2002年12月30日月曜日

【風見鶏】「自衛隊の統制者は誰か」

12.30 朝日新聞社説

朝日新聞の社説で知ったのだが、「防衛庁の統合幕僚会議が自衛隊の縦割り運用の弊害をなくすことをめざした改革案をまとめた」らしい。3自衛隊をとりまとめる制服組の最高指揮官となる統合幕僚長(仮称)を設け防衛庁長官の命令を一元的に受けるのだとか。

これに対し朝日新聞は「憲法に沿って、自衛隊が役割を広げることを支持したい」という主張をしている。国会の役割や情報の公開を充分に行った上でと条件をつけてはいるが、昨今のテロや世界情勢を鑑みて、自衛隊を「使える自衛隊」とする措置が必要としているわけだ。

そうか「天下の朝日」も、結局はなし崩し的防衛力整備、有事関連法案に賛成しているというわけか。私だって北朝鮮の脅威などを見てしまうと、あるいは中国や韓国の動向を考えると、防衛力の曖昧な主権国家というものが成立するのかという疑問にぶち当たってしまう。

しかし、世の中の政治家には「拉致被害者は軍隊を派遣してでも取り戻す」と声高々に主張する輩もいらっしゃる。「(自衛隊や派遣問題につては)現在の憲法のもとでは、詭弁に詭弁を重ねてきているわけです」と大学で学生相手に講演なさる政府高官もいらっしゃる。そういう方々には賛同できないんですよ。

なし崩しは困ります。知らないうちに、マスコミをはじめ世論を防衛力強化に導くようなこともやめてもらいたい。幼稚な言葉遊びに近い議論ではなくて、あるいはアレルギー反応のような反戦、改憲反対論でもなく、主権国家としてのありかたを考える必要があるのぢゃないでしょうか。

それにしても「憲法に沿って~支持したい」ですか。もはや、憲法精神の砦が脆くも瓦解していることを改めて気付かされる年末でした。



HIYORIみどり 「でも、世界第三位の防衛予算を使っている自衛隊が、命令系統がはっきりしないばかりに役に立たないぢゃあ、目も当てられないわよね」

KAZAみどり 「なんともいびつな国よね。防衛論争をする以前に、主権国家としての意思、世界の中での日本の立場、昨今の世界的な覇権主義争いに対する日本の戦略や哲学、そういうものが欠けていると思うわ。やっぱりアメリカの子分
なわけかと・・・」

HIYORIみどり 「いくら大義を掲げても戦争では人が死んでゆくわ」

KAZAみどり 「イラクの飛行禁止区域では相変わらず米英が空爆を続けているようね。民間の人も巻き添えになっているわ。たまたま通りかかった人が、上空彼方からのミサイルで吹き飛ばされる・・・、何とも理不尽だわ。」
HIYORIみどり 「10月からはじめた新聞ウォッチだけど、明るい話題はほとんどなかったわね」


2002年を振り返る・・・か

年末であるので今年一年を振り返るという番組が、あいも変わらずTVや新聞で繰り返し報じられている。そういう番組に教えていただくまでもなく、今年は不本意にして激動の一年だったと言えるだろう。日本の悪さが一気に噴出してしまったという気さえする。

ムネオ疑惑や議員の秘書給与疑惑といった、どちらかというと小粒の瑣末的なスキャンダルに隠れて、日本はわたしたちが意図しない方向へと舵取りをしてしまっているような不安に襲われる。それは日本だけではなく世界も同じだ。911テロを経験した世界は、アメリカ帝国主義と各国の覇権主義が衝突をはじめたと言ってよいのかもしれない。ロシアの西側への転向、中国の台頭など世界地図を塗り替えるような兆しも見えてきている。

日本はあいも変わらず経済的な不況、あるいは政治的な膠着状態から脱皮することができないでいる。構造改革が必要なことは分かっていても、複雑にからみあった利権と保護規制の網から自由である者など少数でしかないという現実を考えると、構造改革を肯定することは自らを否定することに繋がるという矛盾を抱えてしまっている。抵抗勢力は誰彼ではなく自分自身なのである。

年末のTVの街頭インタヴューを聞いていると「来年こそ景気が良くなって欲しい」「なにか元気がでる話題が欲しい」「子供たちが幸せであれば良い」との答えが返ってくる。でも、ちょっと待って欲しい、景気さえ回復すれば皆元気になって幸せになるのだろうか。過去を考えるとYesと答えるだろうし、ちょっと思い馳せればNoとも答えるだろう。

景気が良くて給料(使える会社経費も含む)は高いけれど、仕事も忙しいため日々反吐が出るほどに仕事をし、たまの休日には皆が目の色を変えてモノや消費やサービスに走るという状況が幸福な風景とは思えない。職住近接とか、まことしやかなキャッチフレーズで都市が無秩序かつ野蛮に開発されてゆく状況も好ましいとは到底思えない。

極論かもしれないが、戦後の朝鮮戦争によって特需景気の恩恵を得たように、米英による中東戦争のため日本の景気が例えば一時的に良くなったとして、それをもって幸福だと感じることができるだろうか?

では、何が幸福かというビジョンもその実描けないでいる。今の大人たちが子供たちに希望を語ることができなくなってしまったのだ。政治にも希望を託せるような状況ではない。小泉なきあと石原東京都知事に期待する風潮まで醸成されつつあるというのだから、イハハヤ・・・・なんとも酷い世の中だ。

憂鬱になる材料は山のごとしだ。来年とて、これらに光明がさすとは全く考えられない。自分ではどうにもならないことを考えて鬱々とするよりは、いましばらくは音楽でも聴いて呆けていた方が、やはりマシというところか。

ゲルギエフ/ミヤスコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ニコライ・ミヤスコフスキー( 1881- 1950 )
ヴァイオリン協奏曲 二短調 作品44

ヴァイオリン:ワディム・レーピン
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)

ミヤスコフスキーという名前さえ初めて聞くのだが、CD解説によると「ソヴィエト連邦時代前半のロシアにおける、最も才能豊な作曲家のひとり」とのこと。生涯27もの交響曲をものにしながら無名であるとは、歴史に埋もれた作曲家ということだろうか。「作風はいずれか言えば保守的で、スラヴ的な後期ロマン派と呼ばれるべき位置にとどまった」作曲家、ということが20世紀前半の作曲家でありながら、音楽史的にも演奏的にも不遇な位置に留めている理由なのだろうか。

何度か聴いてみたが、音楽に深刻な響きは聴かれず躍動感と明るさに満ちている。作曲年代が1938年であることを考えると、少し楽天的過ぎないかという感じを持たないわけでもない。例えば一楽章のテーマの繰り返しにしても、少し聴いていると飽きてしまうような感じがなきにしもあらずだ。

とは言っても、音楽がいつも時代を背負っていなければならない理由などどこにもないし、逆にそのことが音楽を聴く上での重荷になってしまうことだってある。ここは素直にミヤスコフスキーの音楽に耳を傾ける方がよいのかもしれない。

先にも書いたように、暗さや激しさの少ない曲であるからゲルギエフのアクのようなものも、この演奏からはあまり聴こえてこない。(それでも充分にアグレッシブではあるが)

一方でレーピンのヴァイオリンは、あくまでも堂々とヴァイオリンとしてのメロディアスな雰囲気や技巧をいかんなく発揮しており、聴いた後にそれなりの満足感を得ることはできる仕上がりになっている。1楽章に挿入される技巧的なカデンツァも聴き所である。2楽章のメロディアスにして抒情的な音楽も非常に印象的だ。オケとヴァイオリンの掛け合いも、ゆったりとした気持ちにさせてくれる。

それでも、首を傾げてしまうところがないわけでもない。というのも、全体的にどこかしら中途半端な印象を受けてしまうのだ。和音やフレーズの展開にしても、どっぷりとロマン派しているようでいながら、ある瞬間に現代的な断片をふと聴かせたりする。そういうところが、何かとってつけたようでしっくりとこない。それが不安を象徴する手法では全くないというのだから、何か音楽に落ち着きがないように思えてしまうのだ。

最後のフィナーレにしても、いかにも的な終わり方であるところが、かえってわざとらしく感じられてしまう。というか、この時代作曲していて、この音楽?と やっぱり思ってしまうのであった。ロマン派の時代に作曲されていれば良かったか、という問題でもないとは思うのだが・・・、なかなか呪縛から逃れられないと改めて思うのであったよ。

演奏はよいと思うので、従来のヴァイオリン協奏曲に飽いてしまった方には、お薦めかもしれない。

2002年12月29日日曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ペーター・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35
ヴァイオリン:ワディム・レーピン 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。



レッスンメモ

フルートの演奏を聴きに行ったり、個人練習をしたり、あるいは知人とアンサンブルをしたりと、それなりにフルートに触れる生活はしているのだが、腕前の方はまったく進歩なしという感を受けるこのごろ。行き詰まりも感じているので、今日は久々にレッスンを受けてきた。

前回のレッスンからは5ヶ月もあいてしまったのだが、前回やったプラヴェは時期尚早であると自己判断し、指に問題のない曲を選んで見ていただくこととした。(個人練習でもムリ目の曲は、しばらくやらないことにした)

ドビュッシー「夢」

私はフランスものというか、とくにドビュッシーのような、どこかとっかかりのつかみにくい曲が苦手である。聴いている分には、なんて気持ちの良い曲だろうと思っていても、いざ吹いてみるとぎこちない表情にしかならずに、うんざりしてしまう。

この曲は、もちろんピアノソロによる曲で、題名のとおり夢見るような緩やかさに満ちた曲だ。以下はレッスンでの指摘から記憶する範囲で記しておく。

2小節ピアノ伴奏の後にフルートが入るが、8小節単位の大きなフレーズを考えながら、スラーを滑らかに吹くように心がけたい。体で拍子を取るようなことをせずに、ゆったりとした気持ちで。

11小節の memo P から mf に至るクレッシェンドは大切に。15小節目からの下降音形は大きくディミヌエンドをかけて。楽譜を良く見ると、同じようなフレーズが8小節カタマリで3度登場するが、最初はG(mf)、次にA(memo P)、最後がC(pp)となっている。三連譜も急がずにかつ、前の四分音符と八分音符のフレーズに変なアクセントも付かないように気をつけること。

22小節目からの四分音符二つのスラーのかたまりは、比較的はっきりとしゃべる、poco cres. piu cres. を意識して、26小節目から27小節目の高まりに向かってしっかりと盛り上げる。28小節目のピアノ を大事にクレッシェンドをかけて再びフォルテに。ここで Fis-Cisの音だけが大きくならないように気をつける。

30小節目の subito P とは「突然にピアノに」という意味、ここから40小節目まではピアノを維持する。40小節目からクレッシェンドをかけたら、逆にその後はフォルテの強さを維持、音の強さがコロコロ変わらないように注意したい。

59小節目から移調し、Un poco animato とあるように、少しテンポを速めて軽やかに吹く。59と63小節目に現れるE-Cのスラーを綺麗に。64小節目の終わりからは高音域で緊張を維持、68小節目のH2から移調した69小節の頭のG3は一番の聴かせところ。スラーでG3に至るが、先ほどと同じように subito P という感じで。

76小節目から再び最初のテーマにもどるが、87、89小節にあるクレッシェンドをしっかり表現すること。

最後の Piu lento は、スラーの中で柔らかなタンギングで音を表現する。しかし例えば94小節のように3、4拍の四分音符と三連譜はスラーであることに注意。最後は消え入るように。


フォーレ「子守唄 Op.16」

これもフランス系の曲で、原曲はピアノとバイオリンのものらしい。ランパルの名演でも有名だと思う。6/8拍子のこの曲も、リズム感のない私には、どうもぎこちないものになってしまう。さてこれもレッスンの指摘から。

四分音符と八分音符の音型の場合、八分音符が短くなりがち、みっつのきざみをしっかり押さえて。3小節目の頭の八分音符も短くなり過ぎないように。次のスラーのない部分は軽いタンギングで。この曲も4小節でひとつのカタマリであることを意識して、大きなフレーズを感じて吹く。

音はどちらかというと最初は明るめにとること。15小節目からはクレッシェンドしてmfの強さに至ったら、その強さをきちんと19小節目まで維持すること。

24小節目の低音によるfの表現はしっかりと暗めに、しっかりおなかで支えて、28小節目からのpppによる同音型は明るく。

49小節目のアウフタクトから始まるフレーズにおいて、50小節目と52小節目に表れるスラーの中のアクセントはドキッとするような感じで、ピアノの中の動きなので強くなり過ぎないように注意。

83小節目から始まるフレーズは、テーマと同じリズムだが音が少し変わっているので、特に84小節目のG-Es-Gのところなど、軽く遊ぶような感じを出す。88-89小節、90-91小節のクレッシェンドとディミヌエンドをしっかりと表現する。

96、100、104小節目の頭はピアノが和音終わるところ、次に入るところはすこし時間をとって拍の裏から余裕をもって入る、決して急がない。

とにかく小さな拍で曲をとらえると、変なアクセントがついてしまう。大きなフレーズをとらえてゆったりと歌うようにしたい。

こういう曲をセンスよく、さらりと吹くのって、本当に難しい。

体を動かさない練習

吹いていて体や膝を動かしすぎる、体で拍を取るクセがある場合は、フルートの足部管を壁にあてたまま(あるいは壁の入隅に当てて固定したまま)、曲やT&Gを練習してみると良い。

やりにくいと感じるかもしれないが、今までできなかったことが、意外と出来たりするものである。

そう言われたので、家に帰ってからやってみた。すると壁に足部管を固定していることにより、楽器全体が固定されることになるため、楽器がぐらついてしまうような運指が比較的楽に出来ることに気付いた。

例えば中音のCをはさむスケールなどは指も楽器がばたついてしまいアンブシュアが固まらないのだが、この練習をすることで安定した音が得られるのである。いかに楽器(唇とフルートの角度を)を動かさないことが重要か改めて知った次第。

ハーモニクス(倍音)の練習

倍音によるソノリテを練習すると、高音域でのピアニッシモの表現などが非常に楽になる。ハーモニクスで吹いている場合でも、できるだけ雑音が入らないように、そのままいつでも曲が吹けるような気持ちで音を作ること。

特に、私のようにアパチュアが広がりすぎる傾向のある人にはハーモニクスを用いた練習は効果的である。この練習は即効性があるので、試してもらいたい。

実際、数分間ハーモニクスの練習をしただけで、C4が比較的やさしく出せたものである。いつもは、音にならないのだが。

これも、練習のはじめにまずハーモニクスをやってから、ソノリテなりT&Gに取りかかると、高音域、低音域とも音に張りが出ることに気付いた。

アキヤマの14k(No.110)

先日のアキヤマの試奏会でも展示されていた14kの楽器を先生は現在借りているとのこと。今までの金はどうしても気に入らなかったのだが、この楽器は特別、金もきちんと作ると魅力的だとおっしゃる。アキヤマフルートは名器ルイ・ロットを目指して試行錯誤しながら少量生産を行っているメーカーである。

私もアキヤマの14kと先生のいつも使われている初代ロット(No.1850)を少しだけ吹かせていただいたが、凛として芯のある伸びやかな音は吹いていて快感に近いものを感じる。

ちなみに楽器の重量がどのくらいあるのか、料理用の秤で計ってみたところ、以下のような結果となった。


  • ルイ・ロット(No.1850) 約 380g
  • ヘインズ(No.43668) 約 390g ~ 私の楽器
  • アキヤマ 14K (No.110) 約 450g


450gといえば、シルバーでも管厚の厚い楽器程度の重量、一般的な木管よりは軽い重さだろうか。先生の使われているロットは本当に軽いことが分かる。しかしロットは、キーも非常に薄くできている。アキヤマもロットのキーの形を模したティアドロップ型だが、見た目も押さえた感じも厚い。まぐろの刺身とヒラメの刺身くらいの厚さの違いといえば分かりやすいか?(>かえって分かりにくいかも)。楽器の重量は管の重さだけではないため、先の重量を単純に比較はできないかもしれないのだが・・・

アキヤマは私のヘインズと比べても、低音のキーの押さえやすさや音の出しやすさ、それに何と言っても音程の良さが際立っている。製作者の秋山さんが「本家のロットに勝てるのは音程です」と言うだけあって、ロットを使われている先生をしても「こんなに楽なのか」と思うとのこと。非常に魅力的な楽器であることは認めざるを得ないのであった。

アキヤマフルートは、札幌のプロフルーティストでも知名度は低いのではないかと思う。大手楽器店での販売を目指していない楽器であり、好きな人が直接工房に買いに行くという楽器であるだけに、希少価値もあると思う。

私の知人(アマチュア)でも既にアキヤマを所有している方、あるいは注文した方がいる。うらやましくも、良き選択をしたと思うのであったよ。


レッスンを終えて

レッスンを受けていて思うのだが、先生が試しに同じ曲を吹いてくださるが、どうしてそんなに音から表現が出てくるのかと嘆息してしまう。なるほど、そこはそういう風に歌うのか、そこは、そんな風に色を変えるのかと、初めて聴く曲でも、昨日今日練習した曲でもないのだが、新たな発見があるのであった。もっとも、それを直ぐに自分のものとできるほど、私の音楽センスは良くはなく、さらにフルートの運動神経も鋭くはないのであったよ、トホホ・・・。そして、そういう雰囲気を文章にするのは、かなり至難の業であると思うのであった。

それにしても、練習の仕方ひとつとっても、ワンポイントのアドバイスの適切さには恐れ入るのでありました。さて、今年もこれでオシマイです。皆様良いお年をお迎えください。




2002年12月28日土曜日

辺見庸:永遠の不服従のために

サンデー毎日に連載された「反時代のパンセ」をまとめた単行本が出版された。

辺見庸氏の文章を読むことが、この時代幸福であるか、あるいは不幸であるかを考えることは難しい。なぜなら、彼の突きつけるテーマは、あたかも闇に鈍く光るナイフのように、ギラリとした鈍い光を放って読むものの脇腹に押し付けられるからだ。私はその瞬間に動くべきか止まるべきか、冷や汗をかきながら呆然としてしまう。ナイフの切っ先ににじむ赤い血は、果たして自分の血なのだろうかと危ぶみさえしながら。

『「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。(中略) でもガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。』(「裏切りの季節」より)

彼は、私のように、時流に流されるかのように意見を変えてゆく者の脆弱さに対し、怒りも軽蔑もしてはいなかもしれない。私は逆に彼の本を読み彼の声を聞いたにも関わらず、それ故にというか、彼から無視されてしまうかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽してしまうのだ。

彼の論点を要約することにも意味はない。彼のマスコミ批判や平和への考え方、今の日本や米英のありようなど、列挙してゆくと、声高々に主張しているように思えてしまうかもしれないが、そうではない。彼が有事関連法案に対してどのような反対のスタンスをとっているのか説明したところで、「お前さん、違うんだよ」と言われてしまいそうだ。なんだか彼の前に立つと、薄っぺらな本質的とはいえないような問題を、延々と阿呆のように弄しているような気にさせられてしまう。

『樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。』(「国家の貌」より)


彼が何に対して「服従しない」と言っているのかは明白だ。しかし、彼のような精神を有して生きてゆくことも、極めて大きなエネルギーと勇気の要する行為であると思う。社会とうまくやってゆくためには、彼のような考え方に染まることは、ある意味において「危険」である。しかし、一方で私にとっては、抗うことのできない危うさと確かさでもある。

『まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。』(「戦争」より)

ひょっとすると私は、単なる精神的なカウンターバランスとして辺見氏の主張を受け入れようとしているのかもしれない。自らの考え方の柔軟性や精神の健全性を示すバロメータとしているのかもしれない。だとすると、この上なく狡猾な接し方とは言えないか。社会における辺見氏のとらえられ方も、案外そういうところにあるのかもしれないと思うと、自分のことを差し置いて憂鬱になる。この本が売れれば売れるほど、不幸なことなのかもしれないと思うのだった。

『例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた』(「仮構」より)

そういうことさえ、辺見氏は了解していているかのようなのだ。心底、おそろしく、かなしく、そして美しくも強い本であると思う。

2002年12月24日火曜日

動物達の音楽会 Vol.2 より ヴィヴァルディの「ごしきひわ」

日時:2002年12月23日 13:30~ 
場所:札幌ザ・ルーテルホール
ピアノ:曽根田正美、瀬尾珠恵、落合一絵 
ソプラノ:小出あつき 
フルート:河崎亜希子 
ピアノ:落合一絵 
ヴィヴァルディ/フルート協奏曲 二長調 Op.10 第3番「ごしきひわ」 第一楽章 アレグロ、第二楽章 カンタービレ、第三楽章 アレグロ 

知り合いのフルーティストが出演するということで、コンサートに行ってきた。「動物たちの音楽会」というテーマで、3人のピアニストがそれぞれ交代で、テーマに沿った曲を披露するというもの。フルーティストの河崎さんは賛助出演ということである。 

曲目は、チャイコフスキーのオープニングにはじまり、ラヴェルの組曲「鏡」、ソプラノによるプーランクの小品、ドビュッシーやフォーレ、サンサーンスなどなど。ショパンのワルツなども演奏されたが、フランス系の曲の多い構成であることが目をひいた。(残念ながら最後までは聴かれなかったのだが) 

そんな中にあって、河崎さんと落合さんによるヴィヴァルディの「ごしきひわ」は、ひときわ生き生きとした音楽を私たちに与えてくれたように思える。フルートの清冽で煌びやかな音はホールを満たし、爽やかな聴後感を残してくれた。 

「ごしきひわ」とは小鳥の鳴き声を模した音楽が三つの楽章を通して聴こえてくる曲だ。最近では高木綾子さんが「イタリア」というCDで録音していることでも(その筋では)有名である。 

この曲の特徴は、何と言っても装飾音符に飾られた小鳥の鳴き声を、いかにそれっぽく聴かせてくれるか、そして途中のカデンツァやソロ部分をどう表現するか、ということがポイントだと思う。河崎さんの笛の音は、演奏の最初からピンと張り詰めた輝かしい音を会場に漲らせ、トリルと物凄く速いタンギングにより表現された音は、朝の輝かしい光の中でさえずる小鳥を、まさに彷彿とさせるものであった、と書いたら言いすぎか?
細かなパッセージでのピアノとフルートのアンサンブルも絶妙で、彼女の耳のよさとフルートの運動性能良さには改めて感服した次第。
おそらく今日の演奏会の客層から考えると(ピアニストの生徒さんとそのご家族か?)、フルートにはあまり馴染みのない方が多かったのではないかと思う。そういう中で、第一楽章のアレグロが始まった後にすぐ現れるソロ部分での彼女の笛の歌いと音色は、その瞬間に実に見事で聴衆の心をつかんでいたと思う。
中間のカンタビーレ楽章での装飾の入れ方や歌い方には、おそらくは彼女らしい表現を感じることができた。第三楽章のラストに向かっての駆け抜けてゆく爽快感もなかなかのもので、最後の上昇音形を挿入して颯爽と終わるあたりは、高木綾子さんのアルバムよりも良いなあと感じさせてくれた。終わって引上げる彼女の背中に向かって、客席の起こったちょっとしたざわめきが聴こえただろうか?
ルーテルホールというのは、行った人ならば分かるのだが、200人程度の小ホールであり、フルートのために建てられたホールと聞いている(オーナーもフルーティストであるとか)。しかしピアノソロを聴いていても感じたのだが、このホールにしてはスタンウィエイのグランドピアノの音量は、すこし響きすぎる嫌いがあるのではないかと思う。
実際にピアノの音はソロであっても非常に大きく聴こえた。ソプラノやフルートと合わせた時は蓋は全閉にしなくてはならないほどだ。ヴィヴァルディの曲にしても、そういう少し崩れたバランスと、そしてこの曲の原曲がピアノ伴奏ではない、ということを差し引いても、充分に楽しめる演奏であったと思う。
フルートの感想ばかりになってしまって恐縮であるが、彼女の笛を聴きに行ったのだし、ピアノの評は(恐ろしくて)うまくできないし、それに最後まで聴けなかったのでご容赦願いたい。ただ、プログラムとしてはとても楽しめる良い企画であったと思う。特に個人的には、ラヴェルのピアノを生で聴けただけでも、非常にうれしかったのであった。小出さんのソプラノも、歌っていいなあと思わせてくれるものであったし、瀬尾さんはまさに、司会も演奏も貫禄のといったところでしょうか(^^)
こういう演奏会は、肩肘が張らないので、もっとあっても良いなあと思うのであったよ。

2002年12月18日水曜日

【風見鶏】「国立市マンション訴訟、20メートル超の撤去命令 」

12.18 日本経済新聞、読売新聞ほか

意見箱にこの問題を書いたのが、2月14日と5月1日のこと。そして今日の新聞記事による判決だ。

住民の景観尊重の意見を組み入れ、20mを越える部分の撤去あるいは、撤去までの慰謝料と弁護士費用のの支払いをディベロッパーに命じた。判決では「(景観は)法的保護に値し、侵害行為は不法行為に該当する」と違法性を指摘した。

地裁ではあるものの、この判決の意義は大きい。確認申請を認可した行政責任と条例の関連など、行政対応のまずさについても今後焦点になると思う。いずれにしても、経済優先でやったもん勝ちという状況にNOを突き付けた意義は改めて大きい。

反対住民のサイトは以前紹介したが、まちづくりデザインワークスというサイトでもこの問題を紹介していると、教えていただいた。ここでは企業サイドによる法改正前の「駆け込み着工」に対し疑義と改正を求めている。

一方で訴訟問題が起こっていることが分かっていながらも、そのマンションを買う人が居る、欲しい人が居るということ。マンションに移り住む人には、地域住民が長い年月に渡って守り育ててきた存在の重さは知らない。地域住民たちの果実のみを借用し販売に利用するというスタンスは、企業論理は理解するにしても、冷静に見ると野蛮で破廉恥な行為に思える。

欧州では都心部に建てる建築に厳しい規制をかけているが、それに対する反発や反動がないわけではない。しかし規制と議論を通して自分たちの住む場所をよりよいものにしていこうという意思の力は感じられる。日本にはそういう土壌が薄いように思える。

問題は「景観」という、ともすると好みの分かれるデザイン的な問題として捕らえられがちだが、実際は、地域コミュニティのあり方、自分たちの住む地域社会の維持の仕方という、地方自治にもつながる問題を内包しているように思える。それが保守的な地域セクショナリズムや排他主義であるかも含め、地域の自治問題であるように思える。

今回の判決は、企業に勤める身としては複雑な思いで訴訟の行方を見守っている、というのが正直な感想だ。この件には複数の訴訟が起こされているが、それについては、読売新聞の記事を以下に引用しておきたい。


◆複数の訴訟、分かれる判断◆

 このマンションを巡っては、ほかにも複数の訴訟が起こされ、司法判断が分かれている。近隣住民が東京都多摩建築指導事務所に、条例で定めた高さ制限を超える部分の撤去を命じるよう求めた訴訟では、1審・東京地裁が昨年12月、「高さ20メートルを超える部分は条例に違反する違法建築物で、景観に対する利益にも重大な被害を生じさせた」との判断を示したが、撤去命令を出すかどうかは都側の裁量とする住民側一部勝訴の判決を言い渡した。

 これに対し、2審・東京高裁は今年6月、「マンションは条例の施行前から着工されており、違法建築物ではない」と住民側逆転敗訴の判決を言い渡し、現在、最高裁で係争中。

 一方、明和地所が国立市に約4億円の損害賠償を求めた訴訟では、1審・東京地裁が今年2月、「高さ制限の条例は(明和地所の)マンション計画を阻止するためのもので、(明和地所の)権利を違法に侵害した」として、同市に4億円の支払いを命じ、現在、東京高裁で審理が続いている。

��以上、12月18日 読売新聞電子版より引用)

HIYORIみどり 「撤去っていったって、人も住んでいるんでしょう? どうすんの?」

KAZAみどり 「明和地所も、こんな判決になるとは考えていなかったとコメントしていて当惑気味ね。撤去命令を受けた部分は賃貸で、現在は1戸だけ入居しているそうね。撤去対象とならなかった住民も"負けるとは思っていなかった" "もしもの時のために7階以下を買った"とコメントしていたわ」

HIYORIみどり 「住民は、景観のいい付加価値高い場所として購入したのでしょうね。地域住民の今までの努力の上に胡座をかいていると思われても仕方ないかもね。売主は訴訟問題も"大丈夫"とかうまいこと言ったんでしょうね」

KAZAみどり 「マンション住人にも司法はNOと言ったということになるのかしら、あなたたちに権利はないと。マンション住民もディベロッパーを訴えるかもしれないわね」

2002年12月11日水曜日

日本の防衛ということ

12月8日、イラクは国連に対し大量破壊兵器に対する申告書を提出した( accurate, full, and complete declaretion on time )。悪の枢軸とイラクを名指しし、平和維持のために西側諸国の同意をとりつけての結果だ。日本は、数日前にイージス艦のインド洋派遣を決定した。こういう動きを見るに付け、日本の独立国としてのあり方について考える。

憲法改正、自衛隊問題などは古くから議論されているが、私達は「まともな議論」をしてこなかったのではないか、ということを思い始めた。私は5月に、「有事関連法案とは何なのか」として意見箱に駄文を掲載した。そのときはどちらかというと、法制整備へ懸念を示すスタンスであった。しかし、今は、むしろ積極的に法整備すべきなのかもしれないとスタンスがずれてきている。政府の方針を全面肯定しているわけではない、法整備が前提というよりも健全な議論をすべきだと思うのだ。

憲法改正を口にする人には「タカ派」「右翼」というレッテルを貼りたがるように、わたしたちは防衛問題にアレルギー感情を持ってはいないだろうか。これは日本の教育の賜物なのかもしれない。日本国憲法が米国の押し付けであるか、あるいは日本を侵略国と決め付けた東京裁判が、戦勝国の独断的な裁判であったか、ここらあたりから議論は紛糾し始める。

平和憲法の精神への対立軸を全て「タカ派」「右翼」的なものとひとくくりにしてしまうことは、議論を先に進ませにくくしている。侵略戦争をしないということと、自国を防衛する軍隊を保持しないということは別物だと思う。およそ力を有しない独立国の平和などは幻想でしかないという者もいる。憲法の「国際紛争解決のための武力行使の放棄」が幻想なのだろうか。日本国憲法がうたうのは「絶対的平和主義」なのだから、既にして自衛隊は憲法違反なのである。自衛隊は黙認しながらも、他の政策の是非を問うことは筋が通らないように思える。議論は、どこまでも拡大曲解される解釈論に終始してしまう。

侵略としての戦争放棄は誰もが認めることだ。しかし、最近のテロ行為を考えるにつけ「侵略」の定義さえ難しい。イスラム社会は西側諸国に「侵略されている」と考えてはいないか。米英は今も昔も「侵略戦争」などはしていないと考えるだろう。第二次世界大戦の日本も「植民地開放戦争であり侵略戦争ではない」と主張する人がいる。しかし、それは経済的に優位でかつ、軍隊を派遣した側の論理でしかないのではなかろうか。

自衛隊を軍隊と呼ばないということも、事態を見えにくくしている。すでに米国、ロシアに次ぐ世界第三の防衛予算を使う国の自衛隊がなぜ「軍隊」ではないのか。自国防衛の際の命令系統を含め、迅速な対応ができるような法整備は確かに必要である。今のままでは役に立たない放蕩息子だ。ただし、である。あくまでも自国民の安全と平和を守るということが大前提だ。

国際社会における責務を考えた場合「自国領土領海を侵犯されたときのみ行使する軍事力」という考え方も通りにくい。自国が攻撃されないように、あるいは大量の難民が流入しないよう、軍事的手段を裏づけに他国政権を維持あるいは打倒する、という考え方に妥当性があるか、これも分かりにくい。

自国を自分で守るということを考え始めたときに、当然ではあるが国民に義務が発生する。どういう義務負担かも含め、考えなくてはならない。

以上の考えが、すべて宙に浮いたまま着地できない。安易かつ感情的にに「子供を戦場にはやりたくない」「戦争は殺し合いだ」「戦争絶対反対」という議論に流れてしまう。戦争を知るものは「戦争を知らない世代が、言葉遊びをしている」と揶揄する。

それでも、いやだからこそ、私達は、もう一度、第二次世界大戦の意味からはじめ、日米安保、憲法、自衛隊、そして国というものを根本から考え直さなくてはならないのではなかろうか。私には、どの見解がもっとも好ましいかさえ今は見えない。そして、日本を左右する政治家のスタンスも、まったく見えないという悲劇。


2002年12月6日金曜日

【風見鶏】イージス艦の派遣決定で分かれる新聞社説

イージス艦をインド洋に派遣することが決定された。これを受けて反対派の朝日、毎日、賛成派の産経、日経に意見は分かれた(読売は捕捉できず)。


朝日新聞  「イージス艦――これは納得できない 」 ~ これではなぜいま転換なのかの十分な説明にはなっていない(本文より)

毎日新聞  「イージス艦 派遣するならルールを守れ」 ~ イージス艦派遣を決めたことは、禍根を残す(本文より)

産経新聞  「むしろ遅きに失した決定 【イージス艦派遣】」 ~ テロ掃討作戦の米国を、憲法の範囲いっぱいまで支援するのは同盟国としてのいわば義務(本文より)

日本経済新聞  「1年遅れたイージス艦派遣」 ~ 海上自衛隊補給艦の安全を考えれば、高性能護衛艦を配備するのは当然(本文より)


各新聞サイトは無断転載を著作権法違反だといっているが、面倒なので四誌の全文をコピーした(→こちら)。各誌がどういう論調であるのかを覚えておいて損はない。産経、日経は日米安保条約を前提とし同盟国としての当然の義務であると結論付けている。



HIYORIみどり 「で、あなたはどう思っているの?」

KAZAみどり 「米国とイラクの緊張が極限になる前に派遣というタイミングは絶妙だと思うわ。石破長官はそもそも派遣を一刻も早く実現したかたのでしょうし。」

HIYORIみどり 「集団的自衛権とか周辺事態とか難しいんですけど・・・」

KAZAみどり 「言葉遊びや防衛アレルギー反応はやめて、平時の有事法制をまじめに考えるべきね。力のない平和なんてありえないわ」

2002年12月4日水曜日

【風見鶏】「映像公開、イラクが兵器隠匿と非難 米国防総省」

12.04
産経新聞(共同通信)

ラムズフェルド国防長官とマイヤーズ統合参謀本部議長は、イラク軍が早期警戒レーダーを民間の建物に隠そうとしているところを撮影したとするビデオ映像を公開したらしい。

はなからアメリカはイラクを信じていない。潔白を証明するのはアメリカではなくイラク自身だという論理だ。しかし、公開された情報さえアメリカは信じない、自分たちの調査と異なるとして。結果として・・・



HIYORIみどり 「いよいよ " Sunday deadline" が近づいてきたわね」

KAZAみどり 「12月8日というのも意味ありげだわ。アメリカは " Remember WTC " と言いつづけてきたのかしらね」

HIYORIみどり 「ところでYUKIみどりちゃんは、日本の話題は気にならないのかしら」

KAZAみどり 「道路改革と民主党の泥仕合でしょう。ああいう報道のされ方では、外野から内紛を楽しむというスタンスに終始してしまって、政治的議論には発展しにくいわ。」

【風見鶏】「拉致被害者支援法が成立、来年1月1日施行」

12.04
日本経済新聞

支援に関する法制化が全会一致で可決した。これを素早い対応と評価するか、やっと最低限の事柄が決定したかと捉えるかは人それぞれだろう。法律により保証されることも重要だが、必要なのは具体的な(絵に描いた餅ではない)支援であろう。支援される月々の給付額についても、これが妥当であるかの判断は難しい。

政府は「どうだ責任は果したぞ」みたいな態度だが、彼女あるいは彼らの失われた24年前に対する国家責任にはこの法だけで埋め合わせるものではない。アメリカは亡命したジェンキンス氏に対する訴追を諦めてはいない。逆に考えると、日本の拉致被害に関しても、国家の義務放棄に対する追訴は免れていて良いとは到底思えない。



HIYORIみどり 「月々夫婦で24万円、大人で17万円ですって。ばかにしてんぢゃないの。年収にしていくらになるのよ」

KAZAみどり 「だから、早く日本社会に慣れて職業につくことを支援すると言っているわけよね。自立できるようになるまで保護しますと・・・」

HIYORIみどり 「これだけで良いと思えないわ。国を相手に精神的苦痛に対する賠償責任と逸失利益獲得に向けて裁判でも起こすべきぢゃないかしら」

KAZAみどり 「拉致問題はまだ全く解決していないわ。残された疑惑も含めて、それは時期尚早ね。でも"責任"というけれど、何をすると責任を取ったことになるのかしらね。今まで"責任をとる"ということを行ってこなかった国だけにね。」

2002年12月2日月曜日

ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団 2002年日本公演

  • 日時:2002年12月1日 16:00~ 
  • 場所:札幌コンサートホールKITARA 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
  1. ムソルグスキー/歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 "モスクワ河の夜明け" 
  2. ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」 
  3. ボロディン/交響詩「中央アジアの創玄にて」 
  4. バラキレフ/イスメライ(東洋的幻想曲) 
  5. リムスキー=コルサコフ/交響詩「シェエラザード」OP.35 
  6. アンコール チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割人形」より グラン・バド・ドゥ、トレパック

ゲルギエフの札幌公演に行ってきた。ゲルギエフは好きな指揮者の一人だ。彼の演奏を聴くのは2000年1月の東京公演(マーラー交響曲第2番「復活」)以来のことである。あのときは、ゲルギエフのマーラーということに聴く前は不安を持っていたのだが、終演後は、もののみごとに脳天を吹き飛ばされたかのような衝撃に震えていたことを鮮烈に思い出す。そういうことで、期待は大きいコンサートであった。
好きな指揮者ではあるが、彼のつくる音楽にいつでも全面的に賛同しているわけでもない。CDを聴いていても、極端な表現は作品解釈上の妥当性という点では疑問を感じることもある。しかし、理性を超えたところで彼の音楽に惹かれることに抗えないのも事実だ。彼の音楽は圧倒的な説得力で語りかけてくるように思えるのだ。どうも私は、こういうマッチョ性に弱いところがある。
 
最近の彼は非常に有名になってしまったようにも思える。一部ではカリスマ視するような傾向がなきにしもあらずだ。今日のコンサートもどのような客層なのかと思っていたら、老若男女入り乱れているのである。クラヲタのような人よりも楚々としたこぎれいな人(*1>が多いのを見て、私は大いなる戸惑いを隠せなかった。これほどまでに彼が支持されていることに、今の今まで気付いてはいなかった。
同じカリスマ性を称えられる指揮者であっても、ゲルギエフはラトルとは全く違った音楽を作るように思える(ラトルは生を聴いたことがない)。ゲルギエフの演奏からは、非常に生臭く「直情的で獣のような」、そして有無を言わさない熱狂を感じる。そこが万人受けする要因なのかとも思う。
 
だからといって、ゲルギエフの演奏が雑であったり感情のままに荒々しく歌い上げているだけではない。ことさらに深刻ぶるような歌い方はしなないものの、彼なりの音楽に対する統率力や計算や分析というものは、聴くことができるわけだ。
そういう点からは今日の演奏もゲルギエフらしいく、熱く歯切れの良い演奏であったのだろうとは思う。激しいところは逆巻く怒涛のように激しく、柔らかく美しいところは草原を吹き通す風か、揺れる草花のようであり、色彩豊かな響きを堪能することができた。彼の微妙な指先(*2>や、大げさな指揮により統率されるオーケストラは、まさに主兵というイメージである。
 
また、今回の曲目はソロイスティックなところが要求されるものが多く、その点も楽しめるものであった。クラリネットやフルート(*3)などの木管をはじめとして、金管も安定感のある素晴らしい音色であった。シェエラザードのバイオリンソロも、若干線の細さを感じたが決して不満足であったわけではない。一方クレッシェンドの頂点でのはじけるような音響や地鳴りのような重低音も聴く事ができた。あれだけの音響で音が濁らないというのも流石といえようか。
 
選曲は全て標題音楽的であるため親しみやすい。ロシア的色彩の強い音楽は、一幅の絵画か絵巻物を読むようでさえあった。禿山の一夜やシェエラザードなどの超通俗名曲(*4)を、これほどまでの迫力で演奏してくれれば、本来ならば満足と言ってよいのかもしれない。
しかし、実は私は大いに不満なのである。全ての演奏が終わった後、札幌ではなかなか聞くことがきないような拍手とブラボーの嵐(*5)のなか、何か煮え切らない感覚を私は味わっていた。
 
それは札幌でのプログラムに負うところも大きいと思う。ゲルギエフはどちらかというとロシアの作曲家のうち、比較的マイナーな歌劇などを録音して脚光を浴びてきたという経緯がある。今回の札幌でのAプログラムも、そういう彼らしい特色の一片が感じられるものだ。それでも、このプログラムはあんまりなんぢゃないと思うのは私だけだろうか。前半は馴染みやすい交響詩を、後半はシェエラザードでは、さながらアンコールピースの寄せ集めを聴くかのようと書いたら失礼だろうか。それとともに、Aプロはメロディアスでピアニッシモで終わる曲が多いことも特徴だ。熱狂の中にブラボーの嵐を迎えるという選曲ではない。あるいは深い意味が込められた深遠な曲でもない(*6)。
 
それと、私が期待したほどのゲルギエフらしさの薄い、どちらかというと(彼の演奏の範囲内においては)比較的理性的な演奏なのではなかったかということだ。ここについては、聴いた人により捉え方は全く異なるだろうと思う。大きな感動を覚えた人に対して異を唱えるつもりも、水を差すつもりも全くない。ただ私には、若干の不満(というか燃え滓つーか)が残ったことも確かなのである。手放しで「カンドーした!!」とは言えない。
ここで更に考えてみた。もしかするとゲルギエフは、いつでもどこでも、獣のごとく直情型に鳴らしまくるというタイプの演奏家(*7)ではないのかもしれないということだ。彼の演奏の中には荒々しさの中にも揺るぎのない統率力と、独特の美学があることは認めるところだ。札幌公演は、その美しさの方を強調した叙情的演奏を目指したのではないかと思い至ったのである。(おとなしい演奏というのではない。あくまでも彼の演奏の技芸の範囲においてということだ)
 
そう考えると逆に今日の選曲の意図というものも見えてくるように思える。ソロイスティックでありかつロシア的な叙情音楽を堪能させる、という意味においてはなかなかなもので、決してAプロを軽く扱ったということではないのかもしれない(*8)。
とは納得してもだ。シェエラザードだって悪くはないのだが、他プロの方が魅力的に見えてしまう。案外Cプロのプロコフィエフの人たちは、シェエラザードの方が良かったと思っているのかもしれないが。ちなみに、他のプログラムは、ブルックナー交響曲第4番(Dプロ)、マーラー交響曲第9番(B、Eプロ)、ストラヴィンスキー春の祭典(N響)、ショスタコーヴィッチ交響曲第7番(N響との合同演奏)(*9)である。美しい旋律でダンスするゲルギエフも良いのが、目をむき牙をむき出して襲いかかるゲルギエフも聴きたかったなあと・・・。
 
蛇足だが、アンコール最後のくるみ割人形は(*10)圧巻であったことは付け加えておこう。
  1. クラシックヲタク=クラヲタが、こぎたない(失礼な!) と言っているのではない。ただヲタクが深くなるにつれ、ある外観上のスタイルに収束する傾向はあるようだ。いくつかのパターンはあるようだが。
  2. 今日の振りは、すべて指揮棒あり。ただし指揮棒を持たない手が、時に長島の一塁への送球のあとのように(ひどい例え!)、あるいはテルミンを奏でるがごとく微妙に揺れながらオケに指示を出しているようであった。
  3. フルートは前半4曲は、曲によりファーストを入れ替えていた。女性のフルーティストは木管であった。
  4. シェエラザードにしても禿山にしても、ゲルギエフ盤が発売されていなければ、食指が伸びることはまずないだろうと思える。
  5. ゲルギエフが登場したときの拍手からしてすごかった。ゲルギエフにかける熱い期待が込められているかのようで、私は実は面食らってしまった。
  6. そんなことは、チケットを買う前にプログラムを見た瞬間にわかるぢゃないのと言うかも知れない。しかし私はオバカなので、ゲルギエフが来るというだけでプログラムを見もせずにチケットを買ったのである。コンサートの直前まで「火の鳥」だったっけ? などど考えていたのである。
  7. 書いて改めて恥かしくなってしまったが、そんな指揮者だったら、通年発情型の ただの、お○か である。
  8. こういうのを「すっぱい葡萄の論理」と言うのでしたかしら?
  9. 同日のN響アワーは、まさにゲルギエフのショスタコとハルサイを報じていた。タコ7は「一楽章のほんの一部」(有名なところね)とハルサイは全曲。ハルサイはNHK FM放送でも生放送をしていた。たまたま私は車中でこの演奏のラストを聴いた。カーオーディオがしょぼいので「なんだかフヌケなハルサイだなあ。間違ってもブーレーズやゲルギではないな」と思ったのである。怒号のような拍手の後に「演奏はNHK交響楽団、指揮はワレリー・ゲルギエフさん・・・、生放送でお伝えしています」と流れ、ナニイ!と思わず叫んでしまった。 昨日、TVで再び見てみたが、視覚による錯覚だろうか、それとも実際にそうっだったのだろうか、ものすごい演奏に今回は思えたのであった。実際、演奏の感想なんてそんなものでしかない、ということの査証だろうか。
  10. もである。いまでも頭の中で鳴っているのだ


2002年11月28日木曜日

【風見鶏】「社説 次の矢に期待する構造改革特区」~教育への株式会社参入

11.28 日本経済新聞 社説

このごろ忙しく新聞をゆっくり読む時間がないのだが、28日付け日経新聞社説に「経済活性化への突破口として期待される構造改革特別区域法案が12月に成立の見通し」との記事が目にとまった。

その中で、「株式会社による病院や学校の経営は、それぞれ厚生労働省、文部科学省の反対で見送りになった」とある。これには疑問を感じざるを得ない。医療はさておき教育の民間参入拒む理由は何か。文部科学省は「教育の質を保証できない」としているが、社説同様に不可解の念にとらわれる。

私は教育にも大規模な改革が必要だと思っている。それは義務教育から生涯学習を含めたスパンでの改革だ。教育には多様性が必要だと言う認識が、まだ醸成されないのだろうか。今のままでは学校教育は、社会に出ても「使い物にならない」(=だから勉強しない)ものでしかないのではなかろうか。

産経新聞の「教育を考える」2002/10/28も合わせて読んでみた。株式会社がによる学校経営の是非については判断が難しい。しかし、現行の教育制度、教育機関に対する「深い不信感」だけは、更に深まるのであった。



HIYORIみどり 「学校経営が失敗したら、やっぱり生徒を保護するために企業に公的資金注入するの~? つぶれたら卒業証書もらえなくなっちゃうじゃない」

KAZAみどり 「その考えそのものが硬直化しているわ。卒業証書や学歴に何の意味があって? 学校が潰れそうなら別なところに移る、自分が何を学びたいのか見極めた上で学校を選ぶという発想はできないの」

HIYORIみどり 「あなたのはデキル人の論理よ。転職だってままならない社会で、子供と親にそれを求めるのは無謀ぢゃない。今なら籍さえあれば卒業できるのよ」

2002年11月27日水曜日

小樽国際音楽祭/華麗なるフルートの世界

小樽で加藤元章さんのコンサートがあり聴いてきた。ホールは駅からほど近いマリンホール、収容人員450人程度、木質系の内装でよく響くホールだ。お客さんの入りは開催が小樽で、しかも火曜日の雨天ということもあるのだろうか、7割程度という印象。(かなりもったいない)
 
加藤さんの演奏といえば今年の6月、札幌フルートフェスティバルのゲスト演奏を鮮烈に思い出す。今日の演奏は、そのときに得た期待を裏切らないばかりか、遥かにそれを上回る「加藤ワールド」を聴かせてくれた。曲目は6月の演奏とバッハ、サラサーテが重なっているが、彼のお気に入りの曲ということだろうか。モーツアルトは彼にしては異色であるらしい、観客を意識した選曲か。笛は、ムラマツのプラチナで,管体プラチナ,メカは 14k という組み合わせであるらしい(加藤さんに詳しい方からの情報)。
 
加藤さんの演奏には、どうしたって「華麗なるフルートの世界」「高度なテクニック」という陳腐なるキャッチを思い浮かべてしまうのだが、演奏を聴くと、それ以外に表現のしようがないことにも思い至ってしまうのである。フルート界のアムラン、体育界系フルーティズムの雄というべきか。
 
高性能なスポーツカーに乗せられて、サーキットをビュンビュン飛ばしているような愉悦と言ったら良いだろうか。彼の笛から奏でられる音には、圧倒的なスピードと迫力、強弱のダイナミックさ、そしてエネルギッシュな強靭さに溢れている。聴く側がまともに受けとめるには、ふんばりさえ必要だ。
 
彼の持ち味は、近代の曲やカルメンファンタジー、あるいはアンコールに奏されたヴァイオリン・ソナタのような、高度なテクニックを要求される曲にこそ発揮されるように思える。高音から低音に至るまでの均一にして煌びやかな目も廻るような演奏は、「凄まじい」としか表現できない。そこまでするか!とさえ思ってしまう。音楽が終わった後には、体温が1.5度くらい上昇してしまっているかのような感覚だ。不適切な例えかもしれないが、スターマインに酔うかのごときだ。
 
技術の卓越とは、単に指が廻るということだけではなく、彼の場合は、音楽的な表現力が恐ろしく幅広いということだ。そこかしこで聴かれる音色の変化、重音かと思わせるような音、自在な音曲げ、消え入るようなピアニッシモ、恐ろしく太く大きな低音などなど・・・。
 
そういう意味から、今日のプログラムは変化に富んでいて面白かったと思う。
 
��月にも奏したが、彼のバッハも聴きものであった。普通の演奏よりもかなり早目の演奏ではないかと思うが、敬謙さや、渋さ深さなど、精神性を重視したと思われがちな不明瞭なアプローチを彼は取らない。音の流れの中で一気呵成に聴かせる事で、曲の持つ構造や美しさ、面白さというものをくっきりと浮かび上がらせているように、私は感じた。実際に何度も聴き(自分でもあるフレーズを吹いてみたりもして)慣れ親しんでいる曲であるにも関わらず、意外なところに天から降り注ぐ一条の光のごとき二声部が聴こえてきたときには、うれしい驚きを感じた。
 
一方で彼のモーツアルトというのは珍しいらしい。札響の弦セクションとの演奏であったが、これはこれで私には楽しめる演奏であった。何と言ってもてらいやクセがなく、明るいモーツアルトだ。闊達で無邪気な子供が、やわらかな日溜りで暖かくなった積み藁の上で、遊び興じているような雰囲気を感じた。アンサンブルはどちらかというと、加藤がヒュンヒュンひっぱるという印象で、弦セクションが少し固かったようにも思えないでもない。加藤さんの余裕と遊びについてゆくには、何かが足りないという気にさせられた。
フンメルやライネッケなど、フルーティストにはお馴染みの曲も素晴らしい演奏であったのだが、感想はここまでとしておく。
 
ところで、加藤さんと野平さんは、デュオを組んで久しい。野平さんのピアノがまた絶妙である。例えばカルメンファンタジーにおける、素早いパッセージとトリルを含む装飾音が、タイミング、リズム、音色、バランスなど、どれを取っても完璧な一致をみる見事さ。野平さんが時々加藤さんを振りかえりタイミングや音楽の流れを確認しているのだが、そういう仕草さえごく自然な演奏の一部になっているように感じた。
 
実は最初、野平さんのピアノの音は大きすぎるのではないかと思った。加藤さんほどの音響マニアがどうしたのだろうと訝った。良く響くホールであるためかピアノリサイタルのような趣なのだ。しかし、それはすぐに思い違いであると気づかされた。加藤さんの音量によるところも大きいと思うが、ピアノとフルートが対等な会話をする上では、あのぐらいのバランスの方が良いのだと思い直したからである。フルート奏者に遠慮をしすぎないピアノ演奏であるからこそ、ピアノとフルートの相互の良さが引き出されるのだ。

2002年11月26日火曜日

【フルーティストを聴く】

フルーティストについてまとめています。

以前は自身でフルートを吹いていましたが、今はさっぱりです。(大人になって始めたので、アルテス2巻も怪しいという実力程度未満。楽器だけはへインズ No43668。)

演奏会や公開レッスンのレビュ

ここでは、今まで生で聴いたことのあるフルーティストを紹介します。フルートを始めたのが1995年頃ですから、随分前に聴いたリサイタルも含まれています。時々思い出しながら加えていこうと思います。(敬称略・順不同)

(国内のフルーティスト)

  • 工藤重典 ・・・ハープの吉野直子さんとのデュオも聴いています。 2001/03/22
  • 加藤元章 2002/06/02  2002/11/26
  • 中野真理、三村園子
  • 中川紅子、酒井秀明、相場皓一
  • 大海隆宏、山下兼司、西田直孝
  • 柳下正明、井上昭史、渡瀬英彦

(札幌在住のフルーティスト)

(公開レッスン)

  • シュルツ
  • パウル・マイゼン
  • 三村園子

アムラン/カレイドスコープ


  1. エドナ・ベンツ・ウッズ:幻想的ワルツ(ヴァルス・ファンタスティーク)
  2. セルゲイ・ラフマニノフ:V Rのポルカ
  3. ヨーゼフ・ホフマン:夜想曲
  4. ヨーゼフ・ホフマン:カレイドスコープ(万華鏡)
  5. マルク=アンドレ・アムラン:練習曲第3番(パガニーニ=リスト「ラ・カンパネラ」に基づく)
  6. フェリクス・ブルーメンフェルド:左手独奏のための練習曲
  7. ジェイコブ・ギンペル:「海兵隊賛歌」による演奏会用パラフレーズ
  8. マルク=アンドレ・アムラン短調による練習曲第6番(ドメニコ・スカルラッティを讃えて)
  9. ジュール・マスネ:狂ったワルツ(ヴァルズ・フォル)
  10. モリッツ・モシュコフスキ:練習曲変イ短調
  11. フランシス・プーランク:間奏曲変イ長調
  12. レオポルド・ゴドフスキー:アルト・ウィーン
  13. アレクサンドル・ミシャロフスキ:ショパン「即興曲第1番」変イ長調に基づく練習曲
  14. アーサー・ルリエ:ジーグ
  15. エミール・ブランシェ:古い後宮の庭で
  16. アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――グラツィオーソ(ショパンを讃えて)
  17. アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――反グラツィオーソ
  18. ジョン・ヴァリアー:トッカティーナ
  19. アレクサンドル・グラズノフ:小アダージョ――バレエ音楽「四季」より
  20. ニコライ・カプースチン:トッカティーナ
  • ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
  • 録音:2001年2月、ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音
  • 英HYPERION CDA 67275(輸入版)
アムランのアンコールピースを集めた曲集だ。リストのパガニーニの主題による練習曲も技巧の冴えに驚いたものだが、この盤はそれを遥かに凌駕している(発売はリストの前のもの)。まさに空いた口がふさがらないという他ない。私の拙い感想よりも、まずはHMVによるレビュを読んでもらいたい。
ヴィルトゥオーゾ、アムランのアンコール・ピース集。このディスクはアムランならではのアンコール・ピースで、彼にしか弾けないような難易度の高い作品がぎっしり収められています。 たとえばアムラン自作の練習曲第3番は、パガニーニ=リストの「ラ・カンパネラ」を複雑にしたもので、リストの原曲より難易度もはるかに高くなっています。ギンペルの「海兵隊賛歌」はホロヴィッツ版「星条旗よ永遠なれ」の伝統を踏襲したかのような派手なパフォーマンスが聴きものです。 マスネの「狂ったワルツ」は昨年、一昨年のアムラン来日公演でのアンコール曲目。それこそ「狂ったように」難しい曲という印象です。最後のカプースチンも聴きものです。ロックのリズムを大胆に導入したこの「小トッカータ」には、すでにカプースチンの自作自演CDがリリースされていますが、アムランは作曲者本人と親交がある数少ないピアニストの一人なので、演奏内容も万全です。その他、表題にもなったヨゼフ・ホフマンの「万華鏡」や、ゴドフスキーの作品に至るまで、超絶技巧を前提にし、しかも親しみやすい作品が大量に収録されているのはピアノ好きには堪らないポイントと言えるでしょう。 (HMVサイトより引用)
こういう超絶技巧曲がいとも容易く弾かれるのを聴くと、個々の曲がどうだ、などという細かなことを論じる気さえなくなってしまう。そもそもこれらの曲は、アムランのアンコールピースなのだ。それにしても何と言うアンコールピースであることか!これぞ「体育会系ピアニズム」の極致と言えるかもしれない。

HMVの解説にもあるが、例えば耳慣れたリストの「ラ・カンパネラ」! リストの曲を知っている人も、パガニーニの原曲を知っている人も、肝を潰してしまうような音楽になっている。難しさという点ではなく、技術を駆使したその先のグロテスクなまでに変形させられた音楽の持つ、まがまがしくさえある強烈な魅力に驚いてしまう。

しかし仔細に聴いてみれば、アムランは技巧をひけらかすためだけにアンコールピース集を録音したととばかりにも思えない。リストの曲集でも感じたが、技巧派のレッテルにありがちな機械的な味気なさとは違うものを、アムランのピアニズムからは感じる。ピアノという楽器の能力を最大限にまで弾き出しているような演奏からは、アムランの偏執的とも思えるほどのピアノへの愛が伝わってはこないだろうか。

実際「狂ったように難しい曲」ばかりが納められているのではないのだ。たとえばMOSZKOWSKI(1854-1925)の練習曲やPOULENC(1899-1963)の間奏曲などは哀愁を帯びた美しさを湛えた小品であるし、GODOWSKY(1870-1938)の Alt Wien ('Old Vienna')や、GLAZUNOV(1865-1936)のバレエ音楽をもとにしてアムランがアレンジした「Petit Adagio」も、初めて聴くものにとってさえ、これらが愛すべき美しい曲であることを知らせてくれる。

最後のKAPUSTIN(1937-)の「Toccatina」は、CD解説に「Oscar Peterson ? No, a succinct and dizzying toccata by a Russian composer.」とあるように、ロックのリズムというよりは洒落たジャズ風の曲で楽しませてくれる。

まさにあっという間の、圧倒的な20曲だ。思わずブラボーと叫んでしまう。ピアノ曲を聴くという快感と醍醐味を存分に味わえる一枚と言えるかもしれない。

2002年11月21日木曜日

分かりにくい経済再生

日本経済がデフレだと言われて久しい。日本はバブル後の不況から12年経った今も脱出できずにもがいている。日本の決断の遅さ、実行力のなさは西欧のみならずアジア諸国からも呆れられ始めている。

竹中-木村による経済再生プログラムはメガバンクの猛烈な反対にあった。竹中-木村派に反対する意見の多くは、銀行の不良債権をアメリカのハゲタカファンドに買わせ、日本経済をめちゃめちゃにしようとしている、という考えが強いようだ。

一方、竹中-木村派は日本が真に再生するためには、構造的な改革を含めた金融政策(銀行の不良債権処理と問題企業の淘汰も含む)を期待するというものだ。

銀行に注入した公的資金の優先株を普通株として経営権を国が持つとか、自己資本比率を違った基準で査定しなおし、銀行に資金注入するとかの話しは、私のように経済に全く素人のものでも(意味は分からなくとも)言葉だけは覚えてしまった。

どちらが日本を再生する力を持っているのか、「門前の小僧」以前の私には判断できない。ただ、メガバンクの猛烈な反発は自己保身と既得権益の確保という姿が見え隠れするように感じてしまったことは否定できない。

さらに不良債権と言われているものの実態がよく分からない。銀行は間接償却のための引当金を用意したくないため、不良債権の査定において実体隠しのようなことをしているとの指摘もある。銀行が生き延びるために、破綻懸念先に分類させず、延々と点滴を続けているようなものだ。そういう実態があるとしたら、それは、不良債権たる企業と銀行双方に責任があるわけで、もはや構造的な問題といわざるを得ない。

青木参幹事長は竹中案に対し「(経済政策に失敗したら)誰が責任を取るのか」と国会で首相に詰め寄った。しかし日本で一体、いままで経済政策の失敗で政治家の誰が責任をとっだろうか。どの銀行トップが自らの責任を認めただろうか。これを理不尽と言わずに何と言おうか。

正しい実態も分からない、処方すべき方策も混迷している、しかも、責任の所在も、責任の取り方も不明確であるとしたら日本経済は、いったいこれからどこに向うのか。

かてて加えて、日本外交の自立性のなさである。あと数年もすると、世界の誰も日本など気にしなくなり、十数年のうちに、少子化と教育問題の弊害が重なることで日本という国が消滅してしまうのではないか、という危機感はないのだろうか。自分の会社がなくなるということなど、些細なことかもしれない。

それにしてもと思う。政界も金融界も、普通ならとっくに隠居するか病院にいるような老人=重鎮たちが、若者以上に元気いっぱいで発言力があるのか・・・私には全く理解できない。あなたたちの残りの人生の間だけ、日本が潰れなければそれでいいのか?

極端な自閉的状況は、愛国ナショナリズムを生みやすい。世界も日本も大きな岐路にさしかかっていると、感じないだろうか。ここ数年の動きが、その後の日本と世界の枠組みを決定付けるように思えてならない。


2002年11月18日月曜日

アムラン/フランツ・リスト作品集

  1. パガニーニによる大練習曲S.141 Six Grandes Etudes de Paganini S141 
  2. 葬送行進曲 Trauermarsh - Grande Marche funebre 
  3. アレグレット・フオコーソ Grande Marche 
  4. 騎兵隊行進曲 Grande Marche caracteristique
  • ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン 
  • 録音:2002年2月、
  • ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音 
  • 英HYPERION CDA 67370(輸入版)
 
アムランといえば技巧派のピアニストとして有名だ。CD試聴記でもブゾーニのピアノ協奏曲のレビュを、驚きと感動を持って書いたことを思い出す。そんなアムランが、リストの超絶技巧練習曲を録音したというのであるから、少なからず興味を持っていた。
 
リストという作曲家が好きかと問われれば、否というか、好きと答えるほどには親しんでいないというのが正直な回答だ。中学時代にジョルジ・シラフが弾くハンガリア狂詩曲 第2番のLP聴いたときの衝撃は忘れられないが(それこそ擦り切れるほど聴いたものだ)、それ以降リストの作品に食指が伸びることはあまりない。
 
さて、今回のアルバムは疎遠なリストを私に近づけることができる一枚になったであろうか。
まずは、パガニーニによる第練習曲。リストがパガニーニの演奏を聴いて「ピアノのパガニーニになる」と決意したという逸話は有名だ。この練習曲はパガニーニの原曲以上に難しいと言われてきた難曲であるらしい。第3番「ラ・カンパネラ(鐘)」は有名でよく演奏されていると思うが、全曲を通して演奏されることは、最近までは少なかったようだ。
 
私はピアノを弾かないので、聴いていてもどこが難しいのか、真に理解し驚嘆することはできないのだが、それでも、恐ろしく複雑にして多層にわたるアルペジオやら音階がスピーディーに弾かれるのを聴いていると、ほとほと感心してしまう。
 
アムランはこれらの「超絶技巧」といわれる難曲を(今では多くの演奏家が演奏可能なのだろうが)いともたやすく、弾いているように聴こえる。一部の隙もない演奏からは、技術を落とさないための日課練習をしているような余裕さえ感じられるところがオソロシイ。
 
しかし、この演奏を聴いて感動するかと問われれると、首を傾げざるを得ない。原曲のパガニーニのカプリ-スをどうしても思い出してしまう。原曲以上に難しいというが、原曲に漲る、悪魔的ともいえるほどの魅力と、技術的な冴えのようなものが、薄められてしまっているように思えてならない。
 
 
パガニーニ大練習曲、シューベルトの行進曲/マルク=アンドレ・アムラン(pf)フランツ・リストの有名なエピソードに、1832年、パリでヴァイオリンの名手パガニーニの超人的技巧と悪魔的容貌に接した際、「ピアノにおけるパガニーニ」になることを決意したという話があります。その若きリストの思いがストレートにあらわれたのがこの「パガニーニ大練習曲」だと言われています。 リスト初期の成功作となったこの作品、6曲のうち5曲が「24のカプリース」をとことん技巧的にピアノ編曲したもので、有名な第3番「ラ・カンパネッラ」のみヴァイオリン協奏曲第2番から編まれています。 これまで、「リスト弾き」といわれる人でも、特に有名なこの「ラ・カンパネッラ」のみを弾くことが多かったのですが、昨今のフランツ・リスト・ルネッサンスと、超絶技巧ピアノ・ブームの盛り上がりにより、全6曲の本格的な演奏がなされる機会も着実に増えてきているようです。 
 
その先鞭を付けたのも実は、このhyperionレーベルだったのかもしれません。レスリー・ハワードによるリスト:ピアノ作品全集の第48巻(CDA 67193)で、全曲版を2ヴァージョン ―― 1838年版と1851年版 ―― とも録音して大評判となったのはかれこれ4年ほど前のこととなります。 空前絶後のテクニックで不滅の金字塔を打ち立ててきたアムランの、これが待望の最新作。アムランにとってCD一枚丸ごとリスト作品というのは、96年録音のライヴ盤「プレイズ・リスト」(CDA66874/国内仕様MCDA66874)以来となります。今回の録音は、今年2月にヘンリー・ウッド・ホールで入念にセッション・レコーディングされたものです。
 
今考えればアムランは「パガニーニ・エチュード」全曲録音のための伏線も、実はしっかり張り巡らしていたのでした。2001年2月に録音された「万華鏡(カレイドスコープ)」(CDA67275/国内仕様MCDA67275)で、アムラン自作のエチュード第3番「パガニーニ=リスト:ラ・カンパネッラによる」を入れていたのです。このアムラン流・超絶技巧てんこ盛りの「ラ・カンパネッラ」は、今回のアルバムへとつらなる明らかな道しるべだったと言えるでしょう。 
 
コンポーザー=ピアニストにこだわり続けるアムランの評価は、ヨーロッパでもこのところますますうなぎり。前作のゴドフスキー:ピアノ・ソナタ ホ短調/パッサカリア(CDA67300/国内仕様MCDA67300)はhyperionの数あるニュー・リリースの中でも空前のセールスを記録。ヨーロッパの店頭では「飛ぶように売れ、あっという間に売り切れた」と伝わっています。持ち前の超絶技巧に加え、音楽的にも深みを増しつつある、アムランの躍進ぶりには目を見張るばかり。 パガニーニ=リスト=アムラン、という3人のコンポーザー=ヴィルトゥオーゾの時空を越えた邂逅は、聴く者にきっと最高のカタルシスを与えてくれることでしょう。


 
 超絶技巧の作品を果敢に演奏し続けているアムランがリストの難曲を録音したCDが発売されたのを見つけさっそく入手して聴いてみることにしました。パガニーニによる超絶技巧練習曲はリストの作品の中でもポピュラーなものですが,シューベルトによる行進曲の録音は比較的珍しい録音に属するのではないでしょうか。  ここで聴かれるアムランの演奏は相変わらず見事で,最初の超絶技巧練習曲集では,目まぐるしいパッセージをものともせずに冷静なコントロールによって生み出される精妙な表情の変化には唖然とするばかりですし,表情の幅や力感も十二分に発揮されており,表現が無味乾燥になることがありません。  私自身,この演奏の複雑で困難なパッセージがハイスピードで正確に再現されているのを聴いているだけでも,メカニカルな快感と,スポーティな爽快感と,高度なものを成し遂げた達成感を感じ,自分が弾いているわけでもないのに大いなる満足感に浸ることができました。  ただそれでも,この演奏は精密な機械仕掛けのからくりを聴いているような気もしてしまうのも事実で,冷静かつ完璧なコントロールに耳を奪われながらも,聴き手に迫るパワーや迫力といったものは感じられないので,リストの超絶技巧作品を聴くにしてはクールに過ぎるのではないかとも思えます。  しかしそれは,これまで聴いてきたリストの演奏によって蓄積されてきた作品のイメージに過ぎず,そもそもリストはパガニーニの演奏を聴いて,自分は「ピアノのパガニーニ」になろうと思ったというのですから,パガニーニのようなクールビューティな演奏こそ作品の姿を伝えるのかもしれないなという気もしています。  続いて収録されているシューベルトによる3つの行進曲は,シューベルトのD819の6つの大行進曲とロンド,D859の葬送大行進曲,D886の2つの性格的な行進曲から再構成した作品で,原曲はいずれもピアノ連弾曲なのをピアノソロにアレンジしたという難曲です。  こちらは,オリジナルのシューベルトの作品そのままといった印象があるのですが,声部が増えたときには独りで弾いているとは思えないような対比が聴かれ,それをアムランが鮮やかに弾き分けているのは全く見事で,表現そのものというか,メッセージ性は淡泊といえるのですが,フォルテでの力感や,華やかなパッセージのブリリアントな響き,そして軽快なリズム感も聴き応え十分で,アムランの表現のパレットの様々な階調を堪能できるものでした。  こうして聴いてみると,いずれも難曲になればなるほど持ち味を発揮するアムランの超絶技巧が遺憾なく発揮された,鮮烈な演奏に唖然とするばかりでしたが,それが持てるテクニックのぎりぎりのところで演奏されているのではなく,余裕を持ったコントロールの範疇内でなしえていることに,アムランの技量の途方もなさを感じます。これは豪快なリストを聴きたい方にはお薦めできないかもしれませんが,技術の粋を尽くした1つの究極を思わせるリストの名演として強く推薦したいと思います。

2002年11月15日金曜日

【風見鶏】「Daschel Doubts Terror War's Progress」

11.15
washingtonpost By Johon J.Lumpkin
Thursday, November 14, 2002; 2:16 PM

Osama bin Laden のテープがまだ生きていると思わせるテープが出現した。日本のTVでは声紋鑑定の結果、ラディン本人にほぼ間違いないと報道していた。

��4日付けの washingtonpost では、上院の民主党のトップである Daschel 氏が、ビン・ラディンを捕まえることに失敗したことから、「テロとの戦いに勝利しているのか否か」と疑問を呈していると報じていた。このような声はアメリカでは多いのではないかと思われる。

一方、ホワイトハウスのスポークスマンは、テロとの戦いに「多大な進展(tremendous progress)」と述べている。

このテープは新たなるテロへの警告である、と受け取る政府関係者も多いという。ブッシュ大統領は「Whoever put the tape out has put the world on notice yet again that we're at war」と述べている。

こうして考えると、ビン・ラディンが生きていようがいまいが、アメリカは彼の存在を十分に利用しているように思えてならない。アル・カイーダが実はアメリカの援助を受けてテロを組織していると分析する専門家もいるが、いずれにせよ暗雲は晴れずといった印象だ。



HIYORIみどり 「ビンラディンて生きていたのね~」

KAZAみどり 「米英の新聞を見ていると、インドネシアやあちこちで、アルカイーダの幹部やテロ関係者が捕まるというニュースを、ここ数週間目にしていたわ。でも肝心のラディンは行方知れず。反テロ組織の担当官は、ラディンがもし生きているなら、アフガニスタン国境沿いのパキスタン山中に潜伏していると見ているらしいわ」

HIYORIみどり 「イラクは国連の査察を受け入れたけど、戦争はするのかしら」

KAZAみどり 「例の増田俊男氏のサイトを読むと、アメリカはとにかく"今後5年間は戦争しなくてはならない"らしいわ。日本も困ったものだけど、アメリカはもっと困ったものね。

2002年11月14日木曜日

思いつくままに

最近の米国の発表を聞いていると、どうやら米国はブッシュを教祖とするカルト教団と手法が変わらないことに気づく。
 
オウム真理教はサリンをばらまき、不安と恐怖を演出することで自らの教義の正しさを増強しようとした。 今アメリカは、世界中にイラクとテロと北朝鮮に関する不安をあおり(これで不安を感じない国はテロ国会以外ありえなくなる)、自らの政策を増強させている。「我々につくかテロ国家につくか」と大胆かつ幼稚にも世界を二分した論理は健在だ。

アメリカでは中間選挙で共和党の圧勝し、新聞では米国の大多数が共和党の外交政策を支持しているというから驚きだ。(USA Today, CNN, ギャラップ社の共同世論調査)

フセイン大統領の選挙も、投票率100%と言っていたようだが、どこまで本当なのかは分からない。100%の投票率が信じられないのと同様、米国の中間選挙の投票率は30%台という感心の低さだ。「投票に行かせない戦略」をとっていると指摘する人もいる。選挙活動がビジネスになるほどの国だ。ちなみにドイツの総選挙は80%台、英国ブレア再選の総選挙も、低投票率と言われながらも59%だそうだ。手元にメモがないので日本の選挙の投票率は分からないが。

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思考停止ということがある。911テロ後のアメリカだ。共和党どころか民主党もこぞって、テロ批判に傾いた。少し前の北朝鮮のテポドン、日本中も慌てふためいて「北朝鮮はなんてキケンな国だ」となった。あの頃ならどんな超法規的軍事対応も可能だったかもしれない。
 
有事は平時にこそ考えておかなくてはならない。日本には軍事関連を増強させるためにテロを利用したり、さらにはテロを演出さえするようなことまではしていないが、米国はそうは見られていないようだ。英国のGardian誌には、米国で著名な作家であるゴア・ヴィダル氏(イタリア在住)が、米国のテロに関する疑惑を発表したことを紹介していた。(Gore Vidal claims 'Bush junta' complict in 9/11)

KAZAみどりで、既に戦争は始まっていると書いた。実際イラクの飛行禁止区域では米英が爆撃を続けている。米英のイラク攻撃は、この先100年以上の石油利権を賭けた(フランス、中国、ロシアとの)覇権争いであると指摘する人もいる。私には、それを否定することも鵜呑みにすることもできない。

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一方、拉致被害者にの家族に対し、石原東京都知事の「軍隊を出して取り返してくるくらいの気持が必要」という問題発言についてKAZAみどりで触れた。こういう反応は過激だと思われがちだが、軍隊を有した主権国家の国民としては当然の反応かもしれない。「およそ国民と国土を守るために徴税している国が、自国民の安全確保さえできない」ということは、考えられないのである。

ただ、拉致被害者の北朝鮮の家族を日本に連れ戻すということは、別問題であるような気がしてならない。彼らの国籍はどこにあるのか、彼らを「守る」国はどこなのか。拉致被害者が帰国してずいぶん時間が経った。北朝鮮の家族はどのような説明を受けているのだろう。
 
拉致被害者の、死亡したとされる残りの方や、それ以外にも何十人もいると思われている人たちの疑惑解明は、日本外交として強力に交渉するべきだと思う。しかし、今回の帰国家族は外交カードとするには、問題がないのだろうか。今こそ「人道的問題」となったのではなかろうか。
 
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ハナシは飛ぶが、最近もうひとつ、よく分からないのが「産業再生機構」なるもの。整理再生機構でもできたことを、改めて組織をつくり、過去の失敗者を性懲りもなく責任者に据え、彼らに何をやらせようとしているのか。考えるだびに、ため息しか出ない。
 
企業が潰れること、弱い企業が資本主義の市場から撤退することは、市場原理の原則といわれればそれまでだ。しかし市場にまかせるだけではなく、日本の産業構造をどう変革するのかというビジョンが欠けている。産業の空洞化、技術立国の衰退と叫ぶけど、ではどこを育てるのかと。このままではつぶされもせず、かといって生き返りもせず。またしても 「茹で蛙」 か?

2002年11月11日月曜日

【風見鶏】「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」

「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」 11.11 日本経済新聞
 「War Plan in Iraq Sees Large Force and Quick Strikes」 November 10,2002 New York Times 

先週の8日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器の全面査察を受け入れるように迫る決議案を、全会一致で採択した。今までスタンスの異なっていた仏ロもアメリカ側に立つことで、ついにアメリカは全西側諸国の同意のもとに強硬路線を取ることが可能な状況になった。
それを受けて、イラクが査察を拒否した場合にアメリカは大規模な軍事作戦を展開する準備を整えたと言うわけだ。パウエル国務長官は10日から12日にかけてソウルを訪問し、北朝鮮問題についての協議をすることになっていたが、安保理の決議を受けて訪韓を中止している。
ついにここまで来たかという感じである。昨年の9.11テロを大きな契機とし、アメリカはテロとの対立を明確にし、国民感情も民主党さえ見方につけ、さらに諸外国の同意も得た上で、イラク攻撃に向けての準備を完了させたわけだ。その周到さには、ほとほと舌を巻く。これから何が起き、アメリカに対しどういう覇権と国益がもたらされることになるのか、見守るしかないというのか。
ちなみに、イラクは国連決議を受諾する方向で動き始めたようだ。

HIYORIみどり 「ほとんど戦争が始まっているような印象を受けるけど」
KAZAみどり 「そうね、報道されない部分での諜報活動は盛んでしょうし。ただ、またしてもアメリカ本土や関連施設は傷つかない戦争ということにはなりそうね。」
HIYORIみどり 「何のための戦争なの、アメリカの中東における原油支配という説が一般的だけど」
KAZAみどり 「そう単純なハナシばかりでもなさそうね。ロシアも西側諸国の仲間入りを果したことになっているし、世界情勢は冷戦終結後、大きな山場を迎えていると考えていいかもしれないわ。世界の勢力地図は大きく変わるかもしれないわ。アメリカは北朝鮮とコトを構えるより、イラクをやはり重視したということね」
HIYORIみどり 「北朝鮮問題は日本にまかせると?」
KAZAみどり 「パウエル国務長官は北朝鮮問題について "All of those nations should have a greater concern about this than we do. They are within range" と言っているわ。those nations は、北朝鮮の近隣諸国(日本、韓国、中国)で、this は当然北朝鮮問題、そして、within range は"射程距離内"という意味よ。日本にそういう危機意識があるかしら。ノドンはアラスカには届いても米国本土には届かないわ。ただし、沖縄などの米軍基地には届くけどね」
HIYORIみどり 「イラクのスカッドミサイルも米国本土には届かないけど?」
KAZAみどり 「そうよ、そして同じように米軍基地にも届かないのよ。」
HIYORIみどり 「ん~、ワカラナイわ~」>YUKIみどり「同じく!」

ラトル/ベルリン・フィルの「マーラー 交響曲 第5番」

  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo. 
  • 録音:2002年9月7-10日  Philharmonie, Berlin (Live) 
  • EMI TOCE-55463(国内版)
マーラーの交響曲を評することは難しい。特にマーラーの中でも比較的ポピュラーであると考えられているこの第5番交響曲さえも、作品解釈における正しい理解のもとに接しているかと自問するならば、否と答えざるを得ないだろう。
マーラーの交響曲としては、第1番交響曲に次いで親しみやすいため名演奏も多い。家にあるCDだけでも、定番とも言うべきバーンスタイン&ウィーン(1987)、同じくバーンスタイン&ウィーンの87年ロンドンライブ、テンシュテット&ロンドン響(1978)、ドボナーニ&クリーヴランド管(1988)、ショルティ&シカゴ(1970)、ガッティ&ロイヤル・フィルハーモニー(1997)などがある。
以上の演奏の中ではバーンスタインのロンドンライブの圧倒的な演奏、ガッティの熱い演奏、そしてショルティの精密機械のような演奏などが特に印象に残る。
意外なことに、私の持っているCDでベルリン・フィルのものがないことに気付いたが、そういう偏った方手落ちなCD試聴経験からラトル&ベルリンの新盤を聴いてみたが、今までのどれとも異なる演奏が展開されているように思えた。
演奏にはラトルらしい歯切れの良さ、そして独特の強調された強弱のつけ方や緩急などが際立ち、音楽的な立体像がくっきりと浮かび上がってくる印象だ。さらに、何か颯爽としており、瑞々しささえ湛えた演奏で、これが何度も聴き慣れたマーラーの5番かと思わせる部分がなきにしもあらずだ。少しただれたような、そしてとろけるような耽美的にして廃頽的な香りは、この演奏からは感じられない。
音楽の盛り上げ方シャープであり劇的である。例えば第一楽章冒頭のトランペットのファンファーのすぐあとに来るオーケストラによる表現なども、音のカタマリとなって聴くものを圧倒する、しかし決して暴力的ではない。よく耳をそば立てれば、随所で色々な音が聴こえてきて、曲の持つ構成にパースペクティブを与えているようにも思える。
ラトルはニコラス・ケンヨンとのインタヴュー(2002年8月2日)の中で「この曲は有名で、演奏される機会が多いという理由で、演奏は簡単だと思われがちですが、本当は演奏が大変難しい曲」と述べている。以前はラトル自身、曲の意味や構造を全くつかめなかったという。
ラトルはこの曲を録音するに当たり、随分と研究を重ねたらしい。もっともだからと言って、微分的に分析的な演奏というわけではない。むしろマーラーの心情(それがアルマへの迷える愛なのかは分からないが)が揺れ動く、しかも複雑な多層的心情の揺れが、あるときは時系列的に、あるときは過去も未来も前後して、混沌として渦巻く様を追体験しているような気にさせられる。音楽は感情的に高まるよりも、内省へと傾き最後に行き着くように思える。作曲者の心情と一体化するのではなく、かといって心理学者のようなスタンスでもなく、客観的に捕らえているという印象だ。
もっとも、これは私の個人的な感じ方だ。CD解説の中でコリン・マシューズはこの作品を「全体的に個人的感情を交えない作品」、4楽章のみを「ここだけ内面を見つめた個人的な内容」と記している。
一方ラトルは、先のインタビューでこの曲を「死すべき運命への答えは何か?」との問いに対する「愛との対位旋律こそが全てを癒す」というマーラーの答えだと述べている。
ところで私は、あまりにも、バーンスタインのような、思い入れの強い演奏に慣れ親しみすぎているのだろうかと思わざるを得ない。もしラトルの演奏に物足りなさを感じるとすると、そういう点だ。聴きながら握りこぶしを固めてしまい、音楽に没頭するような瞬間は少ない。
例えば第2楽章の「嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで」という指示の曲も、泣きが入るような感情の吐露ではなく、一歩引いた、窓の外の実際の嵐を見ながら自らの心情を確認しているような響きを感じる。有名な第4楽章のアダージェットにしても演奏時間は何と9分半という短さだ。死の匂いのする耽美主義は感じられない。
だからと言って、ラトルが「死」というものを避けて演奏を意図したというわけではなさそうだ。彼の棒からオーケストラが奏でる響きは、時として残酷なくらいの深く鋭い人生の深淵を垣間見せている。そのざくりとした裂け目の暗さが冷たく鋭いがために、逆に曲の最終テーマであろうか、深淵からの復帰と勝利は、強い憧れととともに見事な賛歌となって我々を打つ。
あまり良い聴き方ではないが、ここで第5楽章の最後3分、いわゆる金管軍が咆哮するラストのコラールのみ、いくつかの演奏と聴き比べてみた。アルマが「取って付けたようで古臭い」と評し、マーラーが「だってブルックナーだってやってるぢゃない」と言った部分だ。(ラストのたった3分のみで比較することに意味があるとは思えないということは分かっているが、座興として読んでもらいたい)
まずはバーンスタインのロンドンライブ。ここの部分だけであっても、バーンスタインの演奏を聴くと、全身の細胞が熱を帯びたように振動し、涙腺は緩み、地に足がつかないかのような感じに私は陥ってしまう。たった数分間でバーンスタインの魔力にあてられ、押し潰され、演奏後の爆発するような拍手を聴きつづけることができない。
次にテンシュテット&ロンドン(全集盤)。バーンスタインとは全く違ったアプローチでありながら、ゆったりとしたテンポの中に、音の大伽藍が築かれており、思わず頭を垂れてしまうほどの荘厳さだ。
最後はガッティ&ロイヤルフィルだが、この演奏の構築力と旋律の対比の見事さは、他のどの演奏をも押して顕著でありクラシックを越えた新鮮さを感じる。
��これ以上やるとヲタクと思われかねないので、もうやらない)
振り返って、ラトルのコラールも、実に見事な立体像で我々に迫ってくる。スピード感とダイナミックさを伴い「颯爽」と駆け抜けるといった趣だ。聴き終った後にふと我に返って恥ずかしくなるようなことはない。
マーラーに「颯爽」は要らないと評するファンの声も耳にする。どちらが好きかは、趣味の問題だろう。ただ、バーンスタインの演奏を再び、そして何度も聴こうとは思わない。あまりにも特別なのだと改めて感じた。
ラトルとベルリン・フィルのこれから10年間を、私たちクラシックファンは、おそらく期待と不安、そして肯定と反感を感じながらも、無視することができずに眺めてゆくことになるだろう。そういう新しい時代を拓くという意味において、そして20世紀的なマーラー呪縛からの解放という意味でも、一聴の値はあると思う。(ブーレーズのマーラーというものあるが、あれは別物かもしれないので言及しません)

2002年11月8日金曜日

【風見鶏】「米国フェデラルファンド金利引下げ」

11.08 日経、毎日、産経社説

米連邦準備理事会(FRB)は定例の連邦公開市場委員会(FOMC)で、政策金利であるフェデラルファンド(FF)金利を0.5%引き下げ、1.25%とすることを決めた(41年ぶりの低水準)。公定歩合は同0.75%と1%を切り、物価上昇率を勘案すれば、実質短期金利はゼロということらしい。

11月8日付け日本の新聞各誌が報道しているように、先の中間選挙で共和党が圧勝したこと(かなり私は驚いたが)を受け、対テロ対策(特にイラク攻撃)への「戦時経済」に入ったことを意識した景気高揚策であるとの見方が強い。

日本経済新聞社説は『「戦時経済」を意識した米の大幅利下げ』と題し、低金利政策により消費者の購買力や企業の設備投資などが行われることに疑問を投げている。「減税を追加すれば、財政赤字拡大懸念から長期金利が上昇し、効果が減殺される公算もある」と指摘している。

毎日新聞社説も同様の論調だ。『米利下げ 日米ともゼロ金利は間違い』として、ブッシュ政権がITバブルの精算を出来ていないことを指摘し、減税も意識したゼロ金利政策は日本においても景気高揚には効果がなかったことと同様、「(米国の)財政赤字を恒常化させる政策以外の何ものでもない」としている。

一方、産経新聞社説は『減税と相乗効果の発揮を』として、世界同時不況を回避するためにも「減税と金融緩和の相乗効果で、この難局を乗り切る以外に手段はないだろう。日本も総合デフレ対策の効果的な実行で、世界経済の回復に協力すべきである」と米国の政策に好意的である。

米国の経済の翳りと先行きの不安感が払拭できないなか、ブッシュが中間選挙での圧勝を背景に対テロ対策で強行路線を取ることは明白であろう。米国経済の影響を少なからず受ける日本においても、共和党の経済外交路線には注意を払う必要があるのかもしれない。



HIYORIみどり 「気になるニュースといえば、北朝鮮の難民へ食料を供給するNGOの方が中国側に不法に拘束されていたということもあったわね」

KAZAみどり 「中国側外務省の報道官とNGOの方の話しがずいぶん異なっているような印象を受けるわ。藩陽領事館事件の時もそうだったけど、"中国は信用ならない国"というイメージを増強させているような気がする」

HIYORIみどり 「中国は資本主義へ移行しようとしているし、もしかすると、ものすごい潜在能力を秘めた大国に伸し上るわよね」

KAZAみどり 「世界情勢は、アメリカ、ロシア、中国、EU連合などの覇権争いが、色々な鞘当などを通して虎視眈々と進んでいるという気がするわ。日本はいつまでもアメリカの小判鮫でいいのかしら、日本には政界戦略という考えがないものね。アジアのナンバーワンの地位さえ怪しいわ」

HIYRIみどり 「で、米国金利の話しは?」

KAZAみどり 「週末は札幌は雪になりそうね・・・」

2002年11月3日日曜日

【風見鶏】「Why reforming Japan's banks could ruin the U.S. ~ The dollar dilemma」

11.03
International Herald Tribune
Akio Mikuni and R.taggart Murphy The New York Times
Saturday, November 2, 2002

IHTのEditorials & Opinionsに、エコノミストの三國陽夫氏が The New York Timesに寄稿した文章が掲載されていた。

竹中金融相の不良債権処理加速策が、与党からも反発にあって骨抜きにされたこと、しかし竹中の方針は sincere であり、日本経済は大いなる危機に直面していることには変わりがないと指摘。しかしながら日本の「不良債権」の捉え方は、世界の常識からはかけ離れており、日本の金融は西欧から見ると「不思議の国のアリス」のようだと書いている。

その後、ここ数年間の日本の経済の構図を説明した後に、日本政府は派閥の圧力などをまとめる真の意味でのリーダーシップを発揮できず、過去においても他の全ての改革におけるイニシャチブが取れず、政策も骨抜きでしか進められないと指摘してる。

一方で、日本にはドル立てで3兆ドルもの資産があること、また不況下においても対米貿易黒字を維持していることに言及、もし銀行が債権取りたてを余儀なくされれば、日本企業は(貿易黒字で得ている)ドル売りをせざるを得ず、結果的に米国経済を弱める結果となるとしている。

不良債権処理は、日本経済にとっても米国経済にとっても大きなジレンマを抱えていると言えそうである。

HIYORIみどり 「よくわかんな~い」
KAZAみどり 「はっきり言って私もよく分からないの(><) 英文以前に経済が良く飲みこめていないようなのね。間違っているかもしれないからこれ以上書かないわ、ムチはイヤだわ」
YORIDORIみどり 「(-_-)/~~~~ ピシ-、ピシ-! もっと勉強して出なおしてらっしゃい!」

2002年10月30日水曜日

【風見鶏】A New Campaign for Nicotrol Patch

10.23 The New York Times

「禁煙してても、吸いたいよ、吸いたいよ」の会社が5000万ドルもかけたキャンペーンを展開するらしい。禁煙パッチや禁煙ガムは直接ニコチンを体内に吸収するため、即効性がある反面、使い方によっては危険性も大きいという話しも聞いたことがある。

日曜日の朝日新聞には、煙草の増税に反対する「意見広告」が掲載されていた。"増税は日本で3000万人の愛煙家の楽しみを奪うものだ、今でも煙草は6割が税金であり十分過ぎるほど税金を払っている"という主張だ。

嫌煙家の私にとっては、何をヌケタこと言っているのだと憤りを感じる。ほかの嗜好品とは性質の違うことを理解すべきだ。分煙が進んできたとは言っても、それは極一部の限定された地域でのこと。その分煙とてまやかしにしか過ぎないようなシロモノだ。レストランでも喫煙と分煙席を分けているが、エアカーテンがあるわけでも清浄器があるわけでもない。空気は煙草のニオイで吐き気を催しそうになる。

煙草を吸う人がいるために、余計な法律を作り灰皿だの清掃費だの余計なコストもかかる。煙草葉農家の保護という問題もあるのかもしれないが、それらを全て含めて煙草撤廃に動いてもらいたい。特に医療関係者には、強く煙草反対キャンペーンを期待したい(あ、言っちゃってる)。

HIYORIみどり 「あら、今回もカゲキね。愛煙家の反感を買うわよ。愛煙家に言わせると酒はやめられるけど煙草はダメという人が多いわね。精神安定の意味でもかわいそうぢゃない、マナーの良い愛煙家もいるわ。煙草吸わないとイラついてダメていう人もいるし、煙草を与えない方がキケンよ。それに脂っこい食事の後や、きつい仕事のあとの一服は格別らしいし。共存できるような方法はないの?」

KAZAみどり 「キーッ!! 煙草吸わないのに、衣服や髪の毛、持ち物などに煙草のにおいがしみつくキモチ悪さって分かる? 人の吸う空気を目の前で汚しておいて平気なんて、スカッドミサイルで吹き飛ばしてやりたいワ。煙草に関する限りは徹底的なタカ派になるわ」

HIYORIみどり 「それはあなたの職場が遅れているからぢゃないかしら。私のトコなんて、煙草吸う人は皆な換気装置も窓もない密閉された地下室に集められて仕事しているわ。煙まみれで快適みたいよ」

YUKIHIRO 「あ・・・わたし、そこまでカゲキではありませんから・・・念のため(^^;;;」

【風見鶏】「North Korea sticks to nuclear project」

「North Korea sticks to nuclear project」
10.30
International Herald Tribune
Howard W. French The New York Times
Wednesday, October 30, 2002

わざわざ英字新聞を読むまでもないが、日朝交渉で北朝鮮側は、日本と核問題については話し合う積もりがないことを明言した。

North Korea flatly rejected international demands that it abandon its nuclear weapons program in the opening session of normalization talks with Japan here Tuesday.

北朝鮮の過去を考えると、核のカードはアメリカとの交渉にとっておきたいということなのだろう。

記事によると、ワシントンは日本と韓国、中国に対しても同様に、北朝鮮の核廃絶に向けて"最大限の圧力(maximum pressure)"をかけることを強く望んでいるものの、今のところ三国はブッシュ大統領が望むような態度を示していないと、不満を表明している。さらに韓国はプレッシャーどころか、ワシントンの北朝鮮への色づけについて疑問を呈していると書いている。

一方、「Since the beginning of secret discussions between the two countries over a year ago, Japan has reportedly offered North Korea a huge amount of economic assistance in exchange for normalized diplomatic relations.」、と日本の経済援助について言及している。

以上はIHTに掲載された The New York Times の記事である。


America's game plan could lead to disaster
International Herald Tribune
Editorials & Opinions
Nicholas D. Kristof The New York Times
Wednesday, October 30, 2002

一方、同じくIHTの「Editorials & Opinions」には、現在の脅威はイラクではなく北朝鮮であると書き始め、アメリカの北朝鮮への対応についての The New York Times の社説が掲載されている。

主旨はアメリカがもし北朝鮮を孤立化させるような政策をとるならば、結果的には悲劇的な結末をまねくかもしれないと警告している。

記事では北朝鮮に何度も訪問したことのある学者 Han Park の言葉を引用している。

"North Koreans firmly believe that the United States cannot now make a military strike, because South Korea is a hostage and because of the Iraqi situation,"

"That may make North Korea a bit more reckless."

北朝鮮は、今でもすぐにでも少なくとも5本のプルトニウム型核兵器を作るだけの準備はできているため、経済制裁や軍事的な行動は、北朝鮮を追いこむこと(あるいは新たな朝鮮戦争の幕開け)になるとの見解である。

「So what should America do?」

NY Times は、強行路線ではなく北朝鮮と話し合うこと、可能なら中国を代理としてと述べている。

そして、「If all sides play their cards wisely, the United States could not only defuse the confrontation, but also set North Korea on a path like the one China took, away from Stalinism.」 として未来に期待を寄せている。

日本の新聞はこれから読むわ>先に読めよ。

HIYORIみどり 「日本もずいぶん軽く見られたものね、という意見もあるかもしれないけど。」

KAZAみどり 「というよりね、北朝鮮問題は1948年から続く南北朝鮮問題を、いまだに引きずっているのかもしれないわね。私たちには朝鮮戦争は、特需ということでしか記憶されていないけれど、大国の利害と冷戦によって南北が分断されたのよね」

2002年10月28日月曜日

【風見鶏】 「Health Official Says Gas Killed 115 Hostages in Moscow」

10.28
The New York Times
By BEUTERS
Filed at Oct.27 2002 4:10 p.m. ET
Filed at Oct.27 2002 6:48 p.m. ET
朝日新聞 10.28朝刊

モスクワでのチェチェンゲリラによる劇場占拠事件は、ゲリラが要求貫徹のために人質を殺し始めた直後に、特殊部隊(Alfa Troops)が強行突入し解決されたが、115名もの人質の命が失われるという悲劇的な結果となった。これが「解決」と言えるのかは疑問だ。テロリストに対する容赦のない強行手段は、新たな悲劇のトリガーのようにさえ思える。

ところで、作戦の決め手となった催涙ガスについてであるが、それは無能力化剤の一種で(Anaesthetic)、外科的処置に使う麻酔のようなもらしい。しかし使用量をふやすと、意識の喪失、身体機能の不能、血流異常などを引き起こすものであるとらしい。ロンドンの、security expert Michael Yardley は、アメリカ軍がベトナム戦争において最初に使った'BZ'(3-キヌクロジニルベンジラート)ではないかと NY Times は指摘している。

また同誌は、ロシアは今のところ、使用したガスについて言及を避けているが、特別に禁止されてはいないものの、所有していないはずのものであり、グレーゾーンにあるものだとしている。イギリス王立大学の麻酔専門家 Dr.Peter Huttonは「he knew of no medical anaesthetic gas that could have been used in the way tha gas was used in Moscow.」とし、「"It's almost certainly something that's developed, owned, and used only by the military"」と述べている。

ロンドンを拠点の防衛コンサルタント Paul Beaver は、ミリタリーガスには必ず解毒剤があるものなので、軍が必要な措置を準備しないで突入したのは明らかな計画の不備だと指摘している。

朝日新聞はガスはジアゼパムであった可能性も指摘している。ガスのことばかり引用してしまったが、いずれにしても、かなり強硬な解決であった。チェチェン問題そのもののロシアの対応、および今回のテロ対策のありかたなど内外から厳しい追及を受けることは必至かもしれない。

HIYORIみどり 「人質をゲリラが殺し始めたから突入したっていうけど、テロリストが殺す以上に政府側が殺してしまうことになったような気がしないでもないわ・・・痛ましくて記事を読めないわ」
KAZAみどり 「ゲリラは爆弾を腰に巻いていいていつでも導火線に火を付けられるようにしていたわ。人質の救出のためには一刻の猶予もできなかったという状況だったようね。劇場ごと吹き飛ばされた場合を考えたら、最悪の事態は回避できたと考えることもできるかもしれない。」
HIYORIみどり 「他に方法はなかったのね」

KAZAみどり 「説得には応じなかったし、プーチンもチェチェン政策を変えるつもりはなかった。歩み寄るところは最初からなかったわけよ。でも毒ガスのようなものを使ったことを含め、作戦のあり方は人道的にも問題がありそうね。」
HIYORIみどり 「逃げるゲリラを後ろから撃ったという目撃談も語られ始めたらしいわ。人質の方々の精神的なショックも考えると、キメ細かいサポートがいるわね。」

2002年10月27日日曜日

【風見鶏】「不良債権処理加速か!デフレ対策か!」

10.27 サンデープロジェクト(テレビ朝日)

麻生太郎(自民党政調会長)、相沢英之(デフレ対策特命委員会委員長)、加藤 寛(千葉商科大学学長・前政府税制調査会会長)、大村秀章(内閣府政務官)が出演し、竹中金融相の不良債権強行処理路線のどこがまずいのか、分かりやすく討論する、ということだったのだが・・・ぜんぜん分からなかった。

麻生政調会長も不良債権処理を行わなくてはならないという認識は持っているが、「いまなぜ必要なのか、今はデフレ対策が必要」と主張する。土地本位制の日本において、デフレにより資産の目減りが大きい、不良債権は処理しても処理しても生まれているとのこと。

更に麻生氏は「バブルの時の不良債権はほとんど処理が終了した。今の不良債権はその後に生じたものだ」と言う。番組のコメンテーターにも「不良債権処理の額の実態を知らないで、不良債権問題が進まないというのは危険だ」と批判していた。

あれれ、そうだったのか。流通も建設も巨大不良債権と言われていた銀行のお荷物は、もうすでに処理が終わってしまっているのですか。それは認識不足でした。

で、結局のところ、不良債権だけ処理する、あるいは銀行の自己資本比率を下げることの何が悪いのか(貸し渋りが増えるってことだが)、具体的にはやはり分からなかった。それどころかデフレ対策として何をもってくるのか? 麻生氏は、国債発行30兆円枠にとらわれず補正予算で民間の投資がおきやすくするようにすべきとの考えと、減税を主張しているのだが・・・。

HIYORIみどり 「それにしても相沢委員長、すごい迫力ね。東京帝国大学卒っていうテロップではっとしたけど、84歳なのよ!」
KAZAみどり 「ああいう金融界の重鎮がまだ政財界にウヨウヨいるのでしょうね。竹中案のように銀行が国営化されたら銀行幹部がパージされて、国が銀行業務すると受け取れるんだけど、それってアリ?て気もするんだけど、あまりそこの言及はないわよね」
HIYORIみどり 「以前紹介した増田俊男のサイトでは、国営化して830兆円の貯金ごとアメリカに渡すための布石だって言っているけど・・・」
KAZAみどり 「・・・わからないわね、そういう見方をする人からは、売国奴となるでしょうね。でもそんなことして何になるの?」

2002年10月26日土曜日

【風見鶏】「不良債権――「竹中いじめ」の無責任」

10.26 朝日新聞 社説

おやおや、確か朝日の紙面は竹中の強行経済改革案に対して否定的な記事を書いていたと思ったら、今日の社説ではフォローしているではないか。

彼らこそ、日本経済の病根であるこの問題をとっくに解決していなければならなかった人々だ。まともな代案を持たないまま、みずからの責任を平気で棚あげしてしまうその姿は、あまりに見苦しい。

ということを見かねての主張のようだ。竹中の改革案を「荒治療」としながらも「事態の深刻さを考えれば、基本的な方向は正しい」と指示している。ずいぶんスタンスが書く人によって変わるものである。

同日の朝日の紙面では、米国は未だに竹中の案を指示していること、支持をしているのは竹中の人格ではなく、政策であることを改めて強調しているらしい。

一方、竹中氏は銀行トップなどの猛反対に合って、妥協点を見出そうとしているようだ。

私はこの混迷度合いを見るに付け、一体日本の病根は何なのかと疑問を感じてしまう。病根そのものは、今回の混迷を作り上げた、その当事者たちそのものなのではないだろうか、と考えて暗鬱な気分になってしまう。この先、論点のボケた議論になってしまわないことを切に望みたい。

HIYORIみどり 「それはそうと、ワシントンのスナイパーもやっと逮捕されたわね。モスクワではチェチェンからのロシア軍撤退を求めて劇場に立てこもったゲリラが、軍の強行突入により射殺されてしまったわ。人質は解放されたようだけど犠牲者も多く出たわ・・・」

KAZAみどり 「日本でも民主党の石井紘基衆院議員が刺殺されるという異常な事件が起きたばかりね。政治家が殺されるというのは、実は1960年の社会党の浅沼委員長以来なのよ。世界は、まさに多様なテロリズムの時代に突入したという印象さえ受けるわ。日本だって世界の中でしっかりしたスタンスを確立しなくちゃならないんだから、早く経済的な基盤を立てなおしてもらいたいわ」

マクサンス・ラリュ-&アンドラシュ・アドリアン 二大巨匠の夕べ

日時:2002年10月25日 19:00~
場所:ポルトホール(浅井学園大学 北方圏情報センター)

フルート:マクサンス・ラリュ-、アンドラシュ・アドリアン ピアノ:占部由美子
フルートオーケストラ:フルート・アンサンブル・Sapporo 指揮:阿部博光

��.A.モーツアルト:ディベルティメント第15版より第二楽章 KV.287 (フルートアンサンブル)
チマローザ:2本のフルートのための協奏曲 ト長調(ラリュ-&アドリアン、フルートアンサンブル)
シューベルト:ソナチネD-dur D.384(ラリュ、ピアノ)
ドップラー:リギの思い出 op.34(Fl:ラリュ-、AltoFl:アドリアン、ピアノ)
クーラウ:2本のフルートとピアノのためのトリオ G-dur op.119(アドリアン、ピアノ)
シューベルト:即興曲 B-dur D.935(アドリアン、ピアノ)
ドップラー:リゴレットファンタジー op.38(ラリュ-&アドリアン、フルートアンサンブル)

ラリュ-とアドリアンという二大巨匠が札幌で音楽を奏でてくれた。ラリュ-とアドリアン、それに占部由美子さんのコンサートは以前も開催されたことがあるようだ。ラリュ-は1934年、アドリアンも10歳若いとは言っても1944年生まれ。70歳と60歳という年齢ではあるものの、瑞々しく素晴らしい音楽を奏でてくれた。

曲目を見ると分かるが、親しみやすく、そして心に染みる歌心に満ちた曲が選ばれている。ラリュ-の優美なる音とアドリアンの芯の通った音の二人のアンサンブルは絶妙で、息をのむばかり。いまさら、それぞれの曲の出来映えや、ラリュ-がどうの、アドリアンはどうだなどと述べることは意味をなさないような気がする。ただ二人の奏でる音楽に聴き入り、堪能し音楽に浸ることのできる時間を得たことを喜ぶばかりである。

中でも、ドップラーの「リギの思い出」という曲は、短いも中にも美しさと激しさを持った音楽で、特に印象に残った。解説によると「リギ」というのはスイスの地名、作品はフルート・ホルン・ピアノ・鐘という構成で「牧歌」という副題が付けられているとのこと。ホルンの替わりにアドリアンはアルトフルートを吹き、深く落ち着いた音色を聴かせてくれた。牧歌的な雰囲気でのフルートとアルトフルートの対話の旋律、中間部の激しさと強さ、そしてまた回帰してくる穏やかさと鐘の音色、悠久の時間と、いつまでも変わらない平和なる風景を見せられたような気にさせられた。フルートとアルトフルートのデュエットの美しい音色は今でも耳を離れない。

ところで、アドリアンは、相当茶目っ気のある方のようだ。この演奏が終わった後、彼は何とカウベルを持ってきて、鐘を鳴らしていた女性の首にかけてあげるではないか(^^)ナイス!

ラリュ-とアドリアン、そしてフルートアンサンブルによるリゴレットファンタジーも楽しい演奏であった。二人のおどけた仕草を交えた掛け合いは、本当に息が合っており心浮き立つような気にさせてくれた。編曲のせいもあると思うが、最初のチマローザの場合はバックのフルートアンサンブルが強すぎ、二人の音をほとんど聴き取ることができなかった。一方ドップラーの場合は、伴奏と二人のソロ部分の対比が適切で、フルートデュエットを引立てるような音楽になっていたと思う。

それにしても、このデュエットの完成度といったらどうだろう。恐らく二人が合わせたことなど、今回の演奏会においては数時間だけだろうに、早いパッセージだろうが何だろうが、ビタリとリズムも音も合うその心地よさよ。

アンコールは、曲名は分からなかったがショスタコービッチの小品(ラリュ-&アドリアン、ピアノ)と、フォーレのシシリエンヌ(ラリュ-&アドリアン、フルートアンサンブル)。ショスタコービッチの曲は、明るく親しみやすい表装を装いながらも、彼特有の諧謔性が一瞬のフレーズから鈍い光とともに抉り出されるかのようで、思わずその瞬間は背筋に電撃が走るかのような感触を覚えた。

今回の曲目はフルートのヴィルトオーゾ性を際立たせるような曲ではなく、フルートファンではなくても親しめるような内容であったように思うが、逆にちょっと物足りない印象も受けた。

ラリュ-とアドリアンが、この先札幌のステージに立つことはもうないと思う。演奏会は良いものだったと思うのだが、なぜに、ふたり一緒で、しかもフルート・アンサンブルとの共演という企画になったのかは、実のところ疑問であった。

最後にフルート・アンサンブル・Sapporoは、これを機会に札幌のプロフルーティストにより編成されたものとのこと。札幌フルート協会の小松昭五さん、佐々木信浩さん、松沢幸司さんの他は皆女性。ドップラーではピッコロも吹かれた蛎崎路子さん、中央では細野雅子さん、横には高橋紫さん、北沢里奈さん、後列中央に実藤美保さん、アルトフルートでは楢崎容子さん、バスフルートでは前川茂さんなどなど・・札幌のフルート界では錚々たるメンバーであった。



2002年10月25日金曜日

拉致被害者の行方

どうもよく分からない。拉致被害者を帰国(北朝鮮)に返さないだとか、子供ともども日本に永住させるべきだとかいう議論だ。

拉致は国家の主権を侵されたのだ、まず国が北朝鮮に返さないと主張することに賛同するという意見もある。24年間の無責任を取り返すということなのだろう、国家としては当然の行為とは言える。一方、24年間も待ちつづけた家族の気持もわからないでもない。待って待って、やっとここまで辿り着いたという思いだろう。

でも、拉致されたという方々にも人生がある、しょっているものがある。不幸なる出来事により、考えもしなかった境遇に陥ったが、今までは北朝鮮で、それほどの不自由なく生活していたのだろうと思う。それを、よってたかって、おまえらは不幸だ、日本に戻れの大合唱。

「おまえは不幸な状況だ、状況を見極めろ」と言う事は、彼女あるいは彼らの、精一杯の24年間を否定しさることである。それはあまりにも残酷なもの言いのように響く。

彼女あるいは彼らの「不自由ない生活」がどこまで保証されたものであったのかは、今のところ分からない。また彼女あるいは彼らの言う「幸福」は歪められた現実の上の楼閣であるのかもしれない。北朝鮮が金正日による社会主義独裁政権で、さらに米朝合意に違反するような反社会的行動を取る未成熟な国家である。あるいは、情報、思想など自由主義の思想からは到底受け入れることのできない統制を国民に強いていることが伺えるし、一部のエリートたる高級官僚と一般市民の間には生活面で大きな断絶のあることも確かなようだ。北朝鮮に住むことの利点は、我々から見ると一つもないと思える。

それでも、彼らの日本えの永住帰国ということには、今の段階で疑問と不安を感じる。日本に永住するとして、仕事は、子供たちの教育は、住む場所は、いったい誰が面倒をみるのか。

以前私は、何が幸福か考える必要があるかもしれないと書いた。北朝鮮は横田さんの娘を、国家のプロパガンダに利用するほどの国である。人の人生を国家に巻き込んで平気である。しかし、日本においても拉致問題を政治の手段としてはならないような気がする。拉致と国交正常化は切り離して考えるべきなのかもしれない。

横田めぐみさんの娘さんのように、他の子供たちも「拉致された」という現実に、いつかは向き合う必要はあるのだろう。助言は必要だし助けもいるだろう。しかし、本当に幸福なことというのが何なのかは、本人たちが選択するものだ。そして日本は私たちがすすめるほどに幸せな国なのだろうかと自問せざるを得ないのだ。

いずれにしても、いまの状況は、私には痛々しくて正視できない。

2002年10月24日木曜日

新聞ウォッチ

「日本の危機」というと櫻井よしこ さんの優れた著作を思い出すが、まさに今、私達は日本の岐路に立っていると思う。

失われた10年と長引く不況、進まぬ構造改革と景気対策、教育や医療体制の歪みと崩壊、年金福祉制度の破綻と将来への不安、少年犯罪の増加、近隣諸国との対外外交のまずさ(歴史認識を含め)、そしてそれら、一番国を左右すべき政治と官僚の迷走。

一方、近隣のアジアに目を向けると、韓国の著しい発展、中国の猛烈な資本主義化、インドでの技術者の台頭などなど。日本が国力を保ち、アジアのみならず世界の中での役割を果すことができるのか。

そんなことを考えるにはマスコミの情報、インターネットでの個人サイトなど情報は氾濫しているものの、何がその中でよりベターな見解であるのかを見極めることは困難である。願わくは、○○新聞しか見ていない、という、いつのまにか偏った思想になってしまわないようにと、このごろ新聞ウォッチを始めている。

日本の危機を乗り越える知見が得られるだろうか・・・・

2002年10月23日水曜日

【風見鶏】「竹中経済政策は経済基本原則を無視した暴挙である。」

10.23 増田俊男の時事宣言(10月21日号)

「増田俊男の時事宣言」というサイトを紹介していただいた。そこにタイトルのような意見が掲載されている。HPには「時事評論家、国際金融スペシャリスト」と自己紹介がある。彼は竹中氏を「売国奴」とまで決め付け手厳しい。

論旨を乱暴にまとめると「今回の竹中大臣の政策は、銀行を助けるだけのもので、ひいてはアメリカに資金が渡るような仕組みをアメリカが維持したいという意向に沿ったものでしかない、今必要なのは個人消費を上げること」と主張している。

いわく
「銀行と郵貯にある830兆円の現金は何時でも消費に回る可能性のある超大潜在消費力である。何故この膨大な余剰資金はこの十年間消費に回らなかったのだろうか。それは将来への不安のためではなく、国民所得が増えないどころか、特に消費に直結する不労所得が抹殺されてきたからである」

あるいは
「竹中経済政策の基本は100%サプライサイドに向いた国民犠牲、消費者無視!の基本が貫かれている。ゼロ金利政策は、国民が830兆円から当然得るべき膨大な預金金利という不労所得を横取りし、銀行に与える政策である」

私は今の産業構造を維持したままの解決では、日本の未来はないと考えている。不良債権処理はかなり相当に手ひどくハードだが、産業構造の変革をもたらすきっかけを秘めていると考えている。

増田氏は、国民の所得(可処分所得でも不労所得でも)は、もし消費が回復する状況になったとしたら、どこに向うと考えているのだろう。モノがどんどん売れるように、果してなるだろうか。人の欲望と時間を吸収し続けることの可能な製品が、このさきばら色のように生まれるとは思えない。

だとすると、消費はどこに向うのか・・・個人の欲求を満たすという意味では付加価値とサービス(教育・医療、観光などの余暇も含む)に、しかしそれ以外に消費が向う先が見えない。

HIYORIみどり 「830兆円の貯蓄ですって! 1億2千万人で割っても、ひとり当たり700万円よ。でもそんなに貯蓄あるの? ウチなんてスッカラカンなのに」

KAZAみどり 「貯蓄を持っている年齢層、または階層という観点が抜け落ちているわね。若い人には貯蓄はないと思うわ。数パーセントの高所得者と退職近傍の高齢者に貯蓄は集中しているというのが、わたしの感触ね」

HIYORIみどり 「銀行とか企業が豊かになるのじゃあだめなの」

KAZAみどり 「日本のカイシャは経費天国と呼ばれていてね、経費が第二の給与とまで言う人もいるわ。今までもそうだけど企業が豊かになるほどには、サラリーマンには給与という形では還元されていないのよ」

【風見鶏】 「竹中ショックが日本を救う」

ネットがない、銀行や企業をつぶすことが先決になっている、実態経済にそぐわない、などなど。
しかし、アメリカをはじめとする海外では、竹中氏の金融政策を支持する声が多い。競争原理の働いている厳しい市場経済を前提にしている諸外国からすると、当然の方針ということなのだろう。 

日本経済は最近、中国以上に社会主義的であるとの批判も内外で聞かれている。(例えば公的資金として注入した優先株を普通株にするつーことは、国が50%以上の株を持つ銀行は国営になるってことなのかい?) 私は経済には(も)疎い。確かに自分の会社が潰れたら路頭に迷うものの、このままで良いとも思えない。

小泉内閣の掲げる「構造改革」が実態を伴なっていないことに問題があるのだが。政治家とともに我々も含めて「日本が危機あるいは岐路にいる」という認識が、どこまであるのだろうか>てヒトゴトみだいだけど>だから、 Kazaみどりちゃん と Hiyoriみどりちゃん なんだってば 

HIYORIみどり 「竹中さんて、な~んかかわいそう。学者に何ができるって批判されているけど、そういうあんたが何できるの、て思っちゃう。みんな評論ばっかりよね」
KAZAみどり 「木村剛さんも、いかにも~ってカオしていて、反発受けそうよね。言っていることは間違っていないようなんだけど。そろそろ中間報告でるんでしょうね」

【風見鶏】「Japan Delays Banking Changes」

10.23 The New York Times
竹中大臣が中間報告を送らせたことをNY Timesが報じていた。彼が中間報告を送らせたことを知らないブッシュ大統領は、今日のプレスクラブでの昼食のスピーチ(a press club luncheon speech)で、彼の方針を褒めちぎったばかりであるとのこと。 

記事は、青木参幹事長が竹中に真っ向から反対したこと、昨日の記者会見でのUSJ銀行頭取 寺西正司頭取のコメントなどを紹介し、最後には竹中の改革を支持するコメントで締めくくっている(以下)。
「John B. Taylor, United States under secretary of the Treasury, told reporters in his luncheon speech today: "Minister Takenaka, I understand, has established some principles for dealing with nonperforming loans. I agree very much with these principles. They make sense, and we're supportive of those."」
ここ1日半の日本経済界の動きと不良債権処理という点は重点的に説明しているものの、セーフティネットをはじめとして、反対勢力が何を論点としているのについての言及は乏しいように思えた。 

先に紹介した増田氏の主張については、私には判断できない。ただ、アメリカは失業者が出ても競争原理を徹底させ銀行を健全化させることを強く望んでいることだけは確かなようだ。

【風見鶏】「N.Y. Times to buy Post's 50% share of IHT」

10.23 International Herald Tribune

23日の朝日新聞朝刊(2面)でも報じられていたが、パリに本拠を置くインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(以下IHT)が100%ニューヨークタイムズ(以下 Times)の子会社になることになった。ワシントンポスト(以下 Post)が所有していた残り50%の権利を全て買い取ることにしたという。

今までは、IHTは独自の記事と、Times と Post の記事を掲載していた。世界的な新聞社にとっては、どこと記事を提携するか、あるいはどこと提携して自社の記事あるいはオピニオンを掲載させるか、ということは戦略であるらしい。IHTの子会社化はTimesの世界戦略のひとつであるらしい。

IHTの記事からは、Post と Times が水面下で、様々な駆け引きを行いながら今回の結果に導いたことを説明しているが、経営に関し、PostとTimesでの対立があったようだ。(PostとTimesのIHTとの関係は1960年代後半から続いていた)

気になるところは、TimesのIHTに対する経営関与とともに、IHTのオピニヨン誌としての独立性である。

IHT誌の記者であるPeter C.Goldmark Jr.は以下のように述べている。

"A change in ownership is intended," Goldmark said in a statement. "But there will be no change whatsoever in our commitment to quality, independent journalism. That is what we are, that is what we stand for, and that is what we shall remain."

またIHT誌の編集長 David Ignatiusは以下のようにも述べている。

he hoped the Times would maintain the IHT's role as an international newspaper. "The IHT is a great paper with a long history and a devoted readership," Ignatius said. "I hope the Times will respect the paper's traditions, its dedicated employees and its loyal readers."

我々の感覚からすると、新聞社が他の新聞社を100%子会社にするというのは、系列を除けば違和感を感じるが、Ignatiusは IHT の戦略について以下のように述べている。

The IHT's strategy in recent years has been to combine the strong journalism produced by its parents with reports from its own network of correspondents and stringers. The goal was to produce a newspaper that "spoke with an American accent," according to Ignatius, but maintained an international perspective.

ちなみにIHTは、日本では朝日新聞と記事の提携関係にある。日本では「朝日ヘラルド」という英字新聞が出版されていたはずである。

HIYORIみどり 「でどういうことなの? IHT誌がTimesよりの意見に傾きやすくなるてこと?」

KAZAみどり 「そんなこと聞かないでよ、IHTとかTimesをウォッチし始めてまだ10日も経っていないんだから! そろそろ忙しくなってきたんで止めようと思っていたら、この記事だったわけよ」

【風見鶏】金融安定化策、自民党の反発で発表見送り

青木参幹事長やら抵抗勢力に猛烈の猛烈な反発にあって、中間報告が見送られた。 

日経によると、「税効果会計について2004年3月期までに米国並みの厳格な基準を採用するよう銀行に要求している。ただ株価などへの悪影響を懸念する自民党が反発」とある。 

日経社説では「金融健全化へ首相が指導力を発揮せよ」として、「重要なのは、銀行の不良債権とその裏側にある企業の過剰債務問題の両面の課題解決に今度こそ本気で動くというメッセージを発信できるかどうかだ。その成否の責任は小泉首相が負うべきである」としていた。 

一方、同日の朝日新聞社説は「国会論戦――こんな首相は見たくない」として、首相の自民党の顔色をうかがう、主体性のない指導力に落胆を隠せない論調であった。朝日は紙面で、竹中氏の事前調整不足、小泉首相との財政出動の点での意見のずれ、不良債権処理だけが突出した強硬路線では、各方面からの反発は当然と書いている。 

私はこの中間報告の是非を問えるほどに経済通ではないのだが、「また先送りか」という思いは強い。自民党をはじめとする与党の実力者は、ではどういう代案があるというのか。セーフティーネットは必要だが、政策として代案を出せるのか。反対して足を引っ張るばかりで、代案をまとめて小泉首相に提示あるいは取って代わろうという気概はあるのかと問いたい。 

不良債権処理が先にありきというハードランディングに批判が集中するが、入口論、出口論に終始する間は議論に収束は望めないような気がしてしまう。
青木参幹事長は「民間人ばかりの意見を聞いて、議員の声を聞かず、議会制民主主義に反する。失敗したら誰が責任を取る」と首相の手法を否定する。確かに私達は選挙で議員を選んではいる。しかし、彼らがどこまで国民の声を代弁してると言えるのだろう。(そもそも、今まで日本の経済失策で誰が責任を取っているのか) 

都合の良いときだけ数の論理と議会制民主主義を振りかざし、首相がリーダーシップを発揮すると「ファッショ」だ「独裁だ」と騒ぎ立てる。駆け引きやまやかしはいいかげんにして、本当に再生への具体的政策を一刻も早く示してもらいたい。 

HIYORIみどり 「でもさあ、不況って言うけど、本当に不況なの?」 
KAZAみどり 「ものの値段も下がっているし、企業は利潤を以前ほどは得られなくなっているわ。だから多くのサラリーマンの給与も横ばいか下がっているわよね」 
HIYORIみどり 「でも、それってバブル以前と比べたらどうなの?」 
KAZAみどり 「業種によって違うでしょうね。どの業種であってもバブルのときよりは落ちているけど、バブル以前と比べるとどうかは分からないは。バブルで考え方まで変わったと思わない?一度覚えた甘さは忘れられないてことかしら」
HIYORIみどり 「銀行や企業が再生したら、またバブルみたいに景気がパーッとよくなるわけ?」 
KAZAみどり 「それはないんじゃないかしら。結局私達がどういう社会を目指してゆくのか、どこに資本と労働力を投資するのか、私達の生活の豊かさとは何か、国際的な日本の役割は何か、というような理念は必要だと思うわ」

2002年10月22日火曜日

【風見鶏】都市再生関連法改正は悪法か? 

02/10/22 たけしのTVタックル

全てを見たわけではないが、「都市再生関連法案」は都会にダムを作るようなもので、ゼネコン利権から抜け出せていないという主旨のおしゃべりを展開していた。

私は法案自体が悪法であるかという判断ができるほどに詳しくはないが、「開発ありき」の姿勢が前提だとすると、はやりそれは本末転倒であるとは思う。2003年3月問題といわれるくらい、都心部ではオフィスが過剰供給される。オフィス需要量を見込んだ開発であったとは到底考えられない。

同法案がゼネコン最後の切り札という言われ方もするが、このような法律がなくては仕事が生まれないのだとすると、やはり建設市場は熟成産業となり継続的な発展が停滞したということなのだろう。市場は遅かれ早かれ、そのような経緯をたどるものだ。

成熟産業となった場合には、利幅も少ないため、賢明なる経営者は早々にビジネスモデルを変換するか撤退するというのがビジネスのセオリーだ。言うのは簡単だが、業態の転換は恐ろしくリスキーではある。

KAZAみどり 「ゼネコンていったい何なの?必要悪なのかしら?」

HIYORIみどり 「ゼネコンて響きも悪いわよね。公共事業がないと"銭来ん!" て言っているみたい、キャハハァ~。 あ、怒った?」

【風見鶏】「竹中金融相の原則を支持」

10.22 産経新聞
TV朝日ニュースステーションでも知らせているが、アメリカのテーラー財務次官が訪日して、竹中の経済政策にエールを送っている。彼はニュースステーションによると「Mr.ガイアツ」と呼ばれており、かつて日本の経済政策について強いプレッシャーをかけたことのある者だ。 

テーラー財務次官は竹中の中間報告案について、「常識的で、意味がある」とし、改革にはコストが発生するが、問題を先送りすれば「かえってコストが増大する。先延ばしにする理由はないと述べたされている。
 
USJ銀行頭取は、今回の銀行の自己資本査定の見直しなどについて「今までわたしたちは、手をつかってはいけないというルールのもとで、サッカーをやっていたつもりだった。それが突然、あなたたちのやっていることはフットボールだと言われても困る」とコメントしていた。
アメリカと日本の税制が違うのに、同じアメリカの基準で判断するのはおかしいと指摘するアナリストもいる。USJ銀行頭取の発言が正しいのか、あるいは、あるいはアメリカのスタンダードの押し付けなのか、これも議論が分かれるかもしれない。 

HIYORIみどり 「でも、急に"あんたらの常識ちゃいまんねん"て言われても、困っちゃうじゃない」
KAZAみどり 「そうね、銀行幹部は首を洗って待ってなくちゃならないものね。最終的に銀行を助けたら国民生活は豊かになるのか、ということも見えないのよ」

【風見鶏】

02/10/22 産経新聞 社説onLine

22日付け産経新聞社説は、中国の北朝鮮への軍事力を含めた圧力を期待するとともに、「無条件に徹底的な査察による検証を求めるべきである」と主張している。22日付け USA Today も「Bush wants China's support  N. Korea's nuclear program will be 'issue No. 1' during Jiang's visit」という記事がトップに踊っている。

北朝鮮が崩壊した場合のシナリオはどうなるのか、難民が日本にも押し寄せるという以外のマイナス要因として何があるのか。真面目に議論されねばならない。

金大中大統領のもと「太陽政策」を維持する韓国の意図はどこにあるのか。韓国は北朝鮮を維持しようとしているのか、あるいは崩壊することを期待しているのか・・・韓国統一は悲願ではあるものの、大量難民の受け入れは難しいだろう。

日本は、北朝鮮の金正日体制を維持させたまま国交正常化を求めるならば、日本が安全であるという確証を得ることが前提だろう。日本にミサイルを向けている国と正常な国交ができるだろうか。北朝鮮をそれでも信じる、というのは、おめでたい としか言いようがない。核だけではなく通常兵器についても査察されるべきだと思う。日本政府は確たる外交的対応=日本を守る ということができるだろうか。

HIYORIみどり 「みんなが北朝鮮に目をむけちゃったわよね」

KAZAみどり 「そうでもないわ、インドネシアやイスラエルでテロが続発してるし、相変わらずブッシュはイラクに強硬よね。ワシントンのスナイパーも新たな犠牲者を今日出したみたいだし。なかなかオバカな話題はこのごろ少ないわ」


【風見鶏】 「北朝鮮の核、日本が標的」 

北朝鮮の核開発問題を協議するため来日した米国のケリー国務次官補が日本政府要人との一連の会談で、「北朝鮮の核のターゲット(目標)は日本だ」と述べていたらしい。別に驚くには当たらないだろう、北朝鮮の脅威は昔から指摘されている。テポドンだって日本を標的としているのだろうし、北朝鮮の「学習組」が、結局は日本の北朝鮮化を各策しているということなど、その筋では周知だろう。

日本に向けて、通常ミサイルが北朝鮮から発射されたとする。米国はそれをレーダーで察知できるので、日本の首脳に緊急連絡をする。しかし、日本にはそれを迎撃するハードも、ソフトもないわけだ。内閣官房あたりでオタオタしているうちに、ミサイルは着弾する・・・(アメリカだったら迎撃できるのか、というモンダイはあるが)

外交姿勢を含め、日本の安全補償をどう考えるか、てことが抜け落ちている平和ボケ日本の現状も困ったものなのだが、かといって、「有事法制」に全面賛成できないところが Kazaみどりちゃん つーか、Hiyoriみどりちゃん つーか・・・

HIYORIみどり 「あんたタカなの?」

KAZAみどり 「タカピーではないわ。ハトピーてのはなんだか美味しそうね。鳩が豆くらって逃げるんだから、情けないけどね」


拉致被害者の帰国は本人の意志か? 
02/10/22 阿部官房副長官談

「北朝鮮に帰るのは本人の意志を尊重したい」だって? あれれ、いつから彼らは北朝鮮人になったのだい? 本人の意志以前に、彼らを守ることを放棄してきた日本政府。今後はどういう保護とサポートを提示するの? 帰国後の就職、子供の教育・・・彼らだって日本での生活は、北朝鮮のそれ以上に不安だろうに。何も手を打たずに「好きにしていいよ」では無責任にもほどがあると思う。

マスコミも、いつまでも歓迎ムードの一過性のお祭り騒ぎを止めて、地に足のついた帰国支援キャンペーンでもはるべきではないか。

HIYORIみどり 「曽我さんはずいぶん、表情がやわらいだわよね~。蓮池さんも、い異雰囲気ね。”いつまでも新婚の雰囲気で”だって~」

KAZAみどり 「みんな忘れないで欲しいわね、こういう雰囲気で歓迎したことを、責任を持って欲しいわ」


2002年10月20日日曜日

【風見鶏】日本の技術レベル

ノーベル賞のダブル受賞で、日本の底力や企業の実力はまだまだ捨てたものぢゃないという意見も多いと思うが、田中さんは43歳。教育の荒波に巻き込まれるひとつ前の世代だ。おそらく共通一次試験の最初の世代なのではなかろうか。

現在の教育を続けていては、今後このような幸福な受賞は二度とないのではないかと不安になる。教育に関しても、企業活動にしても韓国、中国、インドなどに遅れをとりつつあると感じるのは私だけだろうか?

HIYORIみどり 「インドでは20までの掛け算を暗記するんですってね、すごいわあ」

KAZAみどり 「日本の小学生が九九でヒーヒ言っている場合ぢゃないわけよ、ヒーヒーてことは、1×1なんだし・・・」

HIYORIみどり 「相変わらず意味不明にサムイけど許すわ。私、7×6は6×7とか、8×4は4×8みたいに(小さい数)×(大きい数)と変換しないと値がでてこないの。横着して九九は半分しか覚えなかったの・・・許して・・・」

緊迫する国際情勢 2

10月19日付けのInternational Herald Tribune (電子版)を見ていたら「Korea atom effort: U.S.knew early on But North's admission was a surprise」という興味深い記事が掲載されていた。

これによると、米国は2年程前から米国は北朝鮮での核開発の疑惑について証拠をつかんでいたらしい。核疑惑の真相を確信しつつあるときに小泉首相の訪米の情報が届いたらしい。これについては、「A new debate within the administration ensued, but it was interrupted by the surprise announcement from Koizumi that he was making his own high-profile visit to North Korea.」と書いている。

そして、小泉首相は訪朝前の12日に、ワシントンにて核疑惑の証拠について伝えらたとしている。

更に米国は、核疑惑について日本が北朝鮮にプレッシャーを加えることを期待するとともに、10月3日から5日にかけて自ら北朝鮮と交渉を行い、核疑惑について証拠を突きつけたわけだ。米国は北朝鮮が核疑惑を認めるとは全く想定してなかったらしく、そこのところは IHT の記事は「A senior U.S.official said the delegation assumed the North Koreans would deny the charges, as they did the first day, and U.S.officials were prepared to freeze any cooperation」と書いている。このことこそ、アメリカの意図だったのではなかろうか。

記事は、アメリカが日本が日朝交渉を単独で勧めてゆくこと、更には北朝鮮が「悪の枢軸」から外れてしまうことを望んでいないというShigemuraのコメントを引用している。もしも、外れてしまったら、現在のアメリカとテロリストの戦いが、アメリカとイスラムの戦いということになってしまうことは、米国の望むところではないというのだ。

うーん、ここまでくると分からないねえ。

そんな記事を見つけた後、The NewYork Times(電子版)を見ていたら、曽我ひとみさんと結婚してるとされる、アメリカ人のJenkinsについて「News of Ex-G.I. in North Korea Only Deepens Mystery It was the unlikeliest of marriages」とする記事が掲載されていた。

これによると、Jenkinsは亡命したことになっているが、アメリカに住むJenkinsの家族はこの事実を信じてはいない、ネイティブな英語を教えるための人材として、同様に拉致されたのだと考えているらしいのだ。Jenkinsは拉致被害者が日本に渡るときに見送りに飛行場まで来ている。その際に日本の外務省官僚と会話をしている。日本に帰宅はないかという質問に対し彼は、「It might be difficult for me to vist Japan, until my situation improves」と答えているらしい。

米軍は長く、Jenkinsを亡命者として扱ってきている。それは1960年に彼によって家族に向けて書かれた farewell letter とラジオ放送をもとにしているというが、家族はその手紙そのものを偽者と主張しているらしい。家族は一度も手紙など受け取ったことがないと。

うーん、ここでも謎は深まるばかり。

世界情勢は推理小説よりも奇なりだ。朝鮮銀行のことまでは、書けなかったよ。今回は、引用ばっかりだなあ。


2002年10月19日土曜日

18日から臨時国会がはじまったが、産経新聞と読売新聞は、またぞろ個人情報保護法案と有事法案の成立に向けた論調を張り始めた(10月17日 両新聞社説)。同日の新聞では、イラクでフセインが100%の得票率で再選されたことも報道していた。23年間も大統領の地位にあるということそのものが異常で作為的と感じる。反米感情の高まりも後押ししているのだろうか。

米国は相変わらずイラクへの強行姿勢を崩さない。素行不良な生徒に「おまえは素行が悪いし問題を起こしやすい。ちょっと目を離すとアブナイ行動を取るから、ポケットに隠しているものを全部出しなさい」と、後ろ手にバットを握って迫る暴力教師のような感がある。10月17日付けのNewYork Times誌 と WashingtonPost誌(電子版)は、ともに「Bush Signs Iraq Resolution」(米大統領、イラク武力行使容認決議案に署名)が一面トップに掲載されていた。

ブッシュ大統領は、以下のように語っている。

Our desire is to help Iraqi citizens to find the blessings of liberty within their own culture and their own traditions, The gifted people of Iraq will flourish if and when oppression is lifted. When Iraq has a government committed to the freedom and well-being of its people, America, along with many other nations, will share a responsibility to help Iraq reform and prosper. And we will meet our responsibilities. That's our pledge to the Iraqi people.

イラクの国民、フセインに投票した人も しなかった人も、実際はどう考えているのか。

これは、北朝鮮についても同様だ。拉致被害者が思ったほど悲惨な日常生活(衣食住に関して)を送っていてはいなかったと知り、ほっとした人は多いだろう。しかし、実際の北朝鮮の実態はどうなんだろう。「親愛なる金正日総書記・・・」というフレーズを言わないと政治犯、実際の姿が見えてこない。

両方とも悪の枢軸・・・我々が見ているのは、地球から見える月面だけではないのだろうか。

てなことを考えていたら、10月18日の北朝鮮の爆弾発言だ。「N. Korea admits nuclear program」という見出しがアメリカの新聞(電子版)に踊っていたので驚いた。小泉首相が日朝国交正常化交渉を月末に控えたこの時期にである。18日のNHKニュースではトップ扱いでこの話題を報じていた。22時のニュースに出演していた解説員は「北朝鮮の瀬戸際外交という従来の考え方と、大いなる譲歩の第一歩という両極端の考え方がある」と述べていた。

10月19日の、日経、朝日、読売、毎日、産経の各誌社説(電子版)は、こぞって北朝鮮の「瀬戸際外交」を非難している。国際的にも非難されるべきだと。

ブッシュはイラクとは温度差があるものの、北朝鮮に対して強行姿勢(外交的手段)を講じることを強調している。と思っていたら、18日のNewYorkTimes誌(電子版)には「U.S. Says Pakistan Gave Technology to North Korea」としてパキスタンが北朝鮮に核開発の設備を供与しているという記事が踊っているではないか。

私には、この複雑な国際情勢を読み解く力がない。一体どうなるんだろう(@_@;;;

◇◇◇◇

このごろ海外の新聞(電子版)をヒマなときにウォッチしている。英語は不得手なので見出しとリードくらいしか読まないのだが、日本の新聞しか見ていないと気づかないことが書かれていて興味深い。

もっとも、9.11テロ以来、NewYork Times誌 や WashingtonPost誌の論調が変化したと指摘する人もいる。あからさまなブッシュ批判が影を潜めてきたというのだ。そういう点では、英語が得手ならイギリスの新聞(Guardianなど)やアジアの新聞(Asia Timesなど)も参照する必要があるんだろう 、実際はそこまでは目も時間も回らないが。

2002年10月18日金曜日

【風見鶏】朝日新聞朝連載「転機の教育」

朝日新聞朝連載「転機の教育」として、教育問題を考えるシリーズを連載している。文部科学省のゆとり教育に対するスタンスのブレに戸惑う教育現場、進学塾や中高一貫校への加熱などを取り上げている。家庭の所得や住む場所に起因する格差についても、読者の声などを紹介しながら展開、一方で総合学習などを含めた学校側の模索や取組みも紹介している。

私は「ゆとりばかり強調しても学力が低下する」とか「今までの詰めこみは弊害がある」とかの議論は一面的でしかないような気がしている。どちらも正しいし、どちらも間違っているように思える。

事実としてあるのは、大学生を含めた全体的な学力の低下(トップも平均も)、日本人の知力の低下と幼稚化である。このままでは国が滅びると思う。日本の教育に対する大きな考え方が必要なのではないのだろうか。小学校から大学院まですべて国が管理する教育体系、平等と均等であることを是とする方針についての議論は必要ないのだろうか。

HIYORIみどり 「要は文部科学省がばかってこと?」

KAZAみどり 「国民も輪をかけてヌケサクてことよ」


北朝鮮拉致被害者の帰国 3

北朝鮮から一時帰国した方々が故郷の土を踏んだ。過剰なまでの報道や歓迎ムードにいささか行き過ぎのように感じると書いた。昨日もある種の違和感を持って報道に接したのだが、暖かく迎えた家族や幼なじみとの再会の場面を見ると、やはり心に熱いものを覚えてしまうことは否定できない。(積極的に見たいとは思わなくてもTVニュースをつけると報道しているのだもの)

彼女あるいは彼らには、郷土での諸手を上げての歓迎は何よりの贈りものだったかもしれない。そっとしておいてやりたいと考える反面、こういうお祭り騒ぎのような歓迎の仕方も、良いのかもしれないと思うのだった。帰国当初の記者会見と今回のインタビューでの表情の違いを見るにつけ、彼女あるいは彼らの空白部分を少しずつ埋めていくのだなあと思った。

��V朝日の論説員がニュースステーションで述べていた。心のリハビリには静かな環境と、すべてを受け入れてくれる家族や友人が必要だと。故郷はそのどちらも満たしていたと。私のようなドライな考え方は、都会に住む者の無関心な考え方だったのかもしれないと思い直すのであった。ただ、ここまで歓迎しておいてムードが去った後には冷たく当たるというのではいけない。一時的な歓迎ではなく、末永いサポートであることを望みたい。

2002年10月17日木曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国 2

拉致された方々について、次々に情報が流されている。一挙一動が全国民の目に晒されるような感さえある。マスコミは彼女あるいは彼らが何を食べ、何を話したか全て知りたがっている。

何かあれば家族会が記者会見にて話す。郷里に戻っても歓迎会と記者会見が用意されている。こういう状況は異常ではないのだろうか。

たとえば15日の帰国の日の各社のTVニュース。彼女あるいは彼らから得られる情報が微々たる物であったため、各局は再び今まで何度も何度も目にした、被害に遭ったときの場所や状況を、壊れたレコードのように繰り返し垂れ流した。ある番組は、彼女あるいは彼らの24年前と今の写真を拡大して並べ、番組の間中見せてくれるという親切さだ。24年間の時の重みを感じさせたいのだろうが、そんなことを、貴方ならして欲しいだろうか。貴方が今、幸福な状況にあるとしてもだ。帰国以前あるいは生死がわからない間は、24年前の写真は「記号」でしかなかった。しかし生身の人間が現在したその瞬間、それは「記号」なんかではなくなる。

こういう報道姿勢に違和感を感じないだだろうか。

ここで新潟の少女監禁事件(*)を思い出す。小学4年生だった少女を9年間に渡って監禁していたという異常な事件だ。あの事件では、被害者の人格と今後の社会復帰を考えて、報道は彼女に対してある程度の距離を置いた報道をしていたと思う。

その事件と、同じだとは言わない。でも、と感じるのは私だけだろうか?

結論から言うと、しばらくはそっとしておいてあげたいということだ。彼女あるいは彼らから、我々は感動をもらわなくても十分である。私たちは彼女や彼らに比べれば、はるかに安全で幸福な環境で、さまざまな刺激を受容しながら生きてきている。だから、彼女や彼らに悲劇の主人公のような役回りまで果させたくはないと思う。北朝鮮でも日本でも良い、彼女あるいは彼らが望む方法で、好きな場所で、普通に生活してくれればそれでいい、その結果を私は積極的に知りたいとは思わない。ましてや、日本と北朝鮮関係を変えて行くための役割を果すということは、本人の意志があれば別だが、酷すぎはしないだろうか。

ただ、北朝鮮問題、戦後の問題など、私には多くのことがわかってはいないのだが・・・

(*)2000年1月、9年前に失踪した当時小学校4年生の少女が9年2カ月ぶりに柏崎市で発見された。事件が起きた同県三条市から、わずか数十キロ離れたところである。少女は、誘拐したSex Offenderの男の家でずっと監禁生活を強いられていたのだった。男と少女は2階に住み、他人を一歩も入れず、階下には男の母親が召使同然の状態で住んでいた。少女は19歳になり、男は37歳になった。少女は直ちに親元に帰されたが、足掛け10年に及ぶ軟禁生活が彼女の今後の人生にどう影響していくのか。さらに、なぜこの男が警察の捜査網から漏れていたのか。野放しのSex Offenderの現状とともに、二重の意味で国民は大きな衝撃を受けた。


2002年10月16日水曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国

北朝鮮に拉致されていた5人の方々が帰ってきた。さぞかしつらい思いであったことだろう。24年ぶりの抱擁には万感の、言葉にはできない感情が詰まっていたのだろうと思う。まずはよかったと言いたい。

しかし、この歓迎ムードに水をさすようだが、ふと思うことがある。マスコミの熱狂的な報道と私を含めたそれを見る者についてだ。報道に接するものは、報道から何を期待しているのだろう。熱烈な歓迎と帰還の喜び、あるいは変わらぬ家族愛だろうか。マスコミは多くのドラマが込められているので、ここぞとばかりに煽るように報道している。

でも、私の場合、冷たいと言われればそれまでだが、どうしても白けてしまう。皮肉な見方かもしれないが、彼女あるいは彼たちに、心からよかったいう気持が起こる反面、彼女あるいは彼らが北朝鮮に洗脳されてしまっていること、あるいは人質として家族を北朝鮮に取られている不幸な状況を、彼らの発言から読み取りたいと無意識のうちに思ってはいないか、そして、やっぱり北朝鮮は不気味で変な国だと再確認したいと思ってはいないか、と考えてしまうのだ。

最近閉幕したアジア大会での一シーンを思い出す。アジア大会には北朝鮮は美女応援団を派遣した。しかし彼女たちの不思議なそして違和感のある応援体操を見たとき、そこに北朝鮮の全体主義と総書記への絶対性に対する嫌悪に似た感情を感じた人もいるだろう。嫌悪の先にあるのは、北朝鮮は「アブナイ国」であるという認識(これもマスコミを通して喧伝されている認識だが)を新たにし、安心するようなところがないだろうか。

拉致被害者が「情報のカタマリ」という表現にもひっかかる。彼らはきちんとした人格と自我を持った人間であるはずだ。彼らは本当に不幸なのだろうか、いや不幸だったのだろうかと考えてみることは無意味だろうか。(間違いなく不幸な状況から始まったことは否定しないし、おそらく現在も不幸な状況=自由を制限された状況であるとは思う)

10月16日付のNewYork Timesは、日本の熱狂を横目に見ながらも「Abducted a Lifetime Ago, 5 Japanese Come Home for a Visit」として、帰国報道をトップページに掲載していた。米軍から脱走したCharles Robert Jenkinsのことに若干触れている点が、日本の新聞とは少し違うが論調は同じである。

拉致被害者の北朝鮮に残してきた家族が人質のようなものという点に関しては、「Pyongyang has said that the six children of the returnees did not want to accompany their parents to Japan. But in Tokyo, the Japanese grandparents said the children were being held as hostages」と言及するにとどめているようだった。

NewYork Times 記事は最後に「拉致して殺してしまう」という小泉首相の発言を紹介して終わっているが、米国にとってはどのような事件として写っているのだろう。少なくとも NewYork Times からは、悪の枢軸論を印象付ける記事という感じは受けた。ただし今の米国の主要話題は、ブッシュVSアルカイーダ(バリ島テロを含む)と連続狙撃事件である。Wasihngtonpost や Wasihington Times には拉致問題に関する記事は、トップページには確認できなかった。NewYork Times の記事が異例なのかもしれないが。(新聞は各誌のHPであることをお断り致します)

拉致問題には、第二次大戦中の日本と朝鮮の関係や補償問題、補償、拉致問題に関する歴代首相と外務省の無責任と無対応ぶり、北朝鮮脅威論と柔和策など多くの問題が絡んでいる。帰国報道のみが前面に取り上げられる報道には違和感を感じてもいる。


2002年10月10日木曜日

悪意を前提に生きるということ

ネットでの書き込みを読んでいると、ネットで嫌な思いをしている人が意外に多いようだ。インターネットをやめてしまった人もいれば、自分の文章を利用されてしまっている人もいる。不特定多数を相手に公開している以上、HPの悪用という懸念はつきまとうし、迷惑メールも覚悟しなくてはならないし、ウィルスやハッキングも日常茶飯事だ。「ネットに存在する悪意」を前提にネット生活を送るということは、もはや常識であろう。

これはネット生活ばかりではなく、実生活においても同様の状況なのだと思う。以前は考えてもみなかった「悪意」を意識するということは、特に今までそういう意識のなかった私達には少しばかり気の重い作業である。特に性善説の立場を取る人には「悪意」を意識することには罪の意識さえ伴う。事故防御として当然と言われればそれまでなのだが。

最近の事件から感じることは、「悪意」の質が変わってきたように思えることだ。例えば少し前に起きた札幌西友元町店での偽装客問題。偽装肉を販売したと言うこと自体、販売行為における「悪意」であるが、その悪意を犯している者たちが、客に対しては「善意」を期待していたというのは皮肉な話しである。(売っていたのは皮肉ではなく牛肉だが)

犯罪者とて自分達の罪を棚に上げ、客の性善説を信じていたわけだ。そのようなバランスがもはや崩壊していること、更には自分達の悪意を、悪意とは感じていない倫理観の崩壊ということもこの事件は露呈しているように思えた。

ブッシュのイラクへの強行姿勢も、北朝鮮拉致問題にしても、相手国の「悪意」を前提にした政策が前面に打ち出されている。攻撃される前に撃つというのは鉄則ではあるにしても、別の方法がないものかと思わざるをえない。特にイラクへの強行姿勢にはブッシュと石油メジャーのつながりもちらほら見えるため、さらに気分が悪いのだが・・・

モラルハザードとも呼ばれるこれの意識の変容が、経済や教育と深い関わりがあるのだとしたら、暗澹たる気分は、さらに晴れることはない。

2002年10月5日土曜日

マンハイム学派のフルート曲を聴く

秋らしく、しっとりと落ち着いたCDで音楽でも入手しようと、札幌駅前山野楽器(LOFT店)に行ったところ、ワゴン販売の中に5枚組ボックス1,750円という信じられない値段のCDを見つけた。内容は、18世紀のいわゆるマンハイム学派の作曲家のフルートコンチェルトを集めたものらしい。C.P.E.バッハ、クヴァンツ、シュターミッツ、ホフマンなどはフルートが好きな人などにはおなじみだが、ボッケリーニなどは名前を聞いたことがあるのみ、他は全くの初耳。


Flute Concertos
Danzi, Benda, Hoffmeister, Stamitz, Et Al CD Flute Concertos




    • BRL99745
    • Brilliant Classics

    フルーティストはアンドラーシュ=アドリアンとペーター=ルーカス=グラー、そしてイングリッド=ディングフェルダーの3人。激安もここまでくると、CDの有り難味が薄れるが安くて悪いわけはない。廉価版にありがちで解説は薄い見開きのものが1枚のみだが、これは仕方がない。

    マンハイム学派のフルート

    マンハイム楽派とは18世紀のドイツのマンハイムにおいて、Karl Theodor(1724-99)の頃に花開いたもので、作曲家としてはJohann Stamitz(1717-1757)などが有名だろう。マンハイムの宮廷音楽のためにオーストリアやイタリアなどから作曲家や演奏家が集められ、高い芸術性を誇ったとされている。中でも、マンハイム楽派の功績としては、現代の交響曲や協奏曲の基礎を築いたこととされている。18世紀中盤といえば、バッハ、ハイドン、そしてモーツアルトなどが活躍した時代である。マンハイム楽派は、当事のヨーロッパから終結した優秀な才能が、バロック音楽とは袂を分けた音楽形式を確立させたといえよう。

    その詳細は音楽史の書籍に譲りたいが、特徴的な点を何点かあげるとするならば、クレッシェンドやディミヌエンド奏法、極端なフォルテやピアノ、そして交響曲における急-緩-急の三楽章からなる従来の形式から、四楽章形式の萌芽を見ることができるということになろうか。また、音楽を聴いた印象だが、従来のバロック音楽と比べても、より自由にして感情表現的な音楽になっていたのではないかと思う。そういう意味からはロマン派への橋渡しのような役割も果たしているのだろう。

    残念ながらマンハイム楽派はKarl Theodorがミュヘンに都を移した1778年頃から勢いを落とすこととなるが、同時代や後世の作曲家(もちろんモーツアルトやハイドンにも)大きな影響を与えている。実際、モーツアルトは1777年から翌年にかけてマンハイムを訪問しており、当時ヨーロッパ一とうたわれたマンハイマー・ホーフカペレ( Mannheim Hofkapelle ; court orchestra )の大編成オーケストラと新しい音楽に大いに刺激をうけたとされている。

    聴いてみたのは18世紀のヨーロッパのフルートコンチェルトを集めた5枚組のアルバムである。主な作曲家は、マンハイム楽派のCarl Stamitz(Johann Stamitzの息子)、プロシアのフリードリヒ大王の宮廷音楽家として活躍したC.P.E.Bach、フリードリヒ大王のフルートの師でもあったQuantz(「クヴァンツのフルート奏法試論~バロック音楽演奏の原理」でフルート関係者には有名)、バイオリン奏者のFranz Benda、そして当時ウィーンで活躍していたHoffmanなども含まれている。

    マンハイムにはイタリアからも何人かの作曲家を招かれている。5枚目のCDにはBoccheriniをはじめとして4名のイタリアの作曲家の手になるフルートコンチェルトが納められており、18世紀ドイツのフルート音楽を知るには格好の資料となっている。

    レーベルはBrilliant Classics(99745)、演奏はランパルの弟子でもある名手、Andras Adorjan、フルート関係者には教本でも有名な Peter-Lukas Graf、そして Ingrid Dingfelder 、上のジャケットの絵ははフランスロココ美術の代表作でフラゴナール(1732-1806)の手になる「恋人の戴冠」である。


    FRANZD ANZI ( 1763-1826 )





    1. CONCERTO No.1 Op.30 in G majo 
    2. CONCERTO No.2 Op.31 in D minor
    3. CONCERTO No.3 Op.42 in D minor
    4. CONCERTO No.4 Op.43 in D major
    • Andras Adorjan(fl)
    • Munchener Kammerorchester, Hans Stadlmar
    • Licensed from Orfeo International GmbH, Germany (1981)
    Franz Danziは作曲家であり、マンハイムオーケストラのチェリスト奏者であった。この頃のシンフォニーやコンチェルトは急-緩-急という構成が一般的であったが、No.4 (Op.43)は、短い緩やかなフレーズから開始されAllegroフレーズを導いていることが特筆される。これは、Haydn (1732-1809)のシンフォニーで顕著な特徴である。
    それ以外の3つのコンチェルトは当時の慣習に沿った形式ではあるが、バロック音楽とは異なった宮廷音楽の響きが聴こえている。音楽は煌びやかで劇的で、独特の明るさに満ちており、フルートの名人芸も充分に堪能できる曲である。
    興味深い作品と聞かれたならば、No.2 (Op,31)を挙げるだろ。弦楽器による不安気なテーマに開始され、フルートの音色がオーケストラとの対話の中からたち現れてくる。曲調はどことなくモーツアルトのドン・ジョバンニを彷彿とさせる部分がなきにしもあらずである。三楽章はPolaccaでありフルートが自在に駆け回るその快感。
    Adorjan のフルートは1点の曇りもなく磨き上げられた銀細工のような雰囲気、抑制の効いた芯のある音色はストレートにからだの隅々まで行き渡り、その一音目から天上の至福を与えてくれる。
    (2002.10.05)

    FRANZ(FRANTISEK)BENDA ( 1709-1786 )




    1. CONCERTO in E minor
    2. CONCERTO in A major
    3. CONCERTO in A minor
    • Andras Adorjan(fl)
    • Ars Redivia Ensemble Prague, Milan Munclinger
    • Licensed from Orfeo International GmbH, Germany (1984)

    Bendaはチェコ(ボヘミア)からドイツに亡命してきた音楽一族である。彼自身作曲家であり、またバイオリン、ビオラ奏者でもあった。 プロシア皇太子(後のフリードリヒ大王)に認められ、宮廷楽団のコンサートマスター(Kapelmeister)として活躍したとある。フリードリヒ大王のもとには、C.P.E.バッハやクヴァンツ(Quantz)や、グラウン兄弟(Graun Brothers)なども働いていた。


    上の絵はサンスーシ宮殿においてフリードリヒ大王がフルートの演奏を披露しているものだが、ハープシコードはC.P.E.バッハ、そしてバイオリンがFranz Bendaである。ここに納められている三つのフルート協奏曲も、こうした宮廷での演奏を前提としたものであろう。
    曲はは三楽章形式で古典的な形式に沿っているが、弦楽器の伴奏にハープシコードの音色が加わり、フルート独奏を際立たせている。それぞれの楽章に挿入されたカデンツァではフルートの技巧がフルに発揮されているようで聴きごたえがある。
    それにしても、Bendaの名前はこのCDで始めて知った。現在ではバイオリン協奏曲を含めてほとんど演奏の機会はないのではないだろうか。演奏会プログラムでもBendaの名前を目にしたことはない。当事の評判はかなりなものであったようだが、時代に埋もれてしまった作曲家ということなのだろうか。
    Adorjan の演奏はここでも冴え渡っているのだが、Franz Danzi の演奏と若干音色に変化が認められるのは録音のせいだけだろうか。3年という間にそれほど大きな変化が(このような大演奏家において)生じるとは思いにくいのだが、こちらの演奏の方が、どことなくふくよかな広がりを感じさせるものとなっている。
    これも蛇足だがジャケットの絵は、やはりフラゴナールの代表作「ぶらんこ」の一部である。
    (2002.10.06)

    FRANZ HOFFMEISTER (1754-1812) CARL PHILIP EMMANUEL BACH (1714-1788)




    1. FRANZ HOFFMEISTER / FLUTE CONCERTO in D major
    2. C.P.E. BACH / FLUTE CONCERTO in D minor Wq.22
    3. FRANZ HOFFMEISTER / FLUTE CONCERTO in C major

    • Ingrid Dingfelder(fl)
    • English Chamber Orechestra,Sir Charles Mackerras,Laurence Leonard
    • Licensed from ASV,UK,Recording:1979

    C.P.E.バッハは大バッハの次男であり、マンハイム楽派の音楽家たちとは離れ、フリードリヒ大王のもとに30年ほど仕え、その後、テレマンの後任としてハンブルグの5つの教会で音楽監督を務めている。当事はバッハといえばエマニュエルを指すほどであったという。
    一方、ホフマイスターは作曲家や音楽家としてばかりではなく、出版者やモーツアルトの後援者のような立場にもあったらしい。彼のためにいくつかの作品も書いているとのこと。
    どちらの音楽も、フルートの技巧と管弦楽の華やかにして自由で瑞々しい音楽を聴かせてくれている。ホフマイスターの音楽は、確かにモーツアルト的な響きに満ちているとも言えようか。ここでもフルート独奏によるカデンツァは聴き所で、まったくもって奏者の音楽性にはつくづくと感心してしまう。ただ、短調だろうと長調だろうと、深刻な感情表現をしているロマン派の音楽ではなく、やはり耳障りのよい宮廷音楽である、なんだか続けて聴いていると、どんなに名人芸であったとしても飽きてくることは否めない。(第一楽章でのフルートの登場の仕方、カデンツァの入り方・・・など、お決まりの安心感はあるが)
    余談だが、当時は王や皇帝が作曲家であるということは珍しいことではなかった。フリードリヒ大王はフルート(トラベルソ)も吹き、作曲もしていた。彼のもとに優秀な音楽家が集まり、多くの名品を残しはしたが、音楽の隆盛と創造は長くは続かなかったようだ。音楽家達がマンネリに陥ったり、フリードリヒ大王がフルートに執心すぎたことにも原因があるのだろう。何とフルートの師であったクヴァンツは、王のために296ものフルート曲を作曲したというのだから!
    この盤のフルート奏者はIngrid Dingfelder という方であるが、私はこの名前ははじめて聞く。音色は軽やかであるものの、Adorjanの芯のある音を聴いた後では、少し食い足りない印象を受けてしまう。まあ、録音のせいなのかもしれないかが・・・
    ちなみにジャケットの絵は、これもフラゴナールの「めかくし」。当時目隠しは「恋は盲目」の意味であったとか・・・。
    (2002.10.07)

    JOHANN JOACHIM QUANTZ (1697-1773) CARL STAMITZ (1745-1801) JOSEPH STALDER (1725-1765)




    1. JOHANN JOACHIM QUANTZ / FLUTE CONCERTO in G major
    2. CARL STAMITZ / FLUTE CONCERTO in G major
    3. JOSEPH STALDER / FLUTE CONCERTO in B flat major

    • Peter-Lukas Graf(fl)
    • Zurcher Kammerorchester, Edmond de Stoutz,Wurttenbergisches Kammerorchester,Jorg Faerber
    • Licenced from Claves Records SA, Switzerlandx(1978)

    このCDにはクヴァンツとカール・シュターミッツのフルートコンチェルトが納められている。カール・シュターミッツはマンハイム生まれの作曲家で、バイオリン奏者でもありビオラ奏者でもあった。若い頃からヨーロッパ各地で演奏活動をし、1794年から死ぬまではイエナで首席バイオリン奏者として勤めた。
    クヴァンツは以前も述べたようにフリードリヒ大王のもとで作曲およびフルート演奏、そして大王のフルートの師として活躍していた。フルートに取り組む以前はヴァイオリン、オーボエ、トランペット奏者としても傑出していたらしい。クヴァンツはフリードリヒ大王のもとで長年働らき大王のために多くのフルート曲を書きはしたが「最も従順なしもべ」では決してなかったと伝えられている。
    また、クヴァンツが「フルート奏法試論」(1752年)を大王に捧げる形で書上げた1年後に、同じく大王のもとで働いていたC.P.E.バッハも「正しいクラヴィーア奏法試論」を出版している。その両者に共通する規則を比べてみると、まるで内容が異なっているらしい。私は音楽を専門としていないので、その違いに言及することはできないが興味深い話ではある。
    さて、前置きが長くなったが音楽の方は非常に良い、曲も演奏も秀逸である。特にグラーフの笛は素晴らしい、低音から高音まで張りと力感に満ちており、フルートはかくあるべしという印象。音楽がかっちりとした骨格で浮き上がってくる。3つの曲の中ではクヴァンツも良いが、シュターミッツの曲が良いか。覚えやすい曲調は明るさと瑞々しさに満ちており、喜びに満ちた曲である。
    ジャケットはイギリスロココを代表するゲーンズボロの「画家とその妻」である。収録曲とのつながりは全く見出せない。
    (2002.10.11)

    ITALIAN FLUTE CONCERTOS GIOVANNI BATTISTA PERGOLESI (1710-1736) NICCOLO PICCINNI (1728-1800) LUIGI BOCCHERINI (1743-1805) SAVERIO MERCADANTE (1795-1870)




    1. GIOVANNI BATTISTA PERGOLESI / FLUTE CONCERTO
    2. NICCOLO PICCINNI / FLUTE CONCERTO
    3. LUIGI BOCCHERINI / FLUTE CONCERTO
    4. SAVERIO MERCADANTE / FLUTE CONCERTO
    • Peter-Lukas Graf(fl)
    • Orchestra da Camera di Padova e del Veneto, Bruno Giuranna
    • Licensed from Claves Records SA, Switzerland (1991)

    最後のアルバムは同時代のイタリアの作曲家のフルートコンチェルトである。
    PERGOLESIはオペラ(喜劇)や悲しみの聖母の歌で名前が知られている。ボーカルのみならず室内楽やオーケストラでも新しいスタイルの音楽を生み、現代のオーケストラのスタイルに影響を与えている。PICCINIはマンハイムから離れ、パリで長く活動していたが、グリュックのオペラ形式に対する敵対者として知られていたようだ。BOCCHERINIはDANZIと同様に最初はチェリストとして知られていた。彼はマンハイムでの滞在にて多くの影響を受け音楽的に飛躍した。後年はスペインのリズムにも影響されている。最後のMERCADANTEはロッシーニやヴェルディにつながる代表的な作曲家である。
    さて、曲の方だがイタリア的というのがどういう音楽なのかは説明できないが、明るく耳障りの良い音楽が、グラーフの笛によって聴くものを浮き立たせ、魅了してくれる。ただ、このテの音楽を5枚も聴いてきたので、やっぱり飽きてしまうこと否めない(^^;; 音楽の専門の方なら、5枚のCDを通して音楽様式の違いなどを聴き取ることができるのだろうが、私にはさっぱり、そういうことも分かりませんでした。
    さて、最後のジャケット絵もゲーンズボロの「アンドリュース夫妻」。なぜイタリアの作曲家にイギリスのロココを代表する作家のジャケなのかは理解に苦しむ。
    (2002.10.12)


    18世紀中期の作曲家のフルートコンチェルトを聴いてきたが、改めてこの時代には多くの作品が埋もれていることを認識させてくれた。コンサートプログラムや発売されるCDは、バッハ、モーツアルトなどの作品が多いが、ここに紹介された作曲家などはもっと取り上げられても良いのではないかと思うのだった。

    「バッハやモーツアルトと比べると音楽の深さが違う」という評はよく耳にするのだが、あまり難しいことを考えなくてもよい場面もあるのではないかと思わないでもない。


    2002年9月27日金曜日

    《マイスタージンガー》のべックメッサーについて

    《マイスタージンガー》に登場するベックメッサーは、ユダヤ人をカリカチュアライズしたもの(《指輪》のアルベリヒ,ミーメ,ハーゲン,クリングゾール,クンドリーもそうらしい)、と指摘しているのは「ワーグナーの世紀」を書いた三富明氏ばかりではない。もっとも、ワーグナーは匿名の著書「音楽におけるユダヤ性」において、ユダヤ人批判をあからさまに行ってはいるが、作品において人物をユダヤ人と特定したり、ユダヤ人批判を行っているわけではない。ベックメッサーがユダヤ人であると指摘されなければ、聴衆は気づくことはないだろう。エドワード・W・サイード(Edward W. Said)は、「ワーグナー唯一の喜劇作品『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の中で愚弄されるベックメッサーと、当時ユダヤ人について言われていたカリカチュアとの類似が明らかであるとしても、ベックメッサーという劇中人物はドイツのクリスチャンであって、ユダヤ人とはされていない。」*2と指摘している。

    ユダヤ人を徹底的に排除(抹殺)しようとしたヒトラーが、ワーグナーの音楽をこよなく愛したという事実を(特に、《マイスタージンガー》はことさらお気に入りだったようだ。そもそもニュルンベルクそのものがヒトラーと結びついている)作品と合わせて考えると複雑な気持になるものだ。イスラエルにおいて長らくワーグナーの作品が上演禁止であったこと、2001年7月7日にイスラエル・フェスティバルに客演していたバレンボイム率いるベルリン・シュターツカペレが《トリスタンとイゾルデ》の一部ををアンコールに演奏し話題(スキャンダル)になったことも記憶に新しい。

    我々のように島国に住む者にとっては、ユダヤ人差別、ユダヤ人蔑視という感情を、知識として理解はしても実感としては納得できないものだ。「ベニスの商人」のシャイロックはあまりにも有名だが、西欧人がユダヤ人を蔑視する理由のひとつに、実は彼らの優秀さへの裏返しがあるのではないかと思うこともある。

    以上のことを踏まえた上でだが、作品鑑賞上ベックメッサーにユダヤ人の隠喩を嗅ぎ取るか必要があるかどうかについては論が分かれるように思う。実際、ベックメッサーは、最初からかわいそうな役どころとして登場している。第1幕においても、いつも苛立ち、怒っている。ヴァルターの才能に嫉妬し、古い因習を振りかざして新しい芸術を理解しない野暮な男として描かれている。第2、3幕となると更に悲惨な書かれ方をするのだが・・・。ワーグナーと敵対する音楽評論家のカリカチュアライズであったとしても、辛辣すぎるという気がしないでもない。

    ワーグナーの意地の悪さというのはかなり徹底しており、一見善良そうなザックスについても、彼の陰謀と策略の陰湿さが気にかかるようになる。これらを「喜劇」として笑えるかどうかは、ドイツ的心情の有無により決まるようにも思える。

    ドイツ的心情とはニーチェの言葉を引用するとよく雰囲気が分かると思う。

    「人がよくて、悪賢い」この二つの性格が併存することは、他の全ての民族では矛盾であるが、ドイツにおいてはしばしば正当化されてしまう。(中略)ドイツ人は「率直さ」「愚直さ」を愛する。率直であり、愚直であることはなんと快いことか。ドイツ的実直さの人なつっこさ、親切、あけっぴろげなところ、これは今日ではひょっとすると、ドイツ人が心得ている最も危険で最も幸福な仮装であるかも知れない。この仮装はドイツ的メフィストフェレスの技巧であって、これによって彼らは「もっと成功する」こともできるのだ。
    ニーチェ 『善悪の彼岸』


    このような視座から《マイスタージンガー》を聴くならば、単純なる明朗な喜劇とばかりには響いてはこないものである。予備知識や薀蓄の弊害と言えようか。

    (*2)「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」エドワード・W・サイード

    2002年9月26日木曜日

    CLASSICA JAPAN でのワーグナー人気投票

    CLASSICA JAPAN(衛星TVでない)のHP企画、QuickVoteにおいて「ワーグナーの舞台作品、一番好んで聴くのはどれ? 正直に答えれ。」という人気投票が行なわれている。

    現時点で有効投票総数1627、ニーベルングの指環、さまよえるオランダ人、一切聴かない、トリスタンとイゾルデ、ニュルンベルクのマイスタージンガー、タンホイザー、ローエングリン、パルジファルという順になっている。《指輪》が20%程度の得票率で第一位になっているのだが、ワグネリアン恐るべしという印象を受ける。あんなに長い音楽を聴いていて、いったいぜんたいワグネリアンというのは飽きる事がないのだろうか・・・(^^;;;

    まだ未聴なのだが《パルジファル》に人気ないというのも分かる。悟ってしまったワーグナーになど、興味は沸かないものだ。


    2002年9月16日月曜日

    N響アワー「ワーグナー ふたつの顔」

    N響アワーでワーグナーについて取り上げていた。題して「ワーグナーふたつの顔」。ワーグナーの持つ二面性について、作曲家の池辺晋一郎氏が解説するという趣向のもの。 

    最初は「リエンチ」序曲と「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を続けて聴かせ、単純さと複雑さ、俗っぽさと聖なるものの対比を説明していた。次にはトリスタン和音をピアノで響かせ、これを「20世紀音楽幕開けの和音」であると紹介しながら、それと対極にあるような「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲での単純極まりない和音を用いた体位法を紹介、古典的な音楽をひきずっている面も持ち合わせていると説明する。曲の長さにおいても、「指輪」のような4夜にも及ぶ曲もある一方で「ジークフリート牧歌」のように20分程度の曲があることも示し、その音楽の極端なことを説いていた。 

    ワーグナー音楽に少しは親しんできた身においては、なるほど最もだと思う反面、そのような二律的な要素だけでは、ワーグナーという巨人にして怪物を表現することなど、全く適わないのだと思うのであった。ワーグナーは、このような人物が存在したことそのものが(モーツアルトと同様に)奇跡であるとさえ思われるのだ。 

    最近入手した、三富明による「ワーグナーの世紀」(中央大学出版部)*1の序章に『ある時代の精神がひとりの人物の中に集約的に現れることがある。(中略)十九世紀のヨーロッパの時代精神をよく代表する芸術家もしくは思想家は誰だろう(中略)、ドイツ語圏に限るならば、私はワーグナーの名をまっ先にあげる』と書かれている。とにかく近現代ヨーロッパ思想史を専門とする大学の先生をしてそう思わせるだけの広がりと大きさがあるのだろう。 

    ワーグナーの音楽というものは本能の深いところで反応する。「マイスタージンガー」や「ジークフリートの葬送行進曲」などの有名な曲は、私の場合、中学の吹奏楽時代に知った曲だ。「マイスタージンガー」はひょっとしたら、練習くらいしたかもしれない。久しぶりにこれらの曲がTVから流れてくるのを聴いて、私はフラッシュバックを起こすと共に、音楽のもつ本能的な快楽にも似た感情を覚え慄然とし言葉を失ってしまう。「マイスタージンガー」の単純な盛り上がりも捨てがたいが、「ジークフリートの葬送行進曲」の不安定な音階と、弾けるようなシンバルからの響きなど、まさに血が騒ぐという感興を覚える。 

    それに反して、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だけというのは、いかにも間が抜けている。緊張感や音楽としての連続性が断ち切られているようで、感興を覚えるよりも「つまらねー音楽」と思う気持ちが先に立ってしまう。ブルックナーではないが、まさにどこで終わっても聴いているものには分からない金太郎飴的な音楽であるなあと思うのだった。
     
    (*1)「ワーグナーの世紀」オペラをとおして知る19世紀の時代思潮 ワーグナーの周辺の時代思想やら背景を知ることができるかもしれないと、インターネットで見つけて注文した本なのだが、たとえば《トリスタン》の解説は題名とは裏腹に、主観的にして下世話なワーグナー解説本という趣だ。三富氏が中央大学でワーグナーについての講義をしている(していた?)らしく、その講義を母体としてこの本が成立している。学生達のワーグナーに関する感想も載せられており、興味深いのだが、少し固めの内容を期待していた私には肩透かしな内容であったことは否めない。

    2002年9月3日火曜日

    楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」全3幕 ショルティ指揮/シカゴ交響楽団

    マイスタージンガーを聴く (2002.09.22)

    《トリスタンとイゾルデ》を聴くのに、3ヶ月という(自分でも考えてもみなかったような)長い時間を費やしてしまった。ワーグナーにはほとほと疲れきっているのだが、気が付くとつい次のCDに手が伸びている。こいつは中毒か?と思うのだが、《トリスタン》の後に、ワーグナーの超大作の《指輪》を聴くことは、さすがに躊躇する。

    そこで、ちょっとした気晴らし(!)に「喜劇」である《マイスタージンガー》でも聴くことにしようと決めた。《タンホイザー》や《トリスタン》は、神聖化された悲劇であった。《マイスタージンガー》において、ワーグナーがどのような「喜劇」を演出したのかを聴くことは、(気が重いことも否定できないが)興味深いものがある。

    ただし、《トリスタン》のようなマジメな聴き方は今回はやめようと思っている。あくまでも、さらりと、1回程度聞き流すだけにしようとかなと・・・・


     ■ 登場人物と配役
    ジョゼ・ヴァン・ダム(ザックス)
    ベン・ヘップナー(ワルター)
    カリタ・マッティラ(エヴァ)
    イリス・フェアミリオン(マグダレーネ)
    アラン・オーピー(ベックメッサー)
    ヘルベルト・リッペルト(ダヴィッド)
    ルネ・パーペ(ポーグナー)
    ロベルト・ザッカ(フォーゲルゲザング)
    ゲイリー・マーティン(ナハティガル)
    アルベルト・ドーメン(コートナー)
    ジョン・ハートン・マーレー(ツォルン)
    リチャード・バイアン(アイスリンガー)
    スティーヴン・サープ(モーザー)
    ケヴィン・デス(オルテル )
    ステファン・モーシェク(シュワルツ)
    ケリー・アンダーソン(フォルツ)
    ケリー・アンダーソン(夜警)
    サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
    シカゴ交響楽団&合唱団(合唱指揮:デュエイン・ヴォルフ)
    1995年9月20日~27日
    マイケル・ウールコックのプロデュース、ジェームズ・ロック、ジョン・ペロウ、ニール・ハッチンソンのエンジニアリングによるシカゴ、オーケストラ・ホールにおける演奏会形式上演のライヴ録音(デジタル)
    255分収録

    ■ HMVの評価
    前回の録音から20年ぶりとなる演奏で、ショルティのワーグナーでは初のライヴ録音となります。ライヴとはいっても演奏会形式なので、声が聴こえなくなったり、足音がどかどか入ったりというようなことは無いので、サウンド面ではまったく問題ありません。
    それよりもここではむしろ実演ならではの高揚感が嬉しいところで、特に終幕の大円団は、人間賛歌ともいうべき肯定精神の発露がダイナミックに表現されて、改めてショルティのすごさが実感されるところ。もちろん、それも歌手陣、オケ、コーラスのバランスよく高水準な技術力が背景にあるからこそ可能だったことですが。
    ■ あらすじ

    《マイスタージンガー》は《トリスタンとイゾルデ》と《ニーベルングの指輪》の間の時期に作曲されている3幕の喜劇である。あらすじは、《タンホイザー》でも描かれた歌合戦である。登場人物は沢山いるのだが、要は騎士のヴァルター(Walther)が歌合戦でエヴァ(Eva)を勝ち取るという物語である。エヴァは金細工師のポーグナー親方(Pogner)の娘であり、聖ヨハネ祭での歌合戦において、その勝者に自分の財産とともに娘を差し出すという条件を付けたわけだ。

    ヴァルターとエヴァは、会ったその時から既に互いに惹かれあっており(いつも恋は一目惚れ)、ヴァルターは是非とも歌合戦の勝者にならなくてはならないわけだ(というより、その歌合戦に参加する資格を得るところから始めなくてはならないのだが)。 かくして、ベックメッサー(Beckmesser)というヴァルターの恋敵や、実在の人物である靴屋の親方(マイスター)にして、新しい芸術の潮流を支持するハンス・ザックス(Hans Sachs)なども登場し、またしても4時間にも及ぶ長大なる劇が繰り広げられるというわけである、やれやれ・・・(^^;;; こうして書くと、ヴァルターとエヴァの物語のようだが、実際はハンス・ザックスが主人公の楽劇という様相であるらしいのだが、さてさて・・・

    ■ 第一幕への前奏曲を聴く

    《マイスタージンガー》の前奏曲はあまりにも有名だ。分かりやすいメロディ、堂々とした朗々たる旋律そしてハ長調という曲調の明るさ。金管群が活躍する曲であるだけに吹奏楽編曲版で学生時代演奏した経験のある人も多いだろう。

    しかし、改めてワーグナーの楽劇の前奏曲として聴いてみると、驚くほど多くのライトモチーフがちりばめられていることに気付かされる。「作曲家別名曲解説ライブラリー ワーグナー」(音楽の友の社)によれば、以下のようなライトモチーフが前奏曲に現れる。

    「マイスタージンガーの動機」 冒頭の金管群による堂々とした動機、一番印象的なヤツ
    「愛の場景の動機」 フルートではじまる柔和な旋律でワルターとエヴァの愛を示す
    「行進の動機」 マイスターたちの行進の動機、「ダ・ダダ・ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン」てヤツである。(ああ、何度口真似して歌ったことか・・・>楽器で歌えよ)
    「芸術の動機」 最初は弦であらわれる、後には金管などでも高らかにうたわれるアレ
    「仕事の動機」 こいつは歌うのは難しいな(笑)
    「愛の動機」 ヴァイオリンで優美に歌われる、これも本編で有効に使われる
    「情熱の動機」 8分音符と三連譜による焦燥感のある不安定な動機、「愛の動機」とペア。命名からしてトリスタン的な動機だなあ
    「陽気の動機」 低音弦により奏せられる、次第に高揚してゆくアレ。
    とまあ、こんな具合なのだ。それが対位法的に入り乱れ、大きなクライマックスを形作って第1幕になだれ込むわけだ。前奏曲だけの演奏の場合は、終結音にて曲を終わらせるが、実際は第1幕第1場の「洗礼の合唱」がかぶるような形で歌われる、そこがよいのだよなあ。

    しかし、《トリスタン》のような曖昧模糊としたウネウネ音楽を描いた作曲者が、こうも明朗な(単純ではないと思う)音楽を描きえたとは。「《トリスタン》のパリ版の上演も失敗だし(1861年頃)、ここは一つ民衆に分かりやすい、明るく健康的な曲を書いてやるっ」とワーグナーが考えたとしても不思議ではない。

    ■ 第1幕を聴く

    各場ごとにリブレットを読み解き作品について理解してゆくような《トリスタン》での聴き方には疲れきったので、気ままに聴いてゆくことにしたい。従ってストーリーの説明や各場面の説明も、今回はやらない。興味があれば各自CDなり書籍であたってもらいたい。

    ■ 第1場

    さて、第一場の聴き所はどこだろう。私はまず、前奏曲が終わった後の教会のコーラスの場面が最高に好きである。信徒たちが「洗礼の合唱」を歌うそのフレーズの合間に、前奏曲で聴かれた甘くせつない「愛の動機」と「情熱の動機」が挿入されるのだ。ここはヴァルターとエーヴァが目と目で互いを呼び合っている場面である。そのロマンチックさと美しさときたら、通俗的といってしまえばそれまでなのだが音楽的には見事としか言いようがないと思う。信徒たちの合唱は次第に高まり最後はパイプオルガンの強奏により締めくくられるが、それが二人の感情の高まりと次への展開の準備となっており、この数分間だけで陶然としてしまう。

    第一場の最後に歌われるヴァルターとエーヴァの二重唱も(二重唱という枠組みでは一般的な形式なのだろうが)なかなか聴かせどころだ。甘くせかすような「仕事の動機」(本当にこういう名前のライトモチーフなのか? もっと重要な意味があるように思えるのだが)に導かれ「愛の動機」に乗って高らかに歌う、う~ん、

    Walter
    Fur euch Gut und Blut, (For you my possessions and blood)
    fur euch (For you)
    Dichters heil'ger Mut ! (the poet's sacred resolve)
    Eva
    Mein Herz, sel'ger Glut, (My heart, blessed glow)
    fur euch (for you)
    liebeshei'ge Hut ! (love's holy protection !)

    ■ 第2場

    第二場は、ダーヴィットの一人舞台である。ヴァルターにマイスターになるための(うんざりするくらい多くの規則に縛られた)歌の法則を延々と教える場面だ。しかし、音楽はワーグナーの「喜劇」だけあり、コミカルにテンポよく進む。ダーヴィッドがこれでもかとばかりに、細かな規則を列挙して歌う場面は、どことなくブロードウェイのミュージカル風でさえある。

    たとえば「Mein Herr ! Der SInger Meisterchlag~」で始まるところなど、伴奏の音楽さえ、あたかも「メリーポピンズ」を聴いているようではないか。または「歌の法則の動機」に乗って歌われる「Der Meister Ton und Weisen~」で始まる部分もよい。劇中のヴァルターはうんざりしているが、聴衆は楽しめる部分だ。《トリスタン》と違って「ああ、オペラを聴いている(^^)」という気にさせてくれる、ワーグナーの意図や考えがどうであってもだ。

    ■ 第3場

    第三場は長さの点でも、また劇中の主要人物が登場する点でも重要である。劇としては「マイスターケザングの試験の席」において、ヴァルターが試されるという場面である。

    ここでは、聖ヨハネ祭の歌合戦に娘と財産を提供すると言い出した、金細工師のポーグナー、ヴァルターの支持者となる靴屋のザックス、ヴァルターを恋敵と見るベックメッサ-が主要人物である。テキストと背景に立ち入ると、再び迷宮から出ることができなくなるのだが、ここでザックスがワーグナーの分身であること、最後までとことん悪者扱いされるヴェックメッサーがウィーンの有力な音楽評論家エドゥアルト・ハンスリッ(ワーグナーと敵対していた)をモデルとしており、かつユダヤ人という設定であることくらいは頭に入れておいて良いかもしれない。ワーグナーは《マイスタージンガー》を「喜劇」として仕立てたが、そこは偏屈にして自身過剰なワーグナーである、ひとくせも、ふたくせもある伏線を張っているようなのだ。さて、そういうことはワーグナー研究者や純正ワグネリアンに任せるとして、曲を聴いてみよう。

    まずは「Das schone Fest, Johannistag, (聖ヨハネ祭りの素晴らしい祭典は)」ではじまる「ポーグナーの演説」。財力も地位もあるマイスターだけあって、立派なバスを響かせてくれる。堂々とした歌なのだが、伴奏は随分と複雑なことをしているように聴こえる。バスの単純さとは全然異なるような響きが随所に聴かれ、はっとさせられる。

    次はヴァルターの「Am stillen Herd in Winterszeit (冬のさなかの静かな炉辺で)」で始まる有名(らしい)な歌である。ここではヴァルターは自分の先祖が12世紀の貴族で有名なミンネゼンガ-のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデであり、四季折々の自然を歌うのだと語る場面だ。ベックメッサ-にたびたび野次とともに中断されるものの、非常に美しい歌だ。歌の前にホルンなどで導かれるフレーズがなんとも言えずによい。実に夢見るような、そして暖かい日差しの春の訪れのようだ。歌のフレーズも自由奔放にしてのびのびとした旋律が用いられていて開放的だ。

    次に面白いと思うのは、パン屋のコートナー(テノール)が、ヴァルターに歌の教則「タブラトゥ-ル」を教える場面だ。がんじがらめの規則に縛られた歌からの解放という劇のテーマに、自らの芸術の潮流をだぶらせたワーグナーである、コートナーの歌そのものが揶揄に富んだ滑稽な響きに聴こえる。

    もう一つは、やはりヴァルターの試験となる歌で「"Fanget an !" ("始めよと")」に始まる歌だ。ここも、一聴すると、古典的な形式を取っているように思われるのだが、不思議なことに、やはりというべきなのだろうか、《マイスタージンガー》は《トリスタン》以降の音楽なのである。そして、単純な旋律の背景にも、なにかトリスタン的な響きが聴こえないでもない。不安とか死を連想させるという種類の旋律ではないのだが、何か本能の深いところに染み込むような、そういう音楽が聴こえるところが実にワーグナー的であると思う。

    しかしこのヴァルターの歌も途中でベックメッサ-にさえぎられてしまい、実は最後まで聴けない。第三場のラストは、ザックスがヴァルターを弁護し歌を最後まで聴こうではないか、と提案したあとから勝手に歌うヴァルター、邪魔をするベックメッサ-、てんでに騒ぎまくる親方達、独り言をつぶやくポーグナーが入り乱れ、リブレットを追っていても何を歌っているのか全く分からない乱痴気騒ぎにだ。遠くから「マイスタージンガーの動機」まで聴こえてきて混乱のうちに幕となる。

    考えてみれば歌手が舞台の上に勢ぞろいで、思い思いに歌いまくってくれているのだ、大きな聴かせどころであり、第一幕の山場とも言えるような演出になるのかもしれない。なんだか分からないが、大きな満足のもと「ああ、第一幕が終わった」という感慨も得ることができるのであった。こういう満足は《トリスタン》には一度もなかったものなあ(笑)

    それにしてもベックメッサ-がヴァルターの歌の非をあげつらう部分の音楽も、何とまあカリカチュアライズされていることだろう。ワーグナーの皮肉と相当意地の悪いところが底見えるようだ。

    ■ 第2幕を聴く

    第二幕は全部で7場に分かれている。舞台はザックスとポーグナー家の前で展開される。

    ■ 第1場

    前奏曲に導かれ、三拍子の愛らしくも祝祭的な音楽が奏でられる。そして使途たちが「Johannistag ! Johannistag ! Blumen und Bandaer, so viel man mag ! (ヨハネ祭、ヨハネ祭 花も、リボンも好きなだけたくさん!)」という歌が聴こえる。

    この使徒たちの歌は、メロディーも印象的で華やかな雰囲気なのだが、リブレットを読むと、ダヴィッドやザックスをからかう皮肉に満ちている。ダーヴィッドが恋人のマグダネーレからご馳走をもらいそびれてしまったことや、ザックスが実はエーヴァに恋心があることを揶揄している。

    Der Alte freit ( The old man woos )
    die junge Magd ( the young maiden, )
    der Burshce die alte Jumbfe ! ( the apprentice the old maid ! )
    Junchhe ! Juchhei ! Johannistag ! ( Hurrah ! Jurrah ! St John's Day ! )
    表向きの愉快さや華やかさに隠された、ちょっとした毒というものがここにも示されている。これもまたドイツ的ということなんだろうか。

    ■ 第2場

    ザックスの家の前で、ポーグナーと娘のエーヴァが明日の祭りのことを話したり、ヴァルターが予備審査で失敗してしまったことなどを知る。

    そもそもポーグナーが自分の財産と娘を、祭での歌の勝者に与えようと考えたのは、芸術と美を愛するが故で、自分達市民が商取引と金にしか興味がないと非難されていることをかわすためであった(第1幕第3場)。それでも、ポーグナーは迷っている。まあ、そりゃそうだよなあ・・・

    ■ 第3場

    ここは、ザックスの「にわとこのモノローグ」という部分だ。歌は最初、ヴェックメッサーの靴を直す仕事をののしり(「靴屋の動機」が聴こえる)、その後、審査でのヴァルターの歌を思い出し、彼の新しい歌に戸惑いながらも、新鮮にして非常に感銘を受けたことを吐露している。

    ich fuhl's und kann's nicht verstehn, ( I feel it and cannot understand it )
    kannn's nicht behalten, ( I cannot hold on to it, )
    doch auch nicht vergessen; ( nor yet foeget it ; )
    und faβ ich es ganz, kann ich's nicht messen ! ( and if I grasp it wholly, I cannot measure it ! )
    Kein' Regel wollte de passen, ( No rule seemed to fit it, )
    und war doch kein Fehler drin. ( and yet there was no fault in it )
    今までの規則からは外れた歌だが、自らの気持ちを歌ったからこそ見事な出来栄えになったと褒め称えている。これは、ある意味でドイツロマン主義そのものを示しているようにも思える。ザックスがワーグナーの分身だとするならば、自らの芸術観を託したと考えることもできるかもしれない。

    ヴァルターの歌が鳥たちが歌うような歌であった、といいながらも、

    Wer ihn hort ( anyone who heard a bird singing )
    und wahnbetort ( and, carried away by madness, )
    sange dem Vogel nach, ( imitated its song, )
    dem bracht es Spott und Schmach: ( would earn derision and disgrace !)
    「あの歌を聴いてやたらな思いに取り付かれ、鳥たちの真似をしようものなら、罵りを受け恥をかくだろう」とも歌わせている。これもある意味、ワーグナーの皮肉なのだろうか。
    そういう歌であるので、音楽は非常にワーグナー的である。ザックスの歌の背後のオーケストラからはさまざまな音の断片が、狂おしくも響いている。「情熱の動機」がここでも聴こえてくるが、その効果的なことと言ったら、私の文章では言語化が不可能である。

    ■ 第4場

    この場面はエヴァとザックスの会話である。昼間の審査の様子をザックスに聞きにやってきたのだが、ここではザックスとエヴァの鞘当にも似た会話が、甘美な旋律に乗って奏でられている。タブレットからは、ザックスが昔エヴァに恋心を抱いていたことが分かる。しかしザックスは、自分の年齢を考え、また騎士の出現もあってか身を引いている。エヴァはそういうザックスの心を知りながらも、もはや騎士のヴァルターにご執心で審査の様子を聞こうとするものの、ザックスははぐらかすかのような答え方だ。

    第4場は、ほかの場面から比べると重要度は低い部分かもしれないが、トリスタン以降のワーグナー的ウネウネ旋律を聴く事ができる部分で、私は非常に気に入っている。特段聴きどころとなるような盛り上がりはないのだが、というよりも、この場面全てが聴きどころと言っていいかもしれない。

    マグダネーレが迎えに来て、ザックスが何とか良い知恵を搾り出そうと「Das dacht' ich wohl. Nun hieβt's: schaff Rat! ( I thought so. Now we must find a way ! )」と歌うところにかけて、これ以降、さんざんと聴かされることになる「靴屋の動機」と「ヴァルターの動機」が聴こえてくる。ここも非常にスリリングで面白い部分だ。

    さてさてザックスはどのような知恵を働かせることとなるのか。

    ■ 第5~7場

    さてさて、第ニ幕にばかり拘泥していてもはじまらない。マイスタージンガーは何と言っても、第三幕が長いのだ。実のところ、第ニ幕も各場面は独立したものではなく音楽も劇も連続している。細かいとろろははしょって、さっさと終わらせてしまおう。

    第5場以降は、ヴァルターとエヴァがお互いの愛を確かめ、駆け落ちを企てるのだが、ザックスに邪魔をされてしまう。ヴェックメッサーは明日の審査に向けて、エヴァの気持を自分に傾けるため、彼女の家の下で求愛の歌をうたおうとやってくる(夜更けに迷惑なヤツだ・・・)。しかし窓辺に写る女性の影は、実はエヴァではなくエヴァの服を着せられたマグダネーレだ。(エヴァはヴァルターと駆け落ちしようとしているんだから)

    一方ザックスは、明日履く予定のヴェックメッサーの靴を治している。ヴァルターがエヴァに向って歌うのを、奇妙な歌で邪魔をしたり、あるいは昼間の騎士への審査の仕返しとばかりにヴェックメッサーの歌をいちいち酷評する。

    そこへマグダネーレの恋人ダヴィットがやってきて、愛するマグダネーレを誰かが誘惑していると勘違いし、ヴェックメッサーと喧嘩を始めてしまう。すると、この騒ぎを今まで耳をそばだてて聞いていた住人たちが、ここぞとばかりに飛び出してきて、街中で大喧嘩を始めてしまう・・・という筋書きだ。

    下の絵は、アンジェロ・クワリーオによる初演時の舞台画(1868)である。(「オペラ対訳ライブラリー」音楽之友社~表紙より)




    手前でランプの明かりのもと靴を治しているのがザックス、後姿でハープを持っているのがヴェックメッサー、右手の建物2階の窓辺にたたずむのが、エヴァに扮したマグダネーレ、木陰でトリスタンとイゾルデしているのがヴァルターとエヴァである。

    「マイスタージンガー」というのは、その成立過程やテーマからして、実はヴァルターとエヴァの恋物語では全然なく、新しい芸術の潮流を認めている芸術家職人ザックスの物語である。ここでもザックスは大活躍である。ヴァルターとエヴァの恋物語は刺身のツマのようなものというと言いすぎかもしれないが。

    音楽的に面白いのは、やはりヴェックメッサーが少しでも明日の歌合戦を有利に持ち運びたいと、エヴァの住む家の前で歌を歌う場面だ。それを、とことんヴェックメッサーが邪魔をする。そのしつこさと、意地の悪さときたら! ヴェックメッサーが歌うたびに、靴屋の動機とともに、意味不明の大声をがなりたてる。(Jerum ! Jerum ! Hallahallohe ! O ho ! Tralalei ! Tralalei ! O he ! ) ~ このフレーズは一たん聴いたら、当分耳から離れないというタチの悪さだ(笑)

    あるいは、自ら持ってきたハープを弾きながらヴェックメッサーが歌い始めると、靴を直す槌の音で歌の審査を始める。減点部分があると槌をならすのだが、それが歌のリズムをとるかのごとくひっきりなしに鳴り続けるおかしさ。ヴェックメッサーもいいかげんにしてくれと怒るが、まったく聞く耳もたずである。(第三幕では、靴底が薄すぎると文句をつけるヴェックメッサーに、ヴァルターは採点のために靴底を叩き過ぎた=ひどい歌だったと、さらに手厳しいのだ)

    ここで歌われるヴェックメッサーの歌も奇妙な節回しである。第1幕で審査員たちが歌ったような、最後を大きく震わせるような歌い方で、実にイヤラシイ響きだ。ここでも、ワーグナーの皮肉たっぷりな演出が感じられるような気がする。前にも書いたように、ヴェックメッサーはワーグナーと敵対していた批評家(ハンスリック)をモデルにしているのだから。とどのつまり、ザックスの意地が悪いのではなく、ワーグナー自身がかなり性格がワルイのである。

    ここで、ハンスリック(Hanslick)のことを少し書いておこう。ワーグナーはマイスタージンガーを彼の音楽に対する批判へのリベンジとして意図したようである。ワーグナーは当初、ヴェックメッサー役の名前を「Hans Lich」と名づけたほどである。マイスタージンガーが遂に上演されたとき、ハンスリックはまたしても、辛らつな批評を書いたのだが、ワーグナーは次のように言ったという。「今日、エドワード・ハンスリックは彼の批評や文章によってではなく、無粋で学者ぶったベックメッサー ( as the inspiration for the boorish and pedantic Beckmesser ) として記憶に留められるだろう」 いやはや・・・第二幕でのヴェックメッサーなど、第三幕で遭遇する悲(喜)劇に比べれば良い方だとさえ思うが・・・



    さて、少し離れてしまったが、上の絵もザックスとヴェックメッサーの絵である。最初の絵と比べてほとんど舞台設定が同じで、同一人物が描いたのではないかとさえ思ってしまう。16世紀ドイツの都市と市民風景というものがかくのごときであったと思わせるもので興味深い。

    第2幕の最後の第7場は、夜中の大乱闘である。ひょんなことから生じた喧嘩沙汰であるが、日ごろの不満をここぞとばかりに噴出させたかのようだ。リブレットだけ呼んでいると、それこそ殺人でも起きかねないかのような殺伐とした乱闘劇が繰り広げられている。



    上の絵で倒れているのはヴェックメッサー、殴りかかっているのがダーヴィッドである。実際第三幕第三場でヴェックメッサーは、あちこち痛そうにして登場し「危うく命にまでかかわるところだった、だがこうやって九死に一生を得た」と言っている。喜劇なので許されるドタバタなのだろうが、そんな酷い目に会っていても、歌合戦に出ようとするのだから、呑気というか、そういうものなのかと、昔はね。

    死人でも出そうな大乱闘なのだが、しかしながら音楽のほうはちょっと様相が違う。街じゅうの男どもがてんでに相手をみつけて殴り合い、それを止めることもできず恐れる女たちの慌てふためく様が、渾然一体となって、すさまじい緊張と独特の統一感と、ワーグナー的ハーモニーを作りながらクライマックスへと一気に駆け上って行く。その音楽的な感興と快感ときたら見事としか言いようがない。

    実際の劇においてはどのような演出をしているのだろう、この混沌劇はある意味で演出家の腕の見せ所かもしれない。

    ワーグナーは乱闘場面をかなり早い時期に着想していたらしい。実際に体験した突如として起こり、あっという間に幕引きを迎える大乱闘というものが、相当印象に残ったのだろうか。しかしながら、何故にここに暴力的な乱闘場面が登場するのかは、疑問に感じないわけでもない。マイスタージンガーはワーグナーが生身の人間や市民を描いた唯一の楽劇である。当時の生き生きとした市民生活を描写していると言われれば、それはそうなんだけど・・・・

    最後は、男どもが女たちに水をぶちかけられ、夜警が23時の刻を告げて第ニ幕は静寂を取り戻して終わる。私はこの夜警の歌を聞くと、トリスタンとイゾルデの第1幕冒頭に現れた水夫の歌声を思い出す。どちらも場面を転換する役割を果し、それがしかも現実世界から響いてくるように聞こえないという点でも、何か共通するものを感じる。

    ■ 第三幕を聴く

    2002.11.16

    ここまでに、ずいぶん時間をかけてしまったが、マイスタージンガーの聴きどころはやはり第三幕にある。簡単に筋を確認しておこう。

    歌合戦の朝になり、ヴァルターとザックスは二人で試合の歌を検討する。途中まで出来たところでヴァルターは規則に縛られることに嫌気がさし止めてしまう。ザックスは後はまかせてとヴァルターと部屋を出て行く(第2幕)。

    そこへヴェックメッサーがやってきて、先ほどのヴァルターの歌詞を盗んでしまう。それを見つけたザックスは、彼にその(不完全な)歌を進呈するから歌合戦で歌いなさいと勧める。暗にヴェックメッサーではヴァルターの歌は歌えないと踏んでいるからだ。(第3幕)

    さて、いよいよ歌合戦である。まずヴェックメッサーがヴァルターの歌詞に節を付けて歌い始める。しかし、これが歌詞も間違えたとんでもない歌で、惨めにも聴衆の失笑をかってしまう。次ぎに、その歌の真の作者であるヴァルターが正しい歌詞で朗々と感動的に歌い、マイスターをはじめニュルンベルグの市民皆に認めらる。そして見事マイスターの称号とエヴァと財産を獲得するというわけである。(第5幕)

    筋だけ書くと、ヴァルターの物語のようであるが、実際は第三幕も最初から最後まで、新しい芸術の潮流を理解するザックスの物語になっている。

    ■ 前奏曲

    第三幕への前奏曲は、チェロによるくらいテーマで始まる、「諦めの動機」だ。これはザックスがエヴァの恋心を諦めたことを示すライトモチーフである。中年の渋い役どころにふさわしい音楽になっている(か?)

    その後に続く「の動機」とは良い対象となっており、軽いジャブにて第1幕へと突入することになる。

    ■ 第1場

    ここでは、ダーヴィッドとザックスの会話で展開されるのだが、実はザックスの物思いが全体を支配している。いわゆる「迷いのモノローグ」である。

    ここは、昨日の乱闘騒ぎに対する反省や、これから自分がやろうとしていることに対する迷いなどと解釈されている部分なのだが、リブレットを読むと一筋縄で解釈できる内容ではない。ザックスの言っていることが分かるようで分かりにくい部分だ。ワーグナー研究家は、この部分をワーグナー自身の芸術に対する考え方と重ね合わせ、深読みするかもしれない。もっとも、内容はわかりにくいが音楽的にはザックスの歌が朗々と歌われる部分で聴かせどころだ。

    「迷いのモノローグ」は難しいのだが、前半のヴァルターのボケ役は、ワーグナーの喜劇の中で、数少ない笑える部分だ。今日のヨハネ祭の歌を歌えとザックスに言われ、間違えて昨日のヴェックメッサーの奇妙なコロラトゥーラの節で歌ってしまうところなどだが。もっとも、笑えると言っても、古臭いコントかギャクのようなサムさもあるのだが…やはりワーグナーに喜劇は似合わない。ワーグナーは「ニーチェが笑ってくれない」と嘆いたらしいが、ニーチェの感性は正しい。

    ■ 第2場

    ヴァルターとザックスが歌合戦の歌を吟味する部分だ。第5幕で歌われる「朝の薔薇色の輝きにつつまれて…」が形作られてゆく。あまり面白い場面ではないのでパス、この歌の完成形は第5場で聴くことができるし。

    ■ 第3場

    ヴェックメッサーが、昨日の乱闘で受けた傷をさすりながら、痛々しい様子で登場するところは、非常に有名な部分である。ひたすらヴェックメッサーのパントマイムが続くのだが、音楽的には極めてワーグナー的なものになっているらしい。

    ワーグナー解説本を読むと、《マイスタージンガー》は新旧の音楽様式が混ざっている、あるいは古典的な音楽形式をとりながら、実は極めて20世紀を先取りしたような音楽の素顔を隠し持っているとされている。

    それは第2幕第3場のザックスの「にわとこのモノローグ」でも、「 Es klang so alt, und war doch so neu, (古くて懐かしい響きだが、とても新鮮でもあった)」と言っていることそのものである。

    しかしながら面白いのは、ヴァルターが歌う歌は、その新しい様式ではないことだ。ヴェックメッサーの歌うコロラトゥーラは、非常に奇妙で誇張された歌いになっていると思うのだが、ヴァルターの歌がそれに比して極めて新しく聴こえるかと言えば、そうではない。例えば、《トリスタンとイゾルデ》で聴かれたような半音階旋律も、表立って登場しているわけではない。

    しかし、ところどころに、楽譜を見ているわけではないので詳細は分からないが、裏旋律で、あるいはちょっとした断片として、トリスタン的な響きが耳をつくことがある。その瞬間、《トリスタン》の音楽に触れたことのある者ならば、おそらく間違いなく、今までの音楽とは違うということに気づかされるのだ。それはまるで、潜在意識に作用するサブリミナル効果のように、さり気なく、しかししっかりと聴く者に刻み付けるられる。

    ■ 第4場

    さて、いよいよクライマックスが近づいてきた。まずはザックスとエーヴァの会話から始まる。

    エーヴァの靴を直すザックス(ザックスは靴屋だからね)の背後から、ヴァルター表れ、熱い視線と共にエーヴァに愛を歌いかけるシーンが強烈だ。エーヴァはザックスに脚を差し出し靴を直してもらいながら、ヴァルターの愛を受けとめているのだ。なんだかエロチック!

    ザックスは本当はエーヴァに恋心があるくせに、「トリスタンとイゾルデのお話の、マルケ王にはなりたくないからね」などと話すのだ。(ここで一瞬、トリスタンの半音階上昇旋律が流れ、思わずはっとしする。マルケ王とは、心ここにあらずのイゾルデをめとってしまったという不幸なる男性のこと)

    まあ、イロイロドラマはあるんだが、第4幕はなんと言っても、ラストのザックス、エヴァ、マグダネーレ、ダヴィットによる四重唄が圧巻である。ワーグナーはこういう手の、従来の歌劇の形式を捨てたはずではあったのだが、マイスタージンガーにおいては臆面なく復活させているところが、わざとらしい。

    場面はワルターの勝利を期待し歓喜の歌を歌い上げているところだ。音楽的な見事さときたら眩暈がしそうなほどだ。

    ■ 第5場

    第5場はいよいよ歌合戦である。第5場冒頭はお祭りの開始であり、華やかさが演出されたまさにクライマックスを予感させるような音楽である。歌劇「アイーダ」の行進のような雰囲気だ。ある意味、陳腐に堕しているとも言えるのだが、ワーグナーは意図的にこうした構成をしているのだと思う。「おいらの楽劇の評判が全然よくないけど、やりゃーできるんだよ、やらねーだけだよ」と言っているかのようで、流行歌は作らない主張しているミュージシャンが、たまにヒットソングを作る姿を彷彿とさせる。

    さて歌合戦においては、最初はベックメッサ-がザックスからもらった歌を歌うのだが、最後まで歌を理解もできず覚えもできず、さんざんな目にあってしまう。その後、この歌の真の作者として紹介されたヴァルターが見事に歌いきるわけである。

    それにしてもヴェックメッサーの歌は悲惨だ。ヴァルターの歌と比較してみよう。(ヴァルターの歌は第2場、第4場、そして第5場で少しずつ形を変えながら歌われる)

    第2場でのヴァルターの歌 ヴェックメッサーの歌 第5場の完成されたヴァルターの歌

    Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
    von Blut und Duft, 
    geschwellt die Luft, 
    voll aller Wonnen 
    nie ersonnen, 
    ein Garten lud mich ein, 
    Gast ihm zu sein. 

    Morgen ich leuchte in rosigem Schein, 
    von Blut und Duft 
    geht schnell die Luft; 
    wohl bald gewonnen, 
    wie zerronnen; 
    im Garten lud ich ein 
    garstig und fein. 

    Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
    von Blut und Duft, 
    geschwellt die Luft, 
    voll aller Wonnen 
    nie ersonnen, 
    ein Garten lud mich ein, 

    朝のばら色の輝きにつつまれ、 
    花の香りに 
    大気は満ち満ちる。 
    歓喜に溢れた、 
    夢想もしなかった 
    庭園が私を 
    客になれと招いた 

    朝、私はばら色の光につつまれ、輝いた 
    血の臭いの風が 
    速やかに吹く。 
    勝ち取ったかと思うと、じきに 
    溶け消えてしまう。 
    園の中に、私は招きいれた。 
    卑しく、上品に 

    朝のばら色の輝きにつつまれ、 
    花の香りに 
    大気は満ち満ちる。 
    歓喜に溢れた、 
    夢想もしなかった 
    庭園が私を 
    客になれと招いた 

    ベックメッサーの歌詞は、ヴァルターのそれと似ているようでいて、メタクタなものになってしまっている。ドイツ語圏の方ならば、歌を聴きながら笑い転げているのかもしれない。劇中でも観客はベックメッサーが一体何を歌っているのか訝る歌が挿入される。続くベックメッサーの歌はさらにめちゃめちゃになってゆく。


    Wonnig entragend dem seligen Raum, 
    bot gold'ner Frucht 
    heilsaft'ge Wucht, 
    mit hodlem Prangen 
    dem Verlangen, 
    an duft'ger Zweige Saum, 
    herrlich ein Baum. 

    Wohn'ich ertraglich im selbigen Raum, 
    hol'Geld und Frucht, 
    Bleisaft und Wucht... 
    Mich holt am Pranger 
    der Verlanger, 
    auf luft'ger Steige kaum, 
    hang'ich am Baum 

    dort unter einem Wunderbaum, 
    von Fruchten reich behangen, 
    zu schaun in sel'gem Liebestraum, 
    was hochstem Lustverlangen 
    Erfullung kuhn verhieβ, 
    das schonste Weib: 
    Eva - im Paradies !  

    この至福の園から喜ばしく聳え立つのは 
    たわわに実った果汁ゆたかな 
    黄金の木の実を 
    輝かしく美しく、 
    私の願いに向かって 
    香り豊な枝という枝の端々から差し出す 
    ひともとの素晴らしい樹 

    同じ園になんとか、かんとか私は住まい、 
    金と木の実を 
    鉛汁と重りを取ってくる。 
    曝し台で私を呼ぶのは 
    願いを抱く人、 
    風通しのいい坂道ではなく 
    私は樹で、首を吊る 

    その庭の奇跡の樹の、 
    たわわに木の実のなる下に立って、 
    さながら至福の愛の願いを 
    叶えると大胆に 
    約束してくれたのは 
    こよなき美女、 
    エデンの園のエーヴァ! 

    混迷の度を増すベックメッサーの歌はさらにナンセンスな内容になってゆく。一方ヴァルターの完成された歌は"Eva - im Paradies ! "と高らかに愛を宣言している。

    Sei euch vertraut, 
    welch hehres Wunder mir geschehn: 
    an meiner Seite stand ein Weib, 
    so hold und schon ich nie gesehn: 
    gleich einer Braut 
    umfaβte sie sanft meinen Leib; 
    mit Augen winkend, 
    die Hand wies blinkend, 
    was ich verlangend begehrt, 
    die Frucht so hold und wert 
    vom Lebensbaum. 

    Heimlich mir graut, 
    weil es hier munter will hergehn: 
    an meiner Leiter stand ein Weib; 
    sie schamt und wollt'mich nicht besehn; 
    bleich wie ein Kraut 
    umfasert mir Hanf meinen Leib; 
    mit Augen zwinkend 
    der Hund blies winkend, 
    was ich vor langem verzehrt, 
    wie Frucht so Holz und Pferd 
    vom Leberbaum! 

    Abendlich dammernd umschloβ mich die Nacht; 
    auf steilem Pfad 
    war ich genaht 
    zu einer Quelle 
    reiner Welle, 
    dei lockend mir gelacht: 
    dort unter einem Lorbeerbaum, 
    von Sternen hell durchschienen, 
    ich schaut'im wachen Dichtertraum, 
    von heilig hodlen Mienen, 
    mich netzend mit dem edlen Naβ, 
    das hehrste Weib, 
    die Muse des Parnaβ ! 

    あなた方に伝えたいのは 
    わが身に起こった気高い奇跡。 
    私のかたわらに立ったのは 
    世にも優美な女。 
    花嫁のようにしっとりと私を抱きしめた。 
    まなざしで教え、 
    輝くような手で指し示したのは、 
    私の憧れ求めていた、 
    生命の樹の恵みゆたかに 
    貴い木の実 

    ひそかに私は戦慄を覚える。 
    なにしろ、ここは大変に陽気だから。 
    私の梯子にもたれて一人の女が立っていた。 
    恥じ入って、私を見ようとしなかった。 
    キャベツのように色の褪せた 
    麻糸がほつれて私の体に巻きつく。 
    両目をぱちくりさせ、 
    犬は合図しながら吹いた。 
    私がとっくの昔に、 
    木の実も、材木も、馬も、 
    肝臓の樹から食らっていたものを! 

    たそがれゆく夕暮れの闇が私を包んだ 
    けわしい山道を 
    辿り行く私は 
    泉に近づき 
    清らかに打つその波は 
    私に笑いかけ誘った 
    そのほとりの月桂樹の下に 
    星たちの明るい光に照らされて、 
    私が、現ともつかぬ詩人の夢の中に見たのは 
    優しく、清い表情を浮かべて 
    貴い泉の水を私に滴らす 
    こよなく気高い女 
    パルナッソスのミューズ! 

    聴いて頂けばわかるが、ヴァルターの歌合戦での歌は、それはそれは見事な美しき歌である。韻もしっかり踏んでいて、劇中ではなくても完璧の出来と言えようか。

    対してベックメッサ-の歌は、ワーグナーの悪意が底見えてくるような変形のされ方をしている。歌詞をうまく覚えられなかったという設定なのだが、少しずつ間違えた唄は、とんでもない台詞になってしまっている!

    劇中で彼は大爆笑どころか、おそらくは街における自らの地位さえ危うくなるような失笑をかってしまうのだが、これをワーグナーの『喜劇』と考えると、あまりにも仕打ちは手酷く、残酷でさえある。ベックメッサ-が、どこかマヌケで憎めないキャラクターとして登場するだけに、ここまで叩きまくることに違和感を感じないわけでもない。さらにベックメッサーのモデルが、ユダヤ人であるという説はおいておくにしても、批評家ハンス・リックを指しているわけで、ワーグナーの執拗さと意地の悪さというものが、イヤと言うほど分かるではないか。

    ヴァルターの歌は、仔細に見てみると、第2場の唄よりも一層完成されたものとなっている(らしい)。ザックスに散々歌の規則を教えられただけあり、ヴァルターの歌を聴いている民衆もマイスターたちも、ただただ感心し感動しきってしまうのだ。高らかに歌われるエーヴァへの愛はストレートに心に染みわたる。ヴァルターの歌にかぶさる民衆達の感動の歌と共に劇のテンションは一気に高まる部分だ。

    もっとも冷静に歌詞を読むと、「よくぞここまで言うなあ」というカンジではある、私など少々恥ずかしくなってしまうほどだ。エヴァはかくも素晴らしい女性ということなのだろう。ヴァルターは情熱的な一目惚れをしたことから類推するに、エヴァは相当物凄いフェロモンを撒き散らしている女性なのだろう(>バキ)。ヴァルターの歌に「清らかな泉」というフレーズを聴くと、《タンホイザー》のヴェヌスを不謹慎にも思い浮かべてしまうのだが・・・(>バキバキ)。

    さて、満場一致でヴァルターは歌合戦の勝者となる。ポーグナー親方がヴァルターをマイスターとして迎えると言うのだが、ヴァルターはこれを固辞する。

    そこで歌われるのが、ザックスによるドイツ芸術を称えまくる歌だ。

    und gebt ihr ihrem Wirken Gunst, ( And if you favour their endeavoures, )
    zerging'in Dunst ( even if the Holy Roman Empire )
    das heil'ge rome'sche Reich, ( should dissolve in mist )
    uns bliebe gleich ( for us there would yet remain )
    die heil'ge deutsche Kunst ! ( holy German Art ! )

    そして、マイスターの働きに好意を惜しまなければ
    たとえ、神聖ローマ帝国が
    霞となって消えうせようとも
    神聖なドイツの芸術は
    変わらず、我らの手に残るでしょう!

    そうして、最後にかの有名な「マイスタージンガーの行進の動機」に乗って、ドイツ芸術とニュルンベルク、そしてザックス(つまりワーグナー)を称える民衆の大合唱が高らかに歌われ、この4時間にも渡る楽劇に幕が降りる、やれやれだ。

    ヴァルターの歌からラストまでは圧巻と言うしかない出来だ。民衆の大合唱を聴くために延々と今までがまんしていたような気にさえなる。私は何度目かにこの部分を聴いているときに、明るい音楽にしてハッピーエンドの結末であることを熟知しているにも関わらず、不覚にも感極まって落涙するのを止めることができなかった。このような音楽的な体験は、またしても巨人ワーグナーにからみ取られてしまった瞬間と言えるかもしれない。

    ワーグナーはザックスの台詞を借りてドイツの芸術を称えているのだが、ヒットラーがこれをゲルマン民族とドイツ帝国を称える歌として利用したことは有名である。ヒットラーはことさらにマイスタージンガーを好んだらしい。全曲を通して聴かずとも、このラストを聴くだけで政治的プロパガンダとして利用したくなる気持ちが分るというものだ。日本人の私でさえ、こんなに感極まってしまうのだから、ゲルマンな方々にとってはたまらない音楽なのだろう。

    冷静に聴くとあざといほどに単純な音楽だ。裏では色々と難しいことをしているということは先にも書いたが、それでも聴こえてくる音楽は明朗にして分かりやすい。にも関わらず精神の深いところに作用してしまう音楽だ。私もそうだが、ゲルマンもヒットラーも単純な奴らなのだなあと思うのであった。



    上の絵は結びの合唱の間、エーヴァがヴァルターの額から冠を取ってザックスにかぶせているところ。まさに大団円の結末である。

    今更ながらとも思うが、マイスタージンガーもとてつもない音楽である。覚えきれないほどのライトモチーフ、それが音楽的な仕掛けとなって楽劇全体を縦横に編みあげている。一聴して明るく素朴な音楽であるようでいながら、裏には連綿とした別の情熱が流れている。それをトリスタンティズムとでも呼ぼうか。まさに古く聴こえる様でいながら、実は非常に新しい音楽であるのだ。ワーグナーがザックスに語らせたこと、そのものが、まさに実現されているように思える。


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    今回は対訳は「オペラ対訳ライブラリー ニュルンベルクのマイスタージンガー」(高辻知義 訳 音楽之友社)のものを採用いたしました。