2007年4月22日日曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲 K.414、K.467、K.488/ファジル・サイ

  1. ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414
  2. ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
  3. ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488
  • ファジル・サイ(p)
  • チューリヒ室内管弦楽団、ハワード・グリフィス(cond)
  • naive V4992

随分前に買って*1)iPodにも入れて何度も聴いていた曲なんですが、まだ感想を書いていませんでしたので、ちょっとだけ記して*2)おきましょう。

モーツァルトのピアノ・ソナタであれほど個性的な演奏をしたサイですから、ピアノ協奏曲となると一体どうなってしまうのだろう、彼の個性は発揮され得るのだろうかと若干の不安を持って聴きはじめた盤ではありましたが、まさにここには紛れもないサイの演奏が、そしてサイの美学がぎっちり詰まっていました。やっぱりサイのモーツァルトは素晴らしい。

例えば冒頭のK.414が始まったと同時に、低くかすかな唸り声が入ります。これが耳障りという人も居るでしょう。しかし、その繊細な舞うがごとき演奏からは、サイがすぐにモーツァルトの音楽世界に没入していることを知らせてくれます。協奏曲でも、サイの弱音のピアノのタッチ、鳴らし方、唄い方は絶妙であります。緩徐楽章のAndanteの美しさときたら、ここを聴くためにだけでも何度も本盤を取り出したくなります。

K.414の軽いジャブの後は、あまりに聴き慣れた名曲のK.467です。グリフィス率いるチューリヒ室内管弦楽団も小気味良い軽さでオケを鳴らしているようです。さりげなく滑らかに入るサイのピアノの明確さ、少し暗転するモーツァルトの翳と陽の妙。モーツァルトを聴く至福がこの最初の数分間に凝縮されています。サイのピアノとオケによる波状攻撃は、この曲を初めて聴くかのような興奮と哀しみと悦びを与えてくれます。

そしてサイ・オリジナルのカデンツァのドキドキする展開、茶目っ気とユーモアと美しさ、・・・言葉は余りにも無力か。Andanteの夢見るような旋律は、安穏とした午睡ではなく、モーツァルト特有の喪失の予感が巧みにオブラートされているかのよう。これまた眩暈がするほどにメランコリック。水晶を通して乱反射する硬質な陽光。終楽章ラスト近くのピアニッシモは冗談ではなく息が止まるかと思うほど。

最後のK.488も、これまた長調の明るくメランコリックなモーツァルトが炸裂しています。川田朔也氏は「CDジャーナル」に、

ショッキングなほど音を切る23番第1楽章のカデンツァが如実に示しているように、サイが目指すのはスタッカートを軸にした軽い音作り。同じ23番第2楽章のスタッカートを、譜面通りに、しかもやや強調して弾き、嬰ヘ短調の憂愁に異分子を混入させたかのような奇異さで耳を引きつける

と書き(→amazon)、宇野功芳氏は日本版のライナーで

シンプルな「K.488」の第2楽章は、あの長い主題を最弱音だけで進めてしまうが、それでいてだれず、小手先に終わらず、その独白がなんともいえない。

と絶賛しています。この余りにも有名な嬰ヘ短調のAdagio。確かにモーツァルトのペーソスではある。くぐもったペダルワークによる旋律、強調されたスタッカートによる上昇。霧の中、着地点も目標も見えない彷徨。聴きようによっては、ここにない、どこか他の場所に通じる場所に向って歩むかのような趣さえ感じます。それだけに終楽章が始まったときには、こちら側の世界にグッと引き戻された思いさえしてホッとします。モーツァルトって、やっぱりコワイ。そして、演奏からこんな「夢」を見させてくれるサイに改めて感服。

  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. ちっとも「ちょっとだけ記して」おくことはなりませんでした。聴く作業と同時進行的に文章をしたためていると、私の場合、大体こういう情動優先の文章になってしまうんですよね、反省。

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