#ファジル・サイ の新アルバムが凄くて言葉もない、ピアノ表現の限界超えてる。サイらしい壮大なドラマが展開、まるで映画でも観たかのような。 https://t.co/a37saRsFLa
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) June 6, 2019
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
#ファジル・サイ の新アルバムが凄くて言葉もない、ピアノ表現の限界超えてる。サイらしい壮大なドラマが展開、まるで映画でも観たかのような。 https://t.co/a37saRsFLa
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随分前に買って*1)iPodにも入れて何度も聴いていた曲なんですが、まだ感想を書いていませんでしたので、ちょっとだけ記して*2)おきましょう。
モーツァルトのピアノ・ソナタであれほど個性的な演奏をしたサイですから、ピアノ協奏曲となると一体どうなってしまうのだろう、彼の個性は発揮され得るのだろうかと若干の不安を持って聴きはじめた盤ではありましたが、まさにここには紛れもないサイの演奏が、そしてサイの美学がぎっちり詰まっていました。やっぱりサイのモーツァルトは素晴らしい。
例えば冒頭のK.414が始まったと同時に、低くかすかな唸り声が入ります。これが耳障りという人も居るでしょう。しかし、その繊細な舞うがごとき演奏からは、サイがすぐにモーツァルトの音楽世界に没入していることを知らせてくれます。協奏曲でも、サイの弱音のピアノのタッチ、鳴らし方、唄い方は絶妙であります。緩徐楽章のAndanteの美しさときたら、ここを聴くためにだけでも何度も本盤を取り出したくなります。
K.414の軽いジャブの後は、あまりに聴き慣れた名曲のK.467です。グリフィス率いるチューリヒ室内管弦楽団も小気味良い軽さでオケを鳴らしているようです。さりげなく滑らかに入るサイのピアノの明確さ、少し暗転するモーツァルトの翳と陽の妙。モーツァルトを聴く至福がこの最初の数分間に凝縮されています。サイのピアノとオケによる波状攻撃は、この曲を初めて聴くかのような興奮と哀しみと悦びを与えてくれます。
そしてサイ・オリジナルのカデンツァのドキドキする展開、茶目っ気とユーモアと美しさ、・・・言葉は余りにも無力か。Andanteの夢見るような旋律は、安穏とした午睡ではなく、モーツァルト特有の喪失の予感が巧みにオブラートされているかのよう。これまた眩暈がするほどにメランコリック。水晶を通して乱反射する硬質な陽光。終楽章ラスト近くのピアニッシモは冗談ではなく息が止まるかと思うほど。
最後のK.488も、これまた長調の明るくメランコリックなモーツァルトが炸裂しています。川田朔也氏は「CDジャーナル」に、
ショッキングなほど音を切る23番第1楽章のカデンツァが如実に示しているように、サイが目指すのはスタッカートを軸にした軽い音作り。同じ23番第2楽章のスタッカートを、譜面通りに、しかもやや強調して弾き、嬰ヘ短調の憂愁に異分子を混入させたかのような奇異さで耳を引きつける
と書き(→amazon)、宇野功芳氏は日本版のライナーで
シンプルな「K.488」の第2楽章は、あの長い主題を最弱音だけで進めてしまうが、それでいてだれず、小手先に終わらず、その独白がなんともいえない。
と絶賛しています。この余りにも有名な嬰ヘ短調のAdagio。確かにモーツァルトのペーソスではある。くぐもったペダルワークによる旋律、強調されたスタッカートによる上昇。霧の中、着地点も目標も見えない彷徨。聴きようによっては、ここにない、どこか他の場所に通じる場所に向って歩むかのような趣さえ感じます。それだけに終楽章が始まったときには、こちら側の世界にグッと引き戻された思いさえしてホッとします。モーツァルトって、やっぱりコワイ。そして、演奏からこんな「夢」を見させてくれるサイに改めて感服。
◇
impression of two little girls playing the gardenといった言葉そのままの世界。
仏naive社のヴィヴァルディ・エディションは、古楽系ブログで度々紹介されているように、ジャケットが抜群に素敵だ(→amazon、HMV)。
最近相次いで創刊されている女性月刊誌の表紙写真よりも、よっぽどいい。どこかドキリとするセンスで、梅も見ごろな3月、紅梅意欲をそそる。例のマンドリン盤ビバルディも今なら視聴可能。
naive社のサイトを見たところ、トップページがファジル・サイなので驚いた(アクセスする時期によって異なるかもしれない→こちら)。どうやらハイドンのソナタを録音したらしい(2007.2.20発売)。解説はフランス語と英語に切り替えて読むことができる。1分半くらいのサワリだけ視聴できるのだけど、サイの明るいピアノが楽しい、唸り声も健在なり。サイのファンとしては、買いか?
ストラヴィンスキーの『春の祭典』をCDで聴いて以来、注目のピアニストです。2006年秋の東京公演を聴くに至り、耽溺の域に達しました。詳細はレビュを。
ファジルサイ ピアノリサイタルin王子ホール 2006/10/05
ファジル・サイ ピアノ・リサイタルinパルテノン多摩 2006/09/30
王子ホールのプログラムは多摩とかぶる曲もありますが、これはこれで十分に魅力的なプログラム。特にサイのバッハどうしても聴いてみたかった。チケットは当日の10時に王子ホールへ電話してゲットしました、何とかなるものですね。多摩のリサイタルを聴いていなかったら、逆に無理とハナから諦めていたかもしれません。
王子ホールは342席ではありますが、音響的に改善されてからは、ずいぶんと響きが良くなったようです。購入した席は当日放出なのにI列15番と、ほぼホールの中央に近い場所。最前列で聴くのとベスポジで聴くのでは音の響きが違うような気がします。それに「首が痛くなる」ということもありませんからね。以前に書いたようにピアノの音がモコモコ聴こえるなんて、とんだ錯覚です。クリアにして響き過ぎずに十分な音色がホールを満たします。
お客さんも多摩とは違ってクラシック・コンサート的なスノッブな雰囲気がそこはかとなく漂います。私もせっかくですので400円でスパークリングワイン(スペイン フレシネ社製カヴァ)を休憩時間に飲んだりします。昂ぶった気持ちを落ち着かせたいという理由にかこつけて「飲んで」いるだけですが。平日18時過ぎにホールに駆けつけることの出来る人は、やはり限られます、ああ、なんて贅沢。
それにしても、音楽というのは一瞬の、あるいは流れ去る芸術です。いくらその演奏が素晴らしくても手中におさめることは二度と出来ません。それ故に音楽を聴くことは、きわめて直感的で生理的(原始的)で、そして精神の深いところを揺さぶります。
サイの演奏姿やうなり声には賛否があると思います。ものすごいパッセージを弾きながら、半身は鍵盤と135度くらいに開いたりするのですから、とても良い子にはマネさせられません。鍵盤にないときの手は指揮をするようだったり、あるいは空間から音を掴み取ったり、あるいは軽く放り投げるかのような仕草をします。サイは見えないミューズと常に対話しているのだなと思いますね。ですから技巧もメカニカルには傾かず、音楽は恐ろしいほどの説得力と広がりを持つのかなと。
左はこんな音楽を紡ぎだす人の演奏終了後のサイン会での姿です。この格好でどこかの公園をうろついていても、世界的なピアニストとは気づかないことでしょう :-)
王子ホールでファジル・サイのリサイタルを聴いてきました。
何と評して良いのでしょう。今までサイについて散々と語ってきたつもりでしたのに、私は今日のコンサートを聴いて、実は何も語れてはいなかったのではないかという疑念が沸きました。それほどに今日のコンサートは素晴らしく、感嘆の声しか出ないのでした。
モーツァルトの幻想曲 K397も素晴らしい曲ですが、それを演奏することを止め替わりにシャコンヌが演奏されました。これにより前半はバッハ、後半はモーツァルトと、性格の違う世界を描き分けたプログラムとなりました。
何しろ、パッサカリアの最初の数音が奏でられた瞬間に、電撃に撃たれたような感触を覚え、私はこの場に居合わせることのできた僥倖に思わず歓喜の声をあげてしまいそうになりました。音の凝縮力といい音楽への集中力といい、多摩の時よりも凄かったかもしれません。いったい何度、胃がひっくりかえりそうな想いをし、どれほど感興を抑え込むのに苦労しなくてはならなかったか。
《フランス組曲》も充分に素晴らしく、特に弱音部分で無数の真珠が無垢な斜面を煌きながら転がり落ちるかのような表現は、ほとんど奇跡的です。《フランス組曲》より《イタリア組曲》の方を聴きたかったというのは贅沢な望みでしょうね。
特筆すべきは《シャコンヌ》でしょうか。パルテノン多摩のリサイタルでは実は今ひとつシャコンヌには共感ができません
などと書きましたが、今日の感想は全く異なったものとなりました。座った位置が前回は最前列の右端という、あまり良好な環境ではありませんでした。たかがピアノ1台で、これほどまでの表現をされてしまっては、圧巻という以外に書きようがありません。ガンガン弾いてるように思われますが(本当に全身の体重をかけて重い和音を奏でていますから視覚的にも迫力があります)、彼のピアニズムの特徴である柔らかなタッチ、左ペダルと右ペダルの微妙な使い分けによる繊細さや弱音はここでも健在です。バッハをベースとした音楽の大伽藍は、人間のあらゆる感情を飲み込み、人智を超えた救いさえ垣間見る思いです。壮大な内宇宙を構築してくれました。
演奏が終わった後、拍手をしようにも脇の下や手のひらに汗をかいてしまい、まともに拍手などできるような状態ではなく呆然としながらサイを見つめていました。
後半は打って変わって軽く、ト長調のモーツァルト。K265は「ねえ、ママに聞いて」という題のように、恋人のことを母に打ち明ける音楽です。サイは演奏しながら客席に向かって語りかけるような仕草をよくするのですが、CDで聴いていてもサイが音楽を通して「語っている」ことが良く分かります。サイの演奏からは快活で元気な女の子が色々な調子で語りかけてきます。前半は女の子といった感じなんですが、第11変奏になると彼女は、ひとつの時を経た乙女の表情を見せてくれます。活発だった女の子が恋を通してこんなにも綺麗になってしまいます。その音楽の、色彩と香りさえ感じるような対比。結婚式で娘の花嫁姿に愕然とする程に(そんな経験ありませんし、息子しかいないからこの先もありませんが)この変奏は美しい。
K330の楽しさには思わず聴き惚れてしまいます。こちらも声には出さずに鼻歌を歌い、足踏みをしながら聴いてしまいます。
かくも素晴らしき演奏会のアンコールは、お馴染みのレパートリー。まずは普通の《トルコ行進曲》をスピーディーに奏で、1拍手を受けた後、続けて《ジャズ風トルコ行進曲》に突入です。やっぱり客席は沸きますね。《サマータイム》に続いて《ブラック・アース》で締めですが、例の弦を押さえた特殊奏法の音でホールの隅々まで満たされた瞬間は、何か原始的にして根源的な力を感じました。中間部は以前も書きましたが例えようもないほどに美しすぎ、全くもって、そういうものをストレートに感じすぎる自分がイヤになるほどです。
パルテノン多摩でファジル・サイのリサイタルを聴いてきました。
本日のプログラムはCDなどで「お馴染みの」、サイ得意の曲ばかりがズラリと並んだもの。最初の曲もモーツァルトの《キラキラ星変奏曲》と非常に親しみ易い曲から始まりました。
サイのモーツァルトは聴いていて、心の底が浮き立つような、うれしくなるような、そんな演奏です。私の席からはサイの口元が良く見えたのですが、モーツァルトの愛すべき曲が心底好きなのか、始終唄いながらピアノを弾いています。彼のピアノは弱音の美しさ、独特のタメとドライブ感が特筆モノだと常々感じています。今日の演奏でもそれを充分に味わうことができました。解釈はCDとほとんど変わることがありませんが、彼が舞い散らしたモーツァルトの花びらは風に舞ってホール中に散りばめられた感さえあります。
休憩をはさんでのバッハは、CDで聴くより余程迫力のある演奏。ブゾーニ編曲による、まさに壮大な建築物を構築するかのような音楽が奏でられました。ただCDでもそうなのですが、これほど彼の演奏に心酔していても、実は今ひとつシャコンヌには共感ができません。音が多すぎて濁りがあるのか、サイ独特の美しさが現れないような気がするのです。
しかしベートーベンは圧巻でしたかね。ともすると猛烈な第三楽章ばかりに関心が向いてしまいますが、今日の演奏では第二楽章の素晴らしさが際立っていた。祈るかのような第一主題が優しく奏でられた瞬間に、そのあまりの美しさにあいた口がふさがらず、この場でサイの音楽を聴けたことを心から感謝しました。
演奏姿を見て分かりましたが、弾き始めと同時にサイの両手は鍵盤を踊ると同時に空中を舞い、あたかも指揮をしているかのよう。曲にあわせて揺れるのみならず、ほとんど客席に向かって語りかけるかのような仕草。左足はソフトペダルを操作しながらも常に拍子をとっている。曲が興に乗ってくるとメタボリックな全身がリズムと化した様に弾み、演奏にも一層ビートがきいてきます。このノリの良さ!
アンコールの《ブラック・アース》はYouTubeの画像でしか接したことがなかったのですが、特殊奏法の部分がこんなにも効果的だとは、実際に聴くまでは思いもしませんでした。この曲にもサイの美学が散りばめられていて、一瞬ウィンダムヒルかと思う部分もなきしもあらずですが、それもよしです。アンコールの後の2曲には文句の付ける余地などあるはずもありません。ベートーベンから上がりっぱなしになったテンションは、最後に一音で最高潮に達し、思わず「ブラボー」と叫んでしまいました。
今日の演奏会を振り返ってみると、実は変奏曲のオンパレードだったのだと気付きました。K.265は12の、K.331は第一楽章が6つの、バッハは30の、そしてベートーベンの第二楽章は3つの変奏が聴かれます。もっともシャコンヌの変奏を全て聴き取ることは至難の業ですが。クラシックもジャズも結局はソナタ形式を含めて主題と変奏の展開の音楽ですからね・・・(^_-
ファジル・サイが日本に来ています。今日はパルテノン多摩でリサイタルです。東京は王子ホールや紀尾井ホールでのリサイタルは早々と完売したようですが多摩地区は場所がら人気がならしくネットで数週間前に予約できました。
会場に着いてみると当日券でも完売にならなかったらしく空席が目立ちます。ピアノファン、クラシックファンらしき人に混じって多摩地区に住んでいると思しき年配の方も目に付きます。「とても個性的なピアニストですね~」との会話も耳に入り、予備知識なくサイのピアノを聴きに来た人も多かったようです。
アンコールの最後に例の曲を演奏しましたが、変奏が始まった瞬間に客席からどよめきが生じたことから考えても、お客さんの多くはサイの才能やレパートリーに対する知識は少ないようでした。しかし、そんなことはどうでも良ですね。私とてサイについて知ることは極めて少ない。ただただ、サイのピアノを直接に堪能できた僥倖に感謝するだけです。
ぴあで予約した席は何と最前列の右端。サイの手元は全く見えないが、ほぼ真正面から顔を眺めることの出来る位置。弾きながらの歌いとかペダルワークはしっかりと観察することができました。
リサイタルの感想は改めて書きましたが、ファジル・サイに完全にブチのめされた2時間でした。演目は御馴染みのと言っていいものでしたが、あまりといえばあまりなピアニズム。クラシックでありながらロックでありジャズです。三曲のアンコールを含め、脳内で数回は超新星爆発が起きてしまい、なすすべなしです。最後のアンコールが終わった後に、思わず「ブラボー」と叫んでいる自分に驚いてしまいました。
てなわけで、ミーハーにもサインの長蛇の列に並び、ガーシュインのCDにしっかりサインをしてもらいました。掲載した写真がそれです。全く40半ばの中年の行動とは思いがたい・・・
とにもかくにも大満足な思いで、奇怪なパルテノン多摩の建物を後にしたのでした。
ファジル・サイの解説を読んでいると、グルダやグールドと比較している文章に出くわします。サイがジャズも弾くからグルダと似ているとか、グールドのように調子はずれに弾きながら歌っているからグールドの再来だとか、そういう表層的なことではないとは思うのですが、本当に二人にサイは似ているのでしょうか。
例えばグールドです。彼は1955年の《ゴールドベルク変奏曲》で有名になり、サイも1997年のモーツァルトがフランスでブレイクしました。どちらも録音媒体で有名になったのですね。ただ、フランス人というのは自分達とは異なったキャラクターを好む傾向があるようですから(>雑駁な偏見)、ちょっと眉に唾して評価を考えなくてはいけないとは思いますが。
で、他の人の評価はおいておいて、グールドのモーツァルトを改めて聴いてみました。とりあえずシングルのこの盤からK.331《トルコ行進曲》です。ちなみにグールドはモーツァルトが嫌いであったとされています。「モーツァルトの作品が嫌いだというのではない。もっと否定的だ。つまり許し難いのだ」という言葉も残しています。グールドはモーツァルトのどこが嫌いだったのでしょう。その冗舌性、俗に溺れ媚びた音符が許せなかったのでしょうか。
従ってといいますか、このK.331は極めて異質です。グールドのピアノのテンポのユニークさは今更言及するまでもないのですが、この演奏のテンポ感(遅さ)は曲を全く別物にしてしまっています。例えば私の好きなK.310イ短調のソナタの激烈な速度と比較しても、それをあざ笑うかのごとくに対照的なのです。曲が裸になって、むき出しになってしまったような感じとでもいうのでしょうか、虚飾も興奮もない。サイがジャズにまで変奏して弾ききった魅力は片鱗さえ見せません。そして、そこに、どこか諧謔的雰囲気とともに此方にはない安寧を求める孤独を感じます。
サイは、モーツァルトの「哀しさ」を表現しても、間違っても「孤独」は表現しない。こんな表現をしてしまう演奏者とサイが「似ている」とはどういうことなのか、と考えてしまいます。何度かこの盤を繰り返し聴いていますが、意識せずに涙がこぼれてしまう。サイのモーツァルトを聴いても嬉し涙は流しても、決して泣きはしません。
著作権が何だ、You Tubeのファジル・サイを検索してみました。かの「春の祭典」は「おかか1968」ダイアリーからご覧下さい(^~^)
パガニーニのピアノ・ジャズバージョン! 冒頭から凄い、ピチカートが弦よりも鋭く、中間部のスウィングのノリの良さ。悪魔のパガニーニがかくも変容し、苦笑いをする。
こちらは、サイ作曲の「ブラック・アース」。これもコンサート評で有名な「弦押さえ」の技が見られます。
「おかか1968」ダイアリーで、You Tubeにあるファジル・サイの映像が紹介されていました。内容は一見にしかず。これが、噂に聞く(コンサートのアンコールなどで演奏したらしい)、《トルコ行進曲》ジャズ・ヴァージョンですかっ! (以下こぴぺ)
こちらは真面目なバージョン。画像が荒くてよく指の動きは見えませんが、何か尋常ならざる演奏であることが分かります。
下はトルコのCFの中での《トルコ行進曲》。歌が入っても素敵だ!カットなしで全部聴きたいぞ! 途中でのサイのひょうきんな顔が良い(^^)
この映像を見て依頼、アタマの中で《トルコ行進曲》がグルグルと回っている・・・
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ファジル・サイのモーツァルトがとても楽しい。モーツァルトのソナタ集では1953年録音のギーゼキング盤などが昔の定番であったように思えます。その中からいくつかを聴いてみますと音質は悪いものの、硬質にして男性的、そして理知的な(結構表現は激しい部分もありますが)モーツァルトを聴くことができ、今でもその価値は失ってはいないと思います。
しかしサイのモーツァルトを聴いてしまうと、録音の新しい古いを越えて、サイの音楽の瑞々しさと真新しさに驚いてしまうのです。
例えばK.330です。この曲はアインシュタインが「かつてモーツァルトが書いたもっとも愛らしいもののひとつ」と評したとのこと。今時の小学生か中学生でも弾きこなしてしまうのではないかと思えるような平易明朗な曲。しかし、この弾むようなリズム感、生き生きとした躍動感はまさにモーツァルトの天才にしか成しえない作品。サイの装飾音符の切れ味と小気味の良さ、音楽からあふれ出す喜び。第二楽章の、長調の曲に一瞬翳る憂いと気だるさ。第三楽章で再び蘇る若さの弾力と美しさを、サイの演奏は十全に表現していることに驚きます。ところどころ、左手バスの響きがはっとするほどに重く力強く(しかし粗くない)、曲に深みを与えています。まるでフィギュアスケート選手の華麗にして力感あふれる繊細な演技が描く氷の弧を眺めているかのよう。ラストのドライブ感とそれに続く強打も利き処。
K.333も同様に流麗軽快な曲。アンダンテ・カンタビーレの第二楽章はことさらに美しく、暖かい日差しの中でウトウトとまどろむがごとき曲想、しかしここにもモーツァルト的な深刻ならざる翳りが差します、このアンニュイがたまらない。冒頭の主題に戻ったときの柔らかな安心感の格別さ、全ては夢の中。再現部をサイは提示部よりも華麗かつ繊細に弾きます。とにかく聴いているだけで幸せが二つくらい増えたような気にさせてくれる曲。サイの演奏に喝采。
もっとも、17のピアノ・ソナタひとつづつの魅力や特徴を書き分ける能力は私にはないので、上の感想も、どちらがどちらのものか良く分からないのですが・・・(^^;;
どの曲でもサイは唸るように歌っていてます。それが気になるといえば気になるのですが、まあ、唸る人は他にもいますから、多めにみるとしましょう。
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《トルコ行進曲》付きとして紹介されることの多い曲ですが、有名な第三楽章だけではなく、最初からきわめてモーツァルト的な雰囲気を楽しめる曲です。
例えば第一楽章。これは主題と六つの変奏曲の形をとっています。10分程度の楽章ですが、年頃を迎えた少女の寸劇を観ているかのような印象さえ感じてしまいます、例えばこんな具合に。
主題は、母への優しい想い、あるいは秘めたる気持ちを静かに暖めているかのような、あるいは恋人の写真をうっとり眺めているような、ほっくりとした幸福感を感じます。第一変奏は、うれしい知らせがあったのかのように快活になり、ウキウキした心の昂ぶりを表現します。第ニ変奏は更にスキップするがごとくに、あるいはクローゼットから色とりどりの服を出してはしまっているかのよう、気持ちはどんどん弾みます。第三変奏は一転してイ短調に変わり、心の乱れ、不安と翳りが表現されます。夢見る雰囲気は薄れ激しさが増し、いらだたしさに爪を噛み涙を流します。第四変奏は再び冒頭に現れた主題が、至福感と抒情と華美さを増して展開します。続く第五変奏は、何かを告白するかのような恥じらいとためらい、そして可憐さを感じさせる曲調に変わります。声も出ないほどここの変奏は美しすぎます(サイが唄うのも今回ばかりは許す)。そして最後の第六変奏はアレグロ、快活にそして力強く喜びが爆発し華麗なステップを舞います。
第二楽章も、サイのピアニズムの瑞々しさ、ドキドキする躍動感、夢見るような陶酔感を充分に味わえます。何かどこかが新しく、心を刺激する。決して奇を衒ってはいない。
終楽章の《トルコ行進曲》は圧巻でしょうか。トルコ趣味の曲をトルコ人であるサイが、抜群のテクニックで疾走します。アクセントの強さと鋭さ、弱音部の美しさ、その対比の見事さ。陶然とする想いにアタマの芯が痺れながら最後のコーダに突入。そ、そうくるかっ! このコーダの表現は、ベートーベンの《熱情》でも聴かれたテクニックに近い。独特のタメとその直後の加速が恐ろしいほどに曲を立ち上げる。続けざまに5度も聴いているが、まさに麻薬、何たる表現。
親しみやすく有名な曲ですが、私はある意味で極めて高度な曲だと思います。サイのピアノは色彩豊かで、美しくも力強く、目の前に無数の花びらが舞っているかのよう。
もう秋だというのに天気はグズグズとして東京は雨ばかり。仕事も忙しいばかりでさしたる成果もなく、また半年が無為に終わろうとしています。あ"~、フラストレーションがァ!と心の中で叫びながら、深夜の帰宅道をiPodに入れた中から何か聴こうとクリクリと曲を探す。
結局のところ、マーラーやブルックナーには食指が伸びず、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いてしまう。しかも、グルダやピリス、グールドやインマゼールなどの演奏ではなく、サイのキラキラ星変奏曲を。繰り返して。
実際のところ、サイのモーツァルトは良い。硬質な弾力が心地よく、また柔軟性とスピードも充分です。彼の最近のベートーベンにも驚きましたが、この盤にも多くの驚きが込められています。強烈なスパークに満ちた怒涛の演奏といえましょうか。聴いていて、心が弾む弾む。単純な主題から煌くような変奏の数々、しかしベートーベンのそれのように深刻や深淵には向かわない。逆説的に深い歓びも哀しみも内包しつつ、表層は無邪気な戯れだけがスパンコールのように覆う。モーツァルトの天才。それを弾ききるサイの能力の確かさ。
12の変奏の中ではハ短調の第8変奏の気だるいアンニュイ、第11変奏のアダージョが聴きどころでしょうか。モーツァルトのオペラ・アリアを聴いているようで果てしなく美しく愛しい。
夜空を見上げると空の星が少しだけ高くなっていた(>気がする。曇り空だし)。心も数センチだけ高くなる(>気がする)。
それにしてもファジル・サイのベートーベンはモンク無しにカッコいい。走り抜ける軽快さ、抜群の運動性能と若き熱情、そして儚いまでの美しさと快活さ。生きていることの潔さも苦しさもひっくるめて、しかし深刻ぶらず深淵にはまらず表現しきる。激しい表現をしていながらも重くベタ付くことはない。スピードが哀しさを誘うというのは、ちょっとモーツァルト的。また彼のピアノを聴くことから、ある種スポーツに似たカタルシスを得ることができます。
《ワルトシュタイン》は第一楽章の刻むリズムがベートーベン的反復で印象的な曲。弾けた乱痴気騒ぎや悪戯、物思いや憂鬱など、光と影の対比を私は感じます。この曲は第二楽章から第三楽章に移る部分が私はとても好きです、何度聴いてもいいなあと。完全にひとつ上に突き抜けた感情が、控えめながらも高らかに、そして限りなく美しく表現されているかのよう。いつしかファジル・サイと一緒になって鼻唄さえ歌ってしまう、しかしそれでも、最後の雄たけびは、やっぱり余計か。
《テンペスト》は、シェイクスピアの戯曲など知らなくても名曲だと改めて思います。この頃のベートーベンは悪化する耳の病気と危機的な精神状態にあったのだとか。第一楽章は暗くも勢いのある曲想、悲劇へと向かう走駆を思わせますが、サイのピアノはどん底の悲劇を描きはしません。ピアニシモの表現にいとおしむかのような美しさを聴くことができます。有名な終楽章も悲劇性と軽やかさを両立させながら、哀しみを美しさにくるんで提示します。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、強奏部の激しさとともに、弱奏部の余韻も美しい。思った以上に繊細な表現が聴かれるだけに、何度も繰り返し聴くとサイの唸り声が耳障りになってきます。
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ファジル・サイが「熱情」を弾くとどうなるか。いくつかのCDレビュ読み予想はしていたものの、この演奏はそれをはるかに上回る、凄い。いや正統なピアニストやベートーベン好きからは否定される演奏であるかも知れません。しかし、私は激烈にこの演奏を好み、何度も何度も繰り返し聴いています。
ファジル・サイはうなり声さえ上げながら、第1楽章から猛然としたスピードで突き進みます。第2楽章に入ってもテンションは少しも緩むことはありません。
そこかしこに聴こえるサイのうなり声。ピアニストのうなり声が録音されている演奏は少なくはありません。あのポリーニの「熱情」しかりです。しかしファジル・サイのそれはもはや猛獣の咆哮。内部のあふれるばかりの感情が抑えきれずに爆発し、溢れ、奔流する。勢いにまかせてはいますが、テクニックは抜群でピアノの粒も際立ち、ただでさえ起伏の大きい曲の振幅は激しく上下します。
恐ろしいまでの勢いで突入する第3楽章、その速いこと。もはやベートーベンの深みや狂おしいばかりの感情は、轟然とした疾走の中に置き去られます。「華麗なる絶望の曲」。ベートーベンは歓喜を込めたはずではないのに、あまりに壮烈。疾走する絶望。
速すぎて楽譜を逸脱しているとか、コーダで加速できていないという批判もありましょうが、リズムの変化は実際の加速以上に刺激的。鍵盤を駆け回り叩きつける指先の強烈さ。
かように極めて現代的な表現、今の世にして成立する演奏。スポーティーな感覚に身を委ね聴き終わった後には達成感とスッキリ感さえ覚えます。これもベートーベンか。