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2022年2月3日木曜日

GRAMOPHONEによるマーラーおススメアルバム

GRAMOPHONEによる2022年1月1日(元旦)の記事で「The 50 best Mahler albums (updated 2022)」というのが掲載されていたので、メモとしてリンクを張っておきます。

非常に長い記事なので紹介されているアルバムをリスト化しておきます。

ワルターからペトレンコまで幅広い時代の演奏が網羅されています。個人的に好きなテンシュテットが少なかったり、第9番にカラヤン盤が1979-80年と1982年の2録音選ばれていたり、バーンスタイン、アバド、ラトルなどが頻出したりと、なかなか興味深いです。

このごろは、マーラーの曲を聴くことは自分的に激減してしまいましたが、何かの時にゆっくり読んでみようと思います。

2021年7月8日木曜日

ドゥダメルのマーラー交響曲第8番、壮大な音の洪水

Apple Musicのハイレゾ化、「空間オーディオ」と「ロスレスオーディオ」を十分に体験できる音源として提供されているもののひとつ、ドゥダメルとロサンゼルス・フィルによるマーラーの交響曲第8番です。

これは既に発売済の、2012年2月のマーラー没後100年記念演奏とは別もので、2019年5月と6月のウォルト・ディズニー・コンサートホールでのライブ録音です。

https://music.apple.com/jp/album/mahler-symphony-no-8-in-e-flat-major-symphony-of-a-thousand/1565928607

2021年6月10日木曜日

交響曲第7番 キリル・ペトレンコ&バイエルン国立管弦楽団

ペトレンコのマーラー交響曲第7番の録音が出ました。オケはバイエルン国立管弦楽団、2018年の録音です。ペトレンコは2013年から、ケント・ナガノの後任として同劇場の音楽監督を務めていました。このアルバムは同劇場の自主レーベルとのこと。

自分はApple Musicで聞いているのですけれど、実物のブックレットは非常に立派なようです(ちょっと欲しいかも→買わないけど)。


https://music.apple.com/jp/album/mahler-symphony-no-7-in-e-minor-live/1564332870

2019年5月15日水曜日

レ・シエクルのマーラー交響曲第1盤

 

2011年9月20日火曜日

【本棚】クラシックジャーナル マーラーを究める

クラシックジャーナル マーラーを究める

久しぶりに買ったクラ本だが、瑣末な差異や話題をことさら大げさに論じたり、きわめて主観的にな感想を、あたかも作曲家の考えを代弁するかのような幻想を含め、究極のヲタ本である。

この内容についていけるか、拒絶をするか。

こういう話題を続けているから、クラシックはドン詰まりなのだと思わされる。

好きな人にはたまらないのではあろうけども、客観的に読んでどうかと考えると、とても価値に値しないのではないかと。

どこか、気持ちの悪さを感じるのは、思い入れが過剰に強すぎるせいか。

それでも久しぶりにマーラーやブルックナーの断章を聴かざるを得なかったのは、性(さが)というものでありましょうか。


2009年1月25日日曜日

【音盤】ドゥダメルのマーラー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルのベートーベンに続く第二段、マーラーの交響曲第5番をDGの1week streamで聴いてみました。

音楽的なテーマはベートーベンの第5番に似ているし、音楽に希望を託しているドゥダメルが録音したいという気持ちも分かります。

しかし、この5番にあってもマーラーの音楽は複雑であり混沌としすぎている。まったくもって一筋縄ではいかない。今の時代にあってマーラーに過度の感情を移入しすぎる演奏は忌避される傾向にはあると思う。しかし、だからといってマーラーが有していた矛盾や屈折、諧謔を無視していいとも思えません。

ドゥダメルの演奏は、重心の低い厚い音を提供してくれます。特に低弦やブラスの支えが利いているように思えます。ダイナミックレンジも広い、強奏はアクセントが効いていますし、カンタービレやメロディラインの部分も美しい。確かに水準の高いオケです。

第一楽章の抑圧された凶暴さとか音楽の振幅、第四楽章の抒情に流れすぎない明晰さなどは見事です。この有名な楽章が単に甘ったるい感傷だけではないことを前後の楽章の間で分からせてくれます。終楽章の推進力も流石といったところでしょうか。

であるにも関わらず、何か足りない、全体に音楽が平板に聴こえます。途中で何だかバラバラになった音楽に戸惑っている自分(私)がいる。音楽に摩擦が少ないというんでしょうか、説得されない。悪く言うと退屈、私にとって何度も聴き返したいマーラーにはなっていない。そもそもマーラーなど常日頃に親しみたい音楽ではありません。ですから聴くからには何か欲しい。

うーん、難しいものです。実演を聴いたら印象は全く違うかもしれませんよ。1週間の間にあと、数回は聴いてみると思いますけど、まずはファースト・インプレッションということです。

2006年5月28日日曜日

マーラー:交響曲第2番「復活」/ブーレーズ&ウィーン・フィル

  1. マーラー:交響曲第2番「復活」
  • ブーレーズ(cond) ウィーン・フィル クリスティーネ・シェーファー(S) ミシェル・デ・ヤング(Ms) ウィーン楽友協会合唱団 合唱指揮:ヨハネス・プリンツ
  • DG/00289 477 6004(輸入盤)

ブーレーズのマーラーというと、知的抑制だとか緻密なスコア解釈、透明感などというキーワードで語られることが多いようです。何度か繰り返して聴いていますが、確かにこのマーラーは美しい。しかし感情移入の激しいマーラーを求めるリスナーには、ブーレーズのマーラーから何か決定的なものが失われていると感じるであろうことも認めざるを得ません。

であるからと言って、ブーレーズの演奏が分析的なだけで、感情表現を全く廃しているとすることも当たらないでしょう。作品解釈にを忠実であれば、過度な感情を込めなくても作品の持つ意味は自ずと立ち上がってくはずだろうと思います。ここに聴こえるマーラーは洗練され見通しが良く、ウィーン・フィルの演奏力と相まって曲のダイナミックさや美しさを損なっていない演奏だと思います。

例えば第一楽章などは、ブーレーズらしくないアゴーギグとでも言うのでしょうか、随所でしっかり「タメ」も聴かせてくれます。激しいところは激しく、優雅なところはひたすら華やかです。

中間の三つの楽章はくぐもったような暗い響きで、憂愁さえはらんでいるかのように聴こえます。ブーレーズの何とシンクロしているのでしょうか。曲の移ろいをたゆとう人生の流れにもなぞらえたかのように、ゆったりと、そして悠然と描いているようです。

第4楽章のミシェル・デ・ヤングの原光も、少し声質がナマっぽい感じがして、ブーレーズの演奏のバランスから考えると若干違和感を感じますが、演奏そのものは非常に良いと思います。

両端楽章の起伏とスケールの大きさは、おそらく演奏会場のナマで聴いていれば、結構驚きの演奏なのではないかと思えます。ティンパニやトロンボーン、チューバの音も劇烈です。オケ的音響としては、これに何のモンクを付けられましょうという程。ラストに向けての合唱の入る直前の美しさは言葉になりませんし、クライマックスも実に壮大、全く素晴らしい演奏といえます。

ただ、全編を聴き通した後に残るモノということに関して言うならば、壮大で立派な演奏であることに反して、冒頭に書いたように弱さを否定することができません。作品解釈としては忠実であっても、指揮者の作品に関への共感が聴こえてこないからでしょうか。

おやぢの部屋の感想の最後に、「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るとありました。この言葉の意味が何度か繰り返して聴いて、ようやく納得できるようになりました。終楽章などは、ブーレーズはもしかすると、全く別な意味での狂気に取り付かれて、この演奏をカタチ作ったのかもしれないなと。

2005年5月10日火曜日

テンシュテット/マーラー:交響曲 第7番 「夜の歌」


本日は四谷でポルトガル料理を食し非常に良い心持。GW明け早々から、滅多矢鱈と忙しいハメに陥ることもなく何よりと心をなでおろし、帰宅してからそういえばと以前に買っていたテンシュテットのマーラー 交響曲 第7番を聴く。

テンシュテット/マーラー:交響曲 第7番「夜の歌」
  1. 第1楽章 ゆるやかに~アレグロ・リゾルート・マ・ノン・トロッポ 24'07"
  2. 第2楽章 夜の歌Ⅰ(アレグロ・モデラート) 17'32"
  3. 第3楽章 スケルツォ(影のように) 11'10"
  4. 第4楽章 夜の歌Ⅱ(アンダンテ・アモローソ) 15'30"
  5. 第5楽章 ロンド=フィナーレ、アレグロ・オルディナリオ 19'53"
  • クラウス・テンシュテット指揮 ロンドンpo
  • 1993年5月 Live ロイヤル・フェスティバル・ホール
  • EMI決定1300 TOCE13563.64

私のマーラー遍歴など、とても人に言えるほどのものではなく、未だにマーラーの全交響曲を空でイメージできる境地には程遠い。であるからしてマーラーの7番も、以前に聴いたのは一体いつのことであったか、そもそも、どういう曲だったかほとんど思い出すことができない。曲の難解なイメージと「夜の歌」という標題に惑わされ、霧の彼方にぼんやりと浮かぶ音楽というのがこの曲の印象だった。

そういえば、かなり以前に札幌のPMFの屋外コンサートでの演目で「夜の歌」が演じられたことがあった。妻と当時小学低学年の息子を連れて行った件のコンサートは、その実死ぬほど退屈で心の底から来たのが失敗だと思った。演奏は全く覚えておらず、鳥のさえずりばかりが気になったことが唯一の印象であった。

そういうわけなので、テンシュテットの本盤が極めて名盤であることは知ってはいたものの、今ままで敬遠してしまっていた。たまたま気分の酔い今日に聴き始めたときも、再び退屈地獄に陥るかもしれないと懸念を抱いていたのだが・・・果たして結果はといえば・・・げに凄まじき演奏であり、またこの曲の持つ魅力の一旦が垣間見えた気になった。

徹底的な「明」の世界を提示している第5楽章など続けて数度も聴いてしまったほどだ。この単純なほどの明るさと分かりやすさは、マーラーの憧憬なのか捩れた諧謔なのか判然としないものの、ただひたすらに圧倒的されてしまうことは否定できない。楽章冒頭のティンパニの連打など笑ってしまうほどの決然とした響きで驚く。この音楽のありようは、マーラーのこれまでに歩んできた道程を考えると、少し楽天すぎぬのか?という疑問が沸くのだが、それを書けるほどにはまだ曲に馴染んでいない。

それにしてもテンシュテットの演奏である。打楽器のこれでもかという迫力、トロンボーンの音色、トランペットの勝利に似た響き、怒涛のがぶり寄りのような勢いは凄まじく、この楽章だけ取り出して聴いたときに感じる爽快感は罪作りであり、ラスト近くは随喜の涙をこらえることが困難でさえある。

いや考えてみると、どの楽章も、「それだけ取り出して聴いて完結」しているのではないだろうか、と思い始めた。第7番の曲の構造を解説するとき、ABCBAの対照的な楽章構成だとか、1楽章のテーマが終楽章の結尾で現れ全曲に統一感を与えているなどと説明されるが、演奏時間が1時間半にもなんなんとする曲のテーマを覚えていられるほどに果たして聴衆は耳が良いのか。むしろ楽章を独立して聴いた方が曲の持つ意味を理解できるのかもしれない。

「夜の歌」という標題に騙され、今まで暗い曲というイメージを抱いていたが、実際はそれほどに暗澹たる曲でもない。むしろ脈絡のない思いが入り乱れる夜の夢想のような趣だ。また第5楽章は確かに聴きやすいが、この曲の魅力を探るには、やはりそれ以前の楽章を丹念に聴く必要を感じる。

それに何と言ってもこの演奏はテンシュテット最後の演奏会のものである。その点からも、とても疎かには聴けないのだが、グダグダといい加減な感想など書かずに、syuzoさんのページでも熟読して再聴でもしてみることにしよう。ポルトガルワイン(ポートワインを含む)によるほろ酔い気分での雑エントリでありました。

2005年1月13日木曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第1番「巨人」

マーラー/交響曲第1番「巨人」
  • テンシュテット(指)NDR
  • 1977.11.14
  • MEMORIES

Syuzo's Homepageの「テンシュテット:禁断の部屋 テンシュテットを聞く 第13回 2000/1/4」で紹介されている盤のひとつであると思うのですが、CDの録音年月日が1977年11月24日となっています。Syuzoさんのサイトでは、おまQさんの推定によるとただし書きがあるものの、1981/6/16? (LIVE)となっています。FIRST CLASSIC盤と同一音源であるかは私には判断できませんが、CDショップ・カデンツァの解説ではともにFirst Classicsが初出だった音源だが、その素晴らしさからすぐに売切れ&廃盤となり、とありますから、1977年の演奏なのでしょう。

前置きが長くなりましたが、Syuzoさんも指摘のとおり、これも並外れた演奏として聴くことができます。音質はちょっと抜けが足りないようですが、ノイズなどが気になるようなものではありません。テンシュテットの演奏は完全に突き抜けていますので、ライブの迫力に浸るには充分といえましょうか。NDRは「復活」もそうでしたが、特に低弦の音色がただものではないです。

マーラーの交響曲の中で1番は、演奏会でもCDでも比較的耳にする機会が多いのですが、ここに聴かれるような硬質で彫の深い演奏は捨てがたい魅力があります。私などがテンシュテットを語ることなどおこがましいのですが、彼特有の推進力、そして激情的ではあっても感情に溺れずに制御された演奏を、ここでも聴くことができます。例えば第三楽章のマーラー特有の美しく甘い旋律にしても、耽美に流れることはありません。

第四楽章も冒頭から畳掛けるかのような表現が圧巻です。『ここで英雄はうち倒された』とのことですが、一体何回打ち倒されたんでしょうね、徹底的に痛めつけられてるつーか・・・。痛めつけた後に甘美なメロディも冗長すぎないという感じ。ラストへの流れも凄いのですが、最後の2音が急に音圧が下がってしまうのは興ざめ、拍手をカットしたためか?。 ブラボーとブーイングが飛び交った伝説の演奏とのことですが、ブーイング派はどんなマーラー像がお好みでしたでしょうかね。

2005年1月10日月曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第2番「復活」

  • テンシュテット(指)NDR エディット・マティス(S)、ドリス・ゾッフェル(Ms)
  • 1980.09.28
  • MEMORIES

Syuzo's Weblogと夢遊的日録さんのサイトにて、テンシュテット&NDRの「復活」が発売されていることを知り、年末にCDショップ・カデンツァに注文、聴くのを楽し非常に楽しみにしていた盤でした。ところが年末に帰省してCD棚をごそごそとやっていたら、なんとこの演奏はLUCKY BALL盤で既に入手済ではありませんか、マーラー交響曲第1番は持っていませんでしたから、それほど落胆はしませんでしたけど。

購入したときのレビュウがないので、あまり感動しなかったのだろうか?と訝りながらLUCCKY BALL盤を年末に聴いてみたのですが、いやはや、冒頭からの抉り込むような弦の響きに全身ぶちのめされ、そして圧倒されまくった1時間半でありました。本当に空恐ろしくなるような演奏です、こんな演奏が存在するのかというほど。

で、その時の衝撃をもう一度ではないのですが、MEMORIES盤でしつこくもまた聴いてみました。すると、あれ?という印象なんですね。再生装置が違うというせいもあるのか、何か抑え気味な演奏に聴こえてしまいます。冒頭の殺されるのではないかという迫力も半減しています。これは録音の質の問題でしょうか。いずれにしても、凄い演奏であることに変わりはないんですが、機会があれば聴き比べてみたいところです。

2004年12月20日月曜日

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団/マーラー:交響曲第2番 「復活」


年末も近くなってきましたから、あちこちで第九の響きに身をゆだねている人も多いでしょう。かく言う私も今日はヒマだったものですから、フルトヴェングラーのバイロイト1951年盤などをネットで聴いたりして、ただならぬ終楽章に改めて唖然としていたりしました。

第九も良いのですが、私としてはマーラーの「復活」の方がしっくりします。ということでアバドなんですが・・・これはいただけませんでした。非常にネガティブなレビュです。

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団
2003年 DG 477 508

アバドが2003年にエリート・オーケストラとして編成されたルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラー交響曲第2番とドビュッシーの海は、評判が良いようだし、年末も近いし、ということで聴いてみたのですが、私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱり分からなかったというのが正直な感想です。

まずルツェルン祝祭管弦楽団についてはHMVをご覧いただくと詳細な解説がありますが、引用いたしますと
アバドが創設に寄与したグスタフ・マーラー・ユーゲント管を母体とするマーラー室内管弦楽団が中核となり、各パートのトップにはベルリン・フィルの現・元首席奏者を始めとする名手を据え、これに最先端でソリストとして活躍するプレイヤーたちも加わり、実に錚々たる顔ぶれが揃ったスーパー・オーケストラ

ということだそうです。続くオーケストラの参加者名を見ると驚くべき陣容です。

コンサートマスター:コーリャ・ブラッハー(元ベルリン・フィル)
弦の各パート:ハーゲン四重奏団ら
第 1ヴァイオリン:ルノー・カプソン、セバスティアン・ブロイニンゲ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)、ドメニコ・ピエリーニ(フィレンツェ五月祭管コンマス)、ブリジット・ラング(北ドイツ放響コンマスの)ら
第2ヴァイオリン:ハンス=ヨアヒム・ヴェストファル(元ベルリン・フィル)
ヴィオラ:ヴォルフラム・クリスト(元ベルリン・フィル首席)
チェロ:ゲオルク・ファウスト(ベルリン・フィル首席)、ナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンら
コントラバス:アロイス・ポッシュ(ウィーン・フィル)
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリン・フィル首席)
オーボエ:アルブレヒト・マイヤー(ベルリン・フィル首席)
ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル首席)
クラリネット:ザビーネ・マイヤー
トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

まさにスーパー・エリート・オーケストラ。奏でる音は、冒頭のコントラバスの音からしてタダモノではなく、物凄いアンサンブルを聴かせてくれます。音量もマーラーを聴くには充分で、フォルテッシモがつくる壮大な音の大伽藍は、ホールで実演を聴いていたならば、かなりなものであったろうと思わせるものがあります。

また、個々のプレーヤーの技量も素晴らしいもので、どの断片を取っても美しく均整の取れた音楽に仕上がっていると思えます。これほど贅沢な編成でマーラーの「復活」を聴けるのなら、これにまさる至福があろうかと思うのが普通なのですが、1時間半近く聴き通して得た感想は「何なんだこれは?」というものでした。いったいに、マーラーを聴いたという感興が全く生じません。

昔からアバドは録音と実演の印象差が激しいとは言われていましたし、ベルリンを辞めた後、アバドも変わったという評判も耳にするのですが、私が鈍いのでしょうかね。

仕方ないからテンシュテット&LPOと比べてみました

テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管
EMI 1981年5月

繰り返して書きますが、オケの性能、録音とも抜群であると思います。しかし肝心なパッションが、私がマーラーに求めている何かが決定的に欠けています。それが何なのか、あまりにも拍子抜けしたため、手元にあるテンシュテットとLPOのマーラー全集から終楽章だけ聴いてみました。(テンシュテット&NDRは持ってませんし)

すると・・・どうしたことでしょう、終楽章だけですよ、白けきっていたのでまあ口直しにという程度に聴いただけであるのに、冒頭から34分間、圧倒的な音楽に打ちのめされ放しです(繰り返しますがNDR盤ではありません、syuzoさん評では評価低いですから)。この違いは何なのか、聴きながら自問するのですが、その答えは分かりません。

オケの性能はLPOより圧倒的にルツェルン祝祭管弦楽団の方が高いでしょう。音の抜けやクリアさもルツェルンに分があります。しかし、アバドの演奏が大音量になればなるほど、非常にピュアなところに行き着き、ディテールレベルでは微細な表情まで描いているにも関わらず全く質量感を伴わないように感じられるのは、もはや異様といってよいかもしれません(再生装置が貧弱だからか?)。

私にとってマーラーを聴くことは一つの体験に近いものです。テンシュテットの演奏は(LPOとの全集盤が彼の代表的な演奏であるかはさてき>しつこい)終楽章を聴いただけでも慄然とするものがあります。地面は沸騰し天は裂け、そこに一条の光が差し込み、まさに神が降臨しているのではないかと思わせる凄まじさが秘められています(私だけの幻想かもしれないが)。

アバドは、そんなマーラー観とは全く無縁です。そもそも、第一楽章で感じる精神的な崩壊(と私が勝手に思っている)がアバドには感じられません。従って得られる結論はテンシュテットとは全く異なったものになっているようです。音楽に痛みも軋みもなく、非常にストレートに美しさを歌います。だから破裂するような歓喜も薄いのでしょうか。ひたすら演奏だけが立派であり、それが返って白々しさを増します。好みの違いも大きいとは思いますが。

アバドの演奏がマーラーに対するアプローチとしてどうなのかは私には判断ができず、こういうマーラーもあるのだと納得するだけです。逆に言えば、過剰なものを排除して出来上がった歓喜の世界ということもできます。ですからマーラーに特別な思い入れを求めていない人や、前世紀的なマーラー像に飽いている人には、充分過ぎるほどに満足できる演奏であるのかも知れません・・・。DVDも出ていますが、改めて映像とともに聴いたら感想変わりますかね?

さて「海」は、みなさん評判良いようですから、これはどうでしょう・・・(まだ聴いてません)

2003年11月23日日曜日

NHK音楽祭 ゲルギエフのマーラー交響曲第3番

日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調)

コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。

マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。

第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。

ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。

演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。

それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。

個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みしかなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。

2003年10月19日日曜日

東京交響楽団第507回定期演奏会


日時:2003年10月18日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義





ソプラノ:佐藤 しのぶ   メゾ・ソプラノ:エルザ・モールス
合唱:東響コーラス   合唱指揮:郡司 博
演奏:東京交響楽団

マーラー:交響曲 第2番 ハ短調 復活

またしても東京交響楽団の演奏会を聴きに行った。東響のファンであるというわけではないのだが、たまたまタイミングが合っているというところか。しかも演目が井上道義氏による「復活」、ソプラノが佐藤しのぶさんとあってはいやでも期待してしまう。

「復活」は、私の中で迷うことなくベスト5に入るほどの好きな曲である。前日にテンシュテット/LOPのCDを聴いて予習するというほどの気の入れようだ。さて井上氏の率いる東響はどう聴かせてくれたか。

最初に結論から書いてしまうと、とてつもなく素晴らしい演奏であったということに尽きる。私は最終楽章の当たりから横隔膜が上がりっぱなしで、いつのまにか流れてしまう涙を抑えることができず何度も目尻を拭わなくてはならなかったし、最後のコーラ―スが始まる当たりでは体がどうしようもなく震えてしまうほどの興奮と歓喜にのまれてしまった。音楽を聴いていたというよりも壮大なる賛歌と歓喜の光の中に放り込まれたような強烈な音楽的経験であった。

ゲルギエフ/キーロフ(99年 東京芸術劇場)で聴いた復活も脳天が炸裂するような演奏であったことを思い出すが、今回の演奏はそういうものとは質が違った演奏であったように思える。何か物凄く大きなものを演奏からもらうことができた。

とはいうものの、最初から最後まで演奏に満足していたというわけでもない。第一楽章冒頭、ヴァイオリンのトレモロに乗って低弦の強奏から始まる不安な旋律を聴いた時、東響独特の弦の繊細さと美しさを感じながらも、高音の海の中に低弦が浮遊するような、不思議な分離感をまず味わっていた。

第一楽章は葬送行進曲であるが、激しさと劇的さの間をつなぐ線がどこか頼りなげで、ひとつのストーリーとして胸に迫らない。もともとマーラーの曲は分裂気味ではあるのだが、何かマーラーらしい暗さが不足していると感じたりしていた。音量的にも、中音域が不足するような感じで、第一楽章は最後まで満足のゆくものではなかった。第二楽章のアンダンテも、マーラー的な官美さには少し遠く、今日の演奏は期待したほどではなかったかと軽い失望を覚えたほどではあった。

しかし第三楽章のあたりから少しずつ気分が変化し始め、第四楽章でメゾ・ソプラノの " Roshcen rot!(おお、小さな赤バラよ) という歌が挿入された当たりから、それは健著になった。何といってもモールスさんの歌声が素晴らしく心底聴き惚れてしまった。声量といい声色といい、なんと美しく芳醇な歌であることか。まさに祈りの歌がそこにあった。

バックで支える東響も美しい。第三楽章から楽章間がほとんどなく連続して演奏されることも、次第に緊張を高めてるのに一役買っていた。

第五楽章に至って、マーラーの複雑にして多彩な音響にほとんど翻弄されるがごとき。曲がどう進んでいくのか分かっているというのに、合唱が " Aufersteha, ja aufestehn wirst du (よみがえらん、まこと汝はよみがえらん) と唄いはじめた時には二の腕にざわざわと鳥肌が立つ思い。中間部は木管も金管も素晴らしい音楽を聴かせてくれていた。そしてソプラノとアルトの二重唱 " Shcmerz, du Alldurchdringer ! (おお苦しみよ、汝いっさいを刺しつらぬくものよ!)が美しいこと。

合唱団が立ち上がって唄い出す(お決まりの?)あたりから、ラストに向っての盛りあがりは凄まじいもので、第一楽章で物足りなく感じた音量はなんだったのかと思う。打楽器と管と弦が渾然とフォルテッシモを奏でるとホールの底が沸騰するかのよう。一気呵成に音楽は進行し、冒頭に書いたように私は完膚なきまでに叩きのめされてしまったのである。

終演後のブラボーも凄まじかったが、演奏会にこれ以上何を望むことができようか。今年聴いた東響の中どころか、今まで聴いた演奏会の中でもベストに数えられるようなものであったと思う。

2003年9月21日日曜日

東京交響楽団第506回定期演奏会

日時:2003年9月20日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ヘンリク・シェーファー
ピアノ:梯 剛之   ソプラノ:天羽 明惠
演奏:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
マーラー:交響曲 第4番 ト長調



本日東響を指揮するのはヘンリク・シェーファーという68年ドイツ生まれの若き指揮者である。2000年にはアバドの指名でベルリン・フィルのアシスタント・コンダクターに選ばれている実力の持ち主らしい。演奏会パンフレットには「未来のマエストロの呼び声高き、注目の指揮者」と紹介されている。ピアノの梯氏については説明はもはや不要だろう。今日の演奏会は、彼のピアノを聴くことが先ず目的ではあった。

梯氏が演奏するのはモーツアルト絶頂期のピアノ協奏曲21番である。明るくモーツァルト的天真欄間さのなかに見え隠れするちょっとしたアンニュイや寂しさが表現された、親しみやすい名曲である。ややもすると、あまりに耳障りが良すぎて逆に災いするところがあるのだが、梯氏のピアノは評判のとおり非常にピュアな音を奏でてくれ、清朗にして明瞭、モーツァルトの美しさを十全に表現しつくしているように思えた。

��階20列であったので遠くてよく見えなかったが、梯氏の打鍵はあまり強く、あるいは深くないようで、そこに彼の感性がかぶさることで、梯氏の独特の繊細な音楽が生み出されているように感じられた。(ピアノにも詳しくないので、頓珍漢かもしれないが)

シェーファーの氏振る都響も、適度に贅肉を落としたフットワークの良さを聴かせてくれ、梯氏のピアノとのアンサンブルは絶妙であった。プロのオケを相手にして言うのも何だが、確かに都響の弦はクリアで独特の艶やかさがあるように思える。

梯氏のアンコールはモーツァルトのニ短調幻想曲であった。モーツァルトの短調というのは、どうしてこんなにも哀しく美しいのだろう。この一曲を聴くだけでも雨の中サントリーに行った甲斐があったというものだ。

マーラーの交響曲第4番は、マーラー作品の中では短いため "親しみやすい" ということになっており、しかも演奏回数が1番や5番と比肩しているのではないかと思う。私も拙い演奏会経験の中で、この曲には何度か接している。

しかし私にはこの曲は結構難物で、特に第3楽章とソプラノ独奏の入る第4楽章がうまくつながらず、交響曲としてまとまった完成度という点では疑問を感じていた。「マラ4は第3楽章で聴くのを止める」という人もいたくらいだ。

私が今日の曲を聴いて驚いたのは、その第3楽章のまさにクライマックスとなる盛りあがりの中で、ソプラノが左手から静々と登場したことだ。こういう演出(?)は普通なのかしら。勝利を告げるかのようなファンファーレ(トランペットとティンパニが強打されるところ)とともに表れたソプラノの天羽明惠さんは、あたかも天国からの使者のように見えた。なるほど、こういうつながりもあったのかと関心してしまった。

指揮者のシェーファー氏がどういう芸風なのかは知らないが、彼のマーラーは全く感情に溺れず、淡々と音楽を提示してくれているように感じた。マーラーの曲はどれもバラバラな断片が組み合わされているが、彼の指揮はモザイクのひとつひとつにピントをくっきりと合わせているようで、そのため独特のパースペクティブを感じることができた。第3楽章のマーラー的なアダージョにおいても、音楽が陶酔してしまうことはなく、そのようなアプローチから現代的なマーラー像が浮かび上がっていたようにも思える演奏であった。

2002年11月11日月曜日

ラトル/ベルリン・フィルの「マーラー 交響曲 第5番」

  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo. 
  • 録音:2002年9月7-10日  Philharmonie, Berlin (Live) 
  • EMI TOCE-55463(国内版)
マーラーの交響曲を評することは難しい。特にマーラーの中でも比較的ポピュラーであると考えられているこの第5番交響曲さえも、作品解釈における正しい理解のもとに接しているかと自問するならば、否と答えざるを得ないだろう。
マーラーの交響曲としては、第1番交響曲に次いで親しみやすいため名演奏も多い。家にあるCDだけでも、定番とも言うべきバーンスタイン&ウィーン(1987)、同じくバーンスタイン&ウィーンの87年ロンドンライブ、テンシュテット&ロンドン響(1978)、ドボナーニ&クリーヴランド管(1988)、ショルティ&シカゴ(1970)、ガッティ&ロイヤル・フィルハーモニー(1997)などがある。
以上の演奏の中ではバーンスタインのロンドンライブの圧倒的な演奏、ガッティの熱い演奏、そしてショルティの精密機械のような演奏などが特に印象に残る。
意外なことに、私の持っているCDでベルリン・フィルのものがないことに気付いたが、そういう偏った方手落ちなCD試聴経験からラトル&ベルリンの新盤を聴いてみたが、今までのどれとも異なる演奏が展開されているように思えた。
演奏にはラトルらしい歯切れの良さ、そして独特の強調された強弱のつけ方や緩急などが際立ち、音楽的な立体像がくっきりと浮かび上がってくる印象だ。さらに、何か颯爽としており、瑞々しささえ湛えた演奏で、これが何度も聴き慣れたマーラーの5番かと思わせる部分がなきにしもあらずだ。少しただれたような、そしてとろけるような耽美的にして廃頽的な香りは、この演奏からは感じられない。
音楽の盛り上げ方シャープであり劇的である。例えば第一楽章冒頭のトランペットのファンファーのすぐあとに来るオーケストラによる表現なども、音のカタマリとなって聴くものを圧倒する、しかし決して暴力的ではない。よく耳をそば立てれば、随所で色々な音が聴こえてきて、曲の持つ構成にパースペクティブを与えているようにも思える。
ラトルはニコラス・ケンヨンとのインタヴュー(2002年8月2日)の中で「この曲は有名で、演奏される機会が多いという理由で、演奏は簡単だと思われがちですが、本当は演奏が大変難しい曲」と述べている。以前はラトル自身、曲の意味や構造を全くつかめなかったという。
ラトルはこの曲を録音するに当たり、随分と研究を重ねたらしい。もっともだからと言って、微分的に分析的な演奏というわけではない。むしろマーラーの心情(それがアルマへの迷える愛なのかは分からないが)が揺れ動く、しかも複雑な多層的心情の揺れが、あるときは時系列的に、あるときは過去も未来も前後して、混沌として渦巻く様を追体験しているような気にさせられる。音楽は感情的に高まるよりも、内省へと傾き最後に行き着くように思える。作曲者の心情と一体化するのではなく、かといって心理学者のようなスタンスでもなく、客観的に捕らえているという印象だ。
もっとも、これは私の個人的な感じ方だ。CD解説の中でコリン・マシューズはこの作品を「全体的に個人的感情を交えない作品」、4楽章のみを「ここだけ内面を見つめた個人的な内容」と記している。
一方ラトルは、先のインタビューでこの曲を「死すべき運命への答えは何か?」との問いに対する「愛との対位旋律こそが全てを癒す」というマーラーの答えだと述べている。
ところで私は、あまりにも、バーンスタインのような、思い入れの強い演奏に慣れ親しみすぎているのだろうかと思わざるを得ない。もしラトルの演奏に物足りなさを感じるとすると、そういう点だ。聴きながら握りこぶしを固めてしまい、音楽に没頭するような瞬間は少ない。
例えば第2楽章の「嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで」という指示の曲も、泣きが入るような感情の吐露ではなく、一歩引いた、窓の外の実際の嵐を見ながら自らの心情を確認しているような響きを感じる。有名な第4楽章のアダージェットにしても演奏時間は何と9分半という短さだ。死の匂いのする耽美主義は感じられない。
だからと言って、ラトルが「死」というものを避けて演奏を意図したというわけではなさそうだ。彼の棒からオーケストラが奏でる響きは、時として残酷なくらいの深く鋭い人生の深淵を垣間見せている。そのざくりとした裂け目の暗さが冷たく鋭いがために、逆に曲の最終テーマであろうか、深淵からの復帰と勝利は、強い憧れととともに見事な賛歌となって我々を打つ。
あまり良い聴き方ではないが、ここで第5楽章の最後3分、いわゆる金管軍が咆哮するラストのコラールのみ、いくつかの演奏と聴き比べてみた。アルマが「取って付けたようで古臭い」と評し、マーラーが「だってブルックナーだってやってるぢゃない」と言った部分だ。(ラストのたった3分のみで比較することに意味があるとは思えないということは分かっているが、座興として読んでもらいたい)
まずはバーンスタインのロンドンライブ。ここの部分だけであっても、バーンスタインの演奏を聴くと、全身の細胞が熱を帯びたように振動し、涙腺は緩み、地に足がつかないかのような感じに私は陥ってしまう。たった数分間でバーンスタインの魔力にあてられ、押し潰され、演奏後の爆発するような拍手を聴きつづけることができない。
次にテンシュテット&ロンドン(全集盤)。バーンスタインとは全く違ったアプローチでありながら、ゆったりとしたテンポの中に、音の大伽藍が築かれており、思わず頭を垂れてしまうほどの荘厳さだ。
最後はガッティ&ロイヤルフィルだが、この演奏の構築力と旋律の対比の見事さは、他のどの演奏をも押して顕著でありクラシックを越えた新鮮さを感じる。
��これ以上やるとヲタクと思われかねないので、もうやらない)
振り返って、ラトルのコラールも、実に見事な立体像で我々に迫ってくる。スピード感とダイナミックさを伴い「颯爽」と駆け抜けるといった趣だ。聴き終った後にふと我に返って恥ずかしくなるようなことはない。
マーラーに「颯爽」は要らないと評するファンの声も耳にする。どちらが好きかは、趣味の問題だろう。ただ、バーンスタインの演奏を再び、そして何度も聴こうとは思わない。あまりにも特別なのだと改めて感じた。
ラトルとベルリン・フィルのこれから10年間を、私たちクラシックファンは、おそらく期待と不安、そして肯定と反感を感じながらも、無視することができずに眺めてゆくことになるだろう。そういう新しい時代を拓くという意味において、そして20世紀的なマーラー呪縛からの解放という意味でも、一聴の値はあると思う。(ブーレーズのマーラーというものあるが、あれは別物かもしれないので言及しません)

2001年4月28日土曜日

シャイ-&コンセルトヘボウによるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」

リッカルド・シャイ-(cond) ロイヤル・コンセルトヘボウ管
2000/01 DECCA 467 314-2 (輸入版)

シャイ-のマーラー・チクルスとしては7番目の録音であるらしい。シャイ-といえば48歳、いま最も注目される指揮者の一人であることは疑う余地もないのだが、彼の演奏に本格的に親しんだのはこの盤が始めてといってよい。(なんて、浅いクラシックファンなんでしょう ^^;;)

レコード芸術4月号の"New Disc & Artists"では、吉村渓氏が「"宇宙が鳴動する総量としての音響体"ではなく"声を主体として組み立てたオペラの極限的な姿"」とおおむね好意的に評している。また、レコード芸術5月号では「新譜月評」に取り上げられていが、小石忠男氏は推薦なしで不満が残るとし、宇野功芳氏は推薦にあげている盤である。また、加藤幸弘さんのHPにおいてこの盤が取り上げられており(2001年3月のCD評)彼は、「この作品の演奏史のターニングポイントとなる録音」とまで述べている。

さて、聴いた感想といえば、この壮大にして、ワタシ的には非常に取りとめない印象を持っていた大曲を、最後の最後まで聴くものを飽きさせず、なおかつマーラーにしてはどろどろとした情念に溺れることなく、なんとも瑞々しい演奏を聴かせてくれる演奏であると感じた。合唱なども美しいうたいであり、音楽の切り口が新鮮で、ラストに向けて徐々に高まる(高みに導く)ほどよい緊張に満ちている。

ご存知のようにこの曲は1部と2部に分かれており、それぞれがCD1枚に納められている。長いと思われる曲だが1部は23分程度であるため、これを機会に繰り返し聴いてみたが、聴くたびに曲の美しさと完結した感動を味わうことができ、マーラーの示した賛歌を堪能することができた。小石氏は「響きに集中力がない」「音程に疑問」「説得力が不十分」と、結構ボロクソなのだが、私にはそのような感想がどうして生まれるのか、まだ分からない。

2部は50分以上であるため、こちらは何度も気軽に聴くというわけには行かないのだが、至福の時間がゆったりと流れるのを感じることができる。独唱や混声合唱は、何度も繰り返しても足りないほどなのだが本当に美しく、対訳を見ながら聴いていると肝心の曲の素晴らしさが損なわれるようで、途中で歌詞カードを放棄せざるを得なくなる。目をつぶって合唱とオーケストラの響きに身をゆだねていると、光が舞い降り高みに上ってゆくような感動さえ覚えるのだ。

また、ラストの神秘の合唱に至る当たりの音響の迫力は言葉にすることが難しい。2部でもこの部位だけは何度も聴いてみたのだが、いくら性能が良くてもヘッドフォンで聴くよりは、音量を絞ってもスピーカーを通して=空気を振動させ 身体で曲を味わいたいと思った。大音量でヘッドフォンを通して聴いてもさしたる感動は得られないのだ。しかしスピーカーを通して改めて聴いてみると、体の奥底から得も言われぬ情動が沸き起こるのを禁じることができない、やはりマーラーは生で聴かなくては駄目なのかと思う瞬間だ。

ところで、マラ8といえば家にはバーンスタイン・WPO(75年ザルツブルク)盤しかない。こういう比較は意味がないとは思いつつも、試しに2部の最後だけ聴いてみた。バーンスタインというのはマーラーの背後霊か何かが乗り移っていたのではないだろうか。ここだけ聴いても、なぜか泣けてしまうのだ。ふたりの演奏の違いは何なんだろう、バーンスタインだと思って聴くからそうなんだろうか。神秘の合唱は混声合唱の中からソプラノが立ち現れる部分ときたら背筋から腰まで貫かれるような感触を覚えてしまうのだ。

シャイ-の目指したマーラーがこの部分だけ聴いても、バーンスタインとは全然違うことに気付かされる。こういう切り口でマーラーを聴かせてくれるとなると、シャイ-の他の盤も気になるのであった。

偉そうにマーラーの盤の感想を述べてみたが、歌詞内容や音楽的な内容に踏み込むには、まだまだ浅い聴衆であることを認めざるを得ない。しかし、マーラーて長いんだもの、やすやすとは聴けませんよねえ(^^)

2001年3月21日水曜日

サントリーホールN響名曲シリーズ オービック クラシック・スペシャル(その2)

日時:2001年3月21日
場所:サントリーホール
指揮:ヤコフ・クライツベルク、NHK交響楽団
モーツアルト:フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K314
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

めったに得ることのできない充足感を得た後にマーラーの曲を聴くためにはスイッチの切り替えが必要だ。20分の休憩をこれほどありがたいと思ったことはない。

クライツベルクは名前さえ初めて聞く指揮者だ。解説によるとベルリン・コーミッシェオーパー音楽総監督、ボーンマス響常任指揮者・芸術監督もつとめるロシア出身の指揮者とある。考えてみるとモーツアルトではほとんどパユしか見ていなかったようだ。改めてマーラーを振るさまを見ると、彼はかなり長身の指揮者で、マーラーも暗譜で棒を振っている。手足が長く、指揮の仕方がどことなく固くマリオネットのような印象を受ける。その指揮姿のイメージが手伝ってか、フレージングの作り方は短めで、余韻に浸り切ったり、マーラーの頽廃や情感を必要以上に強調するタイプの指揮者ではないとの感じを受けた。演奏解釈も若々しさがあると思う。

NHK交響楽団は久しぶりに生で聴くが、非常にバランスの良い素晴らしいオーケストラであると改めて関心させられた。当たり前のことなのかもしれないが、どこの部分にも崩壊は認められず、クライツベルクの指揮に忠実についていっているように思えた。ここらが一流オケとしての貫禄なのだろうか。

私の場合、「巨人」はマーラーの曲の中でも、それほど聴く機会が多い曲ではない。他のマーラー作品に比べて、短いせいか、親しみやすいと思われている。3楽章などは有名なフレーズであるし曲のテーマ(青春の葛藤とか地獄らか天国へとか)も比較的明快だと思う。

しかし、曲に聴き入ってみると非常に複雑な曲構成であり、意表をついた展開をすることに気づく。メランコリーでロマンティックなメロディやそこに突然不安げな音がかぶさるなど、マーラー的な素材が詰め込まれ、さらに極めて前衛的な響きも聴こえてきて、興味は尽きない。

バイオリンの高音でのトレモロや木管などの4度の下降音形は、独逸の深き森の中で湿り気を帯びた木々の匂いをかぐかのごとき思いだ。深く息を吸い込むと遠くでは鳥のさえずりさえ聴こえてくる。このような、自然の息吹とメランコリックなメロディ、そして若き激情と葛藤が交互に現れるが、クライツベルクの指揮は劇的ではあるものの甘美ではなく、ストレートに感情が伝わってくる。

ラストに向けての盛り上がり方もうまく音量も十分。深い霧(それは自然の霧でもあり作者自身の心の霧でもあるのかもしれないが)を晴らすかのようなコーダは圧倒的だ。打楽器の空気を震わす重低音、その音圧は会場全体を振動させ椅子さえ震え、腹の底に響いてくる。シンバルの炸裂音、ホルンとトランペットの咆哮など、決して大音響でも崩れずそして下品にならないように持ってゆくさまは非常に心地よい。最後はホルン(8名!)とトランペットをスタンディングさせてのクライマックス。怒涛の打楽器のロールは一段と音量が高くなり鳥肌立つ思いさえした。

本演奏を聴いて感じたのは、少々憂鬱な霧が晴れた後の、清々しく凛とした大気の冷たさと、内からこみ上げてくる喜びと若きエネルギーだ。マーラーは生で聴かなくては駄目だと言う人もいるが、確かに、こういう演奏を聴いてしまうと、チマチマと再生装置を通して、しかも不満足な音量と音質でマーラーを聴くことがむなしくなると言うものだ。

というわけで、非常に大満足の演奏会であったのであった。まあ、マーラー好きの方から見たら、どういう演奏だったのかは分からないが。