現在の歌舞伎役者は、先に書いた鶴屋南北の世界に生きた「川原乞食」などと称される身分とは対極的な世界を獲得しています。歌舞伎俳優で成功している方々は、社会的な名声も富も有している存在であり、かつそれを維持しつづける家柄であるでしょう。
ここで思い出したのは渡辺保氏の「歌舞伎」(ちくま文芸文庫)にあった昭和26年の歌右衛門襲名披露における吉右衛門の「口上」のことです。渡辺氏にとって、この襲名披露における吉右衛門の口上が忘れがたい
もので、この口上にこそ「口上」の原点
があると書いています。
口上の間役者は観客に対しそれこそ平蜘蛛のように平伏
するのが普通です。しかし、渡辺氏は吉右衛門の平伏を、他の役者のように形式的なものではなく、古い役者としての血がこういう姿勢をとらせ
ているのだとし、それを過去の観客と歌舞伎役者の関係の差(中略)その伝統の記憶が吉右衛門の身体によみがえってくる
からであろうと書いています。更に、吉右衛門の「一座高こうはござりますれども」の言葉には本来はお客様とは同じ座に座ることもできない身分の私どもがという卑下が含まれて
いたと書いています。そして、
歌舞伎役者はあきらかに深い階級的な差別のなかに生きている。これが「口上」の原点であることは間違いない。
としています。歌舞伎の本当のエネルギーとは
差別される人間の自持の中にあるのだと。
口上は今年の中村勘三郎の襲名披露で実際に見ましたが、ずらりと並んだ裃を付けた俳優たちはひたすら平伏しており、襲名する勘三郎も平伏して「口上」を述べていたのが、口上を始めてみる目に印象的でした。この平伏に渡辺氏の示す意味が込められていたとは、その時は知る由もありません。
今年1月以来歌舞伎を見始め、渡辺氏が感じている歌舞伎世界は、その内実から大きく変質しているのではなかろうかと思う瞬間がないとは言えません。今更歌舞伎俳優の身分を低くしろとか、「乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっ(「アースダイバー」中沢新一 P.46)
た歌舞伎をもとの姿へというのは実情にそぐう主張ではないでしょう。
だとするならば、差別をのりこえる武器
であった「愛嬌」も、歌舞伎の魅力も、その意味するところはいやがうえにも既に反転しているのかもしれません。
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