時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2012年8月17日金曜日
町田康「宿屋めぐり」
2006年7月2日日曜日
坂口安吾、太宰治、そして町田康など
町田康を読んでいたら、ふと坂口安吾でも再読してみるかという気になり、「堕落論」「続堕落論」(1946年)、「日本文化私論」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)、「デカダン文学論」(1946年)などをつまみ読みする。
戦中に書かれた「日本文化私論」や、戦後すぐに書かれたや「堕落論」は今読んでも、いささかもその光芒も力も失っていないものだなあと関心しきり。「デカダン文学論」では島崎藤村や横光利一、夏目漱石をコテンパンにやつけている。特に「こころ」の主人公を自殺させたことに対して、坂口は辛辣な批判を浴びせている。
自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに
坂口の堕落は、現代から見ると古い日本的なものからの逸脱であり、決して所謂「退廃」を意味していない。力強く前向きだ。
「不良少年とキリスト」は、MC(マイ・コメディアン)を演じた太宰治が自殺した直後に書かれた太宰のバカヤロウ的文章で思わず胸が詰まる。そう思ったら無性に太宰を読みたくなって「人間失格」「斜陽」そして未完の「グッド・バイ」を続けざまに読む。
太宰はダサイだの暗いだの言われていたし、今で言えばヲタクみたいな同級生が太宰を好きだったりしたことも手伝って、学生時代には太宰の小説からあまり感銘を受けなかった。しかし、この年になって改めて読むと、彼のニヒリズムの厳しさにヒリヒリする。「人間失格」を書くために太宰は生まれてきたと文庫解説の奥野健男氏は指摘する。しかし「斜陽」の4人の主人公とて全て太宰の分身ではないか。2作を続け読むと誰が誰で何をしでかしたのかの境界がぼやけてくる。井伏鱒二は「悪いやつ」だったんだなアとか(笑)
坂口は「不良少年とキリスト」の中で
あれを人に見せちやア、いけないんだ。あれはフツカヨヒの中にだけあり、フツカヨヒの中で処理してしまはなければいけない性質のものだ。
と断じた。しかし太宰を読んだ後に、もう一度この文章に接すると違和感がある。坂口と太宰は根本からして違う人間なのだ。むしろ太宰の内面は三島のそれに近いような気がする(だから三島は太宰を「近親憎悪」したのか)。坂口と太宰は明らかに系譜もベクトルも異なっていることに、今更ながらに気づく。
町田文学は太宰の系譜を汲んではいる。しかし彼もあそこまで退廃はしていない。独特の醒めた眼がある。それが諧謔のギリギリのところで彼を踏みとどまらせる。太宰はコメディアンで芸術家で革命家ではあったが、町田はパンク歌手で詩人である。坂口もパンクだ。しかし、それぞれが求める堕落も革命もパンクも異なっている。
太宰も町田も個人と人生の大いなる虚無を見つめ、虚無から逃避することでばかばかしい日常を無理やり生きた。ドラックとアルコールは共通だが、町田氏は白い狂気に向かい、太宰は暗い死を選んだ。坂口は、ひたすら強く生きたか。
最後に、多分、町田氏は死なねーなと根拠なく思ったところで(今時死ぬるほどに虚弱な芸術家は絶滅したか)、柄にもないデカダン文学浸りはオシマイにしよう。
2006年7月1日土曜日
[読書メモ]町田文学のエッセンス
町田文学のエッセンス、根本的なパターンに変化はない。
- ダメ人間と現実のねじれ
- 奇行と狂気
- 本人が真面目であり、世間の期待に応えようとしつつも結果は異なる方向にしか向かわない
- 自分を客観視
- 自虐的な喜劇
- 人生に対する余裕
2006年6月23日金曜日
町田康:へらへらぼっちゃん
町田氏のエッセイ集です。彼が「くっすん大黒」を発表したのが1996年のこと、ここに収録されているエッセイは1992年からのもので、彼が小説家としてデビューする前の文章であるという点で興味深いものです。
内容は彼の小説世界そのままで、内装業者友達の世話による「ペンキ塗り」や「冷蔵庫」に関する逸話も、彼の体験に基づいたものであることが理解できます。
それにしても不思議なのは、3年間も働かずに昼間から酒を飲み時代劇を見続けるという生活を続けながらにして、人間的にも家庭的にも破綻しなかったという驚くべき彼の持続性。
何もしないで遊び呆けることの難しさ。彼の処女小説「くっすん大黒」が上梓されることになるに当たって、
私はこの本を、これから就職する人や仕事をやめてぇ、と思っている人に読んで欲しいなあ、と念願している。(「遊びの苦しみ」P.227)
なんて書いています。彼の「遊んで暮らす」というのは筋金入りでして、その覚悟はあるかと。
なにしろ当方は、必死になって何もしないで遊んでいようとしているわけだから、昼酒を飲んでみたり、再放送のテレビ時代劇を日に五本も見たり、都々逸の稽古をしてみたり、木桶に飯と菜を盛って、犬のように手を使わずに食ってみたりと、いろいろ試しているのである。(「旅人・遊び人」P.13)
なんだそうであります。ココだけ読むと、キの印としか思えないのですが、まあそれが町田康なんですねぇ。
町田小説にどっぷりつかってしまった人には、彼のルーツが分かるようなエッセイでもありまして、ビール飲んだりハム食ったりしながら、芝清之編「東西浪曲大名鑑」、坂口安吾「明治開花安吾捕物帳」、八剣浩太郎「大江戸愛怨伝」、織田作之助「江戸の花笠」なんて読んでいるんだものなあ、そうか、そうか、やっぱりそうであったか、なんてね。思ったりするわけです。
大槻ケンヂの巻末の解説も抜群。
ここで、ふと思ったけれど、彼の小説の読者層というのは、やっぱり十から二十代の若者なんではなかろうかと、いい大人が「町田康はオモロイ」なんて書いているのは、もしかすると、間違っているかもしれない・・・。場違いなライブハウスにスーツ着て聴きに行ったような、恥ずかしい違和感。そろそろ町田巡りもオシマか?しかし・・・町田本を読むのを止めたら、次は誰に熱中できるというのだ?
2006年6月21日水曜日
町田康:権現の踊り子 ほか
興味のない方には「いい加減、町田ネタはうんざり」と思われるでしょうが、面白いのですから仕方がありません。個人的な備忘録としてのブログですから、興味ない方はスルーして下さい(苦笑)。
で「権現の踊り子」という川端康成文学賞を受賞した作品を含む短編集。面白いのは「工夫の減さん」という、ことごとくマイナスかつネガティブな作品でしょうか。
減さん(名前がそもそもネガティブ)は、全く役に立たない「工夫」を繰り返し、その「工夫」が本人の幸せにも周りの人たちの便利にも全然寄与せず、しかも減さんが、多大な苦労をして日々「工夫」をしながら生きていることを周りの人は理解していないという不毛、絶望、断絶、滑稽。ああ、町田文学の全てがここに濃縮されています。
「それにつけても減さんは工夫の好きなやつだったよねぇ」と話しかけた。
女は俺の顔を見て、「そうだったっけ」と言って首を傾げた。俺は、
「けっこうそうだったよ」と小さい声で言って麦酒を飲んで噎せた。
思わず知らずに答えて噎せる主人公。噎せざるを得ない、この無理解と摩擦と哀しさ。
他者が徹底的な「他者」となり、自分だけが取り残され絶望的な狂気に至るさまをB級ホラー的な味わいで描いた「ふくみ笑い」も、時代劇好き町田氏にして描けた、人格が破綻た水戸光圀を主人公とする「逆水戸」も、モンクなしに面白い。中崎タツヤあたりにマンガ化してもらいたい味わい。
しかし・・・町田文学は、確かにどこにも向かっていない。ヘタをすると人間の虚無と立ち向かって、へらへらと笑っている。なんで、こんなことをするのか、どうしてこうしなければ自分は生きられないのか。笑いながらも深淵を覗いている。
2006年6月20日火曜日
町田康:告白
時代劇の好きな町田氏が、近代的自我を持たない社会の中に、極端に自意識過剰な自我と思弁を持ち込んだら、両者に生ずる摩擦とかズレがさぞ面白かろうに、と思って描き始めたのかどうかは分かりません。しかし内容は、そういう単純な意図をはるかに越える内容を描ききっています。
小説は近代的過渡期に生まれた悲劇を描くに留まりません。人が成長してゆく過程の中で、思弁的かつ自己弁護的なるものを捨て「大人」に成ることに付いてゆけない者の圧倒的孤独をも描いており、そういう点においては、現代的かつ町田的テーマでもあります。
熊太郎の持つ存在の哀しさ。それは近代的自我持つ主人公と他者との間に横たわる深い溝として説明されます。彼だけが思弁的内向性を有していたが故に、他者に自分の考えが「伝わらない」ということ。しかし、彼の考えだけが伝わらないのではなく、他者の思弁も、熊太郎はそんなものは存在しないとアタマから否定していことによって、彼には一生理解することができないのです。存在しないと考えるものを理解することはできません。
他者と自分の痛いまでの違いの認識、自己認識あるいは、極端なる自意識。行動よりも思弁が圧倒するということ。決して埋まらない自己と自己、そして自己と他者との間の断絶の中で、分裂と不信、甘さと自己愛に支配された彼は、救いと自己の解放、現実との整合などを求めて、どこまでも、どこまでも、捩れていきます。
現実と折り合いのつかなさ、世渡りのヘタさ、真面目にやればやるほどに、ズレてゆく主人公の姿は全ての町田文学の典型です。しかし、「告白」で描かれた狂気の結末は、不条理やユーモアという笑いのオブラートを取り除いたが故に、彼の他のどの小説にも似ず悲劇的です。最終的に熊太郎は救わなかったような描かれ方をしています。彼の見つけた自己の内部の「曠野」、果てしない虚無と絶望。銃声は彼の何を殺したのか。
もう一度、いやしかし、彼は本当に救済されなかったのだろうか、と考えます。ここには、「人は何故人を殺すのか」ということ以上に、「人は何故に生きるのか」「何故に死すのか」という命題をも含んでいます。熊太郎のダメ姿を自己投影する読者も多いはずです。そこに町田文学に対する共感があり、そして深く考えさせられます。
改めて思う、町田氏は凄いです。classicaのiioさんに教えられて町田道に入りましたが、最初からこの本を読まなくて、つくづく良かったと思います。感謝の意を込めてTBしておきます。
2006年6月15日木曜日
町田康:屈辱ポンチ
「けものがれ、俺らの猿と」と「屈辱ポンチ」という二編が納められています。どちらも町田節が全開の中編小説です。ダラダラと改行少に続く活字を読み進むうちに、脳内は痺れるような町田ワールドに支配されてしまいます。
内容は典型的なダメタイプの主人公が巻き起こす脱力的努力の連続劇。だからといって「またかよ」といって飽きてしまうわけではなく、やっぱりそれでも面白いと思ってしまいます。町田氏は凄いなと。
「けものがれ、俺らの猿と」という奇妙なタイトルの作品における登場人物とストーリー展開は、本当に陳腐な言い方ですが不条理そのもので、更にはB級ホラー的な雰囲気さえ漂わせており秀逸です。途中で登場する田島という人物の得体の知れ無さ、ワケの分からなさ、通じなさから生じるジンワリとした恐怖。相手の真意が理解できないままに振り回される主人公の姿。そして主人公が頑張れば頑張るほど、底なし沼に沈んでいくかのようなドツボの展開。かくも不器用でいること、現実との接点を欠いている姿は、確かに喜劇ではあります。
「屈辱ポンチ」という、これまた意味不明の人を小莫迦にしたようなタイトルの小説も、目的や真意の分からないミッションに真面目に取り組む主人公達を描いています。その真面目さがクソ真面目であるほどに現実的な効果は全く得られない。彼らの努力とはほとんど無関係に、それを嘲笑うが如くに世界は動いていきます。この現実とのズレに笑いながらも、ふと考える。
本当に心の底から町田喜劇を笑えるのか、自分の成しているミッションに本当に意味があって、目的を理解しているのかと。いやオレは本当にストレートに世界と「つながっている」のかと。
(
Amazonへ)
2006年5月3日水曜日
町田康:くっすん大黒、川原のアパラ
「くっすん大黒」116回芥川賞候補(1996年)となった作品であり、落選はしたものの筒井康隆氏が本作を絶賛しました。 1997年には第19回野間文芸新人賞、第7回ドゥマゴ文学賞を受賞しています。
と書くと、さぞかし「凄い作品」なのだと思うでしょうが、ここでも町田氏の脱力ぶりと下降志向は健在です。氏の芥川賞受賞作である「きれぎれ」やその他の作品よりも狂気や陰惨さは少なく、快活で滑稽な作品に仕上がっています。小説を読みながら久しぶりに「ゲラゲラ」と笑ってしまいます。それでいて計算づくの恐るべき小説でもあります。(Amazonへ)
無意味な教養という以外何の役にも立たなかった学校教育の国語において暗記させられた「名作」の冒頭を思い出すまでもなく、小説の出だしの文章というのは極めて象徴的です。ここにおさめられた「くっすん大黒」と「川原のアパラ」の冒頭を拾ってみましょう。
もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。(「くっすん大黒」より)
おおブレネリ、あなたのおうちは何処? わたしのおうちはスイスランドよ。綺麗な湖水の畔なのよ。やーっ、ほーっ、ほーとランランラン、って、阿呆かオレは。なにもかかるケンタッキーフライドチキン店の店頭で、おおブレネリを大声で歌わなくてもいいじゃないか。(「川原のアパラ」より)
アホくささと諧謔、さらに小説のストーリーも実にたわけたハナシであります。こんな作家の小説は、普通は読む気になりませんかね。しかし町田氏の小説に潜む愉悦を一度知ってしまうと、なかなか、こんな莫迦げた文章がいとおしくなるから不思議です。
町田氏の小説を読みながら落語の持つ滑稽さに通底するものを感じる人もいるでしょう。あるいは下降志向や自嘲趣味から太宰治に繋がる文学性を感じ取る人も多いでしょう。はたまた「町田康=小説の主人公の告白」的な意味合いから、近代文学における作家と作品のありようや、誰も書きませんが、自意識過剰なまでの描写から三島由紀夫にどこか繋がる匂いを感じ取ることができるかもしれません。場合によっては「くっすん大黒」からは大友克彦の初期作品を、「川原のアパラ」からはつげ義春的ブラックさを嗅ぎ取ることも妄想とは言えないかもしれません。
町田氏の小説の表面世界だけをなぞるならば、面白いけれど不快にして、後に何も残らないという感想も成立しえましょう。しかし町田氏が敢えて堕に向かう精神とその生き様を、さらに現実世界への瑣末的な拘泥や、生きることの無様なまでのありようを徹底的に描くことは、実のところ人間の本質面に対するさりげない問いであったりします。古今の文学的なテーマを一度解体した上で、絶妙の町田節に乗って再構築されたその小説は、面白いだけで終わらない世界を持っていると確信できます。
2006年5月2日火曜日
町田康:夫婦茶碗、人間の屑
本文庫には「夫婦茶碗」と「人間の屑」という2作品が納められています。町田氏の小説は徹底した自虐と下降志向、そして現状を何とかして変えたいと思う気力が空しく空転し、捩れに捩れてゆく不条理をいつも描いています。
自暴自棄とも取れる主人公の行動は、裏を返すと限りなく甘ったるい楽観と自己愛に支えられています。主人公の感性は、自己分析と自己反省を繰り返しながらも現実とは全く折り合わず、真意や善意は相手に伝わらず、ひとり挫折感を味わいます。主人公のベクトルはどこまで行っても常識的な感覚ではなく、従って最終的には破滅的ともいえる必然的狂気へと突き進みます。
それを自明のこととして、町田氏は最初から最後まで下降と狂気を描いています。淡々としたリズムとスピード、負の必然性、瑣末への拘泥、人間のダメさ加減、情けなさ。それらを、ドストエフスキーのように重く陰湿な人間劇としてではなく、徹底した喜劇として、しかもあっけらかんとした明るさとスパイラルするストーリーで町田氏は描いてみせます。
確信犯的に描かれ演ぜられた喜劇からは、人間の本性さえも暴き出されてしまうかのようです。気のせいか「カラマゾフの兄弟」のフョードルを思い出してしまいました。(>フランス文学かと思ったら、今度はロシア文学かよ)
文庫本解説を筒井康隆が書いていました。私の直感は当たっていたと言えましょうか。彼は筒井康隆に非常に良く似ているのです。高度に屈折し転回し続ける知性からは、思考実験というものが生まれる
と筒井氏は指摘しています。
そう・・・極めて高度に屈折しすぎています、町田氏の文学は。なんだかんだと書いても、読み物として面白いので一気に読めますが、読み進めるのが結構つらくもあります。「堕落の美学」とも評されています、確かに究極の美学でもあります。
2006年4月16日日曜日
町田康:きれぎれ、人生の聖
芥川賞の意味はさておくにしても、作品としては極めて面白い。本作品もくんくんと一気に読んでしまいました。
作品の内容を細かく書くのは、本当に野暮なことですから、それはやめるにしても、「きれぎれ」の主人公が資産家の息子でありながら、いい年になっても定職もつかずに、ブラブラと親の金を使って遊んでいるという様は、彼のほかの作品である「へらへらぼっちゃん」(読んでない)という人物スタイルと通底するものがあるのだろうなと。
そうなんですね、町田氏自らが資産家の息子であったのかは分かりませんが、作品からは資産家故のボンボンとした感じ、切羽つまったころのなさを感じます。それが物語から悲惨さを剥ぎ取り純度を高めながら全く違った方向へ進ませます。世間から一歩立ち位置を離れたところで、社会も人間も自分さえも客観視するという態度、その他者性こそが町田文学の諧謔性のルーツかなと。ここらあたりは、さすがに関西のノリです。
しかも町田氏独特の世間とのズレ(不適応)はここでも健在で、その態度は根が反逆者あるいは没落者ゆえなのか。現実と折り合いをつけられないことを、徹底した諧謔と自虐に紛らわせ、どこまでも堕ちてゆく。だけども最後は何だか透明な存在となって救われるみたいな。笑いに包まれているけれど人間洞察は鋭い。
ストーリーは不条理(>よく分からないって)の連続。「ママンが死んだ」なんて書いている当たりカミュの「異邦人」かよって思ったり、そういえば脳内に甲虫だものなと(>毒虫はカフカだって)。あるいは、太宰治や坂口安吾を彷彿とすると思う人もいるみたいですが、私にはどちらかというと筒井康隆的諧謔を感じたり、なかったり。(こうして羅列すると「新潮社の100冊」みたいだな)
そういうわけで「読後感として何も残らない」という感想は当たらず。この不快感と爽快さの絶妙なるバランス。人生と社会における不条理性と諦念と自虐と救い(か?)、悪夢と現実。やけっぱちなテロル。ちっぽけな悪意に満ちた快感。読書をすることの愉悦とひきつり。
2006年4月14日金曜日
町田康:東京飄然
iioさんのclassicaにあった町田康氏の「告白」に関するエントリを読んで依頼、気になる作家としてアタマの中にインプット。書店で「告白」を手に取るも、その分厚さに「こいつは今は読めねーや」と尻込み。そうこうしていたときに、エッセイ風の本書が目に付いたので、これならばと購入。
本書に挿入されている写真をつらつら眺めるに、少し斜に構えた街歩き本なのかと思って読み進めると、まったくさにあらず。町田氏独特の文体の魅力に惹き込まれ、くんくん読み進んでしまいました。
そして、読み終わった感想としては、「町田氏はイケテいるな」ということ、久しぶりに手ごたえのある作家を知ったうれしさに内心小躍り。でも、どこが良いのかを他者に伝えるのは難しい。あえて書くならば、作家の感性と文章の一致度が見事で、また文章を読みながら感じた身体の微振動が、心地よい愉悦として広がるのを感じることができたから、ということになりましょうか。極めて私的な感想です。
彼は昔はパンク・ロッカーだったのですが、今では野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞、芥川賞、萩原朔太郎賞、川端康成文学賞と、世の文学賞をとりまくってい一流作家です。しかし、そういう問題ではない。いくら賞を受賞していても、あるいはいなくても、読者との共感点が得られなければ権威は何の意味もない。
で、私が町田氏に感じたエトスとは挫折と脱力です、不条理と書きたいところですが、哀しいかな私は不条理の本質を知りません。彼の挫折は、世の中と自分の間の奇妙なズレを是認し、しかし本人はそれを常識的な力で乗越えようと努力するものの、その努力そのものが、世間的な常識からは17度ほどずれているため、ますます世間との乖離は深まる、といったもの。しかし、といって厭世的とか引きこもり的自己愛に落ちるのではなく、その恐ろしいまでのズレを、まさに飄然と楽しんでいる。そういう雰囲気です。
アマゾンなどの書評では、「面白くない」「町田的濃度が薄まっている」と書く人もいます。わたしはこの1冊しか町田氏の文章を読んでいませんので、なんとも言えません。しかし、氏の文章は軽く書かれているようでいて、きわめて計算されていおり、彼のバックボーンの広がりに、またワクワク感がかきたてられます。
この文章の初出が「婦人公論 2003年3月~2005年5月」であったということは注目に値します。婦人公論が、どのような読者層を想定しているのかはイマひとつ分かりませんが、町田氏のような雰囲気は、女性層の琴線に触れる部分が多いのかもしれません。
町田氏が、自分の立ち位置まで理解した上で、確信犯的文章をしたためているのか否かについては、本書だけからは伺い知ることが出来ません。彼が一体どういう小説や詩を書いているのか、機会があれば読んでみたいです。
町田氏を教えてくれたiio氏には改めて感謝です。







