2003年3月28日金曜日

【風見鶏】イラク攻撃報道を見ていて

まあつまりはそういうことだ。アメリカとイギリスは手を取り合って戦争を始めた。世界世論は割れたまま、オレは戦争の真実を知ることはできないでいる。戦争で死んでゆくのはイラクの兵士ばかりではない。イラクの(おそらくは金持ちは安全な場所に逃げてしまっているので、あまり裕福とは言えない)一般市民であり、戦争の目的を遂には信じることが出来ないまま戦場に赴いてしまった(こちらも推測だが、おそらくは裕福層とは言えないだろう)前線のアメリカ人やイギリス人兵士達だ。(米国捕虜兵の顔を思い出すがいい)
マイケル・ムーアはアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ恥を知れ!」と叫び、失笑とブーイングと退場の拍手と音楽に追い立てられた。政府高官や大企業の子息が、イラクの砂嵐にまみれ、将校に追い立てられて銃を取っているということは、あと24時間でこの戦争が終結することがあったとしても、ありえないことだ。 

まあつまりはそういうことだ。武力ってのは破壊的で暴力的だが、見入っちまうんだ。ナイフや銃やミリタリー関係の雑誌が、ヲタク的な弱々しい男性に支持されている現実を思い出すまでもなく、つまるところ人を殺したいとはマッタク思っていない人が兵器や武器に魅入られるのは、一面でそれらが強さの象徴だったりするからだ。 

まあつまりはそういうことだ。ラムズフェルドは戦争が始まる前から笑っているように見える。中道派のパウエル(改心したのかさえ分からない)は、このごろ国内世論まとめに尽力しているようだが、彼は最初から最後まで笑ってはいないように見える。さて最後に笑うのは誰なんだろう。
笑っていると言えばだ、しかし何だって全てのTV局は金太郎のように同じ番組を作りつづけるのだろう・・・。この隙に、戦争のドサクサに紛れてよからぬことを企んでほくそえんでいる輩は居ないだろうね。 

まあつまりはそういうことだ。映像やメディアの進歩は戦場の生中継というものを実現しちまった。アナウンサーやレポーターが「これは映画やゲームではありません。本当の戦場なのです。リアルタイムに人が死ぬのです」と報じるが、そう言い放った瞬間に失われる現実感ってのは何なんだ。そこに彼ら放送メディアの戦場ビジネス感覚が透けて見えてしまうからかなのか。戦場のリポーターは命がけだろうが、ブッシュやラムズフェルド同様、CNNのトップはリポーターの命より視聴率を気にしては居ないだろうか。
一方オレたち(失礼"オレは"だ)生の戦場を知らないから爆弾が投下される様を、リビングでポテトチップを食いながら正視できる。脳死状態のオレは垂れ流される映像をカンゼンに受容しちまっている。新聞やTVで「今日の戦況」をチェックするのが「日常」になっちまった。自分の肉親や友人が戦場に居ないいから心安らかにハイテク戦車が砲撃する様に内心喝采を挙げられるのか。マッタクCNNをハイエナだと責めることなどできやしない。 

まあつまりはそういうことだ。日本のメディアは刺激的過ぎるからという理由で死体映像ははっきり写さないだろうということ。
「人が死ぬ」ことを報じたいのなら、バンバン朝飯や夕飯の時間に惨たらしい死体映像を流しまくって、吐き気を催させればいい。もっとも死体映像を流すことがマスコミの使命だとは思わないが、大本営発表的になることに大手メディアは荷担してはいないか。 

まあつまりはそういうことだ。CNNをハイエナと呼びそうになっちまったが、彼らが使命感に燃えて戦場に残ったが故に、これほどまでに戦争が注視されているという現実もあるわけだ。映像技術は進化した。そして、戦争反対のムーブメントもかつてないほどの広がりだ。つまりは一面マスコミの勝利ということでもあるのかもしれない。進歩していないのはそれを受け入れる"オレ"サイドにある。 

BBCの人気キャスターは、米国政府の米国兵士捕虜映像放映規制について批判していた。戦時下においても色々な意見が聞こえてこなければ更なる脳死状態に陥ってしまう。


2003年3月25日火曜日

日本の立場=小泉首相の米国の軍事行使の支持表明

小泉首相が米国のイラクへの軍事攻撃を支持すると明言した。政府関係者もそこまで「踏み込んだ」発言に及ぶとは考えていなかったとTVニュースは報じていた。

そうは言っても、小泉首相の結論は日本の保守派の考え方を代弁しているのだろう。「北朝鮮の脅威がある以上、日米同盟に頼るしか日本に選択の余地はない、従って米国を支持するしか方法がない」と言ったものだ。

これを逆手に取って「だから日本は日米同盟を見直し、積極的に自国防衛ができるようにすべきだ」と論ずる改憲論者(にわかを含め)の声が(与野党を問わず)聞こえてこないでもない。どちらにも明るいパラダイムは感じられない。

日米安保は昔からあった。自民党保守派にしてみたら「今更何を言っているのか、米国を支持しないなどということがあろうか」と息を巻く。一方で保守派の中でも比較的穏健な方々からは「日米同盟というのは本来、対等な立場であるべきだ。日本も基地を提供している。対等な立場で日本の意見を言うべきだ(戦争を止めることなど)」と、なんだか大甘な発言を耳にする。

「日本とアメリカが対等」などという幻想的外交センスを抱いている政府関係者がいることには耳を疑うのだが、やはり私はここにきて、戦後のアメリカを含めた外交の歪みが一気に吹き出てきたように思えてならない。つまりは自国の安全保障や他国間との外交戦略というものが実は戦後50年間皆無であったということが自明になってしまったわけだ。

北朝鮮の脅威は事実だろう。しかし日米同盟において米国が日本を守ってくれるという保障が本当にあるのだろうか。日本をそれほど重要な同盟国とアメリカは位置付けているのだろうか。

冷戦時代は日本は共産圏防御のための重要な拠点だった。沖縄基地も台湾防御のための重要な任務を負っていた。冷戦終結後、日本の拠点としての重要性は変質してはいないだろうか。アメリカはソ連なき後、一時期、中国を仮想敵国と定めた時期もあったという。しかし、その政策も微妙に変化している。日本の役割はどうなっているだろう。

北朝鮮の脅威から日本を守らなければ同盟違反だと言うかもしれない。北朝鮮有事の際は日本は何を負担し犠牲を払わなくてはならないのだろう。私にはここのところも全く思い描けない。

金正日は地下室でCNNにかじりつきという報道を週刊誌が報じていた。でも、本当にイラクの次は北朝鮮なのだろうか。北朝鮮がイラク以上にはるかに危険な国であることは認めよう。しかし、アメリカが直ぐに北朝鮮に迫るとは、私には思えない。北朝鮮を攻撃してアメリカにどういうメリットがあるのかを考えた場合、むしろ北朝鮮の緊張を利用して、韓国、日本、中国を牽制していた方がアメリカには好都合だという考えの方が妥当のように思える。アメリカは北朝鮮問題に関して、日本や韓国にかなりの自助努力を求めてくるように思える。

いずれにせよ、今回の米国支持は今の政権与党にとってこれを是として進めてゆく以上、非常に重い十字架をしょってしまったのではなかろうかと思わざるを得ない。そのときになって慌てないように、今から考えておかねばならないと思うのだが・・・

2003年3月20日木曜日

イラク空爆始まる

米英軍によるバグダット空爆が予想よりも速く始まった。今回の攻撃は巡航ミサイルと地中浸透爆弾(バンカーバスター)によるもので、あからさまにフセインを抹殺するために実施されたものだという。

私はこの報に接したとき、胃がせりあがり吐き気を伴うような不快感に襲われた。確かに米英はフセインに対し「亡命か大量破壊兵器全廃への全面的協力か」という最後通告を投げかけてはいた。しかしそれは、圧倒的に優位に立つ武力を見せつた一方的な脅しであり、相手に有無を言わせず逃げ場を断っておいてから攻撃をしかけた。私には公然と行われた公開処刑としか思えない。

このような暴力=国家殺人が、空想や予想や理論上だけのものではなく実際に行使されたと言うことに深い絶望の念を感じる。

私はフセインを是としているわけでも、彼を赦してやりたいというのでもない。英国ブレア首相がいくら「イラクの脅威」を熱弁したとしても、私はそれを実感をもって理解することができないでいる。それゆえにあまりにも不透明な武力行使は支持できない。一方で米英の国連決議なしの武力行使を批判することは簡単である。しかし、それにも全面的に乗ることができないでいる。武力行使に反対した先が見えないからだ。今回の問題に対して新しい世界観を思い描くことができない。

命の重要さは戦争反対派が唱える通りである。しかし時には命を賭けても守らなくてはならないものがあることも事実だろう。いま私たちが本当に守らなくてはならないものは何なのだろうか。

米英の圧倒的な武力をTVを通して目にし、またしても遂に一線を越えてしまったことを知るのみである。

2003年3月11日火曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その4

■ 第1場 ラインの乙女たち

ラインの三人の乙女とは、ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデである。彼女たちはラインの河底に沈む黄金を守る役割を負っている。三人の中でフロースヒルデだけがメゾ・ソプラノである。ヴォークリンデとヴェルグンデが戯れるさまを嗜めたりしていることから、彼女が一番年配格なのだろう。

ワーグナーの天地創造とも言える前奏曲に引き続き、ヴォークリンデの「Weia ! Waga ! Woge, du Welle ! Walle sur Wiege ! Sagalaweia ! Wallala weiala weia !」という歌声が波の動機にのって歌われる。愛らしい歌声が印象的で、音楽は混沌の中から生ある存在を表現しているようだ。この部分は非常に浮き立つような音楽になっている。特に上下するアルペジオによる波の動機と上昇音形が絡み合った音楽的な華やかさと高揚感は見事だと思う。

ラインの乙女たちは視覚的にもキャラクター的にも魅力に満ちていなくてはならない。ラインの乙女たちがアルベリヒをからかい、彼にひどい仕打ちをすることでアルベリヒは復讐をこめてラインの黄金を盗むことになる。ここから全ての物語が始まるという意味において、非常に重要な場面であるからだ。それゆえに後にも紹介するが、ラインの乙女たちは画家や演出家によって様々にイメージされているようだ(中には娼婦に見立てた演出まであると聞く)。右はエミール・デプラーによるスケッチだが、この絵では愛らしいというより少し逞しいと見えなくもない。

この後にアルベルヒが登場するのだが、彼がラインの乙女たちを見ていて心乱されたのも分からないでもないと思う。ではアルベリヒに次ぎはご登場願おう。

(2003.3.11)

2003年3月10日月曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その3

 

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 前奏曲を聴く

「ニーベルングの指環」4部作の冒頭を飾る前奏曲である。この前奏曲は低音で始まる「自然の動機」とバイオリンで奏でられるアルペジオが優雅な「波の動機」が絡み合った、非常にゆったりとした美しい音楽だ。この前奏曲を聴くと「これから指環を聴き始める」という感慨を体の底から感じることができる。壮大なる楽劇を始めるのに適切な音楽になっていると思う。ワーグナーはこの音楽を「世界の揺り籠の歌」と呼んだらしい。混沌の中から光が現れ世界が次第に形作られる様を彷彿とさせる原始的にして厳かなイメージに満ちた曲だと思う。136小節しかないこの曲の見事さは言葉にできないほどだ。

ワーグナーの音楽において示導動機(ライトモチーフ)が作品解釈において鍵となるが、冒頭にホルンにより奏される「自然の動機」は、《指環》全体を貫く主題の意味においても重要である。ワーグナー解説書によれば、この変ホ長調の和音からなる上昇音形は「元素的なもの、事物の根源の音楽による比喩」であるとのこと。「自然の動機」の上昇音形は、今後もさまざまな形で姿を変え出現することになるという。例えば第4場に登場する「エルダの動機」は自然の動機を短調に変形したものであるらしい。

《トリスタンとイゾルデ》の項でも書いた(かも知れないが)ワーグナーにおいて、上昇音形と下降音形が意味するものは明白である。上昇が憧れや発展を意味し、下降が落胆や崩壊を意味するというわけである。そういう点から、《ラインの黄金》の冒頭の壮大なる上昇音形の繰り返しは、私たちを劇の最初において、人間世界から神々の世界へと上昇することをいざなってくれるかのようである。通低して流れる低減の響きは悠久の時をしても変わらぬラインの流れさえ思い起こさせてくれる。

たかだが4分程度の前奏曲であるものの、非常に聴きごたえのある音楽になっている。

ショルティは前奏曲の冒頭を極ゆっくりと、そして低弦の響きは重々しくざらついたほどに低く始めている。そこから聴こえてくるホルンの自然の動機が対位法的に絡み合い、さらにゆったりと「波の動機」が登場するところなども、実に夢見るごとき音楽に仕上げてくれている。次第にオーケストレーションが重なってきてヴォークリンデの歌声が始まる辺りには、すっかりワーグナーの世界に浸ってしまっている自分を感じる。

抜粋版のバレンボイム&バイロイト祝祭管弦楽団の演奏と聴き比べてみた。冒頭の弦は厳かに奏されるものの、重さという点ではショルティ版は凄い迫力になっている。波の動機のあたりになるとバレンボイムは実に丁寧に音楽をまとめているが、その後の音づくりが少々グラマラスで豊穣すぎるきらいがある。ここは自然の元祖的な要素をあらわした部分であれば、盛り上がりの中にも純粋さと削ぎ落とされた音響表現が欲しい(ような気が今はする)。そういう意味からはショルティ版の厳格さが好ましいと(今は)思える。もっともたった4分間だけの比較に意味があるとは全く思えないので、つづいてラインの乙女達と不幸なるアルべリヒの駆け引きを聴くこととしよう。

(2003.3.10)

2003年3月9日日曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その2

楽劇「ラインの黄金」全4場


《ラインの黄金》概要

■ 《ラインの黄金》の背景となる世界

《ラインの黄金》は《指環》四部作のうちの最初を飾るもので「序夜」という位置付けがなされている。《指環》がジークフリートの死から構想され、ジークフリートの成長、ジークフリートの誕生にいたる物語、そして《指環》全体を支配するテーマとしてのラインの黄金というように発想されていることは 以前触れた 。楽劇最初の《ラインの黄金》に登場するのは神話上の神々たち、ニーベルハイム(死の国)に住む小人たちそして巨人族であったりする。ここでの神々というのも「 指環を概観する 」で書いたように、決してキリスト教的倫理観に基づいた神々ではない。権力と富とを求める人間的な神であり、一方で自然界を支配する原始的な神々である。

例えばヴォータンは主神であるとされ、ドンナ-は雷神、ローゲは火の神である。ヴァルハラ城の建設の対価として提供されそうになったフライァは美や青春(若さ)を司る神であり、ヴォータンを諭し、《ラインの黄金》以降でヴォータンと結ばれてしまったエルダは智の神だ。

ここで、ラインの乙女(水の精)たちをあわせて考えると、水、火、土、大気など元素的な要素が色濃く支配する神話的世界であることが分かる。英語のWednesday、Friday、Thursdayはそれぞれヴォータン、フリッカ(ヴォータンの妻)、ドンナ-を語源としているらしい。《ラインの黄金》には人間は一人も登場しない(小人や巨人が人間だというのなら当たらないが)。支配しているのは自然界の象徴としての、それでも人間以上に人間くさい神々なのである。

■ 指環に込められたテーマ

《ラインの黄金》は4場で構成されており演奏時間も2時間半程度と《指環》四部作の中では一番短い。それでもここには、今後の《指環》を聴いてゆく上で重要なテーマや音楽的な動機が散りばめられている。

ストーリーは単純に書くと、「ラインの水底に沈む黄金を、愛を断念したアルベリヒが盗み指環に替える。指環は富と権力を我が物にできる力を持つとされる。その指環をヴォータンが奪い取るものの、アルベリヒは指環に呪いをかけてしまう。ラインの黄金の最後は指環をヴァルハラ城建設の代償として城を建設した巨人達に与え神々は城に住まう」ということになる。

右の絵はTheodor Birisになる《ラインの黄金》を表したものだ。一番上にラインの乙女達(左上)と黄金を盗み取るアルベリヒ(右上)が、中央にフィライアをさらってゆく巨人兄弟(中左)とそれを止めることができない神々(中左の女性はフリッカか)、遠くの山の上には完成したヴァルハラ城が見える。下には地底世界の小人族たちとそこに下っていったヴォータンとローゲ(下左)が書かれている。

さてストーリーを書いてはみたものの、このままではこの楽劇で何を表そうとしているのか全く分からないので少し補足しておこう。最も重要なのは指環に込められた意味であろうか。指環は富と権力を得るための象徴的なものとして登場するが、これを得るためには「愛を断念する」ということが不可欠とされている。

「富と権力を得るために(男女の)愛を断念する」というテーマは強烈だ。ワーグナーの人生観において両者は両立しえないと考えたと言うことなのであろうか。裏を返すと富と権力を投げ打っても愛の方が重要であるという主張でもあるのかもしれない。それほどまでにワーグナーにとって愛は重要なテーマであったということなのかもしれない。

ここでの愛とは肉親や兄弟愛なども含んでいると考えてもよいが、狭義にはやはり性愛を含めた男女間の愛だと思われる。ここにおいてワーグナーにとっては肉親愛は男女間の愛に容易に変遷してしまうように書かれていことは驚くべき点だ。彼の倫理観を問うよりも彼の個人的な生い立ちによるのだろうか、詳しいことはまだ調べていないので分からない。ただ、ワーグナーが9人兄弟の末子で、両親ともワーグナーが年少の時に(特に母ガイヤーはワーグナーが8歳のときに)亡くなっている点は記憶しておいてよいのかもしれない。いずれにしても、権力と愛への希求と選択ということが劇の登場人物に架せられた課題であることを《ラインの黄金》は冒頭から示している。

ここでワーグナーの女性像や愛の形というものを考えた場合、彼の描く愛はもっぱら男性側の理想としての女性の愛という印象を受けないでもない。男性から女性へのオファーは少なく、もっぱら女性の愛情を一身に男性が受ける、どんなに男性が身勝手でも女性の愛情で救われるというように感じられてしまう。このような点はワーグナーの他の楽劇でも同様で、それ故にワーグナーの書く男性像が、私にはどこか子供じみた印象を受けてしまう。《指環》を仔細に聴いてゆけば、このような感想を変えることができるだろうか。

《ラインの黄金》における主神ヴォータンは性格的には男性的なものの象徴のように思われるが、彼は一方で権力欲が強くそして女癖が悪いキャラクターとして描かれている。妻のフリッカがヴァルハラ城を巨人族に建設させたのも、居心地の良い家を作りヴォータンを家に留めておきたいがため、というから泣かせるではないか。

こうして考えると指環四部作とて難解近づきがたい作品では全くないことに気付く。ワーグナーの楽劇や他の多くのオペラ作品と同じように「男女間の愛」を(ひとつの)テーマとしていることに変わりはないようだ。(ワーグナーはジークフリートを軸に《指環》を構築したということになっているが、この点は後にゆっくり聴いてゆきたい)

では前置きはこのくらいにしておいて《ラインの黄金》を聴いてゆくことにしよう。

(2003.3.9)

2003年3月6日木曜日

スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作


この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。

で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;

先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。

2003年3月5日水曜日

楽劇「ラインの黄金」全4幕 その1

楽劇「ラインの黄金」全4幕


■ ショルティ/ウィーンフィル

サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーンフィルハーモニー

1958年9~10日

Wotan:George London
Frika:Kirsten Flagstad
Freia:Claire Watson
Loge:Set Svanholm
Froh:Waldemar Kmentt
Donner:Eberhard Wachter
Mime:Paul Kuen
Erda:Jean Madeira
Alberich:Gustav Neidlinger
Fasolt:Walter Kreppel
Fafnaer:Kurt Bohme
Woglinde:Oda Balsborg
Welllgunde:Hetty Plumacher
Flosshilde:Ira Malaniuk

■ バレンボイム/バイロイト(抜粋版)

指揮:ダニエル・バレンボイム
バイロイト祝祭歌劇場管弦楽団

1991年6&7月 バイロイト祝祭劇場(デジタル・ライブ録音)

Wotan:Jhon Tomlinson
Donner:Bodo Brinkmann
Froh:Kurt Schreibmayer
Loge:Graham Clark
Frika:Linda Finnie
Freia:Eva Johansson
Erda:Birgitta Svenden
Alberich:Gunter Von Kannen
Mime:Helmut Pampuch
Fasolt:Matthias Holle
Fafner:Philip Kang
Woglinde:Hilde Leidland
Wellgunde:Annette Kuttenbaum
Plosshilde:Jane Turner


2003年3月3日月曜日

マイケル・ムーア:アホで マヌケなアメリカ白人

マイケル・ムーアとは社会派のドキュメンタリー映画監督件、ジャーナリストとしてアメリカでは有名な人だ。最近では「ボウリング・フォー・コロンバイン」という映画が日本でも公開された。これはカンヌ映画祭で55周年記念特別賞を受賞した作品だ。マイク片手にアポなしで突撃インタビューをするというスタイルは彼の定番であるらしい。



知ったかぶりして書いているが、そういうことはつい最近知った。残念ながら彼の映画は観ていない。


だから、この本の表紙と、くだけた文体に騙されてはいけない(原書はこちら)。内容は非常に真面目で刺激に満ちている。「簡単に言えば、あなた(ブッシュ「大統領」)はアル中で、泥棒で、おそらくは重犯罪人で、とトガメなしの脱走兵で、泣き言野郎です」という調子(訳)の現アメリカ「大統領」ジョージ・W・ブッシュ批判は留まるところを知らない。大統領にカッコ付なのは今でも選挙に勝ったのはゴアだとムーアは思っているからだ。


いやいやそればかりではない、ブッシュの側近達の紹介やブッシュ「大統領」が就任依頼実施した政策の数々、前大統領クリントンが成し遂げた政策の数々が羅列されているが、もしそれが本当だと言うのならアメリカも救い様のない国であるということが(今更ながらに)分かって、ゲンナリしてしまうのだ。


読んでない方で注意してもらいたいのは、この本は「アメリカは世界の保安官たりたがる」「どこの国でも自国と同じような環境を作ってしまう」「いつも自分が正しいと思っている」というような、アメリカ人観を書いた本ではないということだ。ひとえにアメリカの好きな作者ムーアが、アメリカに幸せに住むためにはどうしたらいいのか、というテーマに真剣に向き合った本だ。


アメリカの現政権共和党も、共和党と政策の違いを全く示せなかった「脳死寸前民主党」も、彼らはアメリカ中での10%の富裕層が利益になるような政策を、世界中からの反対があろうと進めていることを糾弾しているのだ。「アホでマヌケなアメリカ白人(Stupid White Men)」とはアメリカ白人全体のことではなく(ましてや白人以外のアメリカ人のことでもなく)まさに彼らのことを指している。


「満ちたり者に禍ひをもたらす祈り」は痛烈だし、本の最後に書かれた「人生の目的は、ただ漫然と生きてゆくことだけだなんて言うな。「ただ生きているだけ」というのは、臆病者の生き様だ。あなたには、市民として生きる権利がある。悪いのはあのバカでマヌケな白人どもだけだ。俺たちは、奴らに対して圧倒的に数多くいる。その力を使うんだ。あなたには、より良く生きる権利があるんだから。」という主張は強い。それほどにアメリカは貧困者やマイノリティーに対する差別や迫害が(全くないようなフリをしながら)根強いということを思い知らされる。


この本を読むと、アメリカより日本の方がよっぽどマシなのではなかろうかという気になる。私たちはイチローやマツイの行くアメリカしか知らない。マイクロソフトとハリウッドとMTVの世界しか知らない。日本では少なくも民主党代表に投票できなくなるように、ある日突然に選挙権が剥奪されることも今のところはないのだから・・・

2003年3月2日日曜日

【風見鶏】「アメリカがイラクを攻撃する本当の理由」 ~②キリスト教原理主義者の政治力~

サンデープロジェクト
2003.3.2 Sun

田原総一郎のサンデープロジェクトで、ブッシュ政権がイラク攻撃を実行しようとする背景の一つとしてキリスト教原理主義者の存在があると紹介していた。

キリスト教原理主義とは聖書を文字通りに厳格に解釈した考えをもった勢力であり、思想はかなり保守的にして過激である。勢力は主にアメリカ中西部、南部にあるらしく原理主義者は3千万人とも言われているらしい。キリスト教原理主義と共和党は密接に結びついており、大統領選挙においては彼らの票が大きく当落を左右すると言うわけだ。信者のほとんどが白人であることから「白人主義」とも言われているらしい。中絶の反対、同性愛の反対、銃規制への反対・・・あれ、なんだか思い出さないか?

そう最近読んだ「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著)のことだ。あの本には「キリスト教原理主義」のことは言及されていなかった。しかしブッシュがキリスト教原理主義者への褒美として司法長官に任命した(とサンデープロジェクトは説明する)ジョン・アシュクロフトの解説を同書から引用してみよう。

「強姦や近親相姦の場合を含め、あらゆる中絶に反対」
「同性愛者に対する職業差別からの保護にも反対」
「死刑囚の上訴を制限することに賛成(それによって7件の死刑を執行させた)」
「極めて過酷な麻薬取締法の支持者」
「全米ライフル協会の味方」
  ~以上 P.48

私は「アホで~」を読んでも、どうして為政者が上のようなことを反対するのか全く理解できなかった。中絶反対はピルなどの医薬品業界からの圧力かなどと要らぬことまで考えてしまった。しかし、これらがキリスト教原理主義者=白人主義者の糸引きであるとするならば、理屈抜きで理解できてしまう。

彼らキリスト教原理主義者の最終的な目標が「中東での最終戦争→キリスト千年王国の復活」というのだから恐れ入るばかりだ・・・

HIYORIみどり 「またしても余りにも無知だったわ~」
KAZAみどり 「余り日本では報道されていないものね」

櫻井よしこ:大人たちの失敗~この国はどこへ行くのだろう?


櫻井よしこの文庫本新刊である。以前感想を書いた「日本の危機」と彼女の論調は同じであるが、あの本ほどは怒っていない。静かに語りかける口調ではあるが、そこには彼女のゆるぎない主張を読み取ることができる。

彼女は例えば憲法問題に関して言えば改憲派に属している。「軍隊のない国家など存在しません。防衛庁を防衛省に格上げし、自衛隊を軍隊として認めるのが自然」「"憲法違反"の自衛隊を、憲法を改正してきちんと合憲の存在として認めたい」(P.140)と主張する。

こういう意見を呼んで「タカ派だ、保守派だ」と決め付けることは余りにも幼稚すぎる。彼女の思想をして「どちらかというと産経より」という事にもどれほどの意味があろうか。彼女も言うように我々日本人は長い間、こと防衛と憲法問題に関しては詭弁とごまかしを重ね、さらには憲法問題に関してはアレルギーを覚えるような風潮を醸成してしまったのだと思う。真面目で大人な防衛議論が今までなされてこなかったのだとは私も思う。従って彼女の意見を読み、それが私の感覚と若干のズレがあったとしても、彼女の意見によって問題意識が喚起される。決して「何を言っているのだ、ハナシにならない」と撥ね付けることはできない。

教育問題についての視点も相変わらず厳しい。最近の子供や学生の教育やしつけの問題を憂いている。「お金や物は、人間の心を豊にしてくれる手段であるのに、いつの間にか、それ自体が目的になっていた」「十台の子どもたちの問題は実はその親の世代の問題でもあり(中略)つまり問題の解決には三世代、百年かかってしまう」(P.21)と書いている。お金やモノ以外に幸せの基準を求めると言うことは、今まで三世代かかって築いた価値観を転換するということだ。しかしと私も思う。これをしなければダメなのだと、根本的には何も変わらないのだと。「日本人には経済をもう一度隆盛にするのは何のためなのか、という問題意識が、言い換えるならば単なる経済現象を越えた大目的がないために、頑張ることができないでいる」(P.25)という主張はまさに私の考えにごく近いものである。

彼女は心底このままでは日本がダメになると主張する。しかし嘆くだけではなく、しっかりしろと励ましてくれる。「日本は自身を失う必要はないと思います」「私たちが心をしっかりさせることです。日本と言う国と社会を、歴史、文化などを含めてよく学んでゆくということです。その中から、未来に挑戦してゆく自信を救いあげていくことが前提条件です」(P.206)という主張は、学生ばかりではなく社会に出て日々の仕事や家事に謀殺されている私たちにこそ向けられる言葉かもしれない。

彼女のマスコミに対する批判も厳しい。「取材での経験を通じで、日本の大新聞がいろいろな面で偏りがあるという思いを深くしている](P.193)と書き「幅広くはなりますが、その分深く突っ込むことができにくくなる」(P.194)日本のマスコミを海外の言葉を借りて「ワン・インチ・でプス」の報道(P.194)と評する。それでも彼女は(当然ながら)「新聞は読むべき」(P.200)と主張する。我々は一面的な情報からでもその裏を読む知力が求められているのだ。

この本を読むと社会で中堅として働く人よりは、むしろこれからの社会を担う学生へと向けられたメッセージというものを痛切に感じる。これからを変えてゆくのは年寄りではなく、確かに若者達であるはずなのだ。

今の日本は一見幸福そうに見えても、実は非常に非人間的で住み辛い世の中だと思う。それを気づかせないように、あるいは気付かないフリをしながら過ごしているとしか思えないことさえある。1億人皆が中流で平等だったなんて単なる幻想でかなくなった。格差や歪みはあちこちで噴出している。しかも、誰もが何か間違っていると思っているのに改善できない、この行き所のない閉塞感をどうしたら打破できるというのか。私たち日本人も、どこに向かうべきなのか、肝心の大人たちが自信を喪失し羅針盤を持たずに大海をさ迷っているような雰囲気さえある。

私はもはや学生のように純粋でも若くもない。しかし彼女の本でカツを入れてもらうと、少なからず力が沸いてくる、知力が必要だと、そして勇気ある行動が必要だと思えてくる。