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2019年4月24日水曜日

【音盤】アファナシエフのテスタメント

 

2006年11月15日水曜日

【音盤】モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397/アファナシエフ

  1. 幻想曲 ニ短調 K.397
  2. 幻想曲 ニ短調 K.396
  3. ピアノ・ソナタ ハ短調 K.475
  4. アダージョ ロ短調 K.457
  • ヴァレリー・アファナシエフ(p)
  • COCQ84057

愛すべき幻想曲 ニ短調 K.397を見事にまで変形させてしまっているのがアファナシエフの演奏です。彼の演奏は、グールドのそれとは違って、異様なまでの遅さが作品の持つもうひとつの世界を炙り出してしまいます。

いったいに、モーツァルトはK.397に、アファナシエフが描いたような文学的にして深淵な内的世界を本当に期待していたのでしょうか。冒頭の分散和音の彼岸から奏でられるかのような重く荘厳にして美しい響きにまず打たれます。この静寂な響きを破るようにして打鍵される主題の虚無的なまでの凍りついた輝き。アファナシエフはあるいは孤独な宇宙旅行者が、大宇宙の寂寞たる広大さに直面する時に経験するかもしれない感情と書いています。

ここに聴こえるのは、もはや母親喪失と言う幼稚的哀しみではなく、存在の根源的な寂寥感。死にさえ通じる虚無と孤独、彷徨い放浪する魂。どこにも淵がなくグルグルと巡る運命のような嘆き。

ニ長調への転調の後も、徹底的な明るさは訪れないかのようです。ひょっとすると、もう一つの彼岸へと突き抜けただけ。すなわち光、輝き、失楽園を提示する。このように曲は、終わりから始まりへと、さかさまに作曲されているとアファナシエフは書きますが、生の世界の決して楽天的ならざる美しささに逆に私は慄然としてしまいます。

自問する、モーツァルトの幻想曲は、こんな曲であったのかと。もっと無邪気で無垢な小品ではなかったのかと。アファナシエフの盤については、もう少し聴きこんでからでなければ、何かが書ける気がせず、しばらくお預け。

2003年9月9日火曜日

【音盤】アファナシエフのベートーベン ピアノ協奏曲


ベートーベン  
 ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ協奏曲第5番『皇帝』

指揮:Hubert Soudant
ピアノ:Valery Afanassiev
演奏:Mozarteum Orchester Salzburg
Recording:December 12&13,2001(No.3)/June 10&11,2002(No.5)


アファナシエフとしては初のピアノ協奏曲録音は、モーツアルテウム管弦楽団と、東京交響楽団の首席客演指揮者もつとめるユーベル・スダーン氏との共演。2001年の同楽団定期公演のベートーベン協奏曲チクルスの一貫の中で録音されたものらしい。アファナシエフと聞けば、つい遅い極端な演奏を想像してしまう。ここに納められたベートーベンの協奏曲も例外ではなく、非常にゆったりとしたテンポで鳴らされている。ピアノに造詣の深い方の中には、どこが遅いとか、あの演奏と比べてどうだとか評することができることだろう。

聴いてみれば、確かに第3番 第2楽章など遅い! 私は今手元に比較できる盤がないので、感覚的なことしか書けないが、それでも中間部など眠ってしまうかのようなテンポである。第5番「皇帝」も例外ではない。

しかし全体を通して聴いてみるならばテンポの遅さを、それほど意外にも奇異にも感じなくなってくるから不思議だ。アファナシエフの演奏は、のべつくまなく遅いわけではなく、細かなパッセージの部分など軽やかに疾走する部分も聴かれる、むしろ緩急の綾が自在というべきなのだろうか。「皇帝」の第3楽章も、最初の出だしはつんのめりそうなテンポとして感じたが、慣れるにつれて曲が染み入るように体に馴染んでくるのだ。ヴィルトオーゾをひけらかして弾ききった演奏では、なかなかそうは感じない。

協奏曲第3番は、まだモーツアルト風の古典的な響きを残した曲に、ベートーベンらしさが萌芽しつつある曲だが、彼の演奏からは何かを予感させるような響きが説得力をもって迫ってくるように思える。第5番「皇帝」にしても、やたらと力瘤を固めたベートーベンとしてではなく、曲本来の優美さや構成力をしっかり伝えてくれているように思えるのであった。

この話題のアファナシエフであるが、今年の秋に来日してベートーベンなどを聴かせてくれることになっている。



2003年6月16日月曜日

【音盤】恐るべきアファナシエフの展覧会の絵


ムソルグスキー:
 組曲《展覧会の絵》
 ピアノ小品
     間奏曲、情熱的な即興曲、お針子、瞑想、夢
 
ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ
1991年6月3-6日 フランクフルト、ドイツ銀行ホール
DENON COCO-70530 CREST1000(国内版)

アファナシエフの演奏は「遅い」ことで有名である。CD解説にも『「現代」という時代に鋭い一撃を加える狂気の一枚』『徹底的に遅いテンポで作品に潜む狂気に光を当てた快演』とある。簡単に"狂気"などという言葉を使うものではないとは思うのだが、一聴してみて、いったい私は何を聴かされたのだろうかと呆然となってしまったことも否定できない。

《展覧会の絵》といえばオーケストラバージョンにしても、ピアノバージョンにしても、それほど深刻にならず、美術館を軽く散歩しながらワクワクし、ドキドキし、最後は心地くも壮大なるカタルシスを得ることを期待していたはずだ。

しかし、何かが違う。

《プロムナード》からして驚きだ、彫りの深い響きでのっけから圧倒する。《グノームス》も恐ろしく異様だ、いや異形と言って良い。反響が消えるまで引き伸ばされた、一瞬間違えたのではないかと思うほどの長い間、その後に重なる和音の鈍い色彩。まさにグロテスクを絵に描いたような小人の姿がそこにある。


異形なのは《グノームス》だけではない。《古城》はもはや枯淡の境地に逝ってしまっているし、明るいはずの《チュイルリー》は憂鬱を引きずり、ヒナたちは殻をつけたまま転げまわることはしない。音響の濃淡やダイナミックさは極端なまでに大きく、そこから何かがふつふつと湧き上がってくる。いや何かが姿を現してくる。

特に最後の《キエフの大門》に至っては、大門の建設に掛けた情熱とその虚構と幻影が、もはや現代音楽を聴いてるのではなかろうかというほどの歪な音塊とともに暴露されてゆく。こんな、痛々しいまでの《キエフの大門》は始めて聴いた、こんな《展覧会の絵》は一度も聴いたことがなかった。おそるべしアファナシエフ!

アファナシエフ自身、文学や演劇にも造詣が深く、もはや音楽家とは言えないほどの幅広い活動を展開していると聞く。写真は《展覧会の絵》のためにアファナシエフ自身が書いた台本をもとに上演された人形劇らしい。(全ての写真CDジャケットより)

演奏が遅ければ良いわけでも、「精神性」が深まるわけでもない。アファナシエフは中沢新一や浅田彰などの思想界のオピニオンリーダー達に絶賛されているという。彼らの思想を全く理解できない私には、彼らが絶賛する理由を一生理解することはないだろう。しかし、ほとんど異形というべき演奏が付き付けるものは、鉛のように重たくそれでいて確かに鋭いと思わざるを得ない。