高村氏の雑文集である。テーマは時代性のことや自分の作品のこと、自分自身のこと、さらには音楽のこと(ブラームスとシューマン)などまさに「雑文集」であるのだが、高村氏を知る上では興味が尽きない。
この雑文集を読んでいると、彼女の書いてきた主人公は、ひょっとすると彼女自身の分身なのではないかと思えてくる。特に『神の火』の島田とか幸田など。俗世間にあまり染まっていない姿や、何か奥に秘めたところがある姿などに、高村氏自身の影を感じるのかもしれない。
「学校は地獄。勉強は不毛。ピアノは苦痛。友だちなし。希望なし。やりたいことなし。一人深い藪の中で紫のスミレを紫に見入って、何を考えていたのかは覚えていない」(「折々の花」P.267)
と小さい頃を回想する高村氏。スミレの向こう見据えていた物は確かに、水蒸気が雲を形成するように、もくもくと、捉えどころはないが小説という形にはなったのではなかろうかと思うのだが。
また高村氏の小説に対する想いも知ることが出来る。小説を書き始めたきっかけについては、彼女は会社勤めをしている間
「自宅のパソコンを使って時間潰しの文章を書き始めたのは、喉が渇いたから水を飲むような抑えられない欲求であった」
と書き、
「いったいわたくしが没頭したのは、書くという行為なのか、それともストーリーの中身なのか。やがて姿を現したのは、真摯な随筆でも私小説でもなく、荒唐無稽な拙いスパイ小説だった」(「折々の花」P.271)
と説明している。そのときに書いた小説はおそらく「リヴィエラを撃て」だと想うが、あのような小説が「時間潰し」で出来あがったとしたら、高村氏とはいったいどういう人物なのかと、謎は深まるのではあるが。
「会社勤めのOLが得意先への道すがら、行きずりの某都市銀行本店の前を歩きながら、この銀行を襲って金を取ったらスカッとするだろうなと思い立った
」(「情報化時代と小説」P.194)ことが処女作『黄金を抱いて翔べ』になったと説明するが、読めば分かるがこの小説とてそんなに単純なものではない。確かに銀行強盗を企てた北川は、「やったるぜい」という気概に溢れているが、主人公の幸田とモモの関係など、「スカッと」するような感覚というよりも、鉛のような重さと夜に迷い込んだ小路のような陰影を作品に投げかけている。
あるいは改稿について彼女が語ることは、驚きにさえ満ちている。
「拙作『神の火』の文庫本用ゲラを、わたくしは他人として読み始め、数十ページで投げ出してしまった。文章の稚拙、構成の不備、人物造形の浅はかさといった表面的な拙さは多目に見ても、この作者が何を書こうとしているのか、どうしてもピンとこなかった」(「改稿について」P.222)
それを彼女は「小説の主題と構造が根本的に合致していない
」(同P.223)と自己分析し、主題を変えて構造を残すということを選択し改稿するわけである。こうなったら、おそらくは単行本版と文庫本版は異母兄弟のようなものだ。あるいは全く別物といっても良いのかもしれない。これは参った、何故ならもう単行本版は古本屋にしかないだろうし、高村ファンは、それこそ血眼になって古本屋を徘徊しているだろうからだ。
さらにだ、『マークスの山』の主人公、合田雄一郎は「大阪弁を話す男
」(「小説の言葉」P.293)として小説に登場していたというではないか。文庫本版では標準語を話す男であり、何かの拍子に大阪弁が飛び出しはするが、義兄弟の加納に大阪弁を話す合田も悪くないと茶化されるくらいだ。
このように強烈な自己批判と「自意識の塊のような
」(「折々の花」P.273)高村氏は、小説の快楽、小説の力、そして小説とは何かということを考えつつ、作品を生み出しているのだ。高村薫はミステリー界の女王と呼ばれているらしいが、この雑文集を読んで、彼女の存在そのものがミステリーであるという想いを深くした。(40%くらいが引用になってしまったな・・・)
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