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2013年6月22日土曜日

【演奏会】文化センター ヴェルディ生誕200周年記念 三ツ橋敬子+東京交響楽団 ヴェルディ「レクイエム」

指揮:三ツ橋敬子
独唱:藤田美奈子、中島郁子、村上敏明、須藤慎吾
管弦楽:東京交響楽団
合唱:新宿文化センター合唱団
合唱指導:山神健志




新宿文化センター合唱団は、この演奏会のために結成された合唱団。はじめて行くホールだが、地方の文化会館のような雰囲気。本格的なクラシックを聴くには音響的に少し厳しい、長時間聴いていて疲れる。それであってもベルディのレクイエムのような音楽は生演奏に限ると思った次第。「レクイエム」ではあるが、随所にベルディ節が感じられ、それはそれで満足。テノールの村上敏明さんは、ハリといい声のツヤといい素晴らしかったですね。


個人的には、久しぶりのオケを伴うコンサートであったし、東京交響楽団であったので、そこそこ満足していたが、一緒に行ったI氏の演奏後の感想は、ひとこと「ママさん合唱では、これが限界。合唱が薄い。」というもの。

今日も合唱が弱い
ママさん合唱の限界
ソプラノがお水系
オケが入らないところでズレまくって
カルテットが狂ったまま
そこにオケがかぶさるみたいな感じで
ホールも市民会館レベル
音が硬く疲れる、響く

みたいな感想。それでも東京交響楽団はブルックナーとかやっているからまだ鍛えられている。指揮者に対しては何もなし。

ちょっと厳しいか。


久しぶりにディープなクラシックファンとの演奏会であったので、多少複雑な思いで会場を後にした。






2003年10月19日日曜日

東京交響楽団第507回定期演奏会


日時:2003年10月18日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義





ソプラノ:佐藤 しのぶ   メゾ・ソプラノ:エルザ・モールス
合唱:東響コーラス   合唱指揮:郡司 博
演奏:東京交響楽団

マーラー:交響曲 第2番 ハ短調 復活

またしても東京交響楽団の演奏会を聴きに行った。東響のファンであるというわけではないのだが、たまたまタイミングが合っているというところか。しかも演目が井上道義氏による「復活」、ソプラノが佐藤しのぶさんとあってはいやでも期待してしまう。

「復活」は、私の中で迷うことなくベスト5に入るほどの好きな曲である。前日にテンシュテット/LOPのCDを聴いて予習するというほどの気の入れようだ。さて井上氏の率いる東響はどう聴かせてくれたか。

最初に結論から書いてしまうと、とてつもなく素晴らしい演奏であったということに尽きる。私は最終楽章の当たりから横隔膜が上がりっぱなしで、いつのまにか流れてしまう涙を抑えることができず何度も目尻を拭わなくてはならなかったし、最後のコーラ―スが始まる当たりでは体がどうしようもなく震えてしまうほどの興奮と歓喜にのまれてしまった。音楽を聴いていたというよりも壮大なる賛歌と歓喜の光の中に放り込まれたような強烈な音楽的経験であった。

ゲルギエフ/キーロフ(99年 東京芸術劇場)で聴いた復活も脳天が炸裂するような演奏であったことを思い出すが、今回の演奏はそういうものとは質が違った演奏であったように思える。何か物凄く大きなものを演奏からもらうことができた。

とはいうものの、最初から最後まで演奏に満足していたというわけでもない。第一楽章冒頭、ヴァイオリンのトレモロに乗って低弦の強奏から始まる不安な旋律を聴いた時、東響独特の弦の繊細さと美しさを感じながらも、高音の海の中に低弦が浮遊するような、不思議な分離感をまず味わっていた。

第一楽章は葬送行進曲であるが、激しさと劇的さの間をつなぐ線がどこか頼りなげで、ひとつのストーリーとして胸に迫らない。もともとマーラーの曲は分裂気味ではあるのだが、何かマーラーらしい暗さが不足していると感じたりしていた。音量的にも、中音域が不足するような感じで、第一楽章は最後まで満足のゆくものではなかった。第二楽章のアンダンテも、マーラー的な官美さには少し遠く、今日の演奏は期待したほどではなかったかと軽い失望を覚えたほどではあった。

しかし第三楽章のあたりから少しずつ気分が変化し始め、第四楽章でメゾ・ソプラノの " Roshcen rot!(おお、小さな赤バラよ) という歌が挿入された当たりから、それは健著になった。何といってもモールスさんの歌声が素晴らしく心底聴き惚れてしまった。声量といい声色といい、なんと美しく芳醇な歌であることか。まさに祈りの歌がそこにあった。

バックで支える東響も美しい。第三楽章から楽章間がほとんどなく連続して演奏されることも、次第に緊張を高めてるのに一役買っていた。

第五楽章に至って、マーラーの複雑にして多彩な音響にほとんど翻弄されるがごとき。曲がどう進んでいくのか分かっているというのに、合唱が " Aufersteha, ja aufestehn wirst du (よみがえらん、まこと汝はよみがえらん) と唄いはじめた時には二の腕にざわざわと鳥肌が立つ思い。中間部は木管も金管も素晴らしい音楽を聴かせてくれていた。そしてソプラノとアルトの二重唱 " Shcmerz, du Alldurchdringer ! (おお苦しみよ、汝いっさいを刺しつらぬくものよ!)が美しいこと。

合唱団が立ち上がって唄い出す(お決まりの?)あたりから、ラストに向っての盛りあがりは凄まじいもので、第一楽章で物足りなく感じた音量はなんだったのかと思う。打楽器と管と弦が渾然とフォルテッシモを奏でるとホールの底が沸騰するかのよう。一気呵成に音楽は進行し、冒頭に書いたように私は完膚なきまでに叩きのめされてしまったのである。

終演後のブラボーも凄まじかったが、演奏会にこれ以上何を望むことができようか。今年聴いた東響の中どころか、今まで聴いた演奏会の中でもベストに数えられるようなものであったと思う。

2003年9月21日日曜日

東京交響楽団第506回定期演奏会

日時:2003年9月20日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ヘンリク・シェーファー
ピアノ:梯 剛之   ソプラノ:天羽 明惠
演奏:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
マーラー:交響曲 第4番 ト長調



本日東響を指揮するのはヘンリク・シェーファーという68年ドイツ生まれの若き指揮者である。2000年にはアバドの指名でベルリン・フィルのアシスタント・コンダクターに選ばれている実力の持ち主らしい。演奏会パンフレットには「未来のマエストロの呼び声高き、注目の指揮者」と紹介されている。ピアノの梯氏については説明はもはや不要だろう。今日の演奏会は、彼のピアノを聴くことが先ず目的ではあった。

梯氏が演奏するのはモーツアルト絶頂期のピアノ協奏曲21番である。明るくモーツァルト的天真欄間さのなかに見え隠れするちょっとしたアンニュイや寂しさが表現された、親しみやすい名曲である。ややもすると、あまりに耳障りが良すぎて逆に災いするところがあるのだが、梯氏のピアノは評判のとおり非常にピュアな音を奏でてくれ、清朗にして明瞭、モーツァルトの美しさを十全に表現しつくしているように思えた。

��階20列であったので遠くてよく見えなかったが、梯氏の打鍵はあまり強く、あるいは深くないようで、そこに彼の感性がかぶさることで、梯氏の独特の繊細な音楽が生み出されているように感じられた。(ピアノにも詳しくないので、頓珍漢かもしれないが)

シェーファーの氏振る都響も、適度に贅肉を落としたフットワークの良さを聴かせてくれ、梯氏のピアノとのアンサンブルは絶妙であった。プロのオケを相手にして言うのも何だが、確かに都響の弦はクリアで独特の艶やかさがあるように思える。

梯氏のアンコールはモーツァルトのニ短調幻想曲であった。モーツァルトの短調というのは、どうしてこんなにも哀しく美しいのだろう。この一曲を聴くだけでも雨の中サントリーに行った甲斐があったというものだ。

マーラーの交響曲第4番は、マーラー作品の中では短いため "親しみやすい" ということになっており、しかも演奏回数が1番や5番と比肩しているのではないかと思う。私も拙い演奏会経験の中で、この曲には何度か接している。

しかし私にはこの曲は結構難物で、特に第3楽章とソプラノ独奏の入る第4楽章がうまくつながらず、交響曲としてまとまった完成度という点では疑問を感じていた。「マラ4は第3楽章で聴くのを止める」という人もいたくらいだ。

私が今日の曲を聴いて驚いたのは、その第3楽章のまさにクライマックスとなる盛りあがりの中で、ソプラノが左手から静々と登場したことだ。こういう演出(?)は普通なのかしら。勝利を告げるかのようなファンファーレ(トランペットとティンパニが強打されるところ)とともに表れたソプラノの天羽明惠さんは、あたかも天国からの使者のように見えた。なるほど、こういうつながりもあったのかと関心してしまった。

指揮者のシェーファー氏がどういう芸風なのかは知らないが、彼のマーラーは全く感情に溺れず、淡々と音楽を提示してくれているように感じた。マーラーの曲はどれもバラバラな断片が組み合わされているが、彼の指揮はモザイクのひとつひとつにピントをくっきりと合わせているようで、そのため独特のパースペクティブを感じることができた。第3楽章のマーラー的なアダージョにおいても、音楽が陶酔してしまうことはなく、そのようなアプローチから現代的なマーラー像が浮かび上がっていたようにも思える演奏であった。

2003年7月13日日曜日

東京交響楽団第505回定期演奏会

日時:2003年7月12日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ユベール・スダーン   ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
演奏:東京交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92




ピアノのオピッツ氏といえば、1994年のNHKテレビ「ベートーベンを弾く」という番組で出演されていたので知っている方も多いと思う。彼は「ドイツ・ピアノの正統派」としてその筋では有名である。そういう彼がブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するというので期待してでかけた。
ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、1番と違って明るく美しい曲であるが、「ドイツ正統派」がどういうことなのか全く理解していない私は、ガッチリと構成的で硬い演奏を思い浮かべていたのである。しかしオピッツ氏の奏でる音楽は、そんなイメージのものでは全くなかった。

この曲は冒頭で薄靄の中から立ちあがるホルンの響きと、それに導かれて登場するピアノのカデンツァが印象的だが、今日この部分を聴いた時、大げさではなく私はこのまま死んでもいいと思ってしまった。それほどの至福の音色が聴こえてきたのだ。オピッツ氏のピアノは風貌とも風評から抱いたイメージとも全く異なり、そっと撫でるような、あるいは天使がもらす溜息のような(ゲロゲロ!恥かしい表現!)柔らかなタッチで、全く私を別次元の世界へと誘ってしまったのであった。自我や自己を主張しすぎず、バックのオーケストラに柔らかく溶け込むかのような音色は、夢見るごときであった。

決してもって弱々しく女性的という演奏なのではない。締めるところは締め、そして感情の高まるところでは激しくあるのだが、全体的な印象としてはブラームスのアンニュイな感じや、優雅さ、そしてどこか懐かしんだり物思うような雰囲気が非常によく表現されているようで、そういう語りの部分がとにかくCDなどを聴いていては決して感じることができないような雰囲気として伝わってくるのだ。

そうなんだよなと思う。ブラームスは押し付けがましくないのだ。技巧をバリバリとひけらかしたり、力瘤をためて挑みかかるようなことはしないのだ。嗚呼、今までブラームスをベートーベンのように聴いてはいなかったか、と彼のピアノを聴いていて思った。

だからというわけではないが、3楽章はチェロの主旋律が美しいくチェロ協奏曲とでも言いたくなるような部分なのだが、オピッツ氏のピアニズムとは少し異なった表現に聴こてしまったのが惜しい。チェロの音色はふくよかで、それだけを取り出して聴くと全くもって実に素晴らしい演奏なのだが、オピッツ氏のピアノと対話する部分になると、違った話しをしているように聴こえてしまったというのは、私だけの感想だろうか。

満足いかなかったのはそこだけで、全体にピアノを中心とした懐古や対話、そして訥訥とした語りなどを、明るい光の注ぐ部屋で、香り高い紅茶でも飲みながら聞いているような、あるいは寄せては返す波を見ているような、激しすぎずに流れる奔流か、色々なイメージや光を見せてくれる演奏であった。激しい感動ではないが、深い心地よさにブラボー!

さて、お次はベートーベンの第7シンフォニーだ。第一楽章を聴いていて私は思わず笑ってしまった。演奏にではない、こんなに単純にしてくどいフレーズの繰り返しなのに、期待して高ぶってしまう自分がおかしく、そして何とブラームスとは異なるのだろうと改めて思ったのだ。

スダーン氏の指揮に注目すると、彼の指揮は非常に分かりやすいように思えた。キビキビと弾ける様に奏でて欲しい時には、あたかもバスケットボールのショートパスのような振りで指示を投げかける。第2楽章では、主旋律が重々しいテーマを奏でるとき、ビオラなどが裏旋律を奏でるのだが、スダーン氏は主旋律の方は見向きもせず、ビオラにガシと正面から対峙し音を引き出してくる。そういう指揮振りから音楽が多重的かつ立体的に浮き上がってくる。

まあそれ以外にもイロイロあるのだが、ベト7には細かいことはいらない(^^;; 小気味良く歯切れの良い音楽がビュンビュン進んで行くことを楽しめればよいとも思う。スダーン氏の指揮においても、この軽快さは第3楽章からラストまで延々と続く。あたかもはずみ車が、慣性によって一度廻り始めたらもはや止まらないとでもいうかのようだ。非常に健康的な感情の発露を全身で表現しているかのようで、例えばかりで恐縮だが(悪文の典型ってやつだな)陸上の400m走のように、ひと時も力を抜かずに走り抜けたかのような感じを受けた。

実際、弦セクションは猛働きであったようで、演奏が終了し拍手喝采を浴びているときに、コンマスの大谷さんは汗を拭うような仕草をしていたし、大谷さんの隣の奏者は「手がしびれちゃいましたよ」みたいな仕草で大谷さんに笑いかけていた。

東京交響楽団を聴くのは今日が二度目なのだが、ヴァイオリンセクションの上手さには改めて感嘆した。少しハイキーで透明な感じの音色を特色とし、特に弱音での美しさが際立つ。ブラームスで聴かれた、ピアノをバックに静かに裏で支えている部分など、涙ものの美しさだった。ヴァイオリンだけではないが、フレーズの出だしのアンサンブルの合い方は、若々しさと小気味良ささえ感じる、実に丁寧だ。そして演奏からは音楽以上の、いや音楽というものの喜びそのものが伝わってくるような気がするのだ。それがコンマスの大谷さんのキャラクターによるものなのか、このオーケストラを育てた秋山和慶氏の影響なのか、それは分からない。

今日は定期演奏会ではあったが、明日は新潟公演になる。それだからだろうか、アンコールにはシューベルトの「ロザムンデ」から第3楽章が演奏された。アンコールについて語るのはもはや野暮というものであろう。

2003年6月8日日曜日

東京交響楽団第504回定期演奏会

日時:2003年6月7日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:ジャナンドレア・ノセダ   
チェロ:エンリコ・ディンド
演奏:東京交響楽団


プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47

「社会主義リアリズムへの苦悩」という主題に選ばれた曲は、1952年に初演されたプロコフィエフの交響的協奏曲と1937年初演のショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。

チェロ協奏曲の別名のあるプロコフィエフの曲は、3楽章形式で40分にもわたる大曲である。いったいクラシックサイトを運営していながら、どういうつもりなのかと思うかもしれないが、プロコのこの曲は始めて聴く。しかし聴き始めてすぐに曲の面白さに魅せられ、演奏時間の40分は、それこそあっという間に過ぎ去ってしまった。

解説によれば「皮肉なニュアンスをもった平明さと、抒情性やどぎついリズムなどによって、独特のコントラストが実現」とある、よくも端的にまとめてくれるものだ。聴いてまず驚いたのが、チェロという楽器の運動性能である。高音域から低音域までを余すことなく使って表現される独奏チェロは、この楽器のもつイメージを少し超えたものさえ感じた。チェロの音から他の楽器へとつながる音の連続性も面白い。

第2楽章アレグロ・ジュストにおいて叙情的な第二主題をチェロが奏るのだが、この優雅さは幻だろうかと薄氷を踏むような思いがよぎる。あるいは第3楽章の冒頭の主和音の強烈な響きは、一瞬何かのパロディであろうかと、思わず深読みしそうな意味を感じてしまう。音楽は多彩な変化を示し、ラストへ向けて強烈なリズムと弦の性急な刻みにのったチェロは、狂気と紙一重のような音楽を作り出している。

このように一瞬たりとも聴き逃すことができない、めまぐるしい音楽を聴かせてくれた。チェリストはそれこそ全身を使ってボウを弾きまわす。思い出してみると私の目と耳は、40分もの間チェリストに釘付けになっていたようだ。

プロコフィエフが終了した後、ディンド氏はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番サラバンドを演奏した。このバッハがまた面白かった。一瞬巻き舌のような表現が、確かに聴こえた。パンフレットを見ると彼は生粋のイタリア人ではないか、イタリア語独特のニュアンスが音楽に聴こえるとは! それでいて、このバッハがとても素晴らしかった。抹香臭さや宗教臭さがなくバッハらしくないのだが、曲は透明な水のように美しい。どこまでも透明で含むとほんのりと甘い水、そんな甘美さだ。静謐さの中に宿る歌やロマン、さらには色気さえ感じ、改めて演奏者がイタリア人なのだなあと思うのであった。それにしても、ソロになったときにサントリーの隅々まで満たした音色は、確かに音楽の至福を語っていた。

ちなみにディンド氏は1998年までミラノ・スカラ座フィルの第一ソロ・チェロ奏者を11年務めたた後、ソロ活動を始めたとのこと。

さて、次ぎはお馴染みのショスタコーヴィチの交響曲第5番、通称タコ5である。指揮のノセダ氏はパンフレットによると、ミラノ生まれ。チョン・ミュンフン氏、ゲルギエフ氏らの指導を受けたらしい。2002年にBBCフィルの首席指揮者に就任、2003年からはイタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任の予定とのこと。ミュンフン氏とゲルギエフ氏に指導を仰いだとなると、演奏の型は、ある方向に向くと想像されてしまう。果してどうであったか。

曲全体の印象で思い出すならば、クライマックスよりも水を打ったような弱音のときに、オケから背筋が寒くなるような表現を聴くことができた。弦がものすごい弱音でトレモロを奏でているところなど、凍え、抑えられ、あるいは体を縮め静かに震えながら機会を伺うようで、凄みさえ感じた。逆に終楽章のラストに向けての表現も、過度にはなりすぎに歓喜は歓喜として十分にカタルシスを得ることのできる演奏に仕上がっていたと思う。オケが粗くなってしまう一歩手前で押さえているかのような統率力も聴きのがせないところだ。

ここで「歓喜は歓喜として」と書いのは、この交響曲の示した「歓喜」が、ベートーベン的歓喜なのか、「証言」にあるような「強制された歓喜なのか」と考えるからである。今日の演奏を聴いていて、弦セクションの気がふれているのではないかと思われるようなボウイングを目の当たりに見、そこから聴こえる血管ブチ切れ状態のヒステリックな響きを聴くと、少なくとも「強制」による「歓喜」ではないと思わされた。

それでは、心の底からの歓喜を表現したのかと問えば、ベートーベン的な平和が支配するような終わり方でもなかったようにも思える。ピアニッシモにおける極端なまでの静寂と、圧縮された高音高圧のガスが一気に蓋を押し上げて爆発させたかのような4楽章最後のラストではあったが、いったいノセダ氏が噴出させた感情は何だったのか、それは分からない。考えても分からないので、ここは素直にショスタコ的なねじれた諧謔性よりも、「歓喜は歓喜として」聴いた方が良さそうだ、と今日のところは思った次第だ。

ノセダ氏の表現は決してあざとくない。テンポもそれほど早めることはなく、特に第4楽章などはじっくりという感じだ。ゲルギエフ氏やミュンフン氏に指導を受けたというだけあり、表現はダイナミックだ。しかし感情の奔流に流されるような表現はノセダ氏には感じない、それがかえって心地よい。

第1楽章のピアノが低い打鍵をグロテスクな表現の部分や、あるいは第3楽章のチェロを中心とした低弦がザクザク弾くところなど、表現としてはどぎつくはしない。一方で第2楽章の3/4拍子、これがひどくアイロニックなワルツであることを優雅に教えてくれる。

そう言う点からは、好みの問題ではあると思うが、表現に甘さを感じた部分もある。甘く感じる所以が、オケ奏者の表現や音色によるものなのか、ノセダ氏の解釈なのかは、未熟な私には分からない。また全体に弦セクションと管楽器セクションのバランスに、少しばかりの違和感を感じた部分がなきにしもあらずだ。というのは、極度の緊張感を持ったヴァイオリンを中心とした弦セクションに続いて木管や金管が表れると、緊張がお祭り騒ぎになってしまう、という感じを何度か受けた。逆にこれはショスタコーヴチが狙ったアンバランスさなのかもしれない。このような違和感は第3楽章から4楽章になるに連れ全く払拭され、個々の音色とオーケストレーションは見事に一体化したのだが。

細かく思い出せば不満のひとつやふたつはあるものの、最終的な感想としては聴きに行ってよかったという満足で満たされたわけであり、上記に書いたような問題は瑣末的な問題でしかないとは思う。偉そうなことを書いたところで、所詮はオケを半年振りに聴くアマチュアである。明日になれば考えも変わり、あるいは忘れてしまうような戯言である。