深刻なメッセージと取るか、あるいは日常の違った面からの断章と取るか。石田氏自身は「ユーモア」という言葉を用いて自分の作品を説明したりもします。そう、それほど「深刻」になる必要はないのか、と思ったのが、比較的受容も解釈もできる第一展示室の作品群。
しかし、第二展示室は生と死と虚無と希望が横溢した、凄まじい世界が静かに展開されていました。驚きの作家の内実。31歳、町田付近で踏切事故で若い命を落としました。彼の作品を見ると、この先彼は生き続けることができたのか、こんなにナイーブな精神が、現代で通用しただろうかと思ってしまいます。
柔らかく、壊れやすく、あたたかく、湿っていて、決して人前には出せないので隠し持っているような何か。まるで子宮願望のような回帰性。現実に「嫌だ嫌だ」を内心では繰り返しながらも、表では能面のような風を装い、そして何かが毀れていく。石田氏の作品が内包する世界は、現実世界そのものや自分のありように対する苛立ちと反逆となって奔流します。そういう自分を「ユーモア」で笑い飛ばしながらも、目だけは笑っていない。
一貫して描かれた虚ろな目をした青年が、画布の向こうから見据える我々は、いまどんな風に見えているのでしょうか。
彼の作品は、先に紹介した公式HPでも閲覧できます。しかし、画集や画像からは分かりにくいディテールの凄まじさは、実物に接しなくては得られません。その大きさと細やかさと執拗さ。画家の精神に圧倒されます。
詳細なレポートは弐代目・青い日記帳をご覧下さい。東京では28日(日)まで開催されています。
ついこの間、上野の森美術館で「アートで候 会田誠・山口晃展」をやったばかりというのに、今度は練馬区立美術館で再び個展です。NHKの「トップランナー」にゲストとして登場したのも、つい2週間前(8/25)でしたかね。若者ばかりではなく老若男女幅広い層にまで、その人気は当分衰えることがなさそうです。
今日は14時から、山口さんのトークもあるというので、行ってきました。個展の題目は「今度は武者絵だ!」。上野と若干かぶる作品も展示されていますが、目玉は何と言っても「トップランナー」でも紹介された《続・無残ノ介》しょうか。妖刀を手に入れた男の物語。番組の中で、ライブ・ペインティングされた絵が、ロビー正面にデンと据えられいます。
あの、ライブ・パフォーマンスは面白かったですね。キャンバスに向うなり、画面情報に「ダンっ!」とばかりに筆を叩きつける。そして自ら、それで勢いを付けたかのように、画に集中する。最初の筆は何をなぞっているのか判然としません。しかし、次第にそれが人の、しかも刀の妖気に取り憑かれた男を描き出します。筆致は早く、そして的確。アーティストは描く行為そのものがパフォーマンスになるのですね。
《続・無残の介》について、山口さんは番組でこんなことを言っていました。「マンガとは違って、目の前を大きな画(等身大に近いものも)で物語が流れたらどんな感じがするだろう、自分でも見てみたかったので描いてみた」と。全く、自分が描きたいモノを描いているのだなあと。《続・無残の介》の物語は、書くのも憚られるほど「オバカ」な内容で、しびれるくらいにステキです。文字を追うのを辛抱しきれずに、流して観ている人もいましたが、それも一つの見方でしょう。
展覧会の詳細は、TAKさんの「弐代目・青い日記帳」に譲ります。
それにしても山口さんの面白さって何でしょう。チマチマとした細かさを読み解く面白さや、精密にして的確なタッチの快感。人物造型の素直なカッコ良さ。時間軸や空間軸が重層的に重なりあった独特の世界観、古さと新しさの同居した日本人的な懐かしさ、風景、人々。子供のような遊び心、ユーモア、技巧の遊戯とギャップ。確信犯的なテーマ設定と、それを批評する人さえも逆批判する眼。自分の好きなことだけを描き続けてきたというスタンス・・・。
チマチマと評しても無駄です。じっくりと作品を見て、山口さんの「綿飴」のような話を聞き、そしてまた作品を眺め、つくづくと、心の底から、「こいつは~なァ~」と嘆息し、そしてワケも分からずに「クソーっ!」と悔しがり、「今回も、やられちゃったなァ」という思いで美術館を後にするのでした。
でも、ふと思います。山口さんも自分で話されていた「作品の新しさ」ということ。同じ事をやっていたら「マンネリ」と思われる。山口さんが批判し逃れた画壇は、今も彼を無視しているのでしょうか。山口さんは確かに全く別次元を切り開いてしまいました。さてさて、その先には何があるのでしょう。彼の批評精神と、アーティストとしての「稚気」と「毒気」は、彼を利用したい山のような商業(消費)主義と、どう折り合っていくのか。全く興味は尽きません。