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2004年9月13日月曜日

札響ホルン奏者のブログ

つらつらとブログを巡回しておりましたら、札幌交響楽団のホルン奏者である橋本さんのブログをみつけました(こちらWaltzforDB)。ブログタイトルもなかなかふるっています。

演奏者がブログで身辺のこととか、裏話的なことを語ってくれることは楽しみなものです。もっとも個人のサイトとはいえ、演奏者は半ば公人でありますから、あからさまなコメントはしずらいと思います。橋本さんのブログは、更新頻度もまだそんなに多くはありませんが、北国の音楽情報など、ごゆるりとエントリーされてくださるとうれしいな・・・と。


そういえば、札響は10月17日にサントリーで東京公演がありますが(武満徹/弦楽オーケストラのための「死と再生」・マーラー/交響曲第6番 イ短調「悲劇的」 ) 武満とマラ6だと・・・しんどそう・・・



2004年7月5日月曜日

NHK交響楽団奏者の年収

銀行の待合室で、くたびれた(つまり、随分前の)週刊朝日を何気なくパラパラと。そうすると天下のNHK交響楽団主席指揮者の年収に関する話題が掲載されていました。

記事を鵜呑みにしますと、N響奏者の平均年収は1000万円くらい、主席指揮者となると2500万円程度にものぼり、その上バイトなどは自由、人気奏者の場合の1回あたりのレッスン料は(レッスン時間は不明)5万円にもなるのだとか。

札幌交響楽団のチェロ奏者であり、かつ組合の給与対策部長である荒木氏のハナシとはあまりにもかけ離れた給与相場(世間と比べてもだ)に少し驚いたのではありますが、こういう記事の影響で「オケの方たち、音楽関係の方たちは、さぞかし裕福」というイメージができてしまうのかなあ、などと要らぬ心配をしたりいたします。(裕福な方もいらっしゃるでしょうが)

クラシックという衰退産業は、よほど「育てる」という意識がないと、産業として自立的に成立することが難しいのだろうと思うのですが、ふと擬藤岡屋日記のOpera, a risky business?という6月24日のエントリーを思い出しました。氏のエントリーはオペラに関して、
元々、王侯貴族が庶民にもお裾分けする「エンタテイメント」というルーツを持つオペラは、社会体制の変化にも耐えて今日までその歴史を繋いできたが、成り立ちからしてそれ自身で経済的な自立をするということは殆ど不可能に見える。
と説明しています。そして、
ただ言えることは、オペラが観客やそれを取り巻く市民にどれだけ愛され、支持されているか?にその将来が委ねられていることは間違いない。
という主張の「オペラ」を「地方オケ」とか「クラシック産業」と置き換えても、似たような話にはなるのかなと思ったりします。先に紹介した荒木氏も、『オケの位置づけ論議を、市場原理だけで語るな』と題して、以下のように強く語っています。
札響規模のオーケストラが必要な事業費は年間約10億円。演奏会収入だけで賄うことは、到底不可能だ。オーケストラは自治体や民間、古くは王侯貴族の支えがあって初めて成立する存在なのだ。
擬藤岡屋日記のエントリーは
人間、パンのみで生きるのではあまりにも寂しい。
と結ばれていますが、パンを「経済合理性」と置き換えれば、全くその通りだと思います。そういう地道な努力の中で、最初のハナシに戻りますが、N響奏者の年収や境遇が構造改革されない特殊法人などにも似ていて、なんだかなあと思うのではありました。







2004年5月25日火曜日

また札響ネタですが・・・

Mostly Classicの5月21日の記事によりますと、札響に『3年ぶりに事務局長』が就任するそうですね。『大阪フィルハーモニー交響楽団の元事務局長で、音楽プロデューサーの宮沢敏夫氏(60)』という方で、元コントラバス奏者だそうです。


音楽監督に事務局長ですか、着々と体制の強化を図っているようで、何よりです。(というか、札響って記事になること多くないですか? 私がタマタマ目にしているだけでしょうか)

2004年5月20日木曜日

札響借金解消へ

Yahoo Newsを読んでいましたら、またしても札幌交響楽団の借金についての記事がありました。


『借入金を全額返済、「運営基金」取り崩しへ--札幌交響楽団 /北海道』という見出しでして、5億6千万円に達する借金を返済するために、8億2千万円ある「運営基金」を取り崩すというものです。



記事によりますと「運営基金」は、札響の財政基盤の強化の目的で、道と札幌市など道内209市町村と民間企業が寄付したものだそうです。銀行が借金棒引きしてくれないので、苦肉の策であるのだとか。


��002年に札響の経営危機が囁かれてから、何とかここまで持ち直せたことには関係者の方々の尽力とご理解があったろうことが推察され、一地方クラシックファンとしてはうれしい限りです。


東京に居ますと在日オケは潤沢で贅沢な状況ですが、地方は「それしかない」わけですし、地方の音楽レベルの維持とか向上とか指導的役割とか、そういうことも期待したりしますが、それよりもなによりもオケのない地方都市はすごく寂しいものだと単純に思っていますので、このまま『改革の総仕上げ』を成就させていただきたいと、心より願う次第です。

2004年5月16日日曜日

札響音楽監督に尾高さん

Mostly Classicの記事を読んで知りましたが、今年5月から札幌交響楽団の音楽監督に尾高さんが就任したらしいですね。


札響のチェロ奏者である荒木さんのページでもそのことが記載されていました。


実を言うと、私は「音楽監督」がいるとオーケストラがどう変わるのか全く理解しておりませんが(>ボケ!)、尾高さんの札響メンバーからの評判は良いようですから、これからますます飛躍するとよいですね。

2004年4月26日月曜日

札響の財務体質改善とかPMFのニュース

Yahoo! ミュージックを読んでいたら、札幌交響楽団の財務体質が改善され2003年決算は黒字の見通しであることを知りました。札響はかの屑同然となったアルゼンチン国債などの運用の失敗やら何やらで、数年前はゴタゴタしておりましたが喜ばしい限りです。

記事によると定期も2日制になるとのことで、北海道のクラシックファンの裾野が広がることに繋がると良いですね。

PMFに関する記事ものっていましたが、新しい野外音楽ステージもできたのですね。500席の椅子席に屋根がかかっているのだとか。(写真の手前は雪!か?)

私も何度か野外コンサートに行ったことがありますが、天気さえよければ芝生に寝転んで聴けるクラシックというのは結構贅沢でありした。赤ん坊は鳴いているし空ではカラスも鳴いていますが、それもよしです。

キャンプ用の椅子とテーブルを持っていってワインでも飲みながら聴くことが許されるなら、ちょっとしたお抱えオケ気分を味わえるかもしれません(>飲み食い禁止ではなかったと思いますが、演奏者に失礼か?)

ただ、野外音楽でマーラーの「夜の歌」とかR.シュトラウスとかは今ひとつでしたね。野外音楽の場合は、あまり難しい曲でなく気軽に楽しめる曲の方が良いとは思います。そういえば今年のPMFはゲルギエフが来るのですよね・・・ギャラがどうなっているのか少し心配・・・

2002年11月27日水曜日

小樽国際音楽祭/華麗なるフルートの世界

小樽で加藤元章さんのコンサートがあり聴いてきた。ホールは駅からほど近いマリンホール、収容人員450人程度、木質系の内装でよく響くホールだ。お客さんの入りは開催が小樽で、しかも火曜日の雨天ということもあるのだろうか、7割程度という印象。(かなりもったいない)
 
加藤さんの演奏といえば今年の6月、札幌フルートフェスティバルのゲスト演奏を鮮烈に思い出す。今日の演奏は、そのときに得た期待を裏切らないばかりか、遥かにそれを上回る「加藤ワールド」を聴かせてくれた。曲目は6月の演奏とバッハ、サラサーテが重なっているが、彼のお気に入りの曲ということだろうか。モーツアルトは彼にしては異色であるらしい、観客を意識した選曲か。笛は、ムラマツのプラチナで,管体プラチナ,メカは 14k という組み合わせであるらしい(加藤さんに詳しい方からの情報)。
 
加藤さんの演奏には、どうしたって「華麗なるフルートの世界」「高度なテクニック」という陳腐なるキャッチを思い浮かべてしまうのだが、演奏を聴くと、それ以外に表現のしようがないことにも思い至ってしまうのである。フルート界のアムラン、体育界系フルーティズムの雄というべきか。
 
高性能なスポーツカーに乗せられて、サーキットをビュンビュン飛ばしているような愉悦と言ったら良いだろうか。彼の笛から奏でられる音には、圧倒的なスピードと迫力、強弱のダイナミックさ、そしてエネルギッシュな強靭さに溢れている。聴く側がまともに受けとめるには、ふんばりさえ必要だ。
 
彼の持ち味は、近代の曲やカルメンファンタジー、あるいはアンコールに奏されたヴァイオリン・ソナタのような、高度なテクニックを要求される曲にこそ発揮されるように思える。高音から低音に至るまでの均一にして煌びやかな目も廻るような演奏は、「凄まじい」としか表現できない。そこまでするか!とさえ思ってしまう。音楽が終わった後には、体温が1.5度くらい上昇してしまっているかのような感覚だ。不適切な例えかもしれないが、スターマインに酔うかのごときだ。
 
技術の卓越とは、単に指が廻るということだけではなく、彼の場合は、音楽的な表現力が恐ろしく幅広いということだ。そこかしこで聴かれる音色の変化、重音かと思わせるような音、自在な音曲げ、消え入るようなピアニッシモ、恐ろしく太く大きな低音などなど・・・。
 
そういう意味から、今日のプログラムは変化に富んでいて面白かったと思う。
 
��月にも奏したが、彼のバッハも聴きものであった。普通の演奏よりもかなり早目の演奏ではないかと思うが、敬謙さや、渋さ深さなど、精神性を重視したと思われがちな不明瞭なアプローチを彼は取らない。音の流れの中で一気呵成に聴かせる事で、曲の持つ構造や美しさ、面白さというものをくっきりと浮かび上がらせているように、私は感じた。実際に何度も聴き(自分でもあるフレーズを吹いてみたりもして)慣れ親しんでいる曲であるにも関わらず、意外なところに天から降り注ぐ一条の光のごとき二声部が聴こえてきたときには、うれしい驚きを感じた。
 
一方で彼のモーツアルトというのは珍しいらしい。札響の弦セクションとの演奏であったが、これはこれで私には楽しめる演奏であった。何と言ってもてらいやクセがなく、明るいモーツアルトだ。闊達で無邪気な子供が、やわらかな日溜りで暖かくなった積み藁の上で、遊び興じているような雰囲気を感じた。アンサンブルはどちらかというと、加藤がヒュンヒュンひっぱるという印象で、弦セクションが少し固かったようにも思えないでもない。加藤さんの余裕と遊びについてゆくには、何かが足りないという気にさせられた。
フンメルやライネッケなど、フルーティストにはお馴染みの曲も素晴らしい演奏であったのだが、感想はここまでとしておく。
 
ところで、加藤さんと野平さんは、デュオを組んで久しい。野平さんのピアノがまた絶妙である。例えばカルメンファンタジーにおける、素早いパッセージとトリルを含む装飾音が、タイミング、リズム、音色、バランスなど、どれを取っても完璧な一致をみる見事さ。野平さんが時々加藤さんを振りかえりタイミングや音楽の流れを確認しているのだが、そういう仕草さえごく自然な演奏の一部になっているように感じた。
 
実は最初、野平さんのピアノの音は大きすぎるのではないかと思った。加藤さんほどの音響マニアがどうしたのだろうと訝った。良く響くホールであるためかピアノリサイタルのような趣なのだ。しかし、それはすぐに思い違いであると気づかされた。加藤さんの音量によるところも大きいと思うが、ピアノとフルートが対等な会話をする上では、あのぐらいのバランスの方が良いのだと思い直したからである。フルート奏者に遠慮をしすぎないピアノ演奏であるからこそ、ピアノとフルートの相互の良さが引き出されるのだ。

2002年6月3日月曜日

第14回 日本フルートフェスティバル in 札幌

日時:2002年6月2日(日) 14時~  場所:札幌市民会館

ヴェルディ:歌劇「椿姫」第一幕前奏曲br> G.ビゼー:組曲「美しきパースの娘」(指揮=阿部博光)
ライヒャ:シンフォニコ ニ長調より アレグロ(指揮=永野秀行、中学生アンサンブル)
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タファネル:ミニヨンの主題によるグランドファンタジー
J.S.バッハ:無伴奏パルティータ
カミュ:シャンソンとバディネリ
サラサーテ:カルメンファンタジー
ゲーリー・ショッカー:イン・メモリアム
サン=サーンス:アレグロモルト

フルート:加藤元章 ピアノ:石橋尚子

休憩
J.S.バッハ:トッカータとフーガ ニ短調(指揮=佐々木信浩)
トップラー:ハンガリー田園幻想曲(フルート=加藤元章)
ヴィラ.ロボス:ブラジル風バッハ
ビゼー:「アルルの女」よりメヌエット(フルート=加藤元章)

指揮:佐々木信浩  フルートオーケストラ:札幌フルート協会ほか

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早いもので今年で14回目を迎えるらしい。昨年は高木綾子さんを、今年は加藤元章さんをゲストとして招いてのフェスティバルである。年々フルートオーケストラのアンサンブルのレベルも上がっているように思える。

フルートという同属楽器だけで構成されているため、とかく音色の変化に乏しかったり、低音が不足気味のになる。そのため、今ひとつ楽しめないという方もいるのだが(かくいうわたしも昔はそうだった)、今年の演奏は良かったのではないかと思う。

古田戸フルートのコントラバスフルート(チェロの音域)4本に、日本で1台しかないというダブルコントラバスフルート(コントラバスの音域、製作者の古田戸さん自らが演奏に参加)を加えた音色は、独特の重心を得て聴いていて気持ちが良かった。また、数えたわけではないがアルトフルートの層も厚くなったように思える。中低音が優しくしっかり支えることで、本来のフルート音域の高音部分が映えて聴こえたように思う。ヴェルディやビゼーで聴かせてくれた第一列目のフルートの響きは、軽やかできらびやかで、本当に美しいものであった。

ただ、フルートオケの音というのは、低音を増強してはいても頼りなげである。和音の美しさと透明感が魅力ともいえるのだが、キレや強さもどうしても欲しくなる。それをどう表現するかが、フルートオケの限界と、これからの課題かもしれないなどと思うのであった。

なお今回のフルートオケ用の曲は、全て佐々木信浩先生が編曲しているもの。佐々木先生は元札響のフルーティストであり指揮者であったため編曲のツボを心得ている。日本にあまたフルートオケはあるものの、佐々木先生の編曲モノを演奏できる幸運に恵まれているのは札幌だけだろう。

中学生のアンサンブルもここ数年来の企画である。中学生の場合、吹奏楽(ブラバン)でフルートに触るのがほとんどだと思うのに、あれだけの演奏をできるとは驚きである。若いため上達も早いのだろうが、それにしてもと思う。

何と言っても圧巻は加藤元章さんのソロ演奏。脳天を吹っ飛ばされてしまった。これはページを改め書いておきたい。


2002年5月5日日曜日

Kitara子どもの日コンサート

日時:2002年5月5日 14:00~
場所:札幌コンサートホール Kitara
指揮:現田茂夫  管弦楽:札幌交響楽団
ソプラノ:足立さつき  オルガン:ファン・マリア・べドレロ  フルート:森圭吾
司会:うじきつよし

ビゼー:歌劇「カルメン」より前奏曲
モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」より”恋とはどんなものかしら”
プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より”愛しい父よ”
マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
チャイコフスキー:歌劇「エフゲーニ・オネーギン」より”ポロネーズ”
フレディリック・ロウ:ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より”踊りあかそう”
休憩
J.S.バッハ:管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV1067
プーランク:オルガン、弦楽器とティンパニのための協奏曲

音楽雑記帳にもこのコンサートのことを書いたが、ここでは後半の2曲について感想を述べておきたい。私の座った席は1階11列40番である。
バッハの管弦楽組曲 第2番はフルートの活躍する曲で、第5曲のポロネーズ、第7曲のバディネリが特に有名である。編成は室内楽に近いような小規模の弦楽器とチェンバロに独奏フルートを加えたもの。曲はロ短調という悲劇的な調性を表してか、悲愴な雰囲気を帯びて開始されるが、ロンド、サラバンドと続くにつれ、フルートの独奏色も表に出てきて華麗な舞曲を形作っている。フルート独奏はもちろん札響の顔とも言える首席奏者の森圭吾さんである。

曲の聴きどころはフルートと弦楽とチェンバロの掛け合いにある。森さんのフルートは今年になって何度か聴いてきた(1月6日ニューイヤーコンサート、3月16日キクヤミニコンサート)。今日は改めて森さんの音に耳を傾けたが、だんだんと彼の音に関するイメージというものが私の中で固まってた気がする。森さんが信条とするところは暖かにして柔らかな音色ということなのだろうか。森さん自身が「春の陽だまりの中のような」と言う雰囲気にまさにぴったりな音色を届けてくれた。ポロネーズにおけるテクニックの流麗さも際立ち、札響のオケやチェンバロとの音色のとけぐあいも良い。フルートが全般にわたって強く主張しすぎず、オケと絶妙なるバランスの上に気品を保っている。日光によって温まった藁のような香りがほのかに漂うかのような、そんな演奏だった(決して「田舎くさい」という意味で使っているのではありませんよ)

あと一つ付け加えておくと、この演奏に指揮者は立たなかった、というか森さんが自身で吹き振りを行ったのだ。森さんは最近指揮の勉強を本格的に始めているらしい。こんなところにも、彼の意欲と試みが現れているのかと思わせられた。

少し残念なところもないわけではない。森さんが独奏フルートとしてオケの中央に立っての演奏である、今年のニューイヤーでのカデンツァを思い出すたびに、更に彼らしい(?)バッハが聴けるのではと期待したのだが、今回は正攻法バッハというところか。どうも私は森さんに「押しの強い演奏」を期待する傾向にあるようだ(笑)。実際には、森さんは演奏の中でイロイロやっていたのかも知れないが、残念ながら私にはそれを聴き取るほどの音楽的素養が備わっていないようだ。音量の点では、チェンバロとフルートだけに限って言えば、あとほんの少しだけ大きな音で掛け合いを聴かせてくれても良いと思った。もっともフルートで大音量を出すことは、一方で微妙な響きやニュアンスを消すことにもつながる、バランスは演奏者にとって難しい問題かもしれない。

こうして聴かせて貰って思ったことがある。普段のオケのメンバーと室内楽を組むという活動が、音楽家にとってどのような意味を持つのかは計り知ることができないが、例えばパユとベルリン・バロック・ゾリスデンの関係のように、もっと活動するような場がもっとあっても良いのではないかということだ。室内楽というのは残酷な編成である。音楽が精緻で繊細であるだけに、音楽の構造やアンサンブルの密度が聴き手にダイレクトに伝わってくる。ほんの少しの出だしの呼吸の乱れ、弦のボウイングひとつさえアンサンブルの質に影響してくる。演奏終了後、弦楽器メンバーが足を踏み鳴らし森さんを称えている姿を見るにつけ、今回の演奏に対する彼らのスタンスの一端を知る思いだ。しかし聴き手としては室内楽的な完成度という意味においてもう一つ踏み込んだものが欲しいと感じたのは、これも欲張りな期待だろうか。(まあまあ、子どもの日コンサートなんだから・・・)

プーランクのオルガン、弦楽とティンパニによる協奏曲を聴くのは、今回が始めて。プーランクは数年前に生誕100年を迎え、色々なディスクが出回っていたが、聴かずに過ごしてしまった。

初めて聴く曲というのは、どこで盛り上がるのか全く分からないし、音楽の構成などもつかんでいないため、得てしてピンと来ないものだ。この曲は、出だしのオルガンの強奏が決定的な響きとして音楽を支配しているように思えた、不協和に近いオルガンの音は圧倒的で強い印象を残す。管楽器や木管楽器が使われておらず、その全てをオルガンが替りに奏するというものらしい。随所に木管的な響きや金管的な音色を聴くことができ、オルガンの多彩な音色に感心しながら、森の中で宝捜しをしているかのようだ。

オルガンの音量と弦楽器のみの透明感のある音色の対比が見事であり素晴らしい。オルガンとティンパニの掛け合いというのも初めて聴かせていただいた、フムフム・・・。こうして聴くと、札響の弦セクションというのは本当に綺麗な音を出す、ティンパニの響きもよい。現代音楽というほどには難解ではなく、19世紀までの音楽とは全く違った音色を聴くことができ、そういう意味からも楽しめるものであった。

なおこの演奏は、6月23日(日)NHK-BS2で放映されます。

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(雑記)
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子どもの日コンサートに家族で行ってきた、曲目は上記のとおり。うじきつよしが司会をつとめるというので、オーケストラや管弦楽の魅力を紹介する企画なのかと思っていたのだが、肩すかしを受けたような印象だ。事前にろくにプログラムの内容も確認していなかったということもあるのだが、コンサートの対象者と、狙いが伝わりにくい企画であると個人的には感じた。

前半は、足立さつきを中心に据えたオペラのさわりを聴かせるプログラムだ。音楽や構成の仕方そのものは悪くない、知名度の高いものや親しみやすいフレーズのものを選んでいることもあり、楽しめるものだった。指揮者の現田茂夫はかの佐藤しのぶのハズバンドである、どうりでオペラものにこだわるわけである。しかしここで司会のうじきは、道化のような格好で笑いをとるような役割を演じさせられている。登場の仕方からして少し浮いていた。来場者の年齢はうじきのキャラクターが期待するほど低学年ではなかったのではないだろうか。

後半は、音楽と対象年齢を上げた演出ということなのだろう、うじきは道化役を止め普通の司会に転じていた。そこで演奏された2曲がバッハとプーランクである。これにも「うーん」と唸ってしまった。子どもの日コンサートである、子どもたちに「オーケストラの音って凄いなあ、綺麗だなあ、迫力あるなあ、面白いものだなあ」と思わせることが目的だとすると、この2曲が適切であったかは(企画者の意図は理解するものの)今でも疑問である。

編成を考えても、全曲を通してフルオーケストラで演奏しているものが、ビゼーくらいというのも淋しい。バッハは室内楽に近い編成だし、プーランクは弦楽器と打楽器とオルガンという編成なのだ。オケといえばドイツものを、しかもベートーベンやブラームス、あるいはブルマラタコ系をやらなくてはならないというわけでもないというのは分かるのだけどね。オルガンとオケの混成ならば、サン=サーンスの交響曲第3番のMaestosoだけやったって良いと思う、ピアノだって加わるし。

この企画今年が初めてではなく、主催者もマンネリズムに陥らないようにプログラムを考えているのだと思う。毎年楽しみにこのコンサートに来る人もいるのだろう。でも、こういうコンサートはマンネリズムで数年毎に同じ企画であってもいいと思う。

実のところ、家族でいきなり聴きに行って楽しめるオーケストラのコンサートというものは少ない。それだけに、この種の企画というのは、もっと分かりやすく楽しいものであって良いと思った次第である。司会者が道化のようにおどけて笑わすことが「面白く楽しい」わけではない。主役のオケが本来の実力で「面白い」と思わせることこそ重要なのだと思う。演奏会に行かれた方は、どのように感じただろうか。私の息子がもっと小さかったら、全然違う感想を持ったかも知れないが。

とここまで書いてから、肝心のうちの息子(中1)に感想を求めたところ、な・なんと(@_@)「プーランクが一番良かった」そうである!!(書く前に聞けよてか?) うーーん、結局親の思惑とは関係なく、結果的には良い企画であったということなのだろうか(^^;;; 企画された方、演奏された方、そして、うじきさん、ご苦労様でした、勝手なことばかり書いて済みませんm(_ _)m

2002年4月24日水曜日

フェルマータコンサート 山崎 衆&武川 奈穂子

日時:2002年4月22日(月)19時00~21時00時
場所:カフェ フェルマータ(札幌芸術の森 入口前 011-592-9131)
演奏:山崎 衆(フルート)*1)、武川 奈穂子*2)

J.S.バッハ: ソナタ 変ホ長調
ヘンデル: ラルゴ
ドニゼッティ: ソナタ ト長調
ドビュッシー: シリンクス(フルート独奏
フォーレ: シシリエンヌ
フォーレ: コンクール用小品
シュテックメスト: 「歌の翼」による幻想曲
休憩
イベール: 間奏曲
アッセルマン: 泉(ハープ独奏)
ニールセン: The Fog is Lifting
ドップラー=ザマーラ: カジルダ幻想曲
ドップラー: 愛のうた
アンコール
山田耕作: この道
ドップラー: 森の小鳥

山崎衆さんと武川奈穂子さんのデュオコンサートが、札幌芸術の森のすぐ目の前の喫茶店で催された。2階も含めて40人も入ると満席になってしまうような開場であったが、演奏は行く前に考えていた以上のものであった。演奏会が終わった後に誰かと話したくなる演奏と、ひとり静かに演奏を反芻してい演奏とがあるが、今日の演奏は後者のもので、久々に充実したひとときを過ごすことができた。演奏者には感謝の意を称したい。

山崎さんの演奏を聴くのは三度目、武川さんは始めてである。曲目は上記のようであったが、客層(高齢の女性が多い)に合わせてか、親しみやすい曲目が並ぶ。しかし量的には休憩をはさんで2時間、ものすごい密度の演奏ではあった。

山崎さんはご存知の方も多いだろうが、フランスのルイ・ロットという19世紀後半から20世紀前半にかけて製作されたフルート(木管、銀管)を吹く。ルイ・ロットに関する造詣においても日本で屈指の方ではないかと思う。ロットの銀管は現在のモダンフルートと見た目は変わるところがないのだが、音色においては現代のフルートとは少し性格を異にしている。オケの中で音量を確保するために改造されたモダンフルートと木管の響きの間に位置すると言うのは、素人の乱暴な説明だとは思うものの、まあそういう感じである。彼はロットの音色に関しては非常にこだわりを持っていると聞く。

武川さんは、今日始めて聴かせていただいた。楽器は札響のハープを借りての演奏である。彼女は「(ハーピストは楽器の移動が大変なので、私は山崎さんのように)楽器そのもに関しては詳しくはない、むしろどんな音楽を奏でるかの方に興味がある」と話していた。

さて、そういう二人での演奏はバッハのソナタから開始された。ここで山崎さんは木管(初代ルイ・ロット 1871年製作 円錐管)を用いて演奏した。山崎さんの言を借りるならば、「バッハなどの演奏は、本来はトラベルソを使いたいところだが、(1キーシステムであり)指使いが難しい。しかし金属で吹くよりはベーム式(モダンフルートと同じキーシステムの楽器)の木管で吹くことを好む」とのこと。最近では、日本の工藤さんや細川さんを筆頭に木管フルートがブームではあるが。

このバッハは、いい表現ではないと思うが「枯れた風情のバッハ」であった。木管だけあって、きらびやかさよりも明るさとぬくもりのある音ではあるが、さらにそこに独特の音がかぶさる。低音で幾分くぐもったように、中音も独特の音に聴こえるが、それは会場のせいだけではないかもしれない。しかし、その暖かみのある音色は独特であり、その音に慣れてくると、緩やかな音楽の流れに身を任せることが、この上なく心地よいもとなる。ヘンデルのラルゴも、非常にポピュラーな曲、「ウィスキーのCFでキャスリン・バトルが歌っていた曲です」と解説をして始めたが、これもゆったりとした中に、大きな流れを感じさせるような悠久の時間が流れてゆく。一方で、この音色と対比した場合、バランス的にハープの伴奏は少し金属的に響きすぎると感じた。

ドビュッシーのシリンクスは、同じ木管でも円筒管に持ち替えての演奏である。こちらもロットであるが、1900年初頭の楽器であり、先の木管よりも響きが大きくなっているのを聴くことができた。先の円錐管では音量やパワーの点で、多少物足りなさを感じるが、こちらはシリンクスには十分なものである。フルート関係者にポピュラーなこの曲は1912年の作、ドビュッシーの頃は銀管も製作されてはいたが、木管フルートもずいぶん製作されていたとのこと。木管でシリンクスか、と少し意外な思いにとらわれていたのだが、奏でられた音楽には少なからぬ驚きを覚えた。最初の一音からして何かが違うのだ。木管の抑制された音色が、逆にシリンクスの焦がれる気持ちやら悲しさを如実に伝えるかのようで、全身に鳥肌が立つような音楽であった。

ここで、以前にパユの演奏するシリンクスを聴いたことを思い出した。あの時は、パユの硬質の音がサントリーの隅々まで浸透し、水を打ったような冷ややかにして透明な世界が現出して驚いたものだ。今回の演奏は雰囲気が全く違う、パユは全面に感情を歌い上げているのに対し、山崎さんは草葉の陰から想いを寄せるような雰囲気なのだ。これはこれで強烈なシリンクスだ。全く見当はずれな解釈かもしれないが、そういうふうに聴こえた(演奏を受け手がどう勘違いしようと自由なのだ、ワハハ参ったか)

今日は長いな、少し休憩しようか・・・・(^^;;;

さて、演奏の方も休憩をはさみ、次には銀管に持ち替えての演奏となった。銀管とは言ってもやはりこちらもルイ・ロット(初代 No.1850 1873年製)の楽器である。

最初に奏でられた曲はイベールの間奏曲。アレグロの強い音から開始されるのであるが、今までの木管の柔らかな響きとは性格を異にした音色表現で、激しさとスピード感あふれる演奏であった。その音楽表現の差の演出は憎いばかりで、颯爽と吹きぬける風のような演奏であった。ここに至ってはハープとの相性も良い、武川さんの演奏は粒立ち、すばらしくスリリングなデュオであった。出だしの部分の中高音域の音はまだ耳について離れない。

しかし、ここでもなのだ、イベールを吹いてもと言うべきか、山崎さんの奏でるロットは、強く押し付けがましくはない。変な言い方をさせてもらえば、高音域であっても聴いていて疲れないのだ。それは、包まれるかのような音色だったり、漂よう羽衣のようだったり、天から降り注ぐ柔らかな光のようだったり、何と表現したら良いのか適切な言葉が浮かばない、とにかく心地良いのだ。誤解されると困るが、そのように感じることの裏返しとして、表現としての幅が狭いとかいとか、パワー(音量)が足りないとか、芯が細いと言うことなのではない。

ルイ・ロットは現代の「大きな音」の出る楽器と比べると、絶対的なパワー(音量)はないのかもしれないが、「音」にそういう「パワー」が必要なんだろうかと思ってしまう。彼の奏でる音楽は、聴衆を捕らえてはなさない魅力を持ったもので、そこからは「音楽のもつパワー」というものが伝わってくる。その上で、その心地よさに浸ることで、いつまで聴いていても良いと思ってしまう、これを音楽の至福と言わずして何と言おうか。

「音」あるいは「音色」と「音楽」というものを微妙に混同しながら書いているきらいもあるが、雰囲気は分かっていただけるだろうか・・・

ここまで聴いていて気づいたことがある。山崎さんの音楽表現と音に関してなのだ。彼はどちらかというと、音楽の中に自分の主張を込めまくるというタイプではなさそうだ。出きるだけ音楽に忠実に演奏するということに神経を使っているように思える。ビブラートなどが抑制された音色やアクのない音楽の作り方にもそう言うものを感じる。とは言っても一辺倒な音楽であったり、W.ベネットのような端正が前面の音楽でもない。例えば(木管であっても銀管であっても)高音からトリルや速いパッセージで下降してくる音形の品のある表現など、全く持って惚れ惚れする。彼がオケの中でピッコロなどを吹くことが楽しいと感じているようなスタンスと、通じるものがあるのかもしれない(違っていたらメンゴ!!)

私がフルート吹きなので、フルートのことばかり書いて恐縮である。実は曲目も多すぎて、個々の演奏に付いてはさすがに覚えきれていない。またちょっと休もうか。

ハープの武川さんの演奏は聴くのが始めてだし、ハープの生演奏といえば吉野直子さんを二度ほど聴いたことがあるばかりなので、詳しいことはわからない。ただ、ハーピストは舞ちゃんもそうだが、みな美人であるなあと感心。

ヲヤジセクハラ発言はさておき、ハープというのは優雅で華麗というイメージがあるが、彼女の演奏は、粒がしっかりしていて力強い印象。表現の嫌味さが少なく、かっちりとした構成美とともに音楽を作ってくれるように感じた。ソロで演奏された「泉」も、ハープとしては有名な曲であるが、これまたとてつもなく素晴らしいものであった。

という具合に、二時間の演奏はあっという間に過ぎ去ったのであった。アンコールを含めて13曲、それぞれが小品であるとはいえ、非常に盛りだくさんな演奏会で、終わった後は「おなかいっぱい」という感じ。そして改めて、感動をかみしめるのであった(反芻動物かえ?)

アップする前に慎重に読み返してみたが、ちょっと思い入れの強いレビュになってしまっていることは自分でも認める。演奏会の雰囲気が覚めないうちに書いているので、まあご容赦願いたい。

ふーーーーっ、レビュ書くの疲れた、もうよろしいでしょうか。聴かれなかった方や山崎さんを知る方、雰囲気が分かったでしょうか(^^;;
一部の「関係者」の方におかれましては「何書いているんだか・・・まった分かってねーな」と思うことがあったら教えてください。

山崎 衆(フルーティスト)
東京藝術大学音楽学部器楽科卒業 その後ドイツ留学 札響在籍

武川 奈穂子(ハーピスト)
桐朋学園大卒業 パリ国立高等音楽院にてパープ専攻。ISSEKIミュージックスクールハープ教室主催

2002年3月16日土曜日

森圭吾&髙橋聖純デュオコンサート

演奏:森圭吾、髙橋聖純
日時:2002年3月16日(土)18時30~20時
場所:メッセビル6階(札幌)

C.P.Eバッハ: ソナタ E-dur
(フルート:森&髙橋)
ブゾーニ: ディベルティメント
(フルート:髙橋 ピアノ:森 可奈子)
タファネル: 魔弾の射手幻想曲
(フルート:森)
ドップラー: アンダンテとロンド
(フルート:森&髙橋)
(ピアノ:森 可奈子)


何とも贅沢なコンサートだ。札響のフルーティスト二人によるデュオコンサートなのだが、これはアルタスという日本のフルートメーカ-の新作発表にちなんだ無料コンサートだ。

髙橋聖純さんは、昨年札響に入団した若手である。森さんの紹介によると「名前のとおり純な性格」な人で、さらに「若手でこれだけ音が良くて指のまわる奏者はいない」ということである。

森さんはもともとアルタスフルートを長く使われているそうで、管体はプラチナ、メカ系が金勢の楽器を長い間にアルタスとの施行錯誤で自分に合うように作り上げてきたものらしい。一方髙橋さんは普段はムラマツの金製の楽器を使っているが、3日前にアルタスフルート(銀管)を渡され、今回のコンサートにのぞんだらしい。(間違っていたら指摘してください)

これも森さんのハナシによると(森さんは「ザ・フルート」(アルソ出版)にも連載をしているが、想像したとおり話し好き、話し上手である)、「彼の場合はアルタスの中では銀管の方が良い音が出ていた」「楽器を渡されてすぐに吹きこなすことは、プロでも難しいが、彼は難なくこなしている」とのこと。

さて、演奏はというと、森さんは風邪で体調が悪く、さらにはこの演奏会の前に市内の病院でコンサートをこなしてきたという多忙な状況ながら、デュオでは息の合った演奏を聴かせてくれ、非常に満足であった。

ただ、正直に話してしまうと、ここでも今まで私が森さんに抱いていた音とは違う音が奏でられており、意外な思いにとらわれていた。彼の音のイメージは、もっと肉感的で大きな音というような捕らえ方をしていたのだ。それがどういうことなのか、演奏の合間の森さん自身の解説によって、少しだけ明らかになった。彼いわく「フルートは綺麗な音が出るもの、オケに負けないくらい大きな音が出れば良いというわけではない。昔は私も、交響曲の中でも大きな音で吹いていた。ブラームスのシンフォニーを演奏しても、フルートコンチェルトと言われるような具合だった・・・・」と。私が森さんの音としてイメージしていたのは、その頃の音だったのかもしれない。(かなり省略して書いているので、彼の主旨とずれてしまっているかもしれないので、そこのところは各自修正して読んでいただきたい)

それにしても森さんもさることながら、髙橋さんの演奏はまったく素晴らしかった。森さんが褒めるのは決して身内贔屓ではないことを、その演奏から知ることができた。何と言っても音が良い、そして、からだの大きさには全く似合わない(と書くと失礼に当たるだろうが)純にして繊細な音楽を奏でてくれる。ソロのドップラーはまさに聴き入ってしまった。

お決まりのアンコールも1曲だけ演奏してくれたが(ケーラーか何かだったかな?忘れてしまった)、こちらも良い演奏であった。

このように、非常に得をした気分の演奏会であったのに、演奏終了後にハプニングがあった。何とファンと挨拶しているときに、森さんが楽器を(あれだけ改良を重ねて、最近やっと理想の笛が完成したと言っていたその楽器を)落としてしまったのだ!!! 今はただ、一日も早く楽器が直ることを祈るだけである。

2002年1月9日水曜日

音の良いホールと札幌のキタラ

札響のニューイヤーコンサートに桂札幌市長が聴きにいらしており、キタラの音響の良さを説明されていた。いわく、昨年欧州のある団体が世界のホールの調査をした。結果として、調査した中で一番音響が良かったのは札幌のキタラ、次にベルリンのフィルハーモニー・ホール、三番目がサントリーホールであった、とのこと。

調査の詳細が分からないのでコメントできないが、キタラの音響の良さは尾高氏も声高に主張しているし、お世辞もあろうが、キタラで演奏した演奏家が口を揃えていることでもある。

サントリーホールもキタラも、音響設計においては世界的にもおそらく有名な永田音響設計が担当している、音響設計者が同じなのだ。しかし、同じホールは二つと存在しない。私はサントリーホールで何度か聴いた印象だと、サントリーの方が勝っているように思っている。それは特に1階席で顕著である。キタラの場合は、例えばマーラーなどの巨大な曲の音が頭上を超えて飛んでいってしまうように感じる。一方でサントリーの1階席は、音響の波を全身で受けるかのような迫力で、すさまじい音の洪水が飛び込んでくる。演奏家など同一条件での比較ではないので、あくまでも印象でしかないのだが、両者を聴かれた方はいかがであろう。

それにしても、世界一かどうかはさておき、キタラの音響が良いことには同意するものだ。音の良さを物理的に表現することは難しい。音響特性においては、よく残響時間が問題にされる。正確を期すために、「音響技術」(日本音響材料協会)No.101(vol.27 no.1 1998.3)に「札幌コンサートホールの音響設計」と題して、永田音響設計の豊田泰久氏が投稿していたので紹介したい。

ちなみに私は建築音響工学の専門家ではないので用語の解説は省略する。これを読むと、単に500Hz残響時間だけを云々することが、ひとつの目安ではあるものの、それにより音響的な特徴を述べていることにはならないことに気づかれるだろう。

------- 以下、「音響技術」より(本文をアレンジして転載)-------

1.大ホール

御存知のとおり、アリーナ型のホールですが、これは札響およびPMFメンバー他有識者との検討の中で、大阪のザ・シンフォニーホール、東京のサントリーホールの印象が良かったことから、コンペ要項に盛り込まれた。

2.室形状

天井全体の基本的な形状は、ベルリン・フィルハーモニーやサントリーホールと同様の、ホール中央部で最も高い山形形状を採用している。天井は反射音を重視して、15cm厚のコンクリート板となってる。
 ステージ上の演奏者とステージ近傍の客席に時間遅れの小さい初期反射音を分布 させるために、ステージ上部に一体吊り下げ型音響反射板を設置。反射板は、繊維 強化せっこうボードの5枚積層したものを使用。ベルリン、サントリーなども同様 の考え方であるが、本ホールでは小型の反射板をいくつか吊すのではなく、全体が 一体となった大型の反射板としている。これは、低音域にまで効果的になるように 意図したためである。

3.室容積

ホールの諸元は表1のとおり。室形状の検討に当たり、客席全体にわたり有効な初期反射音が得られる形状とすることを最優先とした結果、室容積は28,800m3と大きなものとなった。これ は同規模のサントリーホールなどを上回る数値である。ホールの室容積は、通常10m3/席が望ましいとされている。最近は、室容積 は大きくなる傾向にあり、KITARAも14m3程度と従来の推奨値を上回る数値となっている(表2)。 しかしながら、この値ははホールの形状や客席の寸法などに大きく影響を受けため 一つの目安に過ぎないと考えるべきである。

表1 大ホール諸元

室容積室表面積
 
8,200m2
 
客室数
 
2,008席

気積
 
14.3m3/席
 
最大長
 
60m

最大幅
 
50m

最大高さ(舞台面から)
 
22m

舞台最大幅
 
22.5m

舞台最大奥行
 
13.5m
 
舞台面積
 
275m2
   

表2 類似ホールの室容積、気積の比較
 
ホール名
 
客室数
 
室容積(m3)
 
気積(m3/席)
 
サントリーホール(86)
 
2,006
 
21,000
 
10.5
 
東京芸術劇場(90)
 
2,015
 
25,000
 
12.5
 
札幌 コンサートホール (97)
 
2,008
 
28,800
 
14.3
 
ディズニー・コンサートホール(01予)
 
2,350
 
32,000
 
13.6

4.音響特性

残響時間の測定結果は、空席時2.2秒、満席時2.0秒(500Hz)であり、 大ホールにおいては、空席時と満席時の差が小さいことが際立っている。これは、 客席のクッションを通常よりも厚手のものを採用したためである。
 残響時間の周波数特性も、250から2kHzまで、ほとんど平坦な特性、 63から125Hz域においては、若干長めとなっており、当初の設計のねらいの 通りである。ちなみに、空調騒音については、NC15以下、スピーチ明瞭度指数(STI) は、0.46~0.54でFairの結果を得ている。

◇   ◇   ◇   ◇

最後に、筆者は、ホールというものは、ハード面ばかりではなくソフトがあって こそ成り立つもので、今回はPMFと地元を代表する札響の存在意義が非常に大き いことに言及し、欧米のホールのレジデント・オーケストラの存在に触れた上で、本ホールと札響の今後 の活動に期待を寄せている。

2002年1月8日火曜日

ニューイヤーコンサートを聴くということ

今年は小澤がウィーンフィルのニューイヤーを振るということで話題性豊かに新年を迎えた。今年はまじめに視聴しなかったので小澤のニューイヤーについてのコメントは控えるものの、考えてみるとクラシック音楽の総本山のような場所で、東洋人が指揮を振るというのは、ものすごいことであると思う。クラシックの裏事情には疎いので、どういういきさつで小澤に白羽の矢があたったのかは分からないが、まじめな音楽で大役を果たしていたと思う。 

ニューイヤーコンサートといえば、今年は札響のニューイヤーコンサートを聴きに行った。演奏会で指揮者の尾高忠明氏も「今アメリカでは、一般の人たちも戦って平和を勝ち取るんだという意気込みに満ちている」と語った。日本が平和ボケであるとか、そういうことを書きたいのではないが、この言葉の意味は重いと思う。 

ウィーンフィルのニューイヤーにしても、毎年指揮者は変わるものの、全体的な構成はそれほど大きく逸脱するものではない。マンネリズムと言われようが、繰り返されることに感じる幸せとはあるのだと思う。年末に繰り返し放映される「忠臣蔵」や「紅白歌合戦」「レコード大賞」はたまた「水戸黄門」など、恒例の行事が変わりなく行われるということこそ、変革の中にあって重みを持ったできごとのように思えるのであった。

2002年1月6日日曜日

演奏会の感想2002~札響ニューイヤーコンサート

日時:2002年1月6日
場所:
指揮:尾高 忠明
演奏:札幌交響楽団

モーツアルト: 歌劇「フィガロの結婚」序曲、フルート協奏曲第1番ト長調 K.313
(フルート:森 圭吾)
J.シュトラウスⅡ: 喜歌劇「こうもり」より序曲、「公爵様、ああたのようなお方は」
J.シュトラウスⅡ: 山賊ギャロップ、ワルツ「春の声」
ヨゼフ・シュトラウス: ポルカ・シュネル「憂いもなく」
F.レハール: 喜歌劇「メリー・ウィドウ」よりメリー・ウィドウ・ワルツ、ヴィリアの歌
J.シュトラウスⅡ: ポルカ「雷鳴と稲妻」、ワルツ「美しき青きドナウ」
(ソプラノ:名古屋 木実)

札響のニューイヤーコンサートを聴いてきた。生でニューイヤーを聴くのは初めてであり期待をもって出かけた。チケットも早々に売り切れただけのことはあり、客席もほぼ満席状態。ステージの上には花が添えられており普段とは違った雰囲気で華やかである。

開始早々はモーツアルトの「フィガロの結婚 序曲」。速めのテンポで軽快に進みまずまずの出だし。個人的には金管群にもう少し祝典的な華やかな音色を期待したいところであったが、冒頭なのでこんなものだろうか。

続いては、主席フルート奏者 森圭吾氏によるモーツアルトの「フルート協奏曲」。これは私としてはかなり期待していた。しかし、最初に森氏の音が出てきたときには少々意外な思いにとらわれた。席は3階席であったのだが、音が届いてこない印象を受けた。1楽章を過ぎると、オケとソロのバランスにも慣れ音楽を楽しむことができたのだが。それでも普段のオケの時に私が森氏の音だと認識していたものと雰囲気が違うように感じた。

私は定期会員でもないし、それほど多くの札響の演奏に接しているわけでもない。また、森氏のソロやCDを聴きこんでいる訳でもないが、先入観念として私が抱いていた森氏のイメージというものはあった。だから森氏がモーツアルトをどのように演奏するのかに少なからぬ興味を抱いていた。その期待は、良いほうにも悪いほうにも裏切ってくれたと言えようか。音量の点で多少の不満はあったものの、彼の音はモーツアルトの音楽に非常にマッチし、繊細にして美しくきらびやかなものであった。

その上で、彼独特のモーツアルトをも聴かせてくれたように思う。圧巻は1楽章のカデンツァであった。非常に長い演奏で思わず惹きこまれ聴き入った。今までどこでも聴いたことがないようなユニークなものであったように思えた。具体的に指摘できないのがもどかしいのだが・・・。ただ、あれ程のカデンツァを披露するのならば、もう少し押しの強い演奏をしてもよかったのではと考えるのは勝手な希望だろうか。

先に音量の点で不満が残ると書いた。私の聴いた席が悪かったのか、それとも耳が悪いのかは分からない。フルートの音というのは繊細なように思われがちだが、2000人ほどの大ホールでオケがバックであっても朗々と鳴り響くものだと思っている。森氏のテクニックからすると、それを満足させることは、さして難しいこととは思えない。今回の演奏が尾高=森のモーツアルト解釈であるのかは、私にははかり知ることができない。ただ、プロの演奏表現の多彩さをかいま見た思いがする。

休憩をはさんで、ワルツや名古屋木実さんのソプラノは、前半とは打って変わってリラックスした雰囲気で演奏会は展開された。(最初から尾高さんはリラックスしていた、緊張していたのは私だけかもしれない)

驚くべきは名古屋さんのソプラノである。圧倒的な声量と広がり、美しさ。人の声に生で接するたびに私は驚いてしまうが、今回は本当に驚いた。これがオペラ歌手の実力というものなのだろうか。たとえば「公爵様、ああたのようなお方は」の場面での歌いなど、私はオペラは全く見たことがないが、彼女の周りの舞台に急にセットができあがり、オペラの一場面を彷彿とさせるような雰囲気さえある。

一流の演奏家というのは、たった一音発するだけで会場の雰囲気を一変させる力を持っている。私はそれを目の当たりにすると、魔法を見るがごとくの思いがする。その上彼女が歌うと華が舞う、いやはや素晴らしいの一語に尽きた。

指揮者の尾高氏もサービス精神が旺盛である。意表を突いて指揮を始めたり、演奏者にアトラクションの役割を演じさせたり、トークで突っ込みを入れたりと、始終ニューイヤーを意識した演奏会つくりであった。ラストはお決まりの「ラデツキー行進曲」、拍手喝さいで演奏会を終える事ができ幸せであった。ニューイヤーコンサートというものはいいものである。

余談ではあるが、途中まで聴いていてはたと考え込んでしまったことがある。それは、尾高氏の意図と会場の温度差が微妙にずれていること(つまり聴衆が彼の企みに乗り切れない、乗ることに慣れていない)を感じてからなのだが、私は何と気難しく音楽を聴いているのだろうかと思ってしまったのだ。

今日の演奏はいつもより良い、悪いだの、あそこで何故こんなテンポになって、打楽器はあんな叩き方になるのかなどなど・・・何かをモチーフとしてその重箱の隅のような差異を確認して悦に入っているだけなのではないのか。音楽というのは、本来楽しみや慰めのためにあるものだ。難しい解釈や勉強のために聴いているのではない。音楽理論や歴史のイロハも知らない人間が、今日の演奏が良いとか解釈が気に食わないとか小賢しい事を述べる。ちょっと違うのではないかと思うのだ。

そう考えると、なんだか急に音楽レビュを書くという行為がばかげた酔狂のようなことに思える、というと考え過ぎだろうか。

2001年12月20日木曜日

MOSTLY CLASSIC 12月号に札響の特集

MOSTLY CLASSICの12月号に「札響の英国ご機嫌よう」という特集記事が掲載されている。かなりのページをさいての紹介である。

 「札響旅日記」と称する記事は、自らのHPも作成されている真貝(ティンパニ)さんが文章を、写真は荒木(チェロ)さんほかが撮影されたもので構成されている。両氏のHPで英国公演の様子を読まれているファン諸氏には目新しいものはないかもしれないが、こうして記事になっているものを読むとまた格別ではある。指揮者尾高忠明や札響の白鳥専務理事のインタヴューなどもあり読み応えがある。

 今回のツアーは米国のテロでもめたほか、金銭的にもイロイロな問題を抱えているのだろうとは思うが、海外での演奏が、札響のひとつのステップになったことは間違いないのだろうと予想する。田中良幸(MOSTLY編集長)の記事によると、「ホルンのズッコケぶりも目立った」らしい。もっとも彼はそれを否定的に書いているのではない。尾高の言葉にもあるが、この演奏を通して札響が自分たちの音や演奏をどう見つめなおしたのかということが一番重要なのだろう。

 残念ながら、英国公演後の札響の演奏をまだ聴けてはいないが、そこに何か違った音を聴くことができたとしたら、こんなにうれしいことはないと思う。実際に金曜日の定期公演を聴かれた方はどういった感想をもたれただろうか。

2001年12月15日土曜日

第54回 三岸好太郎美術館コンサート クリスマス賛歌:グレゴリオ聖歌からマルタンまで

  • 日時:2001年12月15日
  • 場所:三岸好太郎美術館
  • 指揮:
  • 明楽みゆき(ピアノ) 徳永ふさこ(ソプラノ) 山崎 衆(フルート)
  1. グレゴリオ聖歌 聖マリアの祝日のための ミサ曲9番
  2. C.グノー アヴェマリア
  3. L.ルッツィ アヴェマリア
  4. G.Ph.テレマン 無伴奏フルートのための幻想曲より第5番 ハ長調
  5. F.マルタン クリスマスの3つの歌
  6. モーツアルト 微笑みつつ、静けさが/すみれ
  7. シューベルト 笑いと涙/あなたは安らぎ/ズライカの歌
  8. グレゴリオ聖歌 アヴェマリア/ひとり児がわれらのためにお生まれになった
  9. G.F.ヘンデル 心地よい木陰・私は涙
  10. キャロル まきびと羊を/荒野のはてに/もみの木

普段は声楽系のコンサートに行くことは全くないのだが、知り合いから誘いを受けコンサート会場の美術館に足をのばしてみた。三岸好太郎というのは北海道が生んだ画家で、美術館に展示されている絵を眺めると、フォービズムの影響を受けたルオー風(?)の絵を描いた画家のようだ。この小さな個人美術館の展示室を演奏会場としてのコンサートは、実に54回目を数えることをパンフレットで知った。

今回は、徳永ふさ子さんというソプラノ歌手によるクリスマスにちなんだ曲が中心のコンサート。前半には彼女が学んだ大学で後輩に当たる、山崎 衆さん(札響副首席フルート奏者)によるソロと徳永さんと山崎さんにピアノ伴奏をまじえたマルタンの曲も演奏されるなど、小さな美術館でのリサイタルにしては、充分過ぎるほど聴きごたえのあるものであった。

最初に書いたように、声楽にはなじみがない。したがって、ソプラノというとアタマのてっぺんから高い声がビンビンと響いてくるというようなイメージを持っていたのだが(失礼!)、身近で接したソプラノ奏者の声は、そんな陳腐な印象を変えてくれるに充分なものであった。徳永さんのソプラノは、暖かな歌声の中にある種の芯の太さ強さを感じさせるようなもので、決して刺激的に響いてはこない。ふくよかに包まれるような歌声で独特の魅力がある。選んだ曲目のせいなのか、あるいは彼女の人柄なのか、聴きながら温かなものが体の奥底にともるような、そんな感じの演奏であった。(演奏の合間にはいる彼女の語りの チャーミングなことときたら)

それにしても声楽の迫力というものには改めて感心させられる。ソプラノ歌手のいったいどこからあのような音量と声が出てくるのだろう。全身から放射される音楽というものに打ちのめされると同時に音楽の基本はやはり歌にあるのかと思い知らされた。

曲目もよかった。グレゴリオ聖歌などの敬虔なる曲から、おなじみのアヴェマリアをはさみながら、モーツアルト、ヘンデルという曲目が並ぶ。モーツアルトの「すみれ」での表現も素晴らしく多く親近感とアットホームな雰囲気の中で、楽しみと慈しみを与えてくれるひと時であった。

一方、山崎さんのフルートは、彼の説明によると130年ほど前の木管を使用してのテレマンであった。山崎さんは知る人ぞしるルイ・ロットの愛好家である。彼の奏でるテレマンは、挑発的に放出するものではなく優雅に奏でられ、綿毛のような心地よさを与えてくれた。木管の持つぬくもりなのだろうか、金属の楽器からは聴くことができないような温度と肌触りの演奏であり興味深かった。

徳永さんと山崎さんそして、ピアノの相楽さんによるマルタンも楽しめる演奏であった。山崎さんは、この演奏では銀製の楽器に持ち替えての演奏。マルタン(1890~1974)は名前は知っているが親しみのない作曲家である。パンフレットによると12音技法の調整音楽とあるので現代音楽に近い。しかし、フルートと声楽のハーモニーは、決して理解しがたいものではなく、適度な緊張をはらんだスリリングな音楽であり、本プログラムの中で異彩を放っていた。

声楽とフルートという組み合わせが、ポピュラーなものなのか不勉強にして知らないのだが(ドニゼッティの「ルチア」にフルートとソプラノの掛け合いがあるが・・・)、悪くはない組み合わせであると思った。

今回のコンサートは徳永さんの生徒たちなのだろうか、合唱をしている人が多かったように思う。美術館でやるのでミニコンサートかなと思って行ったのだが、決して内容的には普通のホールで行われるものと全く遜色のないものであった。

2001年10月22日月曜日

札響の台所事情

10月19日(金)の朝日新聞夕刊 道内ページに、「札響 不況の波紋受け財政深刻~細る企業・自治体からの支援」という記事が掲載されていた。
札響の深刻な財政難の原因として、企業や自治体が不況の影響で文化事業に予算をつける余裕がなくなったこと、札響を育ててて来た北海道拓殖銀行がなくなったこと、また定期演奏会の客員動員率もホールのキャパの6割程度で、採算ラインに届かないこと、定期会員数も減少していることを挙げている。札響の赤字額は2000年単年度で5200万円、累積赤字で3億6千万円にものぼるらしく、また「札響基金」の利息も落ち込み財政を圧迫しているという。さらに加えて札幌市からの補助金も減額の方向にあり、まさに「一般企業なら破綻してる状況」と札響白鳥専務理事の言葉を引用している。
私もクラシックのHPを作ってはいるが、それほど演奏会に足を運べるわけではない。KITARAでの演奏会は開演時間が19時と比較的遅めの公演になってはいるものの、仕事を終えて演奏会に行くとなると18時くらいには仕事を切り上げなくては到底間に合わない。行きたくとも急な仕事や宴席が入ってしまい、やむなく断念せざるを得ないことも度々である。
そんな状況だから、年に数度KITARAに行かれれば幸せと考えなくてはならない。その数度しかない機会を、外来オケやその他の演奏と天秤にかけながら札響に行くというのは、やはり、ある程度の愛着がなければできるものではないと、思うのだ。ましてや、一般のそれほどクラシック音楽に親しんでいない層をひきつけるには、それ相当の努力が必要かもしれない。例えば札響定期に来る客層と、外来の有名オケに来る客層(客層という言葉は誤解をまねきやすいが、あえて使うと)は、かなり異なっていることにも気付く。
ただ、自分たちの街にオーケストラがあるということは、大いに自慢してよいことだと思うし、また誇りに思う。そして何よりも大変贅沢なことであるというふうに私は思う。オケのない都市では、生のオケを聴く機会はなかなか得られないことを思うとなおさらだ。
どうしたら、札響という事業が成立するのかを考えることは難しい。札響のチェロ奏者 荒木さんのHPでも「札響定期を満席に」キャンペーンを行ったり、その具体的方策をBBSで議論したりしているが特効薬はみつからない。
ただ、何とか札響には頑張ってもらいたい。今回の英国公演も札響には一つの大きなステップとなる重要なイベントだろう。ひとつだけ確実にいえる事は、札幌から札響がなくなったら、それは想像もつかないくらい寂しく、取り返しのつかないくらい大きな損失であるということだ。なんとしても、それだけは避けねばならないと思うのだ。


2001年9月22日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 北海道定期を聴く

日時:2001年9月21日
場所:札幌コンサートホール(KITARA)
グスタフ・マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
グスタフ・マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
指揮:井上 道義
ソプラノ:下原 千恵子
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団

日フィルの第25回北海道定期札幌演奏会に行ってきた。この前の札響の時と同じような(もっとひどい)悪天候。偶然今日の演奏会のあることを知り、仕事を途中で切り上げ駆けつけた。天気のせいなのか客の入りは7割くらいといったところだろうか。

日フィルも井上さんの指揮も聴くのが始めてであるので期待をもってでかけた。演奏は、ソプラノの下原さんもすばらしく、演奏の出だしをあでやかに彩ってくれた。ソプラノの声の凄さに改めて感心。すばらしい。もっと聴きたかったが、演奏時間16分というのはちょっと短すぎなかったろうか。

休憩をはさんでの「巨人」は、これもダイナミックにして若々しさを感じる演奏だった。ラストへ向けての盛り上げも素晴らしく、コーダにとてつもないクライマックスを用意するあたり、井上さんはけっこうショーマンだなと思った。

金管群を聴くと、これは札響よりもうまいと感じたのだが、このあいだの札響の弦セクションの音を思い出すと、比較することに意味があるのかは不明だが、札響の弦てすごく美しいのだと思った。日フィルが悪いというのではない、誤解しないでもらいたい。

ただ、今週は体力的にも精神的にも疲れていたせいか、最後まで演奏が体に浸透してくれなかった。何度か、鳥肌立つような部分もあったが、心から震撼できなかった。ブラボーの声はあちらこちらからあがっていただけに、残念に思った。

こういう重量級のプログラムの後にはアンコールはいらないのだが、会場の誕生日の人に向けて「ハッピバースデー・ボレロ版」というものを演奏した。これは、井上さんがよくやるものなのかは分からないけど、洒落ていて素晴らしかった。ここでやっと緊張が解けた感じ。

本当はもう少し細かなレヴュを書きたいが、適うだろうか?

蛇足になるが、今日は2階CB席7列という絶好のポジション(当日券)。斜め前で、女性が演奏にあわせて体を動かしたり、ティンパニをたたく動作を繰り返していたけど、女性でもいるんだなあ、そういう人。



2001年9月9日日曜日

尾高忠明指揮 札幌交響楽団のシベリウス

札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子

シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43

最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。

どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。

結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。

さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。

しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。

私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・

竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。  

最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。

打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。

金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・

木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。

尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。

しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)

シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。

一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。

ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。

そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。

シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。

そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。

2001年4月30日月曜日

尾高&札幌交響楽団&シャンドス

レコード芸術に"傑作!?問題作!?"(片山杜秀)と称する頁があるのだが、5月号で2月12日に紹介した札響のシャンドス盤が取り上げられてる。

内容は尾高氏とこの盤の選曲のこと、そして武満氏の音楽と細川俊夫氏の音楽に関することである。武満の音楽を理解するキーワードのひとつとして「死と水のイメージ」があるとした上で、今回選曲された武満の「波の盆」もそのイメージを踏襲するものであり、また細川の「記憶の海へ ヒロシマシンフォニー」も、武満の軌跡を辿っていると評する。

「死と水を巡る想念が、武満の旋律的に豊穣な『波の盆』の音楽から細川のクラスター的に豊穣な《記憶の海へ》と伝承されてゆく場に立ち会っている心持になってくる」と片山氏は書く。

現代音楽にうとい私には、細川がポスト武満の最右翼ということさえ知らなかったが、改めてそういう観点からこの盤を聴いてみるのも面白い。畳み込むような音響と独特の色彩感のある曲だが、そこから「海」を感じ取ることができるかは、聴き手のイマジネーションに委ねられる。私はどちらかというと、屋久島の杉のような巨大な樹林を感じたのであるが・・・・

蛇足になるが、この曲にしても、先のマーラー8番にしても「浄化」「再生」というのは、昨今の政治状況に限らず魅力的なテーマなのだなと改めて妙に得心するのであった。