音楽をベルリン・フィルとラトルが担当というだけで、クラ界ではそれなりの話題性があるハズなんですが、定期巡回しているブログではTakuyaさんとyusukeさんのところにエントリがあるくらい。そろそろ上映期間も終わりに近づきましたので観てきましたが、直後の第一印象としては随分とおぞましい映画を観てしまったなと。映像の綺麗な官能サイコパス映画と捉えても良いけど、それだけぢゃあ、つまらないので少し・・・
おぞましさは、映像のグロさや主人公グルヌイユの猟奇性に起因するわけではありません。それは犯罪性とか人間の生活にまみれた汚濁とか醜悪さの中から、群集はおろか司祭や為政者までをも支配してしまうほどの力と神聖さを獲得するという、そのこと。彼の「行為」と目的の無垢さと純粋さ、その純粋な悪意に胸が悪くなる程のおぞましさがある。
彼が自身、体臭を持たないと気付いた時、彼は自分の存在の欠落に気付きます。しかし、それをきっかけとして彼が人間的感情を欠落させたわけではありません。彼には天賦の才能(「香り」の世界のモーツァルトに匹敵する天才性)がありながらも、人間性をもともと有してはいなかった。それ故にかどうかは分かりませんが、失われた香り(彼が初めて嗅いだ女性ではなく、それは最初から失われていた)への強烈な焦燥と固執、地獄のような欠落を埋めるために神をも怖れぬ邪悪な行為を続け、その結果が神をも惑わす奇跡に繋がる・・・なんて茶番を、いったい正視できましょうか。
いや、いや、それでも正視してしまうのです。全くに意表を付く処刑場のシーンは苦笑を禁じえないと同時に、このクライマックスが何故に必要であったのかと、やはり考えざるを得ない。すなわち彼の獲得した全能性は彼を幸福にはしない、彼の欠落を埋めることもない、悪意の野望は実現しない。彼の与えた奇跡は一過性のもので、万人の記憶に留めたくない類のものであった。
人間性すなわち愛を欠落したままの彼は、生まれた場所に引きずられるかのように帰り、自らの存在証明である香水の魔力ゆえに群集に蛙(=グルヌイユ)のように押しつぶされて死ぬというのは余りにも暗示的です。彼の存在はその瞬間に無と帰しましてしまいます。ああ、やりきれません。
それにしても、映像における18世紀のパリの描写のリアルさよ。街が汚いだけではなく、衣服も人も汚い、手も首も爪も!汚れて真っ黒であるということ。そういう世界から生まれた香水。香水は日常を聖へ、汚濁を清浄へ、処女性から性愛へ、そして憎悪を愛へと導くということか。いやァ~、本当にドイツ人の考えることは、良く分からんス。やっぱ香りと同じで文化の違いなんでしょうか。
あれ?ラトルは?ベルリンは?
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