私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
2001年4月8日日曜日
ファジル・サイによる4手ピアノ版「春の祭典」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」 ピアノ版
ファジル・サイ(p)
録音:1999 TELDEC WPCS-10570(国内版)
昨年(2000年)、いろいろなところで話題になった盤である。トルコ生まれのピアニスト、ファジル・サイがストラヴィンスキーの「春の祭典」4手ピアノ編曲版を、多重録音で一人で奏した演奏である。
クラシックで多重録音ということで、保守的なリスナー(要はオレのことだ)にはキワモノ的なイメージが付きまとったのではないかと思う。輸入版だと1000円以下、国内版でも1200円と安いので(録音時間も30分だが)、まあ物は試しと半年以上の前の新譜だが聴いてみた。
私もピアノができたら、好きな曲を思う存分弾いてみたいと思ったことがある。最近ではMIDIにより。一人あるいはコラボレーション作業でオーケストラをシミュレートし自分の好みの演奏を作り上げることができるようになってきていると聞く。ファジル・サイがこのような試みを行ったときのきっかけは、自分の好きな曲を、自在に操って演奏したいという強い欲求があったのではないかと思うのだ。
聴いた感想としては、非常にスリリングな演奏であるばかりか、ファジル・サイの曲への思い入れと愛情があふれた、一種独特の世界が形成されていると感じた。ファジル・サイの演奏は物凄く激しく、もはやピアノと性交しているのではないか(表現が下卑ているが)とさえ思わせる。サイの唸り声ともうめき声ともつかぬ音まで入っているのだ。
だからと言って、トンデモ的なイメージは全く無い。ここにはストラヴィンスキーが「春の祭典」で表現しようとした(と思われる)、原始的な暴力的とも言えるリズムと、内からこみ上げてくるような生命力が見事に表現されており、将に正攻法の演奏と言ってもよい。
ピアノの内部奏法をまで駆使するところには、彼の並々ならぬ情熱を感じるし、それがピアノという楽器が出すことのできる音色を限界までに引き出し、ピアニズムの極致とモノクロームな色彩がはじけていると感じた。色々な奏法や弾きかたをすることでオーケストラの音色を思わせるような部分も多く楽しめる。弦のピチカートを模したような音もあり、非常に豊穣である。
激しいだけではなく、例えば第一部の序奏などは、透明感があり一瞬JAZZを聴いているのではないかと思わせるような雰囲気さえ漂うのだ。第二部の序奏などオケ版よりもミステリアスに感じるかもしれない。
もっとも、オケ版との比較ということでこの演奏を聴くことは無理があると思う。ピアノが表現しうる限界までを追及した、特異なる盤と言えるのではないか。ただ、録音のせいなのか激しい演奏であるものの、思ったよりダイナミックレンジは大きくない。そこら当たりに不満を感ずる人もいるかも知れない。それに、何より、ファジル・サイによる生演奏を聴く事はおそらく叶わないのだ。
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