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2005年2月18日金曜日

【音盤】シャイー/オルフ:「カルミナ・ブラーナ」

カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

  • シルヴィア・グリーンバーグ(S) ジェイムズ・ボウマン(C-T) スティーヴン・ロバーツ(Br)
  • ベルリン国立大聖堂合唱団、ベルリン放送交響合唱団
  • リッカルド・シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団
  • 1983年6日、Jesus Christus-Kirche,Berlin、LONDON名盤1200 POCL-9982

ラトルカルミナを聴いて以来、頭の中でカルミナの強烈なリズムやら白鳥の歌が、グルグルと回転運動を続けています。おかげで風邪で寝込んだ3連休は、音楽を聴かずとも、カルミナ節を反復することで退屈することなく過ごすことができました(嘘)

この盤は、ロンドンの名盤1200の中のひとつ、リッカルド・シャイーが29歳の時の録音。シャープさとクールさ、それでいて美しい歌心にも満ちている演奏です。

冒頭の"O Fortuna"は何の躊躇いもなく、音楽を炸裂させて開始しているところの鮮やかさ。乾いたティンパニの音と弾け飛ぶシンバルの響き、それに続くふわふわと刻まれるリズムは、美しさと力強さを併せ持っています。

土俗的なエネルギーという雰囲気もあまり強くはない、また、シャイーがイタリア人だからなんでしょうか、どこそこに明るさが漂っていて、この曲に特徴的なドイツ的田舎臭さ(?)と私が勝手に思っている雰囲気は希薄です。それはそれで悪くはないですが。

"Oim lacus colueram (昔は湖に住まっていた)"を歌うのは1941年生まれ、イギリス型の典型的なカウンター・テノールのジェイムズ・ボウマン。彼の歌によって異様な音楽が更にグロテスクに歪んでおります。バリトンのスティーヴン・ロバーツもソプラノのシルヴィア・グリーンバーグも、良い声で歌ってくれています。ソプラノ独唱の"In trutina (天秤棒を心にかけて)"など何度も聴いてしまいますが、どこか"ディズニー的"と思うのは彼女がアメリカ人という先入観?

全体によくまとまっていてますが、カルミナが持つ原始的な本能を呼び覚ますようなザワザワ感がもう少し欲しいというのは贅沢でしょうか。


こちらはティーレマンのカルミナ・ブラーナ

そのうち、ゆっくり聴いてみます。

2001年4月28日土曜日

シャイ-&コンセルトヘボウによるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」

リッカルド・シャイ-(cond) ロイヤル・コンセルトヘボウ管
2000/01 DECCA 467 314-2 (輸入版)

シャイ-のマーラー・チクルスとしては7番目の録音であるらしい。シャイ-といえば48歳、いま最も注目される指揮者の一人であることは疑う余地もないのだが、彼の演奏に本格的に親しんだのはこの盤が始めてといってよい。(なんて、浅いクラシックファンなんでしょう ^^;;)

レコード芸術4月号の"New Disc & Artists"では、吉村渓氏が「"宇宙が鳴動する総量としての音響体"ではなく"声を主体として組み立てたオペラの極限的な姿"」とおおむね好意的に評している。また、レコード芸術5月号では「新譜月評」に取り上げられていが、小石忠男氏は推薦なしで不満が残るとし、宇野功芳氏は推薦にあげている盤である。また、加藤幸弘さんのHPにおいてこの盤が取り上げられており(2001年3月のCD評)彼は、「この作品の演奏史のターニングポイントとなる録音」とまで述べている。

さて、聴いた感想といえば、この壮大にして、ワタシ的には非常に取りとめない印象を持っていた大曲を、最後の最後まで聴くものを飽きさせず、なおかつマーラーにしてはどろどろとした情念に溺れることなく、なんとも瑞々しい演奏を聴かせてくれる演奏であると感じた。合唱なども美しいうたいであり、音楽の切り口が新鮮で、ラストに向けて徐々に高まる(高みに導く)ほどよい緊張に満ちている。

ご存知のようにこの曲は1部と2部に分かれており、それぞれがCD1枚に納められている。長いと思われる曲だが1部は23分程度であるため、これを機会に繰り返し聴いてみたが、聴くたびに曲の美しさと完結した感動を味わうことができ、マーラーの示した賛歌を堪能することができた。小石氏は「響きに集中力がない」「音程に疑問」「説得力が不十分」と、結構ボロクソなのだが、私にはそのような感想がどうして生まれるのか、まだ分からない。

2部は50分以上であるため、こちらは何度も気軽に聴くというわけには行かないのだが、至福の時間がゆったりと流れるのを感じることができる。独唱や混声合唱は、何度も繰り返しても足りないほどなのだが本当に美しく、対訳を見ながら聴いていると肝心の曲の素晴らしさが損なわれるようで、途中で歌詞カードを放棄せざるを得なくなる。目をつぶって合唱とオーケストラの響きに身をゆだねていると、光が舞い降り高みに上ってゆくような感動さえ覚えるのだ。

また、ラストの神秘の合唱に至る当たりの音響の迫力は言葉にすることが難しい。2部でもこの部位だけは何度も聴いてみたのだが、いくら性能が良くてもヘッドフォンで聴くよりは、音量を絞ってもスピーカーを通して=空気を振動させ 身体で曲を味わいたいと思った。大音量でヘッドフォンを通して聴いてもさしたる感動は得られないのだ。しかしスピーカーを通して改めて聴いてみると、体の奥底から得も言われぬ情動が沸き起こるのを禁じることができない、やはりマーラーは生で聴かなくては駄目なのかと思う瞬間だ。

ところで、マラ8といえば家にはバーンスタイン・WPO(75年ザルツブルク)盤しかない。こういう比較は意味がないとは思いつつも、試しに2部の最後だけ聴いてみた。バーンスタインというのはマーラーの背後霊か何かが乗り移っていたのではないだろうか。ここだけ聴いても、なぜか泣けてしまうのだ。ふたりの演奏の違いは何なんだろう、バーンスタインだと思って聴くからそうなんだろうか。神秘の合唱は混声合唱の中からソプラノが立ち現れる部分ときたら背筋から腰まで貫かれるような感触を覚えてしまうのだ。

シャイ-の目指したマーラーがこの部分だけ聴いても、バーンスタインとは全然違うことに気付かされる。こういう切り口でマーラーを聴かせてくれるとなると、シャイ-の他の盤も気になるのであった。

偉そうにマーラーの盤の感想を述べてみたが、歌詞内容や音楽的な内容に踏み込むには、まだまだ浅い聴衆であることを認めざるを得ない。しかし、マーラーて長いんだもの、やすやすとは聴けませんよねえ(^^)