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2005年10月26日水曜日

川原乞食としての歌舞伎俳優

現在の歌舞伎役者は、先に書いた鶴屋南北の世界に生きた「川原乞食」などと称される身分とは対極的な世界を獲得しています。歌舞伎俳優で成功している方々は、社会的な名声も富も有している存在であり、かつそれを維持しつづける家柄であるでしょう。


ここで思い出したのは渡辺保氏の「歌舞伎」(ちくま文芸文庫)にあった昭和26年の歌右衛門襲名披露における吉右衛門の「口上」のことです。渡辺氏にとって、この襲名披露における吉右衛門の口上が忘れがたいもので、この口上にこそ「口上」の原点があると書いています。


口上の間役者は観客に対しそれこそ平蜘蛛のように平伏するのが普通です。しかし、渡辺氏は吉右衛門の平伏を、他の役者のように形式的なものではなく、古い役者としての血がこういう姿勢をとらせているのだとし、それを過去の観客と歌舞伎役者の関係の差(中略)その伝統の記憶が吉右衛門の身体によみがえってくるからであろうと書いています。更に、吉右衛門の「一座高こうはござりますれども」の言葉には本来はお客様とは同じ座に座ることもできない身分の私どもがという卑下が含まれていたと書いています。そして、


歌舞伎役者はあきらかに深い階級的な差別のなかに生きている。これが「口上」の原点であることは間違いない。

としています。歌舞伎の本当のエネルギーとは差別される人間の自持の中にあるのだと。


口上は今年の中村勘三郎の襲名披露で実際に見ましたが、ずらりと並んだ裃を付けた俳優たちはひたすら平伏しており、襲名する勘三郎も平伏して「口上」を述べていたのが、口上を始めてみる目に印象的でした。この平伏に渡辺氏の示す意味が込められていたとは、その時は知る由もありません。


今年1月以来歌舞伎を見始め、渡辺氏が感じている歌舞伎世界は、その内実から大きく変質しているのではなかろうかと思う瞬間がないとは言えません。今更歌舞伎俳優の身分を低くしろとか、「乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっ(「アースダイバー」中沢新一 P.46)た歌舞伎をもとの姿へというのは実情にそぐう主張ではないでしょう。


だとするならば、差別をのりこえる武器であった「愛嬌」も、歌舞伎の魅力も、その意味するところはいやがうえにも既に反転しているのかもしれません。

2005年10月4日火曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」

戸板康ニの「歌舞伎の話し」(講談社学術文庫)を読み始めました。本書は1950年、戦後間もない頃に刊行された同名の書を文庫本化したものです。今から半世紀も前の本なのですが、戸板氏が歌舞伎に問いかけているものは、今でも充分に通用することに驚きを禁じえません。彼が問いかけているものとは即ち「現代文化における歌舞伎の位置」というものであり、では歌舞伎とは何なのかを「批評」「歴史」「役柄」「演技」「劇場」「脚本」「芸術性」「大衆性」から問い直しています。

日本の国の特有なものが次々と変貌してゆき、それに対する価値判断が刻々にかわってゆく現代において、歌舞伎についても何かしら定義をこの際下しておく必要があると思います。(「歌舞伎の話し」P.13)

戦後から5年を経た日本は、まさに激動のように変貌を遂げつつある時代であり、戸板氏が指摘するように、歌舞伎は古臭く敬遠されるものという印象が強かったのかもしれません。そして戸板氏は歌舞伎の「芸」について、当人の意識しないところに生れる不可測の何者かが生み出す成果に、すべてがかけられていると説明し

端的に歌舞伎の脚本を理会し、演出を研究し、演技を習練したというだけで、歌舞伎を(素人が)演じるなどということは、それがどのように努力が傾けられたものであっても、素人が演じたものは本ものの歌舞伎ではない(「同書」P.17)

とし、素人の演じる歌舞伎がどこまで行っても本ものにはなり得ないという宿命的な事実が歌舞伎にはあると断言しています。他の演劇や音楽などの芸術世界とは全く異なった要素があることを示唆してます。この感覚は非常に新鮮なものでありました。先に読んだ渡辺保氏の「歌舞伎」も、「芸」という題から本章を始めており、芸は単なる技術ではないと説明していたことを思い出します。

残念ながら歌舞伎を観ていて、私はまだ芸のもった奇跡であり、幻術である。幻術は底が知れずいかがわしい。(「歌舞伎」渡辺保 P.041)と渡辺氏が書くほどの芸には接したことがありません。それを「見る」までは、私の歌舞伎通いは続くのでしょうか。(それには、3階席以上の値段の席を入手しなくてはならないのでしょうが・・・)

2005年10月3日月曜日

立ち読み

本日は天気も良いので丸の内オアゾの丸善へ。丸山真男の「自己内対話」でも買おうと思っていたのだが生憎売り切れだった。こんなことならネット検索しておくべきだったと後悔。

仕方ないので丸山解説本をいくつか斜め読み。丸山は最後まで「思想史家」としての立場を貫き、「思想家」「哲学者」ではなかったらしい。自分の語れる範囲の事を徹底的に研究することで、ひいては「思想」や「哲学」を語っていたという態度は、彼の音楽への接し方とも通ずると感じた。「ササラ型」「タコツボ型」ということと「執拗低音」というキーワードは、彼の中で通底する意識なのだと思う。晩年の「他者感覚」についての言及も鋭い。

その後、話題?の「原寸美術館 画家の手もとに迫る」(結城 昌子)をパラパラとめくる。その迫力には驚くばかり。ボス、ブリューゲルの絵は高校時代から凄いと思っていたが、原寸で眺めた時の凄まじさ。あるいはマネの圧倒的な筆さばき、モネやゴッホの狂気を感じる色の混沌。フェルメールの異空間。ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」の壮麗さ・・・、本当にこの企画には脱帽、今まで見えていなかったものが浮かび上がってくる。

しっかり堪能した後は渡辺保氏の「歌舞伎劇評」(朝日新聞社)を一通り眺める、すぐに読めてしまうので買うほどではなさそう。最後は「歌舞伎の話」(戸板康ニ)、「アースダイバー」(中沢新一)を購入して帰る。丸善は窓際に椅子とテーブルがあり非常に快適。

2005年9月25日日曜日

渡辺保:「歌舞伎~過剰なる記号の森」

歌舞伎評論の第一人者である渡辺保氏による歌舞伎の解説書。もともと新曜社シリーズの「ワールドマップ」の一冊として企画され現代の思想、風俗、社会現象、文化などを記号論によって分析しようとしたものであったそうです。

記号論云々は私にはさっぱり理解できませんが、渡辺氏の歌舞伎に対する真摯な考え方に触れることができることと自分の中での歌舞伎観を再構築する意味において非常に有益な書でした。

私がこの本を書くことを決心した理由はたった一つしかない。私自身の歌舞伎の美学というものを書きたかったからである。(「口上」P.10)

まさにこの一言に、渡辺氏が歌舞伎の中に何を観ているのかを理解することができます。幼いころから陶然として役者を眺めてきた渡辺氏には、歌舞伎かくあるべきという信念と真摯な熱意が溢れています。面白いのは彼の本書に対する姿勢です。最初に歌舞伎の美学を書くと言っておきながら、

ところで私たちの歌舞伎の美学というものが一体どういうものであるのかは、いまのところ私にもまったく分からない(「口上」P.12)

などと書いています。本書は「解説入門書」の類とはその本質を全く異にしていると続け、

この本は、そういう私自身の自己証明のために書かれ(私と同じような感心をもたれるごく一部の方々のためにのみ書かれ)る(「口上」P.12)

としています。とは言っても偏狭な知識や見解をひけらかしたり、引用だらけの凡百の書とは雲泥であり、また難解な歌舞伎論が展開されているわけではなく、少しでも歌舞伎を面白いとか魅力的であると感じたことのある人には、充分に納得できる内容が散りばめられておます。とくに本書を読み進めると、あたかも歌舞伎の舞台が眼前に展開されているかのような心持ちになるところは流石でしょうか。

彼が本書をしたためた意図を再度確認しますと、P.13でもう一度繰り返される自己証明の意味をもつ書物自分の内なる歌舞伎を分析することによって時代の証言台に立ちたいということでした。その裏には今現在も変遷を続ける歌舞伎というものがあり、歌舞伎を観て育てている観客というものがあり、それらを含めて変遷しつづける世界の存在を渡辺氏は示唆しています。

以前も触れましたが、歌舞伎が変化する理由については時代の感覚が変わったからであるとした点には深く頷かざるを得ません。「芸」に支えられた伝統芸能である歌舞伎の変遷を辿ることは、ある意味で私たちの時代精神の自己証明でさえある点で、私の中でも興味は尽きません。

2005年9月18日日曜日

歌舞伎の美学

渡辺保氏の「歌舞伎 過剰なる記号の森」(筑摩書房)を読み始めましたが、「口上」と題された序文の中の一文が鋭く目を射ました。

古典劇としての歌舞伎には、それ自身のなかに伝統的でかつ不変の一つの美学があるように思える。しかし実はそうではないのである。(中略)そこにはむろん変わらないものもあるが、変わったものもある。変わらないものはその形式(たとえば女形)であり、変わったものはその内容(たとえば女形の芸風)である。(P.10)

この変化がどこからくるかといえば、(中略)私は時代の感覚が変わったからだと思う。(中略)その時代の感覚の変化の基本となったものは、私たち観客の感受性の変化でもある。役者とともに、役者と交錯しながら観客の美学というものが変わったのである。(P.11)

先に紹介した中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」。丸山はカラヤンの振るベルリン・フィルをトスカニーニとNBCのヨーロッパ版言い、「なんという絢爛としたむなしさ」(P.229)という一言のもとに評しました。丸山が愛したフルトヴェングラーに象徴された音楽の時代が聴衆とともに変化したことを如実に表した一言です。

再度問う、いったい私たちは、何を観て何を聴いているのか、いや、何を守り何を求めているのかと。