日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団
マーラー:交響曲第3番 ニ短調)
コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。
マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。
第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。
ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。
演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。
それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。
個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みしかなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。
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