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2003年7月5日土曜日

広上淳一&東京都交響楽団

マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典

日時:2003年7月4日 17:00~
場所:東京オペラシティコンサートホール
指揮:広上淳一   ヴァイオリン:庄司紗矢香
演奏:東京都交響楽団


マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典
本日の演奏は本来、指揮者は大野和士氏であったのだが、頚椎捻挫のため広上氏が代役で振ったプログラムだった。大野氏の指揮を期待していた人は残念な思いをされた方も多かったのではなかったろうか。私はひとえに庄司さんのヴァイオリンを聴きたかっただけであったので、指揮者が変わったことに期待も不安もなかったと書いては失礼になるだろうか。

さて、その庄司さんの演奏するのが、日本初演になるというマックス・レーガ-のヴァイオリン協奏曲である。演奏時間が60分という大作だ。CDなどで予習もしていないので、ここで聴くのが始めての曲であった。

一度聴いただけでは、どこに感動を持って行けば良いのか分かりにくい曲であったというのが正直な感想なのだが、思い出すままに書いてみよう。

第一楽章だけで30分もあるのだが、聴いていて旋律線が良く分からない、盛りあがっているのか盛り下がっているのか、うれしいのか、哀しいのか、まるで混沌として夢見るようなフレーズが延々と続く。でも決して不快な音ではない。ゆるやかな波動やうねりのようなものを感じ、深層を漂うがごとき心境になる。はじまりも終わりもなく、精神の表層と奥を行き来するかのような趣さえする中に、ときどき突如とした閃きやパッションが迸る。自分自身、眠いのか覚醒しているのか分からないなかで、庄司さんのヴァオリンの音色だけが綿々と連なっている。

レーガ-はヴィルトオーゾ風の協奏曲を嫌ったらしく、確かに聴いていてヴァイオリン協奏曲というよりはヴァイオリンを伴った交響曲風なつくりではあるのだが、庄司さんの音色はひとときもオーケストラに埋没することなく、何かを唄い続けている。音色は多彩で複雑でそして確かにブラームスを思わせるようにロマン的だ。目をつぶって聴いていると、ほんとうにヴァイオリンを一人の奏者が弾いているのだろうか、という気にさせられる。決してバリバリ弾きまくっているのではないのに、オケをバックにしたこの存在感は何だろうと思わされる。それが曲の構成なのか、あるいは庄司さんの力量なのか。

解説はマックス・レーガ-研究所のスーザンネ・ポップ氏の寄稿によるものだが、「精巧に造られたからみあう蔦のような音形総体」との表現は、聴き終わってみてなるほどと妙な説得力をもちえているように思われた。60分が長いのか短いのか、それさえ分からない。1942年のアメリカの初演では「節度のない量のビールとソーセージ」と酷評されたらしい。

たった一度聴いただけでは、全貌を掴むことはできなかったものの、演奏が終わった後も庄司さんのヴァイオリンが頭の中で鳴りつづけていた。

余談だが、休憩時間中にホワイエで初老の女性が「1楽章のカデンツァは本当に素晴らしかったわね!」と興奮して話しているのが耳に入ってきた。私はそうだったかしらと思い返し、聴衆として未熟なのかと思ってしまった。そういう言い方をするならば、素晴らしかったのはカデンツァだけではなかったのだし。

そんな余韻に浸っていた中で始まったのが春の祭典だ。改めて都響の音色に耳を傾けるなら、響きの重心がかなり低めであることに気づかされる。深みとコクのある音色は独逸ものに強そうな印象を受けた。

さて広上氏の指揮するハルサイであるが、これはレーガ-の雰囲気をまったくかき消すような響きであり、その対比に最初は少なからず違和感と抵抗を覚えたことも否定できない。何と言ってもハルサイである、さもありなんと思い、はてさてこの20世紀の前衛ともいうべき古典を、どう料理してくれるかと期待したのだが、地を蠢き噴き上げる凶暴さを感じはしたものの、予定調和の出来レースのようも聴こえはじめ、妙にまとまった音楽に感じてしまった。そう思って広上氏の指揮を見ていると、前後左右上下に大きく動くその指揮振りも、ダンスを指導する振付師のように見えてきて、鼻白むところもなきにしもあらず。

そうは言っても都響の響きや音量は驚くほど大きく、迫力などの点では全く申し分ないことは認めざるを得ない。オペラシティホールも非常に音響的に優れたホールで、こういう環境で都響が奏でる独逸ものを聴けば、さぞかし壮大なる満足を得るのだろうなと思いながらも、今聴いているのはストラヴィンスキーで、ああ、そうだそうだ、こんな余計なことを考えていたら、あっという間に終わってしまうぞと自分に言い聞かせるのであった。

都響は聴けば聴くほど上手いオケだし、音量がクライマックスのときに、ほんの少し荒れた印象を受けることもあったが、それは曲調のなせるわざなのか。粗さを重心の低さでカバーしているようにも聴こえ、分厚い響きはさすが在京オケだと思うのだが、最後まで何かひとつ充たされずに終わってしまった。

それにつけても思い出すのは、いつ終わるとも知れなかった庄司さんのヴァイオリンなのである。夢の中の深層に(実際眠りそうにもなったし)、サブリミナル効果のように刷り込まれてしまったようだ。聴けるならもう一度聴いてみたいと思いながら。(明日サントリーでまた演奏するらしいが・・・)

2001年8月5日日曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」


ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)

ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。

この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。

さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。

「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。

「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。

「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。

「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。

何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。

ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。

第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。

そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。

「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。

最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。

何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。

ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。

2001年4月22日日曜日

【音盤】カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる「春の祭典」

ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(cond) ベルリンpo.
録音:1963、1964 DG(LP国内版)

カラヤン・ベルリンの63年の演奏である。この組み合わせなのだから、立派な演奏にならないはずはなく、ここでも力強く構成美豊な音楽が展開されている。 音楽雑記帳でも書いたが、この盤を買ったのは高校1年生のときであったと思う。非常に衝撃を受けたと同時にクラシック音楽の奥深さを垣間見た思いがしたものである。

久しぶりに聴いてみたが、かつての記憶がよみがえるかのような名演であると思う。しかし、バーンスタイン、ブーレーズと聴いてきて、カラヤン盤の特徴や限界(?)も見えてきたような気もする。素人の戯言であるので、あくまでも印象と思っていただきたい。

この演奏だけ聴いている分には迫力も満点であり、豊なの色彩美を感じることもでき、非常に満足を受ける。他の盤になくてこの盤に聴こえるものとするならば、無数ともいえる細かな光と色彩の乱舞であるともいえるかもしれない。それは、冒頭の部分から明らかであり、聴き進むにつれて豊なる音の洪水となって押し寄せ、音楽に酔うことができる。そういう点から考えると、この演奏に難を付ける部分はどこにもないと思う。

しかしなのだ、音の迫力も音楽の推進力もあるにも関わらず、何か物足りなく感じるのである。それは何なのだろうか?よくは分からないのだが、カラヤンがこの曲に求めているもが、少なくともバーンスタインやブーレーズとは若干異なっているのではないかと感じるのである。具体的に指摘することは難しい。不正確な表現を承知で書くとすると、どうもカラヤンは、この20世紀の幕開けたるべき偉大なる前衛の音楽を、非常に真っ当に、前衛的にとか原始的なエネルギーを込めてというのではなく、19世紀までの音楽的手法の延長のようなアプローチで立派に演奏している、というように感じるのだ。

先にも書いたように、音楽的には申し分なく、明の部分から暗の部分への移行や対比も見事であるし、暗い戦慄の奥で鳴る複雑な音色も良く聴き取れる。どこを切っても、豊穣なる音の塊が聴こえるしそれで十分とも言えるし、この音楽の持つ複雑性を見事に表現しているとは思うのだが、何か肝心なものが嗅ぎ取れないのだ。それは、ギリギリの線からはみ出しているかのような、危うさやスリル、鋭さなどが欠如していると言ってもいいかもしれない。もっともこれは「好みの問題」だとは思う。

この盤に対する他者の評は読んだことがないし、聴いた盤もポンコツプレーヤーで昔のLPである。ノイズがカリカリ言うのを我慢しながら聴いているので、再びもっと良い音で聴けば、印象は変わるかもしれないが・・・

2001年4月17日火曜日

【音盤】ブーレーズ指揮 クリーブランド管弦楽団による「春の祭典」

ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1913年版)
ピエール・ブーレーズ(cond) クリーブランドpo.
録音:1969 SONY SRCR(国内版)

ブーレーズもこの曲を四度ほど録音している。この盤69年版は、ブーレーズがクリーブランドと組んで録音したもので、「春の祭典」の歴史的名盤とさえ言われている演奏だ。現代においても、これ以上の演奏は91年、やはりブーレーズとクリーブランドの二度目の演奏しかないという者もいるらしい。それほどの演奏なのである。

演奏の感想というものは、比較する盤や始めて聴いた盤での刷込みや、他者の批評や感想から完全に自由な状態で書くことはほとんど不可能と言ってよい。特に、ある演奏での刷込みがある場合、それが先入観となってしまい、その盤の印象をぬぐい去るためには、現在聴こうとしている盤を、新たな刷込みとするほどに聴き込まなくては感想を書くことなど望めないのではないかと暗澹たる気分に襲われる瞬間さえある。これから書こうとする「歴史的名盤」に対して、どれほど「束縛」から開放されているのかは、自分自身知る由もないのだ。

さて、言い訳が長くなった。ご多分に漏れず敢えて書かせてもらうなら、この盤から聴き取ることが出来るのは、豊饒なる色彩の乱舞と作品の持つ複雑さと美しさ、そして強靭さである。

バーンスタイン盤(58年)で感じるような、感情が高ぶり畏怖さえ感じるような部分や、ほとんどデモーニッシュな雰囲気は少ないと言えようか。しかし、それだからと言って、作品の輪郭がぼやけたり曖昧であるということは微塵もないのだ。むしろ、この盤との比較で考えるならば、バーンスタインの演奏は、若さ故の突っ走りと情動の部分に偏り過ぎているようにさえ思える。

例えば、第一部の「春のきざしと若い娘達の踊り」の部分など、単純なリズムの連続の中においても単調さはかけらもなく、常に変化し続ける動きが見えるし、曲が進むに連れて次第に色彩豊になってゆく様は見事な描出力を感じる。「誘拐の遊戯」にしても抑制を効かせた表現が、いたずらにして無意味とさえ思えるカタストロフを演じることを避けているようにさえ思えてくる。そして、これは録音のせいなのか、オケの特徴なのか、指揮者の力量なのか、実に色々な音が見えかくれし、どの瞬間を切っても新たな驚きと、新鮮さに満ちているのだ。

バーンスタインの演奏が、切ると血が出るような生々しさと凶暴さに満ちているとするならば、ブーレーズの演奏は、切口が鋭利で鋭く、歯切れよく、瑞々しい植物の細胞の一つ一つが潰れることなく、試験薬に染まりその姿をあらわにしているかのような感触さえ覚える。

また不調和の調和の美というものが、たぐいまれな精緻さの中でこれでもかとばかりに描出されている。ここらあたりも、バーンスタインが一気に押しまくっているのに対し、実に丁寧に色々な色彩のパレットを使い分け、互いの色が混ざらぬようにに描き分けていると感じるのである。第二部にしても暗黒的なミステリアスさの表現は、息を飲むほどの美しさであり、イメージ豊であるがために情景描写的であるとさえ思える。

このように、精緻かつ鋭利にこの曲にアプローチすることで、「分析的」とか「明晰な」いう表現を与えられるのかも知れないが、それでいてこの作品の持つ強靭さやエネルギーが失われていないことが名盤たる所以なのであろうか。(それにしても、音楽音痴な私には、どこが「分析的」でどごか「明晰」なのかは判然としないのだけどね・・・・)

ただひとつだけ、バーンスタイン盤と比べて欠けているのは、この曲を聴いて感じる圧倒的な内からこみ上げる肉体的とも言える情動感であろうか。根源的な、あるいは本能的な有無を言わさぬパッションと言ってもよいかもしれない。そういうものをこの演奏から感じることは、ない。もっとも、それがこの曲に「不可欠」なものであるのかは、私には分らないのだが。

2001年4月16日月曜日

【音盤】「春の祭典」聴き比べ

行きがかりで「春の祭典」を聴き始めてしまった。バーンスタイン・NYP(58)、ブーレーズ・クリーブランド(69)、 カラヤン・ベルリン(63)の三種類の盤を聴きくらべてみようと思う。私のルーツ版のLPを聴くために、ぶっ壊れかけたプレーヤーも 復活させた。
ハルサイといえばブーレーズが定番だったので、 91年盤にしようかと思ったが、69年盤を入手してしまった(^^;;
まずはバーンスタイン盤から始めよう…、この盤が数ある「春の祭典」の中でどういう評価を受けているのかは知らないが 衝撃度はピカ一なのではと思う。それは単に私が、バーンスタインの音楽を受け入れやすい性格だからなのかも知れないが。

ファジル・サイ
2000年夏に発売され、方々で話題になったファジル・サイ。かのClassicaJapanでも絶賛されていた(当該HPのDISK WOW!参照)。キワモノ的なイメージが付きまとい、気にはなっていたのだが購入意欲までは湧かずにいた。春になったし、やっぱりここはディーリアスかハルサイかななんて思って購入(1000円ちょっとだし)。続きはCD試聴記で!


カラヤン ベルリン・フィル
春の祭典を初めて聴いたのは、たぶん高校1年のときだったと思う。友人「凄い音楽がある」と教えてくれた。その時に買ったのが、カラヤン・ベルリン(63-64年)の演奏であった。「春の祭典」は紛れもない前衛的な音楽で、不協和音のカタマリであったのに、それは衝撃的な音楽として深く心に刻み込まれた。LPのノーツによると年をまたいで録音した演奏のツギハギということなのだろうか?非常なる名演ではあると思うが、何かが足りないと思うことも事実なのであった・・・

 


バーンスタイン ニューヨーク・フィル
バーンスタイン・NYPの58年の演奏。ハルサイといえば、ブーレーズが有名らしいが、クラシック初級者の私は聴いたことがない。それを前提として書くと、改めてこの演奏を聴いてみると、体の底を貫くような衝撃を覚えてしまった・・・・。残念ながらCD試聴記はまだ書けない。ここ数日、ハルサイ漬けである。
 

ブーレーズ クリーブランド管
バーンスタイン版(58)の後に聴くのは、「春の祭典」の歴史的名盤とまで言われる、ブーレーズ・クリーブランドの69年の演奏である。ブーレーズは91年にも同オケと再録している。「歴史的名盤」といわれるものであるため、嫌でも色いろな批評が目に入ってしまう。それらから全く先入観なしに曲を述べることは、難しいと感じざるを得ない

2001年4月15日日曜日

【音盤】バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルによる「春の祭典」


ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1913年版)
レナード・バーンスタイン(cond) ニューヨークpo.
録音:1958.1 SONY SRCR9941-2(国内版)

「春の祭典」の魅力と言えば、音楽的には色々あるとは思うが、ワタシ的には原始的なリズムと荒々しさ、そして内側からこみ上げてくるような生命力ではないかと思っている。

そもそも「春の祭典」というのは、野蛮にして暴力的な音楽である。ストラヴィンスキーが着想したテーマもさることながら、厳しい寒さを経験した後の北国の爆発的な春を象徴するかのような激しさと、強烈な色彩感に満ちている。固く閉ざされた生命が一気に沸き出し乱舞するさまは、地面がバリバリと音を立てて割れるかのような印象さえ与える。さらには、土俗的というかバーバーリアンな雰囲気さえ漂い、とても近代的とは思えないテーマを、それとは逆に非常に前衛的な雰囲気で構成した音楽だと感じる。

今ではこの曲をを前衛的という人は少ないかも知れない。しかし、改めて聴いてみれば、私はこれを現代においてもきわめて「前衛的」であり「挑発的」であると思うのだ。これほどの不協和音の連続でありながら、広くポユラリティを獲得し得ている音楽というのは、他ではないのではないかとさえ思う。不協和音のカタマリみたいな音楽でありながら、旋律的であるという、よくワケが分らない音楽でもあり、そこにこの曲の不思議な魅力があると思うのである。

バーンスタインは「春の祭典」を3度ほど録音をしている。この盤は一番若いときのものであり、1958年といえば彼がNYPの常任首席指揮者楽督に就任した年だ。

この盤から聴こえるのは、若さとすざまじきまでの荒々しさと凶暴さである。若き獣が牙をむいて地の底から硬い殻を突き破って襲いかかってくるかのような、壮絶なる迫力に満ちた演奏であると思う。それは若きバーンスタインの野心そのものとさえ思えてくる。録音のせいだろうか、ともすると迫力は満点なものの、少々明晰さを欠き、モコモコした音に聴こえる部分もないわけではない。打楽器群の音も生の編集されない音なのかは疑問も残るが、CD芸術として聴くならば、その凄さは特筆ものであると思う。

バーンスタインは、この曲の持つ生命力を十二分に引き出すことに成功していると思えるし、その乱舞する音楽とスピード感は非常に刺激的である。ただ、不思議なことに演奏時間を見ると、それほど「快速」系の演奏ではないようだ。以下にこの曲の聴き所を見てゆきたい。

第一部の「序章」は、様々なものが春になり萌え出ずる雰囲気が良く表れている。非常に美しい部分だと思う。「春のきざしと若い娘達の踊り」は有名な部分だが曲全体としてみると、まだ整然とした雰囲気を残しており、序の口といった印象であることに気付いた。単調なリズムは高まる地の鼓動であろうか、色彩感も豊かで非常に聴きごたえがある。「誘拐の遊戯」の迫力は聴くものを鷲掴みにして地上から空中高く放り投げるかのような狂暴さがあるし、圧倒的なスピード感がある。「春のロンド」の重々しい雰囲気、コントラバスのこれでもかというばかりの響きと、春の荒々しい開花を表す部分(?)は、脳天を直撃という程の迫力だ。「競い会う部族の遊戯」に至っては、バーンスタインの語り口の凄さにもはや言葉を失ってしまうのだ。バランスを崩しそうな微妙なギリギリのところで保つ均衡と緊張、全てを圧する力を感じる。「大地の踊り」の部分など冒頭のティンパニーの連打は言語を絶し、押し寄せる音の塊には感動を通り越し、恐怖さえ感じる。

第二部に至っても、この迫力はいささかも衰えるところがないばかりか、秘めたる暗さやある種の暗黒性が宿すミステリアスさと、根源的な生命力まで表現されており、聴くものの体の底から震撼させる音楽に仕上がっていると思う。「若い娘達の神秘な集い」に移る当たりからの部分は、この演奏の白眉たるところだ。もはや、聴いてもらうしかない、とにかく凄い! ものすごく太い棍棒でぶったたかれたかのような衝撃を受けた。

ここで、「春の祭典」はバレエ音楽として構想されていることに改めて思い出す。バレエといっても、「白鳥の湖」のような優雅さではなく、舞踏という表現の方が適切なのかも知れない。舞踏というと、私の場合、ともするとある種の暗黒性と生命力をイメージせずにはいられないのだが、バーンスタインのこの盤は十分過ぎるほど、これらを表現しつくしていると思うのだ。

この拙い感想を書くために、実はこの演奏を十回くらい繰返し聴いただろうか。聴くたびに決して色あせることなく、その度に新たなる力を与えてくれる演奏である。いささか、感想が単調になってきてしまったきらいがないではない。しかしだ、バーンスタインと言うものは、聴衆の深いところにグサリと入り込んでしまうような、不思議な魅力が確かにある。

正当な「春の祭典」評価において、この盤がどういう位置付けかは分らないが、私にとってはこれ一枚あれば、他の演奏がどうであれ、正統的な演奏が何であれ、どうでも良いとさえ思えてしまう。

2001年4月8日日曜日

ファジル・サイによる4手ピアノ版「春の祭典」


ストラヴィンスキー:「春の祭典」 ピアノ版
ファジル・サイ(p)
録音:1999 TELDEC WPCS-10570(国内版)

昨年(2000年)、いろいろなところで話題になった盤である。トルコ生まれのピアニスト、ファジル・サイがストラヴィンスキーの「春の祭典」4手ピアノ編曲版を、多重録音で一人で奏した演奏である。

クラシックで多重録音ということで、保守的なリスナー(要はオレのことだ)にはキワモノ的なイメージが付きまとったのではないかと思う。輸入版だと1000円以下、国内版でも1200円と安いので(録音時間も30分だが)、まあ物は試しと半年以上の前の新譜だが聴いてみた。

私もピアノができたら、好きな曲を思う存分弾いてみたいと思ったことがある。最近ではMIDIにより。一人あるいはコラボレーション作業でオーケストラをシミュレートし自分の好みの演奏を作り上げることができるようになってきていると聞く。ファジル・サイがこのような試みを行ったときのきっかけは、自分の好きな曲を、自在に操って演奏したいという強い欲求があったのではないかと思うのだ。

聴いた感想としては、非常にスリリングな演奏であるばかりか、ファジル・サイの曲への思い入れと愛情があふれた、一種独特の世界が形成されていると感じた。ファジル・サイの演奏は物凄く激しく、もはやピアノと性交しているのではないか(表現が下卑ているが)とさえ思わせる。サイの唸り声ともうめき声ともつかぬ音まで入っているのだ。

だからと言って、トンデモ的なイメージは全く無い。ここにはストラヴィンスキーが「春の祭典」で表現しようとした(と思われる)、原始的な暴力的とも言えるリズムと、内からこみ上げてくるような生命力が見事に表現されており、将に正攻法の演奏と言ってもよい。

ピアノの内部奏法をまで駆使するところには、彼の並々ならぬ情熱を感じるし、それがピアノという楽器が出すことのできる音色を限界までに引き出し、ピアニズムの極致とモノクロームな色彩がはじけていると感じた。色々な奏法や弾きかたをすることでオーケストラの音色を思わせるような部分も多く楽しめる。弦のピチカートを模したような音もあり、非常に豊穣である。

激しいだけではなく、例えば第一部の序奏などは、透明感があり一瞬JAZZを聴いているのではないかと思わせるような雰囲気さえ漂うのだ。第二部の序奏などオケ版よりもミステリアスに感じるかもしれない。

もっとも、オケ版との比較ということでこの演奏を聴くことは無理があると思う。ピアノが表現しうる限界までを追及した、特異なる盤と言えるのではないか。ただ、録音のせいなのか激しい演奏であるものの、思ったよりダイナミックレンジは大きくない。そこら当たりに不満を感ずる人もいるかも知れない。それに、何より、ファジル・サイによる生演奏を聴く事はおそらく叶わないのだ。