ラベル テロ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル テロ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2004年9月9日木曜日

暗黒の中世・・・

何度か産経新聞の「産経抄」に違和感を表明してきましたが、北オセチア共和国の学校占拠事件に言及したも昨日のものは、薄ら寒くなる思いを強めました。




この悲惨な事故に対し産経は『二十一世紀の現代から暗黒の中世へ、時計の針が大きく後戻りしたように思えてならない』と始めながらも、短い文章は『中世的暗黒と狂信の現場で、一すじの光明を見た。十三歳のハッサン・ルバエフという少年の勇気である』とし、以下のように結んでいます。


彼はテロリストに正面切って抗議、「あなた方の要求にはだれも応じない。われわれを殺しても何の役にも立たない」と叫んだという。


 ▼テロリストは「お前はそう確信するのか」と問い返し、ルバエフが「はい」と答えると次の瞬間に銃声が響き、少年は倒れた。なんという野蛮、しかしまたなんという勇気だろう。堂々と正義を訴えて散った少年の光芒(こうぼう)の人生を、涙してたたえたい。



しばし、絶句・・・・


続く今日の「産経抄」は、『その時代の戦争は、その時代の歴史的背景を理解して評価すべきであり、いまの時代の尺度や価値観で解釈してはならない』として、日露戦争も、大東亜戦争も、みな歪曲・醜悪なものと書き始め、『れわれはヨーロッパ人の世界地図で地球のことを認識していると』という、指揮者 岩城宏之氏がいつ語ったかのかも知れぬ言葉をひき、


かかる西洋中心史観でみた典型が東京裁判だろう


として結んでいます。再び絶句・・・・


東京裁判が戦勝国によって敗戦国を裁いた偏った裁判であったことは、確かにその通りかもしれません。自国の誇りを取り戻すために、東京裁判史観を変えたいという心持も分らないではありません。しかし、この二つのコラムから言えることは、産経は日本の誇りを護るためには、彼らが涙して称えたような果敢な少年までを将来的に期待していることを新聞紙面でに主張しているということです。これはちょっと違うのではないかと・・・「日の丸」「君が代」を強制することと同じようなズレと恐ろしさを感じます。


「愛国心」の薄い私ですが、仮に日本が分割統治されており、経済的にも文化的にも貧しいままに独自の選挙も行えず誇りさえ奪われ、しかも両親や親戚が統治国に殺されている環境に育ち、その先に希望らしきものも見えないとしたら・・・そのときは、どうするかは全く分りませんし、それを考えることにも意味があるのか分りません。


blog::TIAOのコメントにあった一文と、プーチン大統領のチェチェン独立武装派と話し合うよう促す一部の西側諸国首脳の声に対する答えを引用しておきましょう。


「子供たちを亡くした父親たちは、なきがらを埋葬し、40日間喪に服したら…武器を手にとって復讐に立ち上がるだろう」 --オセチアの首都ヴラディカフカス大学学生の言葉



子供を殺した連中と話し合えなど、そんなことをわれわれに言い諭す高まいな権利が誰にあるのか


連中と交渉しろとわれわれに言うなら、(欧米諸国は)オサマ・ビンラディンをブリュッセルなりホワイトハウスなりに招待して、交渉し、要求は何か尋ねて、自分たちをそっとしてもらう代わりに要求に応じてやればいいではないか。そういう連中とのやりとりに一定の限界はあると、あなたたちは言う。だったら、なぜわれわれが、子供殺しの連中と話し合わなくてはならない? (2004.09.08 Web posted at: 12:39 JST)2 - CNN



世界の様相は、表の大義と裏の利権が複雑にからみあい、軽い嘔吐を催すほど位相は歪みまくっています。

2004年7月2日金曜日

自衛隊発足五十周年に(駄文)

昨日7月1日は、自衛隊発足五十周年であったそうです。つらつらとキーボードの赴くままテキストを打ちましたが、タイトルの通り結論なしの駄文です。読んでも甲斐ないと思いますので、ご注意ください。


小泉政権になってからの自衛隊に関する「周辺事態」が急速に変貌しているため、自衛隊に関する議論がマスコミやブログ上で盛んです。私のようなノンポリ派でも、自衛隊の在り方について疑問はあるものの「自衛隊廃止」という極論には及び腰になってしまいます。これは天皇問題も同様です。




��月30日の朝日新聞社説は『自衛隊50年――「軍隊でない」を誇りに』と題して、


かつてのソ連のように、日本に直接侵攻してくるかも知れない仮想敵は見あたらない。代わって、大量破壊兵器の拡散や国際テロリズムという新しい脅威にどう立ち向かうかが、国境を越えた自衛隊の課題とされるようになった。



集団的自衛権の行使を禁じた憲法を見直し、海外での武力行使を認めようという声高な改憲論も永田町にはある。


 こうした転換の根底にあるのは、本土の防衛が差し迫った問題ではなくなったいま、自衛隊に様々な新しい任務を与え、活用しようという意図だ。

という具合に、世界情勢が変化している中での自衛隊問題を考えるという視点で以下のように結んでいます。


国の安全は自衛隊だけでは成り立たない。近隣諸国との多国間外交、テロの根をつぶすための途上国支援、大量破壊兵器の拡散防止のための貢献など、まだまだ足りないことだらけである。


 自衛隊は他国で戦争をしない。それが日本にとって国益の源泉であり、誇りでもあることをあらためて刻みたい。

一方、同日の産経新聞社説は『【主張】自衛隊 逆風によく耐えた五十年』と題し、


海外での武力行使を禁じるとする憲法第九条の解釈が制約要因になっている。同条の「戦力不保持」規定も軍隊としての地位や権限を自衛隊に与えてこなかった。そんな逆風の中、他国軍に比しても高い志を維持してきた自衛隊はもっと評価されていい。


 テロや北朝鮮など多様な脅威に的確に対応できる自衛隊像が求められている。自衛隊を一刻も早く憲法上、明確に位置付け、国民の財産として活用することが日本の課題である。

と書いています。テロの脅威という点では同様の認識かもしれませんが、「仮想敵国」という観点からは大きな隔たりがあります。他にも、同日の読売新聞も『[自衛隊50年]「『集団的自衛権』解釈変更を急げ」 』という社説が載りましたが神学論争みたいなものなので紹介は控えます。

さて、7月2日の産経抄では再び自衛隊五十周年に触れています。産経は社説でもそうですが、心情に訴えるウェットな論調が大好きなようです。

世界の国々はどこも「軍隊は国民の財産だ」と考えている。だから人びとはみな軍隊という戦闘集団を大事にし、その功績には最大限の名誉で報いている。それが世界の常識だが、にもかかわらずこの国では…。(中略)▼思えば自衛隊員とその家族にとって、この五十年は“風雪と苦難”の半世紀だったろう。学校で「自衛隊は税金泥棒」と教える教師がいたという。隊員の子らにはどんな耐えがたいトラウマ(精神的外傷)が残ったことか。(中略)▼いま国民の信頼は、災害出動からカンボジアや東ティモールの国際貢献まで。来日したイラクの宗教者は「自衛隊の撤退じゃなく、増派を頼む」と要請して帰国した。ここに至るまでの隊員の歯を食いしばった奮闘と、それを支えた家族の苦労を心の底からねぎらいたい。

長々と引用しましたが、後になるとネット上で読めなくなってしまいますので、「肝い」部分だけを抽出しておきました。


さて、両者の間に深い溝があることは疑い様もありません。それは国家とか国防に関する問題であり、国際関係の中での外交問題でもあります。欧州の列強諸国は、日本が島国内でチャンバラ派遣争いをやっていたときから、ダイナミックな領土拡大、文化侵略活動、植民地主義を貫いてきたわけです。島国の中だけでの争いとは規模も歴史も違いますから、防衛に関しても筋金入りなのだと思います。民族としてのプライドということも強く意識されていますし、日本では想像できないほどの同胞意識、自立意識に驚いたりします。映画「トロイ」を見ていて、そういう意味からはほとほと疲れました。


一方アメリカは、もともといた原住民を皆殺しにして領土を確保しました。それ以来は、豊富な資源に恵まれ大国としての地位を築き、世界各国に共産主義勢力の拡大阻止だとか、独裁政権からの解放だとかいらぬ介入をしてきているわけです。元来、人種差別とジェノサイドがお好きなのです。


日本は、日米不平等条約を結んで依頼、米国の属国としての地位から脱却できないでいまま、アメリカの言われるままに国防を備えてきたのですから、国際貢献だとか外交だとか国防などと言っても、子供がやっとオトナ語を話せるようになったという程度に過ぎないのではないかと思うことがあります。


自衛隊合憲を積極的に唱える人たちは「普通の国」になることを主張しますが、「普通の国」とはしっかりとした主権を有する国であるわけですから、アメリカとの関係を論ずることなく「普通の国」になどなれるとは思えません。日米安保は維持して「普通の国」なんて、考えただけでオバカな話しのような気がします。


安保を維持したまま自衛隊を格上げするということは、子分には今までは護身用のスミス&ウェッソンしか与えていなかったのを、今回はマグナム弾を撃てる銃をあげるよということではないのでしょうか、お前も物分りがよくなってきたから、しっかりやれよと。(ちょっと違うかもしれないが) あくまでも、米国の対日関係が変化しないことが前提です。


仮想敵だか現実敵だかテロだか知りません、まして、それが現実なのかデッチ上げなのかさえ分りませんが、とにかく「ならずもの」がいる以上(尖閣諸島に乗り込む輩も、日本近海に出没する不審船も「ならずもの」ですかね)武力も外交の一手段とするという現実的な選択は間違っていないのでしょう。
しかしそれ以前に、武力がない状態での「外交」がお粗末なまま棚上にしておいて、推進派は武力を有したら毅然とした外交ができるようになるとでも言うのでしょうかね。

それにしても個別論議だけで日本の将来的な方向性が全く見えないという状況は、どうなんでしょう、国としてのビジョンが徹底的に欠けているのではないかと思わざるを得ません。政府も官僚もダメになってしまい、形だけが先行して時代の先(あるいは後)に行くというのは、私には歯止めもタガも外れた状態にしか写りません。閉塞状態の中でプチナショナリズムが育ち、ゆるやかに右傾化してゆくことにも危機感を感じます。


かくして自衛隊問題は私の中で再び曖昧模糊としたままに取り残されることになるのでありました。(ね、読んでも甲斐なかったでしょう・・・)

2004年6月27日日曜日

韓国人人質の殺害事件

韓国人人質を殺害した一神教聖戦団が今度はトルコ人を拉致したそうです。暴力の連鎖に歯止めが利かなくなっているようです。そんな中で「テロとの戦い」を強調と協調をアメリカ系各国は主張するのでしょう。6月27日の読売新聞 編集手帳では以下のようにありました。


◆テロリストと取引をし、存在を許す国があるから、テロリストが我が物顔に振る舞うようになる。国家でも政治家でも、一般の人でも、どんな苦境に立たされても取引をしてはいけない場合がある◆自由を語るだけでなく自由を守るために犠牲を払う用意がある、その決意を示すことも必要だとサッチャー元首相は言う。イラク情勢を考えると余りに重い言葉だ。


言うことは分かりますが、前提が正しいのでしょうか。




つまりはイラクへの米国を中心とした戦略そのものが正しかったのか、今でも正しいのか。テロと戦うと言うが、誰の誰に対するテロと戦っているのか。イラクへ参戦するまでは、日本や韓国が矢面に立ってテロの標的とされる、具体的な理由が果たしてあったのかということです。


世界情勢は色々な関連の中で動いているので、日本だけが無関係というつもりはありませんが、『イラク情勢を考えると余りにも思い言葉』なのではなく、もっと突きつけている課題は大きく重いのだと思います。では、と次になかなか進めないのですが。

そんな中、ブッシュ米大統領は26日、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出席するたトルコ入りしています。

2004年4月1日木曜日

DAYS JAPAN 創刊


DAYS JAPAN という雑誌が創刊されていることを書店で見て知りました。『世界を視る、権力を監視する写真中心の月刊誌』というキャッチで『フォトジャーナリズムを中心にした雑誌』であることうたっています。

発刊の主旨は明確です、いつまでもネットで読めるとも限りませんので、引用しておきます。


今、情報はあふれているものの、どの情報を信頼していいのかわからない状況に私たちは置かれています。アフガン、パレスチナ、イラクと次々と戦争があるたびに既存の大手メディアへの信頼感は少しずつ薄れ、あらゆる情報にバイヤスがかかっていることを、みんな感じています。戦争前に戦争誘導型の記事が現われたり、その戦争の遂行に水を差す記事や写真は、編集部のデスクから上には上がらなかったり、「読者投書」欄の意見も注意深く選択されていることがわかります。


いまどき雑誌を創刊することのリスクについては、編集長の広河 隆一氏も紙面で語っています。それでも発刊せざるを得なかったところにギリギリの選択を感じます。 創刊号の執筆者にアジア経済研究所の酒井啓子さんなどです。

実は雑誌を買ってはいませんので手元にないのですが、ページを捲ると米軍のイラク爆撃で、クラスター爆弾によりぼろきれの様に体を引き裂かれた少女を抱きかかえるイラク人の写真が全紙大で掲載されていました。写真のテロップは「米軍支援をした以上、この写真から眼をそむけることはできない」というように書いていました。

一方で巻末では、十数年前にピューリッツアー賞を左の写真で受賞したカメラマンが1年後に自殺した件にも触れ(彼は写真を撮る暇があったら子供を助けられただろうという批判された。自殺はそれが原因ではないという人もいる)、ジャーナリストの使命などについても言及しています。紙面では、この写真を撮ったときは「助けるとか助けない」以前に、近くには子供の母親もいたし、子供を撮影していたのは賞を受賞したカメラマンだけではなかった事実も紹介してます。

生意気なようですが、ジャーナリズムの表も裏も知り尽くした人の編集している本のように感じました。

2004年3月19日金曜日

Voiceの「目覚めよ自衛隊」を読んで


Voice 4月号(PHP研究所)が『目覚めよ、自衛隊』という特集記事を載せていましたので、面白そうなので買って読んでみました。

執筆は、中曽根康弘氏、田原総一朗氏をはじめ、拓殖大学教授の森本敏氏や同じく拓殖大学海外事情研究所の佐瀬昌盛氏などの『私の自衛隊改造計画』という私論、そして西尾幹ニ氏と志方俊之氏との『自衛隊は戦えるか』という対談、最後はハドソン研究所主席研究員の日高義樹氏の『外務省は自衛隊を見殺しにする』という記事まで、結構盛りだくさんです。

論調には多少の温度差はあるものの一律です。彼らの主張をかなり乱暴ですが意訳すると以下のようになりますでしょうか。

  • 日本には国防に関する意識が欠如している。
  • 冷戦時代とは世界の情勢が変わった。冷戦時代は安保の傘のもと憲法を持続させることが国益に適っていたが、現在は事態が変わった。
  • 日米安保は維持させるべきである。それは今でも核を持たない日本に対する抑止力となっている
  • 世界がテロとの戦いへと移行した以上、憲法九条ニ項は少なくとも変えるべきである。
  • 現行憲法であっても自衛隊の集団的自衛権は認められていると考えるべきである。独立国である以上、集団的自衛権を持つのは当然である。
  • 集団的自衛権に関する日本政府の見解は、昭和30年2月29日の衆議院内閣委員会における鳩山一郎総理大臣の答弁から変わることはない。すなわち集団的自衛権につては現行憲法下でも既に30年前から認める考えを集団的自衛権の行使は当然のことである。
  • 自衛権の行使を認めない、自衛隊を専守防衛に限定するのは自虐的歴史観に基づいている、あるいはアメリカのいう「ビンの蓋」理論に他ならない。
  • 自衛隊は軍隊ではないため、軍法などが整備されていない。国際貢献として海外に派遣されても自分の安全も確保できないばかりか、行動に制限が多く十分な貢献活動が果たせない。
  • 自衛隊を派遣するたびに法律を作るという状況はおかしい、防衛基本法の整備がぜひとも不可欠である。<
  • 日本にとっての脅威は明らかに北朝鮮であり、あるいは中国と台湾の紛争の結果も懸念しなくてはならない。国益とともに国際関係の中での情報収集など強化してゆくべきである。
  • 外交カードとして「戦争」も最終手段としてありうると国外に示すことは重要なプレッシャーである。

読めばそれなりに妥当性を感じます、国際関係がきれい事の外交や理想論的な平和主義では立ち行かないことは、さすがに分かります。国防なくして国家が成り立つかと強く言われれば答えに窮しますし、君は身の危険が迫ったら座して死を待つのか、家族が危機に瀕したら立ち向かわないのか、と問われればこれも、立ち向かわないとはいえないでしょう。

絶対正義の戦争などこの世にあるのでしょうか、あるいはあったのでしょうか。本雑誌の「ボイス往来」という読者欄で、80歳の男性が「(イラク戦争は)古今往来、洋の東西を問わず、人類史上でこれこそが100%の正義の戦いであったと断言できる戦争」と言っているのを薄ら寒く感じます。

しかしです。彼らからごっそりと抜け落ちているのは、最終的に戦争を覚悟するということは、戦地で殺し合いをするのだという皮膚感覚です。湾岸戦争からアメリカは精密兵器を使ったピンポイント攻撃を全面に打ち出し、従来のドンパチ型の戦争とは質が変化したことをアピールしています。中曽根氏も近代兵器をもっと充実させるべきだと説きますし、西尾、志方両氏はもっと民間技術を活用して軍事利用せよ(新型兵器を作れ)と主張しています。

ここでも抜け落ちているのは、ピンポイント爆弾の下に居る者たち、ピンポイント爆弾のボタンあるいはレバーを押すものたちの肉体と意識です。アフガニスタンでも大量に投下されたレーザー誘導弾GBU28(バンカーバスター)、燃料気化爆弾BLU82(ディジーカッター)、クラスター爆弾などなど。その下には軍事施設の鉄とコンクリートだけではなく、生身の人間も居るわけです。

現在の自衛隊の武器使用は警察官職務執行法に準じているため、軍隊としての武器使用ができないと論客の方々は口を揃えますが、ここでもそうです。危険が迫ったら、自らの機関銃で相手を掃射せよと言っているわけですよね。

Voiceの執筆人の方々は、決して「好戦論者」ではなく、戦争と平和とどちらが良いかと問われれば間違いなく平和維持と答えるでしょう。外交と国防に関する考え方は、結局国益と国家というところに行き着くようですが、ここに平和主義者とは絶対に相容れない溝があるように思えてきました。


スペインのテロについて2

昨日「Whose turn is it next?」というエントリーで、「スペインがテロに屈した、テロリストの思う壺にはまった、という見方」があると書きました。また16日のエントリーでは「16日付の大手新聞は今回の政権誕生が投票日の3日前に起きた200人もの死者を出したマドリードでのテロの影響であろうと書いています」と書きました。


それに対して強烈なカウンターが仏ルモンド社説(「スペイン国民をバカにする珍説が流布されている」)に掲載されていることを、Letter from Yochomachi というサイトで紹介しています。興味のある方は是非読んでください。




情報がいかに一辺倒であるか、日本のマスコミが一面の論理からしか物事を捉えていないかが、如実に分る一文であると思います。日本のマスコミとて米国の受け売り部分が多いですから。次の部分は強調してし過ぎることがないと思います。


スペイン国民はテロと戦うに当たって現政権のアメリカ一辺倒の戦略がはたして適当なものか問い直しているのであり、それは全く正当なものだということだ。これは臆病とか卑怯というものではなく、アスナールのやり方では非効率で限界があると云うことを有権者は表明したのである。


アメリカが真に正しいのか、かつても正しかったか、アメリカ政権が正常な論理で意思決定されているのか(いたのか)、疑う点は山のようにあるのではないでしょうか。スペイン人の意思と、こういう社説を掲載するルモンド誌に敬意を払います。

2004年3月18日木曜日

Whose turn is it next?

ロンドン発行のアラブ紙アルクドス・アルアラビは、アルカーイダ系の「アブハフス・アルマスリ旅団」が日本などに対しマドリードと同じようなテロ攻撃を準備しているとの声明を入手したそうです。更に、スペインのテロによって、スペイン政権で野党が勝利し更にイラクからの撤兵を示唆したことで、アルカイダの組織を名乗るテログループがスペインに対しては「休戦」を宣言したようです(Reuters Wed 17 March, 2004 21:59)。



スペインがテロに屈した、テロリストの思う壺にはまった、という見方と、テロリストが言うように「The Spanish people... chose peace by choosing the party that was against the alliance with America」という見方があるかもしれません。スペインでの「成功」はテロの連鎖に繋がるのでしょうか、だからアメリカを始め今まで以上の協力体制を維持すべきなのでしょうか。


日本はスペインの選挙と政策転換(撤兵)に影響されないと小泉首相は語っていたはずです。スペインのテロリストとアルカイダの関係は未だ不明(unclear)とされているようです。


テロリストはブッシュの再選を願っているということを伝え、その理由を


as it was not possible to find a leader "more foolish than you (Bush), who deals with matters by force rather than with wisdom

Kerry will kill our nation while it sleeps because he and the Democrats have the cunning to embellish blasphemy and present it to the Arab and Muslim nation as civilisation

と書いてきたそうです・・・なんとも皮肉な文面です。テロリストの真意、そして真犯人究明も大事ですが、世界はどう動くでしょう。

(ちなみに英語は読めないので、内容は聞かないで下さい。情報源は以下の国内版新聞です)

【国内新聞】


2004年3月17日水曜日

スペインのテロについて


先日のスペイン総選挙で、イラク戦争を一貫して支持してきたアスナール政権の与党で中道右派の国民党(PP)が敗れ、野党で中道左派の社会労働党政権(PSOE)が誕生しました。投票率は前回選挙を8ポイント上回る77%に達したとのことで、16日付の大手新聞は今回の政権誕生が投票日の3日前に起きた200人もの死者を出したマドリードでのテロの影響であろうと書いています。




スペイン警察は、今回のテロは昨年5月16日にモロッコのカサブランカで起きたテロ(43人が死亡)と同一のイスラム過激派グループであるとの結論に達したそうです。逮捕されたモロッコ人の一人はアルカイダ関連組織の重要人物ですが、アルカイダの犯行声明に関して当局は慎重な姿勢を崩していません。いずれにしても、イラク戦争でのスペインの対米追随姿勢を非難してのテロであるようです。


今回の事件は、対米追従ということが世界からは強烈なテロ行為であるということの査証となるような事件のように思えます。私は今でもアメリカのイラク戦争(攻撃、侵略、政権転覆、イラク解放、いろいろ言い方はあると思いますが)の妥当性について疑問をもっており、国際貢献、人道支援という名のもとで、単純な対米追従政策をとっている亡国政府のあり方にも疑問を感じています。


フセインは確かに悪辣な政治家であったのかもしれませんが、アメリカ軍がイラクに侵攻したことで、イラク情勢はスンニ派とシーア派、それにクルド人も加わって微妙な力関係が崩れつつあるようにも思えます。クルド人が動くとなるとトルコも安穏とはしておれませんし、アメリカ軍の出方次第ではイスラエルにも影響が出てくるかもしれません。


微妙なパワーバランスで維持されていた国際社会に綻びが生じていることは、911テロを起点にすべてが始まったわけではないものの、世界はひとつの転機に差し掛かっているようで、ポスト・アメリカ一国主義という視点も必要になってきたのではないでしょうか。


ちなみに、選挙で勝利したサパテロ書記長は、イラクに駐留する1300人にも上るスペイン軍を撤退させることをラジオ局とのインタビューで語ったそうです。

2001年10月18日木曜日

戦争や残虐行為の背景について

あるBBSに書いたことなのですが、改めてここにまとめておきます。テーマは人間は何故残虐行為を繰り返すことができるのか、といったものです。

戦争では相手を殺すことはもちろんですが、ときに過剰なまでの残虐行為を伴うことがあります。この、残虐行為というのは、相手を同じ人間と見ていないのではないかと思うことがあります。民族・人種的な偏見もあるでしょう。外見的な姿形が少しだけ違うだけ、あるいは、生活の程度や文化のあり方が少しだけ異なるだけなのに、どうしてそれほど残虐になれるのか。あるいは、残虐行為は慣れるものなのか。人間としての不思議を見る思いです。

私は、画家の中でスペインの生んだ偉大なる画家ゴヤに独特の感情を抱いているのですが、銅版画で戦争の愚かしさを描いたものをご存知でしょうか?ありとあらゆる残虐行為が行われたことを、しっかりと記録しています。

あるいは、本多勝一の「殺す側の論理」だったか「殺される側の論理」だったか忘失しましたが、その中でアメリカ兵が、機関銃で撃ち殺し胸から下が吹き飛んでしまったベトナムの子供を、まるで汚い雑巾でも持つかのようにつ持ち上げている写真が掲載されており、物凄いショックを受けたものです。あれは、どう見ても、同じ人間を哀れむ眼ではなかったように思います。

おそらく、この手のハナシは戦争について言及してゆくと枚挙にいとまがないでしょう。

残虐さとは、相手を認めないという気持があれば、どこにでも生ずるものではないでしょうか。イジメ問題にしても根はそこです。日本では異質なものを極端に排除する傾向があると思います。均質さと同質さを求めるような雰囲気が。ルーズがはやれば皆ルーズみたいな。仲間からはずれるのって怖くないですか?  同質化した世界しか認めないという偏狭な考えは、ときに残虐さの温床になるように思えてなりません。

もうひとつ。残虐行為というのは時代や思想が生む概念だと思うのです。

例えば私たちが親しんでいる時代劇や大河ドラマ。真剣で相手を叩き切ります。今の世の中では正気の沙汰ではありません。しかし、当時はどこの世界でも刃物を用いている文化では、当然の行為であり、刃物を使う人間をことさら残虐とは考えていなかったと思います。

人間性が確保されたから、刃物で人を殺傷する行為は野蛮でありかつ残虐な行為となりました。大きな違いは、個人としての他者を尊重したという西欧的な民主主義の影響でしょうか?

さて、ここで今回のテロと報復です。

アメリカ陣営とそれ以外などという、単純かつ危険な二極論を振り回す米国の大統領の知性レベルにはあきれ返りますが、他者を他者として認めるという行為が、アメリカ人はなかなかできないということなのでしょうか。

よく、アメリカは、どこの国に行ってもそこに「アメリカそのもの」を作ってしまうと言われますよね。米軍基地まわりにしてもそうなんだと思います。他者と交わって赤くなるというような発想、他者を取り込んで協調しようという発想。他者をおなじ対等と考える発想。むずかしいでしょうね。

最後にひとつ、誤解を招くといけないので補足しますが、「アメリカ人は・・・」とか「和を尊ぶのは日本の文化だ」という発想には同意しません。アメリカ人と人くくりにして論ずるのは分かりやすいものですが、そんなに単純なものではないでしょう。

2001年9月26日水曜日

憎しみの源泉

昨日のテレビ朝日「ニュースステーション」で、タリバン政権下のアフガニスタンの状況が、進入したカメラのもとに映し出されていた。かなりショックを受ける状況だ。

タリバンは、アフガニスタン国民には「恐怖政治」でしかない、暗黒時代だと言う。「自分の国でありながら囚人と同じだ」と答える店の主人。「金も夫もいずに、どこに幸せなど感じられるか」とインタヴューに答える女性たち・・・

地雷で足を(両足も!)失った多くの人たち。公然と行われる公開処刑。子供の教育にまず教え込む「ジハード」。子供達にまず憎しみを植え付けようとしているのだろうか、公教育として。この世は不幸なので、ジハードで命を捧げ、あの世で幸せになろう、などという宗教観は末世成仏と同じで人間に未来を提示しない。

これらすべて、タリバンという圧制による民衆の抑圧だ、そこから開放してあげることこそ、(西、イスラムを問わず)我々の役割だという意見は、おそらく正しい。

しかし、そこの論理から、テロ組織を根絶やしにすることが正なのかとなると私は混乱する。テロ組織とその土壌は、日本の曖昧なる「周辺」への定義と同様に、まわりにどこまでも広がってゆく・・・・

ふと思ったが、「憎しみを植え付ける教育」の存在である。例えば、韓国や中国では、日本の戦争での悪逆を繰返し教えている。「憎しみ」を教えているつもりはなかろう。しかし、その教育の先に、相互理解の道は見えないと思う。「憎しみ」や「差別」を植え付けられた子供達を、真に救うということなど可能なのだろうか。

我々の西側寄りの社会には、昔風の論理を踏襲すれば「搾取する側」と「搾取される側」が今も厳然と存在している。 誰も、もはや「搾取される側」にはなりたくない。そう全ての国民が気づいた瞬間に、私はアメリカ的資本主義の終焉を見る思いがするのである。決してオーバーな話ではなく。


2001年9月22日土曜日

ブッシュの報復演説

アメリカは、今回のテロの首謀者をビン・ラディンと特定し、アルカイーダ組織の撲滅を宣言した。実質的な戦線布告である。アルカイーダとそれをかくまうタリバン政権とは、もはや一切の交渉はないという一方的かつ強硬な姿勢だ。議会はほとんど満場一致でブッシュを支持、ABCの世論調査でも国民の90%が報復攻撃を支持しているという。私は、こんなに過激な演説は生まれてはじめて聞いた。こんなことを話す国家主導者が現在生きていることに恐れをなした。

タリバン政権は、「証拠を示せ」というが、アメリカはそれを拒否している。

昨日のテレビ朝日では、「アメリカが(協力各国に)証拠を提示していないのに、日本も協力すると言っていいのか」と久米宏が自民党 阿部氏に問うていた。それに対し「証拠を提示してくれなければ協力しない、というのは通る話ではない」と答えていた。もはや協力が前提だ。

「敵」は状況証拠からアルカイーダなどの国際テロ組織、米国を中心とする西側資本主義社会に攻撃をしかける彼らだ。それを武力を使い「根絶やしに撲滅」するのが目的だ。「Justice will be done!」という超極太のゴシック文字がアメリカの新聞に踊っている。

ちょっと待って欲しい。確かに5000人近い人たちが、それも民間人が、狂気のテロ行為により殺された。でも、そこまで憎しみを持つのはどうしてなんだ。彼らとの対話は、本当にもはやないのか、残されていないのか。テロ組織を撲滅して、新たなテロの芽を生むことにはならないのか。

テロ組織の作ったビデオが放映されていた。彼らは訓練している。肉体的にも、精神的にも。子供達にも「アメリカが悪である」と教育している。

今回は、そういう子供達も「根絶やし」にするつもりなのか? 最終的な勝利は何をもって宣言するのだ? そういうことが提示されない作戦に、やすやすと「協力」という言葉を口にする政治家は誰か、われわれはしっかり覚えておかなくてはならない。これを機に、集団的自衛権とか周辺事態法案などを有利に持っていこうとする人たちを覚えておかなくてはならない。

そして、「自国の主体性に基づいたテロ対策」や「アメリカ追従でない自国の平和的安全保障と国際外交戦略」というテーマで論じる人が誰なのか、見極めなくてはならない。おそらく、私たちの安全保障の将来がかかっている。

 いま、日本は湾岸での恥さらしの汚名を挽回しようと、あせっていないだろうか。

2001年9月16日日曜日

いくつもの世界

ここまで書いてきてひとつ気づいたことがある。私の場合だが、中東やポスニア紛争の報道に接してもここまで暗澹たる気分に陥ることはないと思う。

なぜか。それは、彼らの紛争を「別の世界の出来事」ととらえているからではなかろうか。中東問題やアラブ諸国も日本から見ると「別世界である」。

逆に、アメリカを敵対視するアラブ諸国やビン・ラディンも「西側世界が我々の世界を抑圧している」という見方かもしれない。彼らとは別の世界にわれわれは住んでいるのだ。

ふたつある(あるいは複数)の、そのひとつの中にしか、われわれは属していない。他者の痛みなど決して分からないのかもしれない。

他者の痛みなど決して分からない国に、他者の扮装の仲裁などどうしてできようか。人道的には正しいと思ったとしてもだ。だとすると、対米追従型の路線を貫くしかないのだろうか。今の私にはわからない。

2001年9月15日土曜日

テロを境として

テロの報に接し、謹慎しているわけにも、不謹慎な言動を取ることもできない。では、何ができるのか、ということになる。

��機目がWTCに突入したのをNHKの生放送で接し「これはテロだ、大変なことになるぞ」と思った。数十分後に国防総省へのテロの報を聞き、もはや日本も傍観者ではいられず、我々の生活にも大きな影響を及ぼす重大なる局面を迎えるという予感を感じた。

傍観者ではいられない、ということは、何をすることなのだろうか。

昨日の朝日新聞の「視点」で小田実が書いていた。こういうときこそ、平和憲法を有する日本のするべき立場があると。米国の武力をもった報復攻撃に協力支援することではなく、中東問題の解決に向けての尽力をするべきなのだと。それが真の「構造改革」ではないかと。

いかにも小田実的な意見である。しかし、世の動きは米国追従である。小泉首相は「いかなる協力も惜しまない」という主旨の発言をしているが、それは、自衛隊を動かし後方支援するということなのか。あるいはもっと踏み込むのか。もはや人は出さずに金だけ出すということは許されないだろう。

テロを境として、今までの防衛論の根底からなし崩し的に変革する恐れさえはらんでいるように思える。タカ派的な意見がこれから、巾をきかせるだろう。いままで防衛論について先送りしてきただけに、これからの成り行きが不安である。

こういう風な世の中の気配を感じると、音楽を聴きいたり、日々家族と何気ない生活をしているというだけのことが、どんなに幸福なことか、ということを身にしみて感じるのである。

2001年9月14日金曜日

蝕まれる心

有事という異常事態が、いかに人間としての人間らしい感情を阻害してしまうものかということを、ここ数日思い知らされている。

阪神大震災のときもそうだった。仕事の関係で震災後、神戸入りし二日ほど現地調査を行った。壊滅的な都市状況がそこに展開されているにも関わらず、隣町の大阪は何も変らない日常がそこにあったことに不思議な違和感を感じた。たった電車で数十分の距離(分断されていたのでバスや徒歩が混じるが)に厳然とした不連続線が存在していた。

今回も同じような断層を感じる。まさに戦場状態のNYの一地域、大リーグや証券取引が停止しているとは言っても、世界は日常を過ぎることを止めはしない。

しかし、私たちの心にはどこか浮かないしこりが深く沈んでしまったのではないだろうか。TVでふざけた番組が流れると、あるいは、スポーツ番組が放映されていると、違和感を感じてチャンネルを回してしまう。本当はそんなことをする必要はないのに。不謹慎というと言い過ぎだろうが、心にブレーキがかかるのを止めることができない。

2001年9月12日水曜日

テロの映像を見て

世界貿易センターに航空機が突入するシーンを、まるで映画のロケのように多方向のカメラアングルで、いやというほど繰返し放映している。また、本当に信じがたいことに、その400mもある世界有数の超高層ビルがダイナマイトでのビル破壊を見るかのような具合に崩壊するシーンを見る。

映像を見ながら慄然とするとともに、「映画を観ているかのような」非現実感を伴い、大いなるカタストロフにカタルシスを感じている自分にふと気づかされる。そう、これはまだ自分の身に起こった悲劇ではないから、傍観者たれるのだ。

このような映像(表現)に慣れすぎているが故に「映画的」と思う心を止めることができない、不謹慎と思ってもだ。心の中に固いしこりとともに、大いなる断層を感じながらニュース映像から眼をそらすことができない。 

テロの映像や写真は、間違いなく21世紀の一頁に(世界が21世紀まで存続していれば)残るだけのニュースバリューを持ちつづけるだろう。

しかし、この映像の持つ恐怖は心の奥に澱のように沈んでしまったのではなかろうか。仕事をしながら、ふと窓の外をよぎる影に気づき、あるいは不穏なジェット機のエンジンのような音を耳にし、不安気に窓の外に視線を泳がせる自分に、今日気づくのである。まさか・・・・と、一瞬後に自分を笑い飛ばしながらも。