2006年7月29日土曜日

桐山秀樹:ホテル戦争―「外資VS老舗」業界再編の勢力地図


昨今の東京は雨後の筍のように街中にクレーンが林立し、さながらバブルのような建設ラッシュです。さまざまな表情を魅せる超高層ビルの中に、超高級外資系ホテルが鎮座している様を眺めるにつけ、世の中本当に変わってしまったという思いを強くします。

これからオープンするザ・リッツ・カールトン東京(東京ミッドタウン)やザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、または既にオープンしたマンダリン・オリエンタル東京(日本橋)などなど、一昔前ならば余程海外旅行通でもなければ名前さえ知らなかった外資系ホテル、このホテル攻勢は一体何なのかと、気になる人は気になることと思います。

桐山氏は東京のホテルを(1)スモール・ラグジュアリーホテル (2)グランドホテル (3)老舗ホテル の三つにカテゴライズし、これから外資を巻き込んだ新たな「ホテル戦争」が始まるのだと主張します。著者自らホテル好きで(仕事の取材でなのか、プライベートかは分かりませんが)いくつもの海外のホテルを泊まり歩いた(らしい経験に基づく)評価は興味深いものです。 

しかし、内容的にはかなり食い足りない。眼の肥えた顧客のホテル紀行文的な領域を超えず、ホテル経営という観点からの詰めは少ない。読みやすいけれど内容が薄いというのは、最近の「売れ筋」新書の特徴そのままです。ホテルの財産が建物のハードにはなく「サービス」というソフトと、それを支える人であるという指摘にも何の目新しさも新しい発見もありません。石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出すまでもなく昔から変わらないことです。

私が知りたかったのは、それぞれのホテルの生き残り戦略。すなわち対象とするセグメント(客層)、それに対する収益の見通しなどだったのですが、この点の分析はほとんど皆無。ホテル経営的な分析を考えても、桐山氏の指摘する三つのカテゴリーはほとんど分類の体をなしていません。

もともと東京のホテル客室数は3万5000室ほど、これが一気に4万室まで増えるのだそうです。しかも、宿泊料金は最低でも5~6万円以上の高級ホテルなんです。誰が泊まるのか、こんなに出来て大丈夫なのかとは、業界関係者でなくても知りたいところです。

例えば日本銀行や三越に隣接してオープンしたマンダリン・オリエンタル東京に関する記述。

そのターゲットは日銀、兜町といった東京の中枢部の金融を訪れる、アジアや欧米の金融関係者と外国人投資家たちである。そして、日本橋の超高層ビルの最上階で、高級スパやエステを楽しんだ後、日本橋三越本店やコレド日本橋でショッピングを楽しむ「日本人女性客」をもう1つのターゲットとしている。(「第1章 外資ホテルの持つ「武器」と「戦略」について」P.38)

ちょっと画一的な解釈に感じます。(投資家がわざわざ日本に来て投資行為をするものなのか?) むしろ日本の上場していない企業オーナーや病院経営者(いわゆる日本の富裕層)を加えた方が良いのでしょうか。マンダリンの条件は、他でオープンする高級ホテルでもすげ替えが可能です。「日本橋三越」を「銀座や六本木、六本木の高級ブランド店に、「金融関係者」を「IT企業家」「海外賓客」などと入れ替えればどこのホテルでも通じるコンセプト。

おそらくは、こういう客を満足させる五つ星級の超高級ホテルが東京には今まで存在しなかったということ、更にそのようなホテルに宿泊する層が増加したことが一因なのでしょう。まさに今、開拓すべき新マーケットだったということか。

であるならば宿泊金額 数万円以上出すことを躊躇しないセグメントが、どこに、どの程度居て、彼ら彼女らがどのくらいの頻度でこれらのホテルを利用すると予想し、客単価として幾ら期待するのか。現在のホテル投資が将来の変化を見据えた「適切な投資」であるのか否かについて、もっと深く語って欲しかった。(>新書に期待する方が間違っています!)

それにしても、です。このような超高級ホテルが乱立する世界というのは、以前には想像できませんでした。そういうものが成立するマーケットが育っていなかった。やはりパンドラの箱がここでも開いてしまい、ホテル業界も極めて鮮烈な二極化傾向にあることを示していると考えるのは簡単。二極のどちら側にも入れないホテルや旅館、自らのポジショニングを定め切れないホテルは、本当に消え去るしかないのでしょうか。

2006年7月21日金曜日

NAXOS日本作曲家選輯/武満徹:鳥は星形の庭に降りる他

  1. 精霊の庭(1994)[14:40]
  2. ソリチュード・ソノール(1958)[6:23]
    3つの映画音楽(1994/95)
  3. 訓練と休憩の音楽-『ホゼー・トレス』より-[5:02]
  4. 葬送の音楽-『黒い雨』より-[5:10]
  5. ワルツ-『他人の顔』より-[2:20]  
  6. 夢の時(1981)[14:27]
  7. 鳥は星形の庭に降りる(1977)[13:44]
  • マリン・オールソップ(cond)、ボーンマスso.
  • 2005年1月;イギリス、プーレ、ライトハウス・コンサートホール
  • NAXOS 8557760J

NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹の盤が発売されています。曲目には晩年の「精霊の庭」が入っていることや、映画音楽からの編曲も収録されていて大変に魅力的な構成です。

早速聴いてみましたが、オールソップ&ボーマンスso.のサウンドはクリアでかつ透明な響きといった印象。武満音楽の美しさを充分に表現していて聴きやすい仕上がりになっているようです。ただ個人的な好みからは、(うまく表現できないのですが)もう少し摩擦感といいますか、ひっかかりのようなものが欲しいところです。「ユニバーサル」な武満像という点では、こういう解釈が正統なのでしょうかね。

《3つの映画音楽》は、武満が手がけた映画音楽から作曲者自らがアレンジして組曲風にまとめたものとのこと。『黒い雨』は武満展で映画を観ている時は「暗いBGMだな」くらいにしか思いませんでしたが、音楽だけ聴いてみると極めて秀逸。『他人の顔』のワルツは諧謔性とデカダンな美しさに舌を巻きます。

演奏機会の少ない「ソリチュード・ソノール」も収録されているので武満ファンには必須な盤でしょう。

それにしても驚くのは(相変わらずの)片山杜秀氏の詳細にして緻密な解説。写真が挿入されているのは最初の頁だけ、下のような調子で11頁にも及ぶ解説はCDのそれを越えています。この解説を入手するだけでも、この盤の価値はあるかと・・・


かねてから敬愛していますおやぢの部屋2からトラックバックを受けました。そちらの解説の方が適切でございます。

2006年7月14日金曜日

モーツァルト:フルート協奏曲/エマニュエル・パユ

  1. フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
  2. フルート協奏曲第1番ト長調K.313
  3. フルート協奏曲第2番ニ長調K.314
  • アバド(cond) パユ(fl) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • EMI Classics 56365

アバド率いるベルリンが、1996年にパユと録音したモーツァルト。パユの演奏が気に入るか気に入らないかは別としても、極上のモーツァルトが聴けることに変わりはありません。

「気に入るか気に入らないか」などと、もって回った言い回しをしましたが、パユはかつても、そして今も、世界屈指のフルーティストと言って良いでしょう。技巧面、表現力などの点からもモンクのつけようなどあるはずもありません。

そんな彼ですが、演奏をCDで聴いていますと、平板といいますか、特別なことは何もしていないように聴こえます。フルート協奏曲であるからといって、フルートソロが前面にグイグイと押し出てくるような演奏でも技巧バリバリという演奏でもない、斬新な解釈で驚かすこともしません。ごく自然に、さらりと、優雅にモーツァルトのメロディを奏でます。

たとえばK.313では第2楽章Adagio ma non troppoの気持ちよさといったらありません。肌を撫でる暑くも寒くもない、ごくゆるやかな風のような感じ、あるいは揺り籠でまどろむかのよう。カデンツァはニンフがやってきて夢見心地の唄を唄ってくれる。素敵すぎます。(ここだけではなく、カデンツァは全てが素晴らしいです)

ですからアクの強さや個性的な演奏を求める人などからは、物足りなく感じることがあるかもしれません。あまりに上品すぎるとか、うまいだけだとか・・・。

しかし、これはこれで良いかなと。極上の音楽と極上の演奏に身を任せる至福に浸りきること、私のような素人には、モーツァルトはどう演奏すべきかとか、とか、モーツァルト演奏がいかに難しいかなど、到底理解できません。聴いていて心地よければ、それが全てではないかと思ったりします。

とにもかくにも、パユのモーツァルトには惚れ惚れ。しかも聴いていて落ちつた気持ちにさせてくれる、そんな演奏だと思います。

2006年7月12日水曜日

東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2 高木綾子/モーツァルト:フルート協奏曲 K.313


高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。


過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。




まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。


今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。


オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。


��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。


彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。


まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。


横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。


高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かったと思いますよ(笑)。



ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)


東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2


藝大の奏楽堂で、金昌国さんのレクチャーと幾つかの協奏曲を聴いてきました。



  1. レクチャー「通説に挑む」 モーツァルト フルート曲の真実ほか
  2. ホルン協奏曲 第4番 変ホ長調 K.495(大野雄太=新日本フィル)
  3. フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313(高木綾子=説明不要)
  4. オーボエ協奏曲 第1番 ト長調 K.314(K.285d)(小畑善昭=藝大助教授)
  5. 4つの管楽器のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B


  • 日時:2004年7月8日 13:00 東京藝術大学奏楽堂
  • 指揮:金昌国(藝大教授) 東京藝術大学有志オーケストラ
  • 真田伊都子(ob=日本フィル主席)、村井祐児(cl=藝大助教授)、河村幹子(fg=新日本フィル主席)、守山光三(hrn=藝大教授)



私の目当ては(当然ですが)フルーティストの高木綾子さんであります。高木さんの感想はエントリを改めることとしまして、それ以外の感想を簡単に書いておきましょう。


金教授のレクチャーの持ち時間は2時間。先生もおっしゃっていましたが、語り足りないくらいのようでしたね。フルートとモーツァルトが好きで好きでたまらなくて、「モーツァルトとフルートの関係を裂くような発言には猛然と反発したくなり、膨大な時間を費やして反論のための研究をしてきた」と言う金教授の熱意には脱帽するばかりです。最近手術をなさったとかで、まだ唇などが荒れたままで笛が吹けないのだそうです。そういえば(写真などと比べると)随分痩せたのでしょうか・・・。指揮の途中で指揮棒を落としておられましたが、今後も元気で活躍されることを祈るばかりです。


演奏会の最初は、2005年の日本音コン ホルン部門第1位、まさに日本を代表するホルン奏者 大野氏によるホルン協奏曲。丁寧で柔らかなホルンの音色から奏でられる音楽は、至福の時間を提供してくれました。ホルン奏者がこんなに格好いいものだとは、今の今まで知りませんでした。


オーボエ協奏曲は新日フィルの主席オーボエ奏者でもあった小畑氏による演奏。音楽演奏というものは人柄がにじみ出るものである、とつくづく感じました。表情が少し硬い印象を受けましたが、演奏は非常に温かみのあるもので、とても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。カデンツァもさすがに百選練磨のプロですね、聴きごたえのある演奏でした。


最後の《管楽器のための協奏交響曲》は、モーツァルトの真作かどうかアヤシイとされている作品です。モーツァルトを愛する金教授は「モーツァルトの作品と信じて演奏します」とレクチャー最後で述べたように、素人的にはモーツァルトの作品でないと言われても真偽の程は分からない。それでも曲を聴いていますと、他の3曲の生き生きとした音楽に比べて、どこか平板な印象が拭えない印象も受けるのは先入観のなせるわざでしょうか。


��人の管楽器奏者の中では、音色の点においてもオーボエの真田さん(左写真)が群を抜く表現力でしたね。小畑さんのオーボエよりも更に明瞭で明るい音色には惚れ惚れしてしまいました。今でも演奏する姿が脳裏に浮かびます、決してビジュアル面だけでの評価ではありません。


ということで、次は高木綾子さんの演奏の感想に続きます。


2006年7月11日火曜日

ナンダロウ、この若冲フィーバーは?


東京国立博物館の「若冲と江戸絵画展」。確かに意欲的な企画であり、内容も充実しているのですが、ブログでネット上の感想をつらつらと読むにつけ、ちょっと普通の展覧会とは違った「熱気」に包まれているような気がしてなりません。昔から若冲を知っていて熱狂している人、今回始めて知って驚いている人。それぞれが、それぞれの観かたや楽しみ方をしていますが、語る言葉が途切れることがない、と言った感じのブログが多い。


これはいったい、どういうことなのか? と、少し考えてしまうのでした。

今まで異端とされていた伊藤若冲のような「エキセントリック」な画家が、日本にも存在したという新鮮な驚きと裏切り。精神性や哲学性、あるいは寓意や歴史性の薄さ、平明で分かりやすいテーマ。ヲタク的に語ることを尽きさせないテクニックとディテール。プライス氏の、自己の審美眼を信じた自己流のコレクションの確かさ。作品の展示方法への挑戦。数ヶ月も前から公式ブログを立ち上げる周到さ。などなど・・・。


すなわち、今までの権威的な芸術運動や教育に対する無意識のアンチテーゼ、自己の審美眼を信じたという「オレ流」への共感、そして、何よりも分かりやすさ。受ける準備は整ってたといったところでしょうか。


フェルメールや若冲の作品を観て来た後は

言葉が溢れんばかりに湧き出てきて整理がつかないほどです。

要は「簡単」なわけです。



弐代目・青い日記帳のTAKさんの指摘、さすがですね。


「簡単」なことが悪いわけではありません。くだらない考察でした。




伊藤若冲 《猛虎図》部分

東京国立博物館:プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展

東京国立博物館で7月4日に開幕したプライスコレクションを早速観てきました。

この企画は展覧会の公式ブログが立ち上がっていまして、内容的にも非常に充実しているだろうことが予想されました。混雑の中で絵を鑑賞するのはつらいものがありますから9時には発券場に到着。開門と同時に早足で平成館まで急ぎ(チンタラ歩く100人ほどを抜き去って)展覧会場まで一気に駆けつけました。

今回の目玉である若冲と、実はこちらの方が期待の大きかった琳派の絵をまず足早に鑑賞。オシマイまでざっと、どこに何が展示してあるのか確認してから最初に戻り、今度は人の流れに乗りながら、もう一度ゆるりと鑑賞いたしました。

ただ、今回の展覧会は、そんなことまでしなくても「列は止まらずにお進みください」などという莫迦なアナウンスが登場するほどに混雑はしていなかったんですが・・・。


プライスコレクションの充実度とか若冲の魅力については、公式ブログで詳しく説明されていますから、ここでくだくだしく述べる必要がないほどです。しかしこうして、ある程度まとめて若冲に接しますと、若冲は技法の多彩な画家であり、かつ北斎に劣らぬ画狂であったのだなと思います。

有名な《鳥獣花木図屏風》(上図)は横尾忠則を彷彿とさせるポップさとラディカルさを感じずにはいられません。近寄って仔細に観ますと、升目を埋めた色彩からは芸術家に特有の疲れを知らない偏執さを感じますし、離れて絵を概観すれば象の莫迦莫迦しいほどの大きさに圧倒されます。しかし若冲は、そこに諧謔を込めているわけでは微塵もなく、真正面からこの技法と構図に辿りついているようです。

極度に簡略した技法と勢いのある筆致で描かれた《鶴図屏風》の滑稽さと洒脱さを、若い女性は「カワイイ」と感想を漏らします。しかし、当の若冲が鑑賞者に媚を払ったという痕跡は全く感じられません。

そういう若冲のたどり着いた境地が、83歳の時の《鷲図》(左図)です。同じ時期に描かれた《伏見人形図》との技法の差異に驚かされると同時に、鷲の迫力と波頭表現の様式化の対比など見事の一言であり、唸らざるを得ません。

日本画の代表と言えば応挙的なものばかり強調し、印象派は教えても若冲的な様式を教えてこなかった日本の美術教育は、いかがなものかと(一瞬)思ったりします。

第4室での展示は「江戸琳派展」と称し、酒井抱一や鈴木其一の作品を堪能できます。早朝のまだ数人しかいない展示室で、酒井抱一の《十二か月花鳥図》を独占して眺めることのできる至福といったらありません。もう思わず顔はにやけてしまい、ためつすがめつ堪能させてもらいました。

ここの展示空間は少し変わっていて、作品をフラットな照明で鑑賞するのではなく「変化する光」の中で作品の魅力が変ずることを鑑賞者に気付かせるようになっています。プライス氏によると日本画は見えすぎても良くないのだそうです。作品を照らす光により印象が異なってしまうことは、この間の地中美術館で鑑賞したモネについても感じたことです。


琳派ですから魅力的な作品は多いのですが、ここでは《佐野渡図屏風図》(上図)を挙げておきましょう。光の変化によって、キラキラと降る雪が極めて効果的に画面を印象付けてくれます。画像を観てお気づきでしょうか、印刷(レプリカ)となっては「変化して舞い降りる雪」を全く認識することができません(画面中央に「しみ」のようにしか確認できない)。実にこの画の雪の美しさときたら絶品なのですが。

ここに紹介した作品の他にもまだまだ魅力的な作品は山盛りです。長沢芦雪の《幽霊図》や森狙仙の猿も素晴らしいです。鶴や猿や虎などの動物も良いですが美人画だって魅力的です。語りだしたらキリがなくなりそうです。

こうして思い出しても本当に力の入った展覧会だと思います。図録は重いので買わなかったのですが、ちょっと後悔。会期は8月27日までですから、終るまでに、もう一度くらい行こうと考えています。(と思ったけれど、日程を考えると、もうほとんど予定がなさそうな・・・)

2006年7月7日金曜日

「説得」の戦略


ビジネスシーンにおいて、相手を説得する場面というのは余りにも多い。私の職種の場合、説得の相手は顧客であったり役人であったり。夢見るデザイナーやガリガリの技術者であることも少なくはありません。社内においては幹部や上司は勿論、他部署の社員、同僚や部下、派遣社員。生産現場においては契約関係にある調達先の社長や営業担当者にはじまり職長から末端作業員まで。考えてみると毎日がネゴシエーションと調整を含めた「説得」に終始していると言っても過言ではないかもしれません。

もっとも私は経営者ではありませんから、株主や投資家を説得する必要はありません。

まあ、とにかく「説明」し「説得」する日常であることは今後も変わらないでしょう。しかし、社会において「説得術」は教えてはくれません。特に日本の場合は、その能力を個人のもって生まれた資質やパーソナリティに帰着させてしまっているような雰囲気があります。本書のまえがきの日本では説得力や交渉力の教育はかなり遅れているという一文を目にし、まさにそうだよなと頷いてしまいました。

内容はハーバード・ビジネス・レビュに掲載された論文記事から、本書のテーマに合う内容のものをセレクトしたものです。従って、同一の筆者が書いているわけではないく、内容の一貫性や分析の深さという点からはイマひとつの感が拭えません。それでも、自分の「説得」というスキルを改めて見直し、交渉やプレゼンテーションの場において、場当たり的に対応するのではなく、ちょっと考えて行動する小さなきっかけくらいは与えてくれそうです。

特に、ミラー・ウィリアムズのCEOと会長による「意思決定スタイル別 ビジネス説得術」は興味深い。これによれば、意志決定者は 1)カリスマ 2)思索者 3)懐疑主義者 4)追随者 5)コントローラ の5種類に分けられるのだそうです。それぞれに合わせた説得術があるのだと。自分や直近の交渉相手がどのタイプに当てはまるのか考えながら読み進めるとリアリティがあって面白いです。

「ストーリーテリング」については、我が社でもそれが得意な重役もいますね。しかし、それも時と場合によりますなあ。そもそも、本書が対象としている「説得」「交渉」のシーンは、知的で高尚な相手が主であるエリートな場面であることを想定しすぎています。我々が接するネゴシエーションの場面は、もっと低俗で泥臭いものが多いのですがね。

高木綾子さんがブログの女王?

テクノラティで「高木綾子」とか検索していたら、「こにゃにゃち日記あらため、革命的批評に向けた日記」とかいうタイトルのブログで、高木綾子さんのブログの人気に迫るとかいうエントリが目に付きました。

こにゃにゃち氏(<--名前か?)によると「セレブ系にみえて実は庶民派」「難解な言葉や専門用語を使わずに、圧倒的に分かりやすい」ことが彼女のブログの魅力なのだとか。また、

��なぜかエミールという名前の)ネコを抱いて、日本代表のレプリカを着て、女子大生にしてはよく調度された家具に囲まれて、写真に納まる。「オレもネコになりたいぞ!」と、オジサンたちの萌え心をくすぐる、このあたりが凄い

のだそうです。

のだそうです・・・。たしかに、もう俺は立派なヲヤヂである。しかし「オレもネコになりたい」か?

ネコになったら留守番ばかりだろうから、それはないな。と中年の冷静なアタマは思考する。

どうせなるなら、サルになった気でサンダル持ちになるとか、フルートケースになるとか。いやいや、そうぢゃなくて、ほら、フルート本体だよなっ、とか思ったりする。で、そうくるなら、あまり使われない「H管」(「ハーカン」と読むっ!)なんかぢゃなくて、黄金の(>実はシルバーだけど>いやいや中年だけど)「頭部管」だよな!とか。でも同じ頭部管でも「ヘッドコルク」ぢゃ暗いし狭いし臭いし痛いから(どこが?)、ベストは「リッププレート」!だようっっ!!とか・・・(-_-;;)。ほとんど意味不明・・・錯乱・・・

妄想は限りなく膨らんだりしぼんだりしながら、土曜日の奏楽堂へと心は飛ぶのでありました。

��ところで、彼女はもう「女子大生」ではないと思いますが・・・?>こにゃにゃち氏<--名前か?)

2006年7月6日木曜日

坂口安吾:「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「文学のふるさと」


坂口安吾を再読してみた、などとカッコウ付けたモノ言いを先日してしまいましたが、それが恥ずかしいまでの勘違いでしかなかったことを、「桜の森の満開の下」(昭22年)、「夜長姫と耳男」(昭27年)のニ作品を読んで思い知らされました。


小説を読んで、衝撃を受けたり、呆然としたり、陶然としたり、泣きそうになることなど、そう滅多にあるものではありません。しかし、この二つの作品には心底慄然とし、そして読後には名状しがたい感情に包まれてしまいました。どちらも恋愛作品の形を成していながらも、その異形の美しさ、アンモラルなまでの残酷さ、それに反比例する純粋さ、ラストに向けての予想外の展開、そして、そこに現れる虚無と孤独に満たされた充実感。


坂口安吾といえば、学生時代には「堕落論」と「日本文化私論」そして「不連続殺人事件」くらいしか読んでいなかったのかもしれません。今回「FARCEについて」や「文学のふるさと」「風博士」などを読み進めますと、坂口を読み解くキーワードのひとつとして「不連続」というか、すなわちプツンとちょん切られた空しい余白(「文学のふるさと」)ということを感じます。坂口は、その余白に非常に静かな、しかも透明な、ひとつのせつない「ふるさと」を見ないでしょうか。と続けます。


坂口の指摘する「ふるさと」の意味は、我々が日常に使う語彙とは異なっています。そこで得られる虚無、恐ろしいまでの孤独、不連続性、不条理にも似た感覚、そして何か、氷を抱きしめたような、せつない悲しさ、美しさ。そういうものが存在する場所。そして、そういうものを表現しきっている小説の凄さ。私の拙い言葉では、作品の魅力を還元することは困難、坂口安吾、恐るべしですね。


かの松岡正剛氏ともかくは『夜長姫と耳男』を読むべきと書いています。本屋に走らなくても「青空文庫」でかなりの作品(著作権切れ作品のボランティア配信)を読むことができます。azurブラウザ使用しますと、電子ブック感覚で読みやすいです。

2006年7月5日水曜日

高橋アキplays武満徹

  1. 閉じた眼
  2. ピアノ・ディスタンス
  3. 遮られない休息 I、II、III
  4. リタニ I.アダージョ II.レント・ミステリオーソ-アレグロ・コン・モート
  5. フォー・アウェイ
  6. 雨の樹 素描
  7. 雨の樹 素描 II
  8. 閉じた眼 II
  9. 2つのレント:アダージョ-エ・テンポ・ディ・リベロ、レント・ミステリオサメンテ
  10. ロマンス
  11. こどものためのピアノ小品 I.微風、II.雲
  12. ゴールデン・スランバー
  • 高橋アキ(p)
  • TOCE-13320

    ��月末に直島を訪れたことは以前書きました。そこで現代美術作品などに接したせいか、無性に武満徹を再び聴きたくなってしまいました。EMI ClASSICS 決定版1300に高橋アキさんのピアノ演奏を安価で入手できますので、早速聴いてみました。

    正直に言うならば、武満徹の音楽はいまだによく分かっていません。ですからこの盤に納められた「こどものためのピアノ小品」とか、おなじみのビートルズ・ナンバーを編曲した「ゴールデン・スランバー」などの、あまりゲンダイオンガクしていないメロディの中に、つい、自分にとっての武満の音楽的意味とか価値を見出そうとしてしまいます。武満は難解な曲も書いたけれど、一級のメロディメーカーだったんだなという一面的で独断な納得の仕方、武満もそんなにとっつきにくくないぢゃない、という偶像の民主化。

    武満の曲は「こどものための」だとか、スタンダードナンバーの編曲であっても、実は演奏するのが、かなり難しいのだそうです。でも、そういう難しさを全く感じさせずに曲はあまりにも美しい、美しすぎて哀しくなるくらいであります。ですから、武満の音楽に癒しを求めてしまうことも否定はできません。

    しかし、そういうアプローチしやすく親しみやすい武満像とは裏腹に、難解ながらも響きの豊穣さに浸りきったとき、音楽が琴線の深いところにハマる武満音楽というのもある。本盤の最初に納められている「閉じた眼」はルドンの絵を思い出さずとも、心の深いところに降りてゆくかのような静けさと、ある種の激しさに深い感銘を覚えます。比較的親しみやすい「雨の樹素描」は、たっぷりと水分を含んだ質量感のある大樹の豊穣さが脳裏に浮かびます。

    相場ひろさんはCD解説の中で、前衛音楽の先駆者であった武満と映画音楽などの分野で活躍した武満を「ふたりの武満徹」の相克として説明しています。かつては前衛時代の武満こそが本来の姿であるとして評価されていたが、現代においては武満の価値は一転しのだと。

    こんにち武満を聴き、愛好する人たちの多くにとって、かつてとは逆に彼は、前衛音楽に対する調性音楽の勝利を象徴する作曲家として理解されているようなところがありはしまいか。

    これを読んで一瞬はっとはしたものの、あまりに武満を理解する「型」に拘泥しすぎてはいないかとも思います。

    虚心に聴くならば、先にも書きましたように、ある瞬間に音楽が琴線を奮わせる。セリー理論だとか調性だとかの専門家しか理解できない音楽理論をゆうに飛び越えて、音楽の持つ得体の知れない力が人を捉えて放さなくしてしまう。そんな武満音楽の魅力を改めて思い知らされてくれる名盤であると思います。

[読書メモ]坂口安吾

坂口安吾の作品をいくつか読んでの雑感。



  • 若さゆえの肉欲を抑えきれない精神
  • ロマンチストゆえに恋愛と肉体の愛のハザマにあって、肉体の愛を究極までに純化することによって、あからさまな欲情をカモフラージュした
  • すなわち、女性には精神的な要素を認めず、現代から考えると蔑視とも取れるかのような存在として描く
  • それは「白痴」という正常な精神を有さない女性であったり、肉体の要求のまま生きている淫売であったりする
  • そして行為を許容したり拒否しながら、行為そのものへの欲求を客体化させてしまう
  • 自分をひたすらに堕落せしめているとは言っても、所詮は気ままな男のやけっぱちさ?
  • 堕ちた所から見えてくる姿、そこから斬ること

2006年7月2日日曜日

坂口安吾、太宰治、そして町田康など


町田康を読んでいたら、ふと坂口安吾でも再読してみるかという気になり、「堕落論」「続堕落論」(1946年)、「日本文化私論」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)、「デカダン文学論」(1946年)などをつまみ読みする。



戦中に書かれた「日本文化私論」や、戦後すぐに書かれたや「堕落論」は今読んでも、いささかもその光芒も力も失っていないものだなあと関心しきり。「デカダン文学論」では島崎藤村や横光利一、夏目漱石をコテンパンにやつけている。特に「こころ」の主人公を自殺させたことに対して、坂口は辛辣な批判を浴びせている。


自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに


坂口の堕落は、現代から見ると古い日本的なものからの逸脱であり、決して所謂「退廃」を意味していない。力強く前向きだ。


不良少年とキリスト」は、MC(マイ・コメディアン)を演じた太宰治が自殺した直後に書かれた太宰のバカヤロウ的文章で思わず胸が詰まる。そう思ったら無性に太宰を読みたくなって「人間失格」「斜陽」そして未完の「グッド・バイ」を続けざまに読む。


太宰はダサイだの暗いだの言われていたし、今で言えばヲタクみたいな同級生が太宰を好きだったりしたことも手伝って、学生時代には太宰の小説からあまり感銘を受けなかった。しかし、この年になって改めて読むと、彼のニヒリズムの厳しさにヒリヒリする。「人間失格」を書くために太宰は生まれてきたと文庫解説の奥野健男氏は指摘する。しかし「斜陽」の4人の主人公とて全て太宰の分身ではないか。2作を続け読むと誰が誰で何をしでかしたのかの境界がぼやけてくる。井伏鱒二は「悪いやつ」だったんだなアとか(笑)


坂口は「不良少年とキリスト」の中で

あれを人に見せちやア、いけないんだ。あれはフツカヨヒの中にだけあり、フツカヨヒの中で処理してしまはなければいけない性質のものだ。

と断じた。しかし太宰を読んだ後に、もう一度この文章に接すると違和感がある。坂口と太宰は根本からして違う人間なのだ。むしろ太宰の内面は三島のそれに近いような気がする(だから三島は太宰を「近親憎悪」したのか)。坂口と太宰は明らかに系譜もベクトルも異なっていることに、今更ながらに気づく。


町田文学は太宰の系譜を汲んではいる。しかし彼もあそこまで退廃はしていない。独特の醒めた眼がある。それが諧謔のギリギリのところで彼を踏みとどまらせる。太宰はコメディアンで芸術家で革命家ではあったが、町田はパンク歌手で詩人である。坂口もパンクだ。しかし、それぞれが求める堕落も革命もパンクも異なっている。


太宰も町田も個人と人生の大いなる虚無を見つめ、虚無から逃避することでばかばかしい日常を無理やり生きた。ドラックとアルコールは共通だが、町田氏は白い狂気に向かい、太宰は暗い死を選んだ。坂口は、ひたすら強く生きたか。


最後に、多分、町田氏は死なねーなと根拠なく思ったところで(今時死ぬるほどに虚弱な芸術家は絶滅したか)、柄にもないデカダン文学浸りはオシマイにしよう。

2006年7月1日土曜日

[読書メモ]町田文学のエッセンス

町田文学のエッセンス、根本的なパターンに変化はない。


  • ダメ人間と現実のねじれ

  • 奇行と狂気

  • 本人が真面目であり、世間の期待に応えようとしつつも結果は異なる方向にしか向かわない

  • 自分を客観視

  • 自虐的な喜劇

  • 人生に対する余裕