2004年7月2日金曜日

自衛隊発足五十周年に(駄文)

昨日7月1日は、自衛隊発足五十周年であったそうです。つらつらとキーボードの赴くままテキストを打ちましたが、タイトルの通り結論なしの駄文です。読んでも甲斐ないと思いますので、ご注意ください。


小泉政権になってからの自衛隊に関する「周辺事態」が急速に変貌しているため、自衛隊に関する議論がマスコミやブログ上で盛んです。私のようなノンポリ派でも、自衛隊の在り方について疑問はあるものの「自衛隊廃止」という極論には及び腰になってしまいます。これは天皇問題も同様です。




��月30日の朝日新聞社説は『自衛隊50年――「軍隊でない」を誇りに』と題して、


かつてのソ連のように、日本に直接侵攻してくるかも知れない仮想敵は見あたらない。代わって、大量破壊兵器の拡散や国際テロリズムという新しい脅威にどう立ち向かうかが、国境を越えた自衛隊の課題とされるようになった。



集団的自衛権の行使を禁じた憲法を見直し、海外での武力行使を認めようという声高な改憲論も永田町にはある。


 こうした転換の根底にあるのは、本土の防衛が差し迫った問題ではなくなったいま、自衛隊に様々な新しい任務を与え、活用しようという意図だ。

という具合に、世界情勢が変化している中での自衛隊問題を考えるという視点で以下のように結んでいます。


国の安全は自衛隊だけでは成り立たない。近隣諸国との多国間外交、テロの根をつぶすための途上国支援、大量破壊兵器の拡散防止のための貢献など、まだまだ足りないことだらけである。


 自衛隊は他国で戦争をしない。それが日本にとって国益の源泉であり、誇りでもあることをあらためて刻みたい。

一方、同日の産経新聞社説は『【主張】自衛隊 逆風によく耐えた五十年』と題し、


海外での武力行使を禁じるとする憲法第九条の解釈が制約要因になっている。同条の「戦力不保持」規定も軍隊としての地位や権限を自衛隊に与えてこなかった。そんな逆風の中、他国軍に比しても高い志を維持してきた自衛隊はもっと評価されていい。


 テロや北朝鮮など多様な脅威に的確に対応できる自衛隊像が求められている。自衛隊を一刻も早く憲法上、明確に位置付け、国民の財産として活用することが日本の課題である。

と書いています。テロの脅威という点では同様の認識かもしれませんが、「仮想敵国」という観点からは大きな隔たりがあります。他にも、同日の読売新聞も『[自衛隊50年]「『集団的自衛権』解釈変更を急げ」 』という社説が載りましたが神学論争みたいなものなので紹介は控えます。

さて、7月2日の産経抄では再び自衛隊五十周年に触れています。産経は社説でもそうですが、心情に訴えるウェットな論調が大好きなようです。

世界の国々はどこも「軍隊は国民の財産だ」と考えている。だから人びとはみな軍隊という戦闘集団を大事にし、その功績には最大限の名誉で報いている。それが世界の常識だが、にもかかわらずこの国では…。(中略)▼思えば自衛隊員とその家族にとって、この五十年は“風雪と苦難”の半世紀だったろう。学校で「自衛隊は税金泥棒」と教える教師がいたという。隊員の子らにはどんな耐えがたいトラウマ(精神的外傷)が残ったことか。(中略)▼いま国民の信頼は、災害出動からカンボジアや東ティモールの国際貢献まで。来日したイラクの宗教者は「自衛隊の撤退じゃなく、増派を頼む」と要請して帰国した。ここに至るまでの隊員の歯を食いしばった奮闘と、それを支えた家族の苦労を心の底からねぎらいたい。

長々と引用しましたが、後になるとネット上で読めなくなってしまいますので、「肝い」部分だけを抽出しておきました。


さて、両者の間に深い溝があることは疑い様もありません。それは国家とか国防に関する問題であり、国際関係の中での外交問題でもあります。欧州の列強諸国は、日本が島国内でチャンバラ派遣争いをやっていたときから、ダイナミックな領土拡大、文化侵略活動、植民地主義を貫いてきたわけです。島国の中だけでの争いとは規模も歴史も違いますから、防衛に関しても筋金入りなのだと思います。民族としてのプライドということも強く意識されていますし、日本では想像できないほどの同胞意識、自立意識に驚いたりします。映画「トロイ」を見ていて、そういう意味からはほとほと疲れました。


一方アメリカは、もともといた原住民を皆殺しにして領土を確保しました。それ以来は、豊富な資源に恵まれ大国としての地位を築き、世界各国に共産主義勢力の拡大阻止だとか、独裁政権からの解放だとかいらぬ介入をしてきているわけです。元来、人種差別とジェノサイドがお好きなのです。


日本は、日米不平等条約を結んで依頼、米国の属国としての地位から脱却できないでいまま、アメリカの言われるままに国防を備えてきたのですから、国際貢献だとか外交だとか国防などと言っても、子供がやっとオトナ語を話せるようになったという程度に過ぎないのではないかと思うことがあります。


自衛隊合憲を積極的に唱える人たちは「普通の国」になることを主張しますが、「普通の国」とはしっかりとした主権を有する国であるわけですから、アメリカとの関係を論ずることなく「普通の国」になどなれるとは思えません。日米安保は維持して「普通の国」なんて、考えただけでオバカな話しのような気がします。


安保を維持したまま自衛隊を格上げするということは、子分には今までは護身用のスミス&ウェッソンしか与えていなかったのを、今回はマグナム弾を撃てる銃をあげるよということではないのでしょうか、お前も物分りがよくなってきたから、しっかりやれよと。(ちょっと違うかもしれないが) あくまでも、米国の対日関係が変化しないことが前提です。


仮想敵だか現実敵だかテロだか知りません、まして、それが現実なのかデッチ上げなのかさえ分りませんが、とにかく「ならずもの」がいる以上(尖閣諸島に乗り込む輩も、日本近海に出没する不審船も「ならずもの」ですかね)武力も外交の一手段とするという現実的な選択は間違っていないのでしょう。
しかしそれ以前に、武力がない状態での「外交」がお粗末なまま棚上にしておいて、推進派は武力を有したら毅然とした外交ができるようになるとでも言うのでしょうかね。

それにしても個別論議だけで日本の将来的な方向性が全く見えないという状況は、どうなんでしょう、国としてのビジョンが徹底的に欠けているのではないかと思わざるを得ません。政府も官僚もダメになってしまい、形だけが先行して時代の先(あるいは後)に行くというのは、私には歯止めもタガも外れた状態にしか写りません。閉塞状態の中でプチナショナリズムが育ち、ゆるやかに右傾化してゆくことにも危機感を感じます。


かくして自衛隊問題は私の中で再び曖昧模糊としたままに取り残されることになるのでありました。(ね、読んでも甲斐なかったでしょう・・・)

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