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2001年1月21日日曜日

【本棚】瀬名秀明:BRAIN VALLEY

「8月の博物館」を読んで、はやり代表作の本作を読まなければ駄目だなと思い立つ。書店にいくと昨年末に文庫化されたばかりらしく、山と積んであったので良い機会と読んでみた。

作品については、はもはや解説不要であろう。第19回日本SF大賞を受賞したベストセラーだ。なんと言ってもテーマが壮大である。「神」にせまる科学だって!と思わず声をあげてしまう。しかし、それに到るためのプロットや事実の組み上げ方が尋常じゃない。参考文献の一覧を見ただけで、これは学術書かと嘆息が出てしまうというものだ。 読みながら、「本当にベストセラーになったのか? これを読む人は皆、抵抗なく最後まで読み通せたのか?」という疑問が沸く。

「8月の博物館」でも感じたが、瀬名の場合、解説過多になる傾向があるように感じる。確かに必要な情報なのだが、我々は科学解説を読みたいのではなく、エンターテイメントを読んでいるのだぞと、ページに向かって毒づくことも幾度か。しかし、であった。圧倒的な知識量の作者と、全く赤子レベルの知識の私のような読者が、同じレベルで物語を楽しんでゆくには、我慢しなければならないハードルなのだと気づく。

いや、考えてみれば「瀬名を読む」ということは、こういう作業を経て得られる世界を楽しむという態度が正しいのではなかろうか。だってこれはSF=Sience Fictionなのだ。事実と虚構の狭間において、その圧倒的なリアルさを楽しむべき小説ではないか。

そう思い直して読み進めると、この本の提示している圧巻ともいえる世界観を理解できるような気がしてくる。「神」のあり方や、臨死体験、アブダクティー、脳の機能などについては、幸いにして我々はさほど難しい本を探さなくても良い。立花隆が「臨死体験」や「宇宙からの帰還」、または「精神と物質」や「脳を究める」で易しく解説してくれている。

だが、それらの知識がなくとも、本書を読み進めると現代科学到達している「心」や「精神活動」ひいては「臨死体験」のような事に関する、一つの回答が大胆な仮説とともに提示されてくる。期待と驚きと戸惑いが交錯しながらも、非常にスリリングな読書体験が得られるのだ。

ただし、後半の「神」の出現のあたりから、物語が一気に爆発しはじめ、ついてゆけなくなってゆく感じは否めない。これは、ネットでいくつかの感想を読んだが、皆共通した印象のようだ。今まで綿密に構築してきた物語が、収束しながらも一気に超新星爆発のように暴発してしまうのだ。
「キリストの変容」ならぬ「北川の面妖」は、もはや感動よりも悪いジョークでしかない。これじゃあ、まるで「アキラ」か!

鏡子や富樫玲子がどうなったのかも分からないし、メアリは悲惨すぎる扱いじゃあないか、とか(最後のユーレーは作者の良心か? 距離を離れて同調したのか?)

広沢の狂気のシーンはS・キング調の人格崩壊を目指したのかとか・・・いやはやもう・・・・


まあ、そこに乗れるかのれないかは別として、この部分の裏にもう一つの瀬名特有のテーマがあるような気がするのである。それは「リアル」さという言葉に象徴されるテーマだ。

「8月の博物館」でも、結局、事実としてのリアルさと小説としてのリアルさのなかで、さまようような印象を受けたものだ。真のリアルとは何か、女性科学者(メアリー)に彼女の勤め先の所長(北川)が話す。「もしかしたら、君は小説の中の登場人物かもしれないではないか?」(文庫本 下巻P265) と。

我々の見ているもの、考えているものは、本当に真実でリアルなものなのか、あるいはすべて脳内現象としての幻想なのか、考えるだけ無駄な作業だが、私もときどき考えないではない。

人間の見える可視周波数とそれ以外の周波数で見る世界が違うように、また人間の可聴周波数で聞こえる音と、それ以外で聞こえる世界が違うように、世界は人間が見たいように構成されているだけなのかもしれない。あるいは、「ヒトが「神」を必要としたのではない。「神」がヒトを必要としたのだ。」(文庫本 下巻P371)という発想。

ここまでくると、もう私には分からない世界だ。

(あと、もう一つ、「8月の博物館」でも提示した、世界が「同調」てやつ。これは、別な機会に考えてみたい。)


エンターテイメントという範疇にありながら、瀬名が提示したテーマはそれをはるかに超えたものだと思う。今後、瀬名のもつ膨大な知識量と知識欲がどういう世界を築いてくれるのか、非常に楽しみである。

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 蛇足になるが、私は今まで、人間の進歩は「神」ということよりも、「脳への刺激」という観点で考えていた。脳はより強い刺激を受けたい方向に不可逆的にプログラムされているのではないか、ということだ。

 友人と飲んでいるときに思いついた考えだが、それほど荒唐無稽というわけではないと思い始めた。

例えば味覚にしても、視覚にしても、あるいは性的な刺激(^^;;にしても、一度新たな刺激を体験してしまうと、昔の刺激では物足りなくなる傾向にないだろうか。

昔、そう20年ほど前と今を比較した場合、どれほどの刺激が増えたかは想像に難くない。ましてや、数百年あるいは数千年前と比べた場合は、である。刺激は減少していない。

新たな刺激が加えられ、脳はそれに耐えられるように進化(それを進化というのならばだ)してきた。脳は刺激に対して鋭敏性と順応性があるのだと思う。いわゆる「内なる目」を持たない動物とて、刺激に対する鋭敏性は有していると思う。ただし、それを自ら作ることができるか、与えられるだけかという違いだ。

刺激の最大のものが、今回の「BRAIN VALLEY」に無理やり結びつけると、「神の奇跡」なのかも知れない。かなり根拠のないこじつけだとは思うが。

2001年1月8日月曜日

【本棚】瀬名秀明:八月の博物館

本を買うときに、まず帯を読んだ*1)。瀬名秀明だが今回は、バイオものではないようだ。残念ながら私は瀬名のファンではない。数年前に「パラサイトイブ」を読んだ。持っている本が第9版だから、かなり売れてから読んだようだ。確かに面白かった。







「目の前の景色が突然消えた」


今までにない展開を予測させるこの書き出しだけで、読む気になったものだ。ミトコンドリアがなぜあんなになるのか(^^;;という荒唐無稽さを問わせない勢いがあり圧倒された。


でも、その後の「BRAIN VALLEY」は読まなかった。買おうとした時、瀬名秀明は既にあまりにも売れすぎており、本をカウンターに持っていくのが気後れしてしまったようだ。


鈴木光司もそうだった。「らせん」「リング」と読んだ。こんな怖くて面白い小説があるのかと小躍りした。それから半年後、世の中は「リング」と貞子ブームになった。そうしたら、もう鈴木の小説を読む気にならない。


今店頭に並ぶ続編は、本当に彼の書きたかった小説なのか?商業主義に乗って出版社に勧められて書かされているのか?それを判断することはできない。


今回この本を読む気になったのは、瀬名が貴志祐介の「天使の囀り」文庫版に解説を書いており、その解説のスタンスが気に入ったからだ。


彼は書いている。「読み終えた直後、『これには適わない』と私は思った」と、そして、「貴志祐介のさらなるファンになっていたのだ」と。


瀬名のHPがあることを知り読んでみた。そこに作家の内面を吐露するような文章を見つけた。こんなにもナイーブな作家が、自分の得意分野らしきものから離れてどんな小説を書くのか、単純に興味があり本書を手にとったのだった。実際、ホラーやサイコミステリーものに食傷気味でもあったし(そんなに読んでないけどね)。


前置きが長くなった。しかし、ここでは小説のネタばらしのような話は一切しないつもりだ。


もしかしたら、この小説は、売れないかもしれない、という気がする。考え抜かれたプロットの回りくどさや逡巡が、どうしてもページを繰る速度を鈍らせてしう。テーマは別のところにあるのかもしれないが、少年たちが主人公なところにも、何かジュブナイル小説を読んでいるような気にさせてしまう。これを読む前に「モモ」なんか読んでいたせいだろうか。


主人公の「亨」が非常に優等生であることも、気にかかった。そもそも小説の主人公て、どこか欠点をもった、ダメな奴として書かれるものじゃあないのか、瀬名の少年時代をモデルとしているのなら、なおさら優等生の小説を読んでいるような、そう、小説の中の「啓太」のような気持ちにもなってしまうのだ。



そんな、こんなで、期待と不安と逡巡が織り交ざった思いを持ちながら、ラストになってしまった。帯にあった「かつて誰も経験したことのない<感動>」というものは、残念ながら得られなかった。



反論もあろうが、小説の中で一番魅力的人物は鷲巣だった。鷲巣は良く描かれている。亨と鷲巣だけで、短い夏の物語が書けるほど魅力的な背景と人物だ。でも瀬名はそうしなかった。



また、小学校最後の夏休みと、「どこでもポケット」のような不思議な博物館、これだけでも読者をひきつけられる話を書けたのに、どうしてあんなに回りくどい構築の仕方をしたのだろかと思う。実話の匂いをもたせた二つの物語を並行に進めながら。



作者のてらい、あるいは あざとさ?



がだ、ここまで書いて、私は一体どういう種類の<感動>をこの本に求めたのだろうかと ふと自問してしまった。めくるめく物語の嵐による感動の本流だろうか、甘酸っぱい感傷的な感動だろうか。作者が何をいいたかったなど分からない。分かる必要なんてなかったのじゃないか。感動するように書かれた文章の否定と肯定?。のめりこみと、はぐらかしの交差。


こうして考えるに、この小説からは別の種類の感動が表れることに気が付く。それはこの「小説の中の物語そのもの」が持つ感動ではなくて、自分の中でのあこがれや、忘れてしまった感動、懐かしさといった「自分自身の物語」に対する郷愁にも似た感動であった。それは非常に静かだが、また再び日常の中ではしまいこまれてしまう種類のものだ。自分の中では終わることのない物語でもあるのかもしれない。


またこの小説は「モノ」に付与された物語性という、もう一つのテーマも改めて思い起こさせてくれる。そういう意味からは、小説の面白さ、物の博物的面白さなどいろいろな事を考えさせてくれる小説である。

こんな二重性を考えさせてくれた瀬名に感謝。ストレートに次回の作品を期待したい。


  1. 単行本の帯より

    「あの夏、扉の向こうには、無限の「物語」が広がっていた。

    小説の意味を問い続ける作家、小学校最後の夏休みを駆け抜ける少年、エジプトに魅せられた19世紀の考古学者。3つの物語が融合して、かつて誰も経験したことのない<感動>のエンディングへと到る圧巻の1000枚!!

    人は何故「物語」に感動するのだろう。

    ��0年前の夏の午後、終業式の帰りにふと足を踏み入れた古ぼけた洋館。そこで出会った不思議な少女・美宇。黒猫、博学の英国人紳士。”ミュージアムのミュージアム”であるというその奇妙な洋館の扉から、トオルは時空を越えて、”物語”の謎をひもとく壮大な冒険へと走り出した。