ラベル 犯罪 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 犯罪 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2005年1月25日火曜日

「振込め詐欺」の巧妙化

最近は「オレオレ詐欺」とは言わないらしい、「振込め詐欺」というのだそうです。動詞+名詞という組み合わせが日本語的にオカシイということはさておき、その他モロモロの詐欺まがい行為が最近あふれており、その手口は悪質かつ巧妙化しつつあるようです。


「ワンクリック詐欺」「フィッシング・メール」などの手口も非常に悪質ですが、ついつい引っかかってしまう人も少なくないかも知れません。最近も「ヨン様」の画像をファンサイトのように「なりすまし」て送りつけ、写真をクリックしたらスパイウェアか何かをインストールしちまうというものもあったようです。カード会社などを偽るものも日常的だとか。


ブラウザ論争では、IEの脆弱性は有名ですが、Firefoxにも脆弱性が見つかっただの、Firefoxを擁護する人は、ブラウザの脆弱性よりはフィッシングに引っかかる「間抜けなユーザー」が脆弱なんだ(As far as a 'security hole,' it should be more of a user vulnerability, as only a dumb person goes clicking links in e-mails from odd places,:原文)とか・・・いやはや


あるいは、CNNのヘッドライン・ニュースを偽ったメール配信し、もっとニュースから情報を得たいと思う人をひっかけるというものもあるそうです。今週のAERAによると、個人のHPから個人情報を収集した上での「劇場型」「振込め詐欺」というのもあるそうで、ネット上に個人情報を置くことの危険性も考えなくてはならないようです。


最近の犯罪を見るに付け、何か今までのモラルが崩れ去り、蓋があいたというか、底が抜けてしまったかのような印象を日々受けるとともに、犯罪に対する防衛意識を高めなくてはならないというのは、何ともやっかいです。その延長には犯罪国家であるアメリカの姿がちらつきますから、なおさらに憂鬱です。

2004年9月15日水曜日

【本棚】三浦展:「ファスト風土化する日本」


いつも楽しませてもらっている「k-tanakaの映画的箱庭」で紹介のあった『ファスト風土化する日本~郊外化とその病理』(三浦展:洋泉社新書)を読んでみました。「ファスト風土」とは「ファストフード」にかけた造語だそうです。言っていることの大筋に間違いはなく、いちいち同感できるのですが、新たな知見と驚きは得られませんでした。

三浦展氏はパルコ情報誌「アクロス」の編集長や三菱総研の主任研究員などを経て「カルチャースタディーズ研究所」というシンクタンクを設立されている方。共著の『「東京」の侵略』(パルコ出版)などは、80年代後半のパルコなどに象徴される消費文化や都市動向について言及したものであったと記憶しています。筋金入りのサブカルチャーおよび都市・消費文明の専門家という認識。

当時「パルコ」は衝撃的な店舗でした。渋谷における西武の開発手法は、地方のお手本のようにもてはやされた時期が懐かしいです。三浦氏も指摘するように、西武は渋谷公園通り周辺に「街づくり」的手法を持ち込み、街路空間を若者に魅力あるものとすることに成功しました。そこにおいては品物以上に、街を訪れる人と都市空間相互の関係性が重視されていたように思えます。雑誌「アクロス」はそういう都市風景から生まれていたはずです。

ですから、周りを圧倒して存在する巨大戦艦のごときジャスコを率いるイオングループが『街をつくるという気持ちがないのではないだろうか』(第三章 ジャスコ文明と流動化する地域社会 P.96)と三浦氏が指摘するのも分からないでもありません。しかし、地方にはジャスコが、スターバックスが必要なのだということは、多くの情報発信源でかつ地方の情報さえ消費しつくす巨大都市に住んでいる人には分からない感覚かもしれません。

大型ショッピングで思い出すのはアメリカの巨大施設です(行ったことはない)。ジョン・ジャーディー(Jon Jerde)という商業施設デザイナーが手がけているものも、ほとんどは巨大モールです。日本の商業施設も、かつてのマイカルをはじめ最近話題の施設開発者である電通や森ビルさえ、莫迦のひとつ覚えのようにジョン・ジャーディーに商業施設をまかせています。イオンはそんな無駄使いをしないだけ利口なんでしょうか(笑)。

発想は東京も地方も同じ、地方は東京への渇望からイオングループに活路を見出さざるを得ない、苦渋の選択があるだけです。永遠の二流意識からくる劣等感と歪んだ自意識ですね。その東京おいてさえ、という感じなんですが。

データを随所に掲示し理論武装し田園都市論や日本の郊外化の弊害などを述べているのですが性急で牽強付会の感があります。結論は「均質化した日本の郊外化が消費文明を増長し、さらにはコミュニティーや歴史性の崩壊によりもたらされる様々な病理」を指摘し、社会を「コミュニケーション」と「コミットメント」で再生しようというものなのですが、先から書いているように問題の根は地方にはないのではというのが私の感想です。

だから、最近の凶悪犯罪のあるところが郊外であり『犯行現場の近くにはなぜかジャスコがある』(P.66)というのも刺激的なコピーだと思いますが、ジャスコに象徴される変化と犯罪の因果関係は「ニワトリと卵」のようなもののであって、大事な前提条件が抜けていないかと思うのです。

また、彼は地方において『目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを見て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしてるだけの、たいへん視野の狭い消費人間』(P.183)を生み出しているのだという主張も、なんだかなという感じです。

田園で働くわけでもなく、工場で働くわけでもない。都会のビジネスマンのように、オフィスでハードワークするわけでもない。公共事業に依存し、公共事業がなくなれば失業保険で暮らす。でも、家も自動車も何でもあり、ついでに無職のパラサイトの息子の一人は二人を抱えている。彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に暮らすことしか考えない。(第六章 階層化の波と地方の衰退 P.178)

最後に彼がひとつの理想としてあげる「吉祥寺」や「高円寺」「下北沢」なのですから、やれやれです。いえ、言っていることは納得しますよ。でもねえ・・・

2004年7月30日金曜日

K作譲をめぐる二つの闇

昨日(28日)、何気なくテレビ朝日の「報道ステーション」を付けたら、15年前の「綾瀬 女子高生コンクリート詰殺人事件」の主犯格であるK作譲(旧名:O倉譲、当時:少年B)*1)の母親がインタビューを受けていました。K作譲は少年刑務所での刑期を終え、5年前に社会復帰していました。最近、暴行事件で再犯を起こしており、その初公判が28日に開かれたことを受けての番組です。


テレビ朝日は何の目的でK作の母親にインタビューを試みたのでしょう。解説者が「(再犯してしまった理由について)少年刑務所という刑罰を主とする主とするところに入れられたため『更正』がないがしろになってしまったのでしょうか」と言い、「更正プログラムが必要」などと言っていましたが、そういう考え方もあるのかと思いながらも、私は自分の座標軸が傾くような違和感に襲われていました。


この件に関するネット上の意見をざっと眺めると、加害者に対しては「鬼畜」に更正なしとの論調、テレビ朝日に対しては、(変わらぬ)犯罪者擁護の報道姿勢、母親に対しては無責任さに批判が集中しているようです。


「座標軸が傾くような違和感」とは、今もネット上に増殖している、これらK作をめぐる論調と私の感じる軸が大筋ではずれてはいないにも関わらず、でも何かが違うということを解明できないことに対する違和感でありました。




まず言えることは、K作が生きていて彼の名前が(仮名であっても)登場し、それを知る者たちが事件を思い出す度に、被害者は幾度にも陵辱されて殺され、被害者の家族には耐えようもない苦痛を与えるのだろうということ。また事件を思い出す私(達)は、加害者の怖るべき闇とともに、事件から何らかの妄想をもそこに見出すことを繰り返してしまうということ。これも私の座標軸がねじれる原因の一つです。


私はあの事件とは直接的な関わりは全くありませんが、事件を思い出すと、なぜK作が今も生きていて「普通の生活」ができるのか不思議でなりません。更正した犯罪者を受け入れるということは、犯罪の過去を赦し許容したことを意味します。この事件では私は彼を受容できません。出所者に対する、そういう偏見や無理解が新たな犯罪の土壌になるのだと言われても、事件が事件なだけにムリです、そういう種類の犯罪です。


一方で、きれいごととしては、人間の命は何ものであっても奪うことはできない、とか、絶対に許してはいけない罪などない、などという法的、倫理的な問題と向き合う必要性も感じてはいます。


しかし、肝心の法律、倫理、文学、哲学、さらには宗教を含め、「快楽殺人」を扱えるほどにそれらは成熟していないように思えます。「快楽殺人」とは、戦争をやらなくなった人類の病理かも知れないからで、増殖しつづけている病理に、新しい手法でどう向き合うかが問われているのかもしれません。(戦争に限らず、近代が始まる以前は結構身近に「殺人」があったのではないでしょうか。罰せられるか否かは別問題です。人が武器を捨て、決闘や私憤を含め「人をむやみに殺してはいけない」とした歴史の方が短いように思えます。それと犯罪の関係は分かりませんが)


こう書くと、事件を社会に転化するように感じられるかもしれません。たとえば、佐世保の同級生殺人事件の際に私は『真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実』と書きました。しかしどちらも、事件の責任を社会に転嫁するような意味合いで書いたわけではありません。事件の背景として、社会・歴史的なものまで含め犯罪学的に研究が必要ではないかということです。それとは別に、犯罪は犯罪として犯したものが生き続ける限り一生背負っていかなければならないことには変わりありません。


では、どんな一生があるのかと考えたとき、コンクリート詰め殺人事件の場合、加害者が更正し社会復帰して普通の生活を送ることが、社会の求めることなのだろうかと、また軸がぶれ始めます。


あの事件は本当に酷い事件でした。殺された女性が40日間もどんな責め苦にあったか。ゴキブリや自分の汚物を食べさせられ、性と暴力の玩具となり、使い物にならなくなった挙句に捨てられたのです。コンクリートから発見された死体は、顔や性器は破壊し尽くされ、膣にはオロナミンCの瓶が2本入ったままだったのです。髪は抜け落ち、脳は萎縮していたと言います、恐怖と絶望のために現実から逃避した結果なのですとか。(こう書くことそのものが、彼女を再び殺すことになっているとは思うのですが、ご容赦ください)


感情論では「鬼畜に人権なし」「直ちに極刑を」とする論調は揺るがないのですが、しかし、こうした論調にもまた、K作とは違った大きな闇を見る思いがして慄然としてしまうのです。なぜならそれは、突き詰めると二元論的な単純さと、畢竟は人間に対する絶望を意味しているからです。


人間に対し性善説的の立場に立ち、どんな悪も償われ、そして更正できると考えることは、前向きであり是とすべきはずの考え方でした。今回の事件では、そういう感覚を根底からぐらつかせます。個人の本質を真の意味から変えることなどできないのだと突き付けます。赦せない罪があるのだと迫ります。それらを認めたとき、果てしない無力感と絶望感に襲われる思いがするのです。




  1. 以前は伏字なしで記載していましたが、当ブログの検索ヒットNo.1が本エントリであることを知り、本意ではないことから伏字としました。

2004年6月7日月曜日

子供の範たる大人が


佐世保の事件に関して、少ない表面的な事象が明らかになってきました。特に衝撃的だったのは児童のHPでしょうか。


しかしながら、加害者の児童のHPでの雑言に怖れをなす大人やマスコミは、これまたいったいぜんたい、世の中のネット社会に潜む善良で普通の人たちの匿名の悪意を、知ってか知らないフリをしてか、本当のところ何をどう考えているのか、疑問が湧いてくることを否定できません。ケイタイもゲームもネットも、暴力も偽善さえもも、全ては大人が無制御に再生産しつづけているもので、子供はそれをよく吸収してくれているわけです。小学生の子供は、普通は「愚民」という言葉は思いつきませんよね。




��月6日の読売新聞の編集手帳では、『普通の子は理由が何であれ、カッターナイフで人を襲ったりはしない[...]十一年間の成育の過程を詳しく調べてこそ、「なぜ」という疑問に迫ることができる』として、命を大切にする教育の重要性を主張し、『三度の食事をしっかり取り、思い切り運動をして汗を流し、基本的な学力をきちんと身につけていく。これができる環境を家庭や学校でいかに作っていくか。それが先決のような気もするのだ。』と結んでいます。子供を調べることは重要でしょうし、事件の背景の鍵にはなるでしょうが、重要なところが抜け落ちてしまわないでしょうか。


読売の言っていることは正しいように思えたのですが、どこかずれています。仮にそうだとしても、読売の態度をちんと子供に示せる大人はどのくらいいるのでしょう。暴力と殺戮場面とポルノに満ち溢れた少年マンガは、子供たちの受けを狙ってどんどん刺激がエスカレートしていっています。「愚民」を教えたのもカッター殺人を思いつかせたのも、大人たちです。


その大人たちは「三度の食事をしっかり」取ることさえできず、そのうちの二度はおろか一度さえ子供と一緒の食事などできないのではないでしょうか。「それが先決」なら見直すべきは、根本から我々の在り方や処し方、ひいては日本のあるべき方向全てを含めてなのでしょう。でも誰もそんなこと議論しません、だからまた起こるのですよ、形を変えて。私たちはエリート学生が歩んだ「オウムの悲劇」さえ清算できていませんし、いまの日本社会は清算する意思さえないようです。


ネットとともに映画「バトルロワイヤル」が悪影響を及ぼしたという論調も大きくなるでしょう。深作監督の「バトルロワイヤル」を評価する人もいるようですが、私は観ていませんので論評はしかねます。ただ、善悪や精神的に発展段階の子供(や子供に類する大人)には、やはり見せてはならないもの、目に触れてはならないものはあるのだと思います。


今のネットではもう倫理も道徳も何もかも吹っ飛んで、なんでもありの状況が無防備に展開されているのが実情です。それを放逐しているのも大人で作っているのも大人なんですよね。「知らなかった」「驚いた」「ここまでとは」「予想を越えた展開」などと言う事は許されません、特にマスコミに当たってはです。


以前も書きましたが、政府や犯罪を批判する雑誌や夕刊紙が、同じ紙面で売春奨励記事やポルノ記事を載せているのですから、どうなっているいのでしょう。些細なことに目くじらを立てるなという意見が大半でしょうが、そんな態度のマスコミの言質を全面的に信用する気にはなれないものです。(もっとも、俗悪な記事のないオピニオン誌も相当に信用ならないのではありますが)

2004年6月4日金曜日

佐世保の児童殺人事件

世保市の小学校で起きた6年生女児の殺傷事件について、まだ詳らな事実関係はよく理解していないのですが、痛ましさとともに深い脱力感を覚える事件として記憶に留まることになりそうです。

関係者の方々のご心痛は推し量ることもできませんし、今後、少女や環境に関する分析、それにネット社会が子供に与える影響について、深い論考がなされるのだろうとは思うのですが、おそらくは何も見えてこない、玉ねぎの皮をむくようなことになるような気がしています。




思い起こすと、昨年7月には長崎県で中学校1年生の男児が幼児を駐車場から投げ捨てるという事件が起きました。このときも私は衝撃を受けて意見箱に書き込みをしましたが、今回も思うことは同様です。子供をいくら調べても、闇は出てこないのではないか、なぜなら、真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実してるように思えるからです。


言い古されていますが、犯罪は社会を写し出しています。その時代の空気を象徴する事件というものが、必ず起きて、そしてどこか社会はガス抜きをしながら微修正をしたり、あるいは更なる奈落へと進むんでいるように感じます。


��月4日の日経新聞の春秋では『最近の子供たちの異常な行動をあれこれ考え合わせると、起きるべくして起きたような気もしてくる。』と書きながらも『だが真相は謎である。[...]子供は変わったようだ。なぜなのか、どうしたらよいのか、わからないのがもどかしい』などと呆けた事を書いています。メディアが狼狽したり思考停止してどうしますか。


��月2日の朝日新聞社説も、『なぜ事件が絶えないのか。動機や背景を詳しく探らなければ防止策を見つけられない。今回の事件についても児童相談所は究明してもらいたい。』などと書いています。児童相談所に究明してもらいたい、ではないでしょうに。『カッターナイフは工作の授業で使うことがある。刃物は使い方を誤ると人を傷つけ、命にかかわる。このことを子どもたちにあらためて教える必要がある』って、朝日新聞、お前はアホかいな。


��月3日の産経抄は『「殺す」ことを、ゲームやテレビのスイッチを切るのと同じように考えていたのではないか、とみる識者もいる。』と書いていますが、「殺してはいけない」ことを教えるべき大人たちは、それをきちんと言葉ではなく実践できているでしょうか。人間に対してだけではなく、ペットやものに対してもです。


何度も書きますが、子供を調べても何も分からないような気がしてなりません。普通の人が普通でない行動をする、あるラインを超えると自制が効かない、切れる限界が低い、行動原理が快不快で左右される、相手が傷つくことに無頓着であるなどなど。昨今の人質パッシングの風潮を見るまでもなく、ネットやメディアとかいうことを含めて、子供の範たる大人社会が狂っているとしか思えません。ネットを作り出したのも、使っているのも、匿名で相手を罵り合うのも、姿のみ大人たちの専売特許でしょうに。

カッターが悪いとか刃物の使い方とか変な方向に議論をせずに、きちんと大人社会について考えない限り、またしても、ある子供がスケープゴートとなるような事件は起きてしまうのではないでしょうか。犯罪を犯してしまった加害者も、そして被害者も、同じように不幸な被害者のような気がしてしまいます。