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2007年1月6日土曜日

【本棚】丸山眞男:自己内対話

私は政治学や日本の政治思想史に興味があるわけではありません。従って丸山の膨大な全集や代表作である『日本政治思想史研究』などを読むことはないと思います。本書を手にとったのは、中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」という本を読み、丸山という知の巨像が生み出した音楽観について興味を持ったからです(*1)

ひと時絶版になっていたようですが、銀座の教文館でたまたま発見、お正月休みにやっとゆるりと読むことができました。

実のところ「音楽」に関する話題は少ないのですが、ベートーベンやショパン、フルトヴェングラーやカラヤンなどに対する見方はなかなか面白いものがありました。

例えば、ベートーヴェンの情熱とショパンのそれとのちがい。

両者とも既成形式をこえる。しかし、ベートーヴェンの場合は、生の充溢が形式をこえるところに必然に新たな形式が生まれている。構成の美そのものは崩れない。(中略)ショパンはいわば最初からくずれている。(P.111 1954年の手帖から)

例えば、ショパンとシューマンのちがい。

ショパンとシューマンの音楽の美しさは、ともにそのたゆたうような不安定性のなかにある。(中略)しかし、ショパンの場合には、そうした「不安定性」がそれ自体彼の音楽の中に構造としてある。ビルト・インされている。だからショパンは不安定性の美の古典たりうる。シューマンはちがう。彼のは安定と不安定の間を動揺しているような、そうした種類の不安定だ。(P.164)

カラヤンは思想のない、しかし、才能のある指揮者と一刀両断。

今度(1966年)で、三たびきくカラヤンとベルリン・フィルのなんという絢爛としたむなしさ!。(中略)フルトヴェングラーの即興性と、カラヤンの計算された恣意性(P.239)

しかし、そういう丸山もカラヤンが振った「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死を聴き、

あの熱っぽくムンムンするような緊張の連続-それを思い出すだけでも私の全身の毛穴に妖しい旋律が走る。(P.254)

と書きます。丸山の音楽観に同意するかしないかは別としても、バッハのマタイ受難曲を引き合いに出し、知識人の間に支配的な日本の「庶民主義」に対して

もうそろそろ引き下げデモクラシーから決別したらどうか(P.125)

という主張には、丸山の根幹を支えている精神が読み取れます。彼があの東大紛争の時に何を考え、評論家やタレント教授、そしてジャーナリズムに対してどういう思いを持っていたのか。「東大」を始めとする「権威」をどう捉えていたのか、実はこちらの方が本書の主幹であります。そして当然のごとく、こちらの方が断然に面白い。

「自己内対話」とは、

自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然自我と対話すること(P.252)

と書きます。丸山の知の断片たるノートではあるものの、その一文一文は地中に根を張っているような深みに満ちています。

戦後の「理念」に賭けながら、戦後日本の「現実」にほとんど一貫して違和感を覚えて来た私の立場の奇妙さ!(P.246)

丸山は階級関係と政治のような捉え方をしたせいか、左翼的という印象を持たれるらしい。しかし、上の一文を読む限りにおいて、左翼的という事の無意味さを思い知ります。

  1. 興味をもったきっかけは、瑞紀さんという方から以下のコメントを頂いたせいでもある。残念ながらこのエントリの後、ブログがいったん崩壊したため、コメントはローカルPCのHDにテキストデータとして残しているのみである。 『音楽の対話』が届いたら、いかに件の鈴木氏の本が
    「引き下げデモクラシー」に合致するか、お解りいただけると思います~。。
    その後、面白く読めるところもありましたが、ハラ立つことも多し(苦笑)。

    DATE: 09/06/2005 01:56:04 AM

    鈴木氏とは、音楽評論家の鈴木淳史氏のことである。彼が「引き下げデモクラシー」に該当するかは判断を保留したい。

2005年12月22日木曜日

【音盤】ベートーベン:交響曲第7番/テンシュテット&LPO

テンシュテット
ベートーベン交響曲第7番、ブラームス交響曲第3番
  1. ベートーベン:交響曲第7番
  2. ブラームス:交響曲第3番
  • テンシュテット(指揮) ロンドンpo.
  • Royal Festival Hall,London,22 November 1989(Beethoben)、Royal Festival Hall,London,7 April 1983(Brahms)
  • BBSL 4167-2

来年がモーツアルト・イヤーだからというわけではありませんが、iPodに入れたモーツアルトばかり聴いていたときに、Syuzo's Columnでこの盤の紹介を目にしました。その中での文章に、

ベートーヴェンを箱庭のような所に押し込めて、「ベートーヴェンって、そんなに凄くないじゃん。モーツァルトみたい」とロココ風の衣装を着せて軟弱に喜んでいる演奏ではない。これは不屈の精神と巨大な愉悦という、ベートーヴェンの凄みをしっかりと知らしめてくれる演奏である。

ということが書かれています。この文章は演奏スタイルというだけではなく、モーツアルトの音楽とベートーベンの音楽の決定的な差異について端的に語っています。ベートーベンをどのように解釈して演奏しようと、それは間違いではないのでしょうが、ベートーベンが表現した音楽は、モーツアルトという天才がどんなに技巧を凝らしても決して表現できなかった(しなかった)世界を提示していることだけは確かなでしょう。

音楽が『意志』を持ち始めた、と言ったのは思想史家の丸山眞男です。

音楽という芸術の中に『意志の力』を持ち込んだのはベートーベンです。『理想』と言ってもいい。人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、<響き>=<音響感覚>でそれを追求し、表現する。凄まじい情熱ですね。これを『ロマンティック』と言わずして、他になにがありますか。(「丸山眞男 音楽の対話」中野雄著 P.75-76)

以前に触れましたが慶応大学教授でもある許光俊氏は「オレのクラシック」の中で、そういう近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまった(P.49)と指摘します。

しかし、こういう力強い圧倒的なベートーベン演奏を聴くにつけ、改めて音楽の持つ力と今の時代にベートーベンを聴く意味について考えざるを得ません。この演奏はもはや、弦がどうだとか、ティンパニのロールが凄いとか、そういう感想を超えています。第三楽章あたりから、もはや涙が止まりません・・・感想はsyuzoさんや以下を参照してください(;_;)

HMVサイト

2005年10月3日月曜日

立ち読み

本日は天気も良いので丸の内オアゾの丸善へ。丸山真男の「自己内対話」でも買おうと思っていたのだが生憎売り切れだった。こんなことならネット検索しておくべきだったと後悔。

仕方ないので丸山解説本をいくつか斜め読み。丸山は最後まで「思想史家」としての立場を貫き、「思想家」「哲学者」ではなかったらしい。自分の語れる範囲の事を徹底的に研究することで、ひいては「思想」や「哲学」を語っていたという態度は、彼の音楽への接し方とも通ずると感じた。「ササラ型」「タコツボ型」ということと「執拗低音」というキーワードは、彼の中で通底する意識なのだと思う。晩年の「他者感覚」についての言及も鋭い。

その後、話題?の「原寸美術館 画家の手もとに迫る」(結城 昌子)をパラパラとめくる。その迫力には驚くばかり。ボス、ブリューゲルの絵は高校時代から凄いと思っていたが、原寸で眺めた時の凄まじさ。あるいはマネの圧倒的な筆さばき、モネやゴッホの狂気を感じる色の混沌。フェルメールの異空間。ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」の壮麗さ・・・、本当にこの企画には脱帽、今まで見えていなかったものが浮かび上がってくる。

しっかり堪能した後は渡辺保氏の「歌舞伎劇評」(朝日新聞社)を一通り眺める、すぐに読めてしまうので買うほどではなさそう。最後は「歌舞伎の話」(戸板康ニ)、「アースダイバー」(中沢新一)を購入して帰る。丸善は窓際に椅子とテーブルがあり非常に快適。

2005年9月29日木曜日

[読書メモ]丸山眞男

丸山の思想メモ


  • タコツボ-官僚的、ササラ-通奏低音(バッソ・オスティナート)。丸山を捉えて話さなかった音楽。
  • 日本の思想や制度に対する輸入感
  • 自発的ないしとしての思想、民主でないこと。過去のアンチテーゼとしての現代
  • 思想史の中でササラに対応するものとしての天皇制
  • 「である」静的、身分・階級 → 「する」動的、能力主義
  • 丸山と福沢諭吉



2005年9月26日月曜日

台風が去ったら秋深く

暑い暑いと思っていたのに、台風が去ったらまるっきり秋の空気に入れ替わっている。気付いてみれば暑い盛りから鳴いていた虫たちの声も一層夜空に染み渡っている。

表に書いたが、渡辺氏の「歌舞伎」はイロイロと示唆に富む。歌舞伎を語っているのだが、その裏には時代の美学がにじみ出る。

時代がにじみ出るといえば、やっと2章まで読んだ「日本の思想」(丸山眞男)が発刊されたのは1961年のこと。マルキシズムなどの解説はさすがに時代を感じるが、彼が根底に見据えていた日本思想論は今現在も全く色褪せていないどころか、彼を越える論客が今の日本に存在していない、あるいは存在することを時代が要求していない、という事実に気付いたとき、慄然とする思いである。

2005年9月18日日曜日

歌舞伎の美学

渡辺保氏の「歌舞伎 過剰なる記号の森」(筑摩書房)を読み始めましたが、「口上」と題された序文の中の一文が鋭く目を射ました。

古典劇としての歌舞伎には、それ自身のなかに伝統的でかつ不変の一つの美学があるように思える。しかし実はそうではないのである。(中略)そこにはむろん変わらないものもあるが、変わったものもある。変わらないものはその形式(たとえば女形)であり、変わったものはその内容(たとえば女形の芸風)である。(P.10)

この変化がどこからくるかといえば、(中略)私は時代の感覚が変わったからだと思う。(中略)その時代の感覚の変化の基本となったものは、私たち観客の感受性の変化でもある。役者とともに、役者と交錯しながら観客の美学というものが変わったのである。(P.11)

先に紹介した中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」。丸山はカラヤンの振るベルリン・フィルをトスカニーニとNBCのヨーロッパ版言い、「なんという絢爛としたむなしさ」(P.229)という一言のもとに評しました。丸山が愛したフルトヴェングラーに象徴された音楽の時代が聴衆とともに変化したことを如実に表した一言です。

再度問う、いったい私たちは、何を観て何を聴いているのか、いや、何を守り何を求めているのかと。

2005年9月15日木曜日

中野雄:「丸山眞男 音楽の対話」


著者の中野雄氏は54年東京大学法学部にて丸山を師と仰ぎ、その後オーディオメーカーに入社、ケンウッド会長、常務取締役などを歴任、音楽プロデューサーや昭和音楽大学講師などもされている方と裏表紙の著者紹介にあります。そんな中野氏はもっぱら音楽談義を通じて丸山と半生を共にし、交流の中で得られた丸山氏の音楽観や思想の根底に流れるものを描き出しているのが本書です。

読んでいると、中野氏の丸山氏に対する深い敬愛と思慕の気持ちが溢れるばかりです。まさに彼の生涯のメンターの一人であったのだろうなと思われます。それ故に、本書に描かれる丸山氏の実像は、思想史家としての丸山眞男ではなく、まさに音楽に没頭し、音楽にまみれていることを至福とする、ひとりの音楽愛好家のいじましいまでの姿であります。しかしその姿は単なる愛好家というレベルを遥かに凌駕した洞察力を秘めており正鵠を射た批評には驚くばかりです。

この本には「丸山眞男」というものに代表される難解さは微塵もなく、読後の素直な感想としては「ベートーベンでも聴きなおしてみようかな」とか「丸山の本でも紐解いてみようかな」というものでありました。それほどまでに「音楽」に対する魅力と「丸山氏」に対する愛情が充満した本です。

丸山氏は日本の政治思想史において重要な足跡を残した思想家ですから、政治と音楽との関係について言及しないわけにはいきません。したがって本書では「第一部 ワーグナーの呪縛」「第二部 芸術と政治の狭間で-指揮者フルトヴェングラーの悲劇」として多くのページがナチスドイツ時代の音楽家や演奏に頁が割り当てられています(というかプロローグとエピローグ以外はこの二章しかない)。

フルトヴェングラーとドイツの関係については、Coffee Breakでも軽く引用しましたが、実存にまで関わる深い問題が横たわっています。第二章の最後にフルトヴェングラーの演奏がナチス・ドイツの支配下、しかも戦況不利な極限状態で「最良の姿」を見せたことについての二人の対話、

(中野)「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生まれないとしたら、<音楽>とはいたい何なんでしょう」
短い沈黙があった。丸山の言葉は、私の問いかけに対する答えではなかったような気もする。
(丸山)「人間の本質にかかわるテーマですね」
返って来たのはそのひと言であった。静かな、何かにじっと耐えているような丸山の口調であった。(p.234)

この部分は、本書の全てを言い表している部分かもしれません。いったい、私は丸山氏が聴いたものと<同じ><音>を、同じ<音楽>を聴いているのだろうかと、自問せずにはいられませんでした。

2005年9月14日水曜日

暇な時はとことん暇なのだが

今日も暑かった。9月中旬というのに34度にもなることなど、北海道育ちの人間には容易に受け入れがたい事実だ。9月中旬といえば内陸部では霜が降り、ナナカマドも一気に赤くなってゆく時期である。季節の変わりようは一日ごとに劇的でさえある。移ろいの速さには悲しみさえ覚える程だ。こうして考えると気候風土が人間精神に及ぼす影響は浅くはないと思う。

「丸山眞男 音楽の対話」の中で、フルトヴェングラーがナチス時代も(トスカニーニ達のように)ドイツを亡命しなかったことに対し

彼は頭の天辺から足の先までドイツ人だったから。彼の音楽観の根本に関わる問題 (P.193)
ドイツという国をドイツたらしめているものは何か、ナチの言うように人種なんかじゃない。武力でもない。文化だ。世界に誇ることのできる『ドイツ文化』だ。これが彼(フルトヴェングラー)の考え方です (P.201)

と丸山の言葉を紹介している。分かっているようで改めて書かれると考えてしまう。「日本を日本たらしめているもの」「北海道を・・・」あるいは「東京を・・・」それは「何」なのか、最後に残るコアなものとは何なのか・・・

2005年9月13日火曜日

選挙なんてっ!

本日(もう昨日か)の衆議院選挙自民圧勝に対し私は何も言うことができない。結局、住民票のある投票区に帰ることができなかったのである。ギリギリまで帰るつもりでいたから(選挙以外にも帰りたい理由があった)不在者投票の手続きも行っておらず、結果としていつものごとく段取りの悪さから、ささやかなる政治参加の機会を逸し、くだらない仕事に休日も忙殺されていたというわけである。

帰るのが難しいと告げたとき家人曰く、「無理して帰ってきても一票なんだし・・・」。それはそれで正しい。しかし、実はそれはその一票を投票することでしか直接的な政治参加表明ができないのであるから、個人にとっては「した」か「しなかった」かというグレーのありえない徹底的な差異である点で間違っている。

だから自民圧勝に対しても、刺客たちの当選に対しても、彼らを選んだ多数に対しても、残念だった民主党に対しても私は意見を言うことができない。古館氏の司会する番組の裏で、筑紫さんと久米氏が席を並べている番組の愚劣さなどについても書くことができない。というか、何かを書く以前に、疲れきった昨日の私の身体は22時以降まで覚醒していることを許してはくれなかった。

「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄 著、文春新書)を読み始める(つーか、あと少し)。丸山の膨大な著作群に接することなく中年になるまで生きてきてしまったが、音楽に対する彼の指摘がいちいちツボを抑えている点に驚いている。私と音楽の好みが一緒であるかはさておき、音楽に対する接し方、探求の仕方、愛情には脱帽するのみ。ただ中野氏の文章はイマイチ、というかイマ五くらい・・・、本書をしたためた気持ちはわかるのだが。私は「丸山氏の音楽に対する愛情」は読みたいが、「中野氏の丸山氏に対する愛情」には残念ながら興味はないということだ。

考えてみれば丸山を知る人が丸山の音楽観を確認すべく書かれた本なのだから、おそらくは中野氏の丸山に対する敬意や愛情は、丸山を知ってこの本を手にする人にとっては共有できる感情なのだろう。

したがって丸山を知らない無学な私にとっても、中野氏の文章を通じて丸山の思想の片鱗に触れたいという気持ちが(すこーしだけ)起きた点で、結果的には中野氏のスタンスは正しかったと言える。(>何言いてーんだ?)