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2007年12月3日月曜日

【本棚】村上龍:半島を出よ

村上龍の「半島を出よ」を読みました。発刊時に随分と話題になりましたし、アマゾンのレビュ数も多い。日本を舞台にした近未来小説であり、過激なエンタテイメントであり、かつ村上氏らしい問題提起になった小説です。膨大な資料から着想を得ての作品つくりは、小説も企画と組織力による企業活動に近いと思わせます。活字密度と、内容の綿密なプロットとディテールから、硬派な小説のイメージですが、そこは村上氏、物語としての面白さの方がウェイトが大きい。それが本書の良い所でもあり、欠点でもあるかなと。

「あとがき」にもあるように、『13歳のハローワーク』チームを中心として取材や資料手配を行ったらしく、協力者が幻冬舎の石原正康常務、日野淳氏、岩垣良子氏、篠原一郎氏というのですから。まさに小説のイシハラグループではないですか。

物語は壮大で一気に読ませます。しかし問題提起の割にはラストが安直で、「最後の家族」や「希望の国のエクソダス」ほかにも通ずる願望的楽観主義を感じます。と、ここまで書いて、ちょうど6年前に読んだ「最後の家族」の感想を読み返してみました(普通は滅多に自分の感想など読み返しませんが)。

村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。
自分で言うのもなんですが、これはそのまま「半島を出よ」に当てはまりますね、というかテーマに関しては付け加えることがない。繰り返しはしませんが「自立」ということに関しても村上氏のスタンスは全く変わりません。特にイシハラグループのモチベーションとありようは印象的です。

日本の経済的衰退と国際的な地位の低下という状況、政治の機能不全、国民の平和ボケ、それらがもたらす悲劇的な日本の未来は、今はまだ小説ほど酷くはないものの、確実に日本の現況を言い当てています。日本の状況は6年前よりも悲観的なカンジがするくらいです。

「半島を出よ」とは、北朝鮮人のことではなく、日本人が中国大陸の半島の一部であると見立てて、日本人に向けて放たれた強烈な一語であるようにも思えます。

私はこの作品のどこが好きかといわれれば、間違いなくラストとなりましょうか。中学二年のイワガキが学校や家族に馴染めないでいる中、イシハラたちに出会う。そこでイワガキは彼らが集まる倉庫で、何も話さずにソファにただ座って時を過ごしている四人に会う。

だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。
ワガキは邪魔をしているような気になって帰ることにする。明日も来て良いかとの問いに、イシハラは答える。
「それは、お前の自由だ」
息苦しく絶望的描写も多い本小説において、ここだけは、ある種の解放と、限りない平和が漂う部分です。

2002年1月31日木曜日

村上龍と坂本龍一の教育対談を読んで

対談 「希望」を語る 村上龍氏×坂本龍一氏~★格差を伴う多様化が進む「普通の子供」は、もういない  ★「殺さない」「生き延びる」自分で考えて学んでほしい という記事が面白いと、紹介してくれた方がいる。

早速読んでみたが、確かに示唆に富む。それほど長い内容ではないので、興味のある方は読まれたい。二人とも、日本の枠の中には住んでおらず、その点において共通項を持つ。村上がサッカーの中田選手を「同類」と感じるのと同じ親近感を坂本に覚えているようだ。つまりは、自分の力を信頼して、自分の裸ひとつで(会社などの組織の庇護なしに)世界と対峙しているということだ。

内容は教育の話なのだが、このごろこの対談を反芻していて考える。思うに、子供はもはや一律ではなく、一律の教育というものが崩壊したことを彼らは示唆しているのではなかろうか。

世の中には、勉強の好きな子も、嫌いな子も、勉強を少しの努力でできる子も、できない子もいる。そして、それは、運動(体育ではなく)、音楽、美術活動、団体行動すべてに当てはまる。それらを、一定のレベル(偏差値50だろうが、最低レベルだろうが)を設けて一律に教育しようとして、歪がでないはずがない。

逆に、子供たちの多様性にあわせた教育メニューを、今の私達は選択することができない。親が子供の資質を見ぬいてやるしかないことになる。しかし、親とて教育のプロではないのだ。その時間もいまの中ではない。では、どこに活路を見出せるだろう。


2001年12月7日金曜日

【本棚】村上龍:アウェーで戦うために


最初に断っておくが(笑)、私は熱心な村上ファンではないし、サッカーファンでもない。Jリーグにも疎いので、知っている選手の名前は数人だし、W杯が日本で開催されるからと俄かサッカーファンを気取るつもりもない。

それでもこの本は面白い。「フィジカル・インテンシティ」というサッカー・エッセーの第3弾であり、シドニー五輪予選からセリエAまで、ナカタを軸としながら日本と海外のサッカーの温度差、ナカタのありよう、さらには彼独自の日本観を提示しているものだ。

純粋にサッカーファン(?)ならば、彼の視点はうざったいかもしれない。日本のサッカーは海外のそれに比べ、スピードも技術もない。セリエAのサッカーが速く早いものであるが、日本には足の早い選手はひとりもいない。みな遅いから、足の遅いことに気付かないなど、熱烈なファンが読んだら熱くなる部分も多いのではないかと思う。

しかし、私はサッカーに疎い。村上のサッカー論は「そういうものか」という程度の受け止め方で、理解はしても共感はしない(だって知らないのだもの)。だが、本書を通した村上の主張はダイレクトに響いてくる。それは「最後の家族」でも述べていた主張だ。

端的に言ってしまおう。本書を前にして引用しているわけではないので、多少ニュアンスは異なると思うが、彼の主張は以下に尽きる。

「生きるためには、本当に好きなものが必要である。」

「本当に好きなものが見つかると、対象と自分の間には直接的な関係性しかなくなり孤独になる。そういうときに、人と同じことをする、同好会に入るなどのような行為を取らず、自らが個として向かってゆくことが重要である。」

「人と同じであれば良いという共同体の幻想はもはや崩れ去っている。」

「ナカタのようなポジティブな人生観をマスメディアをはじめ、日本では誰も正確に伝えていない。皆がナカタになりたいと希望をもち、努力させるような伝え方、教え方をしていない」

「個人としての責任の所在が不明確な日本。不祥事やミスを犯したときの個人の責任のとり方は、その個人があとで挽回できるような形では解決されず、それが不祥事を組織内で隠蔽する温床となっている」

「コスト対利益(ベネフィット)という考え方の重要性」

「このような観点でみたとき、ナカタも自分も日本では生きにくい。」

明確かつ鋭い視点だ。上の記述だけでは分かりにくいと思うが、琴線に触れた方は是非読んでもらいたい。私のレビュなど読むよりはるかにマシである。「ゆきひろの意見箱」でもたびたび書いているが、村上の「希望の国のエクソダス」を読んで依頼、私は日本における「幸福論」というものを考え始めている。

彼の本を読んでいると、居酒屋・カラオケ的なコミュニケーションも楽しいものではあるし、共同体を認識する上には必要な行為である、しかしそればかりでは、コミュニケーションから享受できるものは恐ろしく少なく、個としての自立を阻害さえしているのではないか、ということに気付かされる。彼に言わせると、日本人は「大人気ない」という以前に「子供である」ということになってしまい、ほとんどトホホ状態であるのだが、分からなくもない。

最後に付け加えておく。村上はこれを人生教訓本や日本人論を意図して書いたわけではないと思う。結果としてそうなったというだけだ。彼のエッセーは、沢木耕太郎のスポーツエッセーや小説を読むがごとく(比較して申し訳ない!)、スポーツの真髄に触れており、スポーツエッセーとして一流のものであると思う。スポーツを通して結果として上のものが見えてきてしまったという感じだ。

2001年12月2日日曜日

【本棚】村上龍:最後の家族

最初に断っておくが、私は熱心な村上ファンではない。したがって、村上龍たらしめているような、セックス・暴力・ドラッグなどを扱った小説に、親しんでいるわけでもなければ共感を覚えるものでもない。それでも、村上の従来からの読者にとって、この小説は異質な小説かもしれないと思う。あまりにも普通の家庭が(リストラされる者とひきこもりの息子という登場人物であっても)書かれているため、毒気がなく拍子抜けするファンも多いと思うのだ。逆に私のように村上に親しんでいない者には共感を呼ぶかもしれない。

「希望の国のエクソダス」「共生虫」を読んでくると、村上はひとつの共通のテーマのもとに考えを集約させているように思える。もっとも同じ”ひきこもり”を扱ってはいるが「共生虫」とは雰囲気がかなり異なる小説だ。村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。

ここに書かれた、「最後の家族」の「最後」という意味に込められた村上のメッセージについて考えてみたい。村上は家族そのものが崩壊し、希望も夢も喪失したということを書いているのではない。最後に彼は新たな家族像を彼は提示してみせている。崩壊させたのは、戦後の高度成長期以降の日本の家族像であり、父親が中心の家族像だ。父親が強大な権力を持ち、それでいながら家庭の事象にはあまり感心を示さず、会社に奉仕することで、それを家族のためと思っているような人物像。最後になるまで自分の立場を理解できなかった、主人公のひとり(秀吉)は、会社でもリストラされ、家庭からもリストラされ二重の悲劇を被るが、そうしなければ新たに出発できないほど旧来の考えに縛られていることに驚きを覚えてしまう。


題材としては、リストラされる父親、ひきこもりの息子を中心として、父(夫)・母(妻)・息子・娘のそれぞれの視点での数日間が記されている。引きこもりの息子を理解できない父親と、カウンセラーを受けながら次第に子供との距離間をつかむことの出来た母親、ジュエリーデザイナーの恋人(?)により自立を促された娘、そして、引きこもりをしていることで、たまたま隣の家で行われる、DV(ドメスティック・バイオレンス)を目撃し、引きこもりから脱してゆく息子。

この四人がそれぞれの立場で個を自覚してゆく課程はドラマチックで新鮮だ。また「誰かを救うことで自分も救われるということはない。他人を救うことができるのは、個人が自立する=ひとりで生きていけることを示すこと以外にない」というメッセージは強烈だ。

考えてみれば、暖かな団欒のある家庭像など村上が示す前にとっくに崩壊している。しかし崩壊しただけでは後が続かない。村上は、ここに新たな再生の道として、個々の自立ということを強く主張している。自立とは他人に頼らないことだが、「自分のことを自分の意志で決める」「自分の意見、意思を伝える、話す」ということの重要性を村上は説いているように思える。ある見方からは、現状の全否定であり、ぬるま湯のような中で、相手との衝突をさけ、回りに合わせ流されながら、積極的に生きることを止めている者達への痛烈な批判でもあるように思える。

「希望の国のエクソダス」と同様に、ここに村上の持つ過激なまでの希望を目にするのだ。「希望の国~」も本作品も、考え様によっては、楽天的過ぎる結末であり大甘のファンタジーだ。もっと否定的な結末をシニカルに用意しているのではないかと途中で不安になったが、クサイとまで思えるような結末を用意したことに、村上が希望と再生を心から願っているということを理解するのである。

��追記)
実を言うと、「共生虫」は出版されてすぐ読んだのだが、全く内容を忘れている(^^;;機会があったら読み直してみたい。


2001年7月20日金曜日

村上 龍の主張

村上龍のメールマガジンはご存知だろうか?JMM [Japan Mail Media]として、毎週非常にハードな内容のメールが送られてくる。
 
No.123 Wednesday edition のラストでの村上の提言は、今月私が引っかかっていた問題を、ものの見事に言い切っているので、一部を引用したい。
 
まず競争社会の中で戦っていくのか、それとも自分の好きな道を極めていくのか、その二つくらいの道筋は示していかないといけないと思います。競争社会に適した人と適さない人がいますから。それに加えて、別に全員が競争の中で生きていかなくてもいいんだとアナウンスすることで、すごく楽になる人がいると思うんです。本が好きだったら図書館で働けばいいし、花が好きなら花屋さんで働いてもいい。そういう生き方が、年収2億円より劣った生き方では決してないということを、誰かがアナウンスしないといけないと思います。

ところでです。例えば図書館や花屋で働く収入の低い(と言い切るのも何だが、今は二極論での話なので、例えとしてです)人の生活が、十分に幸せであることが保障されている必要があるわけです。少なくとも、生活を楽しむことが出来るだけの余裕がなければ成立しない考えでしょう。また、職業に対する「誇り」と「尊敬」も必要です。
 
物価水準や社会保障制度、公的施設の充実度、税率の問題、さらには教育(内容と教育への投資金額)と社会道徳的な問題など、非常に多くの要素が立ちふさがってるような気がします。
個人的には、仕事は住宅から30分以内の職場で午前8時から14時まで働き、帰って昼寝して、夕方から自由な生活を楽んだり、地域活動やボランティアをできるような生活(まるでイタリアかスペインのよき時代か)が理想ですなあ・・・全く程遠い生活しているけど。
村上龍のメールマガジンは、下記で申し込み出来ます。
 
【WEB】    http://jmm.cogen.co.jp/