2007年9月30日日曜日

重松清:流星ワゴン

重松氏の作品を読むのは二度目。軽い気持ちで休日に読む本と思って買ったのですが、久しぶりに一気読みしてしまいました。重松氏のストーリーテラーとしての上手さが際立ちます。

本作は三代にわたる父子の物語です。後悔と絶望と、そして希望の物語。読みながら自分に重ね合わせ、息子を、そして今は亡き父を思い出しながら読みました。更には親しい友人の家庭のことまで思い、今ならやり直せることと、もう取り返しのつかないことについて、そっと考えました。まあ、そんな本です。本書については、あちこちで散々絶賛されていますから、今更私が付け加えることなどなさそうです。

が、しかし、少しだけ感じた傍流的なことを書いておきましょう。

「流星」なんていうメルヘンチックな題名とは裏腹に、最初は残酷な物語が続きます。しかし、読み終えてみれば、やはりこれは男にとっての「メルヘン」だったんだなと。主人公が途中で甘い考えを抱き、少年にたしなめられるシーンがあります。作者も敢えて明確なハッピーエンドは用意しなかった。それでも、これは甘いメルヘンになっています。もっとも、小説にさえ「甘さ」や「メルヘン」や「希望」がなかったとしたら! 哀れで弱い世の男どもは憤死してしまうかもしれません。

父子の物語は、「子供の挫折とイジメ」「家庭の崩壊」という重松的なテーマも内包し、人生の意味とか希望ということにつて敷衍しています。

物語の中での女性が語られていないことは文庫本解説でも指摘されています。今回は父子にテーマを絞ったからなのでしょう。しかし、逆に考えると本作の主人公を含め、本書に感動する人は、女性の、いや、家庭における母であり妻のことを、結局は理解していないということを露呈してしまっているようにも思えます。都合の良いように女性像を崩し、そしてすがっている。

一方で主たるテーマが父子の関係性であったとしても、父は子に、子は父に何を求め、何をしたかったのか。数限りない後悔を覚えたとしても、それは「父性」という曖昧な中での関係性でしかない。女性の「母性」とは異質であることを、父親は自らの存在の内実から理解しています。男達は父と子であることの限界を知っているというのでしょうか。だからこそ、本作に男性は共感してしまうのか。父親とは虚構の世界でしか心底には分かり合えないのかと。

重松氏が書くテーマに「希望」というものがあります。以下は主人公が「死んじゃおうかな」と思ったときの気持ち。

絶望しているわけじゃないんです。でも、この先に、希望がないっていうか、なんのためにこれから何十年も生きていくのかわからなくなったっていうか。(P.43)

似たような文章は以下にも見られます。

信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだ。(P.381)

いま、ここにこうして、明日も生きられるということ。それが、まさに「希望」であり「幸福」なのかもしれない、とは彼の小説を読むまでもなく、このごろ強く思う次第です。あとで「後悔」しないように、今を生きているでしょうか。落ち込んだり嘆いたりすることさえ「幸せだった」と思わないように。

2007年9月29日土曜日

三浦展:下流社会 第2章 なぜ男は女に“負けた"のか


「下流」という言葉と「下流」の定義において格差社会の論調に対し火に油を注いだ(P.230)と筆者自らが書く前作(→レビュ)は相当売れたようで、本書はその続編。三浦氏の統計の扱いや論理に関する批判は、ネット上に山のように溢れています。本人も確信犯的に統計を用いて自論を展開*1)していますから、それを前提とした上で読む方が良いと思います。

ある種の「いい加減さ」や「うさんくささ」を割り引いて読んだにしても、三浦氏が何を書きたかったのか、いまひとつ判然としません。前書は意欲、能力が低いのが「下流」(前P.6)と明確に定義したところが斬新でした。今回は副題にあるとおりなぜ男は女に“負けた"のかです。しかし読んでみると、その点の言及はいまひとつ。男性が最近女性に比べて弱くなってきたとは感じますが、男性社会と女性社会の優位性に関する問題は上流・下流の問題ではないと思います。

正社員率が高いSPA!男、フリーター系のSMART男(P.39)とか下流は「反中」「反韓」「反米」、非正社員はスポーツイベント(P.157)などの言い切りは、それが実際は間違っていたとしても一人歩きしがちです。世の中の感覚に何となく合致していると、あたかも時代を切り取った真実のように思われがちです。ここの分かりやすさが、三浦氏が指示される理由のひとつなんでしょうが、表層的過ぎます。

概してアマゾンやブログでの評は三浦氏に批判的で、「下流を罵倒している」との感想も散見されます。私も本書は評価しません。彼の分析は「下流の消費行動」や「購読パターン」から「下流」をステロタイプ化しているに過ぎないように思えます。それが一体何なのかと。「下流」と定義された人たちへのメッセージもない。「地域限定社員」ということを提唱していますが、付け足しとお詫びみたいに感じます。

それにしても、何故「下流本」がかくも売れるのでしょう。これは、自分を安全圏において「他人の不幸または失敗を眺めることから喜びを得る」、すなわちシャーデンフロイデ(Schadenfreude)と呼ばれる情動*2)によるものなのでしょうか。あるいは、自ら「下流」と自認する人たちが自らを再確認し自己強化する行為なのか。だとすると巷の下流本は問題提起という体裁を取りながら、エンタテイメントでありヒーリングに堕しているのかもしれません。これ程に格差論が盛んな割には、政策や企業活動*3)の具体的対応が見えてきませんし。

さて、三浦氏関連のネットでの感想を斜め読みしているさなか、そんな「安全圏」*4)に対して痛烈な批判を浴びせている文章が目に止まりました。随分前から有名になっていた、いわゆる「赤木論考」(→「丸山眞男」をひっぱたきたい続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」 )です。標記論考*5)については、それこそ識者を含め多くの言及と批判がなされているようです。それを参照した上で三浦氏の本を考えますと、洞察の甘さと初めに結論ありきのようないい加減さが目に付いてしまうのも否めません。

  1. 三浦氏は「あとがき」で以下のように書いている。
    『下流社会』に対するいくつかの批判に、引用しているデータのサンプル数が少ないことがある。そんなことは百も承知であるが、まあ、私も分析のプロだから、サンプル数が少なくても、さほど間違った分析はしないつもりだ。

    「サンプル数は少なくても思っている結論に結びつける」でしょうか。

  2. たまたま9月29日の日経新聞コラム「モードの方程式」(中野香織)を読んでいて、ああ、これもそういうことなんだと合点した次第。ちなみに、Schadenfreudeに対して「シャーデンフロイデをおぼえたことを深く悔いる」という意味のグラウケンシュトゥック(Glauckensuck)という新語もあるそうな。
  3. 10月1日からは、企業が労働者を募集・採用する際に年齢制限を設けることを原則禁止する改正雇用対策法が施行される。中高年や30歳を超えた年長フリーターなどの就職機会を広げる狙いがあるといわれる。また、トヨタなどは、ようやく全従業員に占める非正社員の割合を30%以下とするような目標を設定した。バブル後遺症で新卒採用を絞り込んだため社員年齢カーブが歪なものとなり、企業活動に支障が出ることを痛切に経営的危機と感じる企業は、登用や中途採用を含め柔軟な人事プログラムを策定する可能性がる。しかしそれが「非正社員」とひとくくりにされる全ての人に朗報であるとは思えない。ここでも「勝ち負け」は生ずるはずだ。
  4. 最初「絶対安全圏」と書いて、「安全圏」に書き替えた。考えてみるまでもなく、今の位置が今後ずっと続く保障=「絶対安全圏」などありえない。そう考えると、自分がいつ「赤木氏」にならないとも限らないのだ。だとしても、ではあるが。
  5. 赤木氏の主張は、フリーターは機会どころか人間的尊厳さえ奪われており、再チャレンジなどできない。今の正社員は「たまたま」正社員になっているだけで彼らの努力とは全く無縁だ。自分たちが這い上がれないならば、中流が下がって来いと。すなわち社会を流動化させるためには戦争さえ辞さない、いや「戦争こそが希望」であると説くものである。戦争になれば東大卒で政治思想犯とされた丸山眞男の横っ面を、中学にも進んでいないであろう一等兵が引っ叩くことも可能なのだと。

[立読み]佐藤可士和の超整理術


山尾さんのところで紹介されていた「佐藤可士和の超整理術」を立ち読みしてみました。佐藤可士和氏といえば話題のアート・ディレクター。ユニクロのTシャツ戦略やファーストリテーリングのコーポレート・デザイン、携帯電話、国立新美術館のロゴデザインなど、多方面に活躍されています。トレードマークのようなソフト・モヒカンも頭頂部が気になり始めたヲヤジ方には羨ましい限り。

そんな彼が、なぜに野口悠紀雄氏のような本を書くのかと。本の感想を書くにあたって、私の場合、一応アマゾンの読者レビュをざっと眺めます。あまり評判が良くないですね。佐藤さんらしくないだとか、凡庸だとか。わたしはそうは思いませんでしたよ。

物理的な整理における「捨てる勇気」とか「捨てるバッファ」だとかの考え方は、今更目新しいものではありません。本書のキモは(野口氏の本もそうなのですが)、物理的な「片付け方法」とか「整理法」ではなく、アイデアの整理方法にあります。それさえも凡庸だと指摘されれば、その通りと言うしかありません。目新しいこは何も言ってないのですから。おそらくは凡人も真似できる画期的な「整理法」とか「発想法」なんてないんです。佐藤氏の発想スタイルをパターン化すると、本書のような「整理法」に当てはまったということなんだと思います。

佐藤氏の言葉と経験に基づいた事例を、あたかも板前が握る寿司のように美味しく提示してくれているのが本書です。佐藤氏の考え方は彼のオフィスのごとく整然として美しく、そして読みやすい。同じネタであっても新鮮です。立ち読みでもあっという間に読めてしまいます(^^;;;

随所で「やっぱりそうだよなあ」と頷きます。彼の言葉で一番印象に残ったのは、『答えは相手の中にある』ということですね。自分のエゴを抑えて、クライアントとのコミュニケーションの中から、相手の願望を具現化して示してあげる。答えは相手が知っているのだから、自らのアイデアは尽きることはない。うーん、至言です。

もう少し安ければ、買ってもよかったかなと。立ち読みでゴメンなさいね。

2007年9月25日火曜日

[読書メモ]岡田斗司夫:いつまでもデブと思うなよ


ダイエット本として、かなり売れている様子。classicaのiioさんや#credoのkimataさんも紹介している*1)。私の体形はメタボとは程遠い「痩せ型」であるため本書は無縁と思ったものの、気になる部分もあったため、書店で立読の斜め読み。


成る程、単なるダイエット本かと思いきや。たしかにテクニカルな点ではダイエット本だが、その骨子は昨今の「見た目主義」の風潮に乗った論調。自分自身の「ダイエット」、自己への投資ということ。


成果を上げてもデブだと損、デブはマイナスイメージがある、見た目が大事、デブは損だから痩せましょうと説く。人を動かすには損得感情に訴えなくてはダメということか。あるいは人を動機づけるものは、損得を越えて人から賞賛されるということか。デブから痩せることは、その一助になるのだと。


痩せるテクニックは記録すること、すなわち目標設定と「見える化」で目新しいものはない。あるいは、ビックマックを食べたくて我慢するのではなく、一口食って後は捨てるのだとか。


しかし・・・、極端なデブは別として、痩せることは本当に自己投資なのか?単なるメタボ協奏曲に乗った動きでしかないのではないか?というギモンがないわけでもない。




  1. http://www.classicajapan.com/wn/archives/001482.html
  2. http://blog.livedoor.jp/credo5026/archives/50910016.html


2007年9月23日日曜日

野口悠紀雄:「超」整理法―情報検索と発想の新システム


野口悠紀雄氏の『「超」整理術」』を改めて読んでみました。このごろ仕事でもプライベートでも本や書類の山に囲まれ、限られたスペースの中でニッチもサッチもいかなくなってきておりダウンサイジングする必要性に迫られてきたことが理由であります。

本書は1993年に上梓されています。個人利用ではインターネットどころかWindowsさえ使えなかった時代。氏のパソコンによる情報処理、情報検索に関する記述には時代を感じます*1)。それ以外は今でも通用する技術として評価されているようです。「分類しない」「押出しファイル方式」は今更説明するほどもないほどに有名な整理法といえましょう。

広く人口に膾炙してはいるものの、氏の整理方法は学者とかもの書きを職とする方には向いていて、企業や役所に勤めるフツウのサラリーマンには若干不向きという印象は変わりませんでした。

仕事においては、15年前に比べ個人が処理すべき情報量は飛躍的に伸びました。プロジェクトの初期情報は膨大です。オフィスの物理的スペースがサイバースペースに置き換えられる以上のスピードで、新たな紙媒体が日々物理スペースを侵食しつつあります。時系列で整理していても、ストックのスピードと捨てる判断が入力量に追いつかない。

終了したプロジェクトデータでも「いつか使うかも」という理由で、しばらくはデスク周辺の一番いい場所を占領しています。「捨てたファイルはすぐ必要になる」というマーフィーの法則は今でも成立しています*2)。実際のところ「捨てる」というのが極めて難しい。いわゆる「センチメンタル・バリア(情緒的障壁)」というやつです。

捨てないまでも、全ての紙情報をPDFやTIFFなどの画像データとして保存するという試みもなされています。企業では組織的にそれを実施して、キャビネットの物理スペースを電子スペースに移管しようとしています。しかし電子データは一覧性に劣る上に書き込みが出来ません。紙媒体のように閲覧されることで経験と知識を蓄積するような連続性を感じることができません。電子データは、検索の網にかからない限り、紙媒体以上に閲覧再利用されなくなるような気もします。

情報を「捨てる・リフレッシュする」VS「整理・保管・再利用する」という、いつとも果てぬ悩みは、野口氏の本を読んでも全く解決されず、相変わらず足の踏み場もない紙ファイルの海を、のたうちまわる毎日です。

ちなみに、「時間軸での整理法」をCDについて適用してみましたが・・・これもうまくいきません。5年以上聴かないCDを捨てるかといえば、捨てないわけでして、ではこの先5年以内に聴くかと言われれば、やはり聴かないかもしれません。だからといって、その1枚を捨てられないのは、「センチメンタル・バリア」以上の理由のような気がします。


  1. これは「捨てた時」に「そのファイルがあったことを思い出した」からかもしれません。
  2. 氏の手法はMS-DOSのテキストファイルをベースとしています、推薦しているワープロも「一太郎」ではなく管理工学研究所の「松」とかマニアックです。かくいう私も、かつては「MS-DOSを256倍使いこなす本 (アスキー出版局)」とかを読み漁り、テキスト処理系スクリプト言語のcgrep、sed、awkが可能なテキストデータベースをシコシコと作っていたものです。そうやって作ったデータや業務日誌を読み返したり再利用したことは、ほとんどありませんでしたが。









2007年9月19日水曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く(3)

前回から随分と時間があいてしまいましたが、涼しくなってきましたので「ストラデッラの《スザンナ》を聴く」の続きを書くこととしましょう。 オラトリオは大きく、二幕構成になっています。

第一幕は二人の審判(GIUDICE IeII)が自らの抑え切れない欲望を歌い、そして遂に、スザンナの沐浴中に彼女に襲いかかります。しかし、スザンナに拒否され召使に見つかってしまったため、逆にスザンナが不倫をしていたと偽りを言い、スザンナを貶めるまでです。

第ニ幕はスザンナの牢獄から始まります。無実であることと神への助けを求める心と、理不尽な死への恐怖の間を揺れ動く心を切々と歌います。遂に彼女の死刑(縛り付けられたまま、市民に石をぶつけられて死ぬという刑)が執行されようと群集の中に連れ出されたとき救世主たるダニエルが登場します。ダニエルは二人の審判を別々に審問し、その虚偽を明かし、逆に彼らに死罪を言い渡し、めでたしめでたしとなるまでです。

曲はレチタティーヴォとアリアや二重唱やコーラスが交互に歌われます。三重唱(Terzetto)も一曲だけあります。レチタティーヴォは、それぞれの登場人物の台詞や心象であるとともに、テキスト進行や解説の役目も果たしています。TESTOとされた部分がそれです。
一般にレチタティーヴォというと、アリアの間のツナギみたいな印象を受けますが、ストラデッラはレチタティーヴォでもしっかり歌わせています。

レチタティーヴォのテキスト進行役にカウンター・テナーを配したというのは、非常に素晴らしいアイデアだったかもしれません。最初のシンフォニアが終わった後、カウンター・テナーの声が聴こえてきたときには、全く意表をつかれてしまい、思わず息を飲んだものです。もっとも、更に息を飲む場面はもう一箇所用意されていたのですが、これは後で書きましょう。

伴奏はハープシコードとオルガンの通奏低音に第一、第二バイオリン、ヴィオロンチェロ、コントラバス、それにarpa doppiaと呼ばれるイタリア・ルネッサンス期のハープ(→Wikipedia)によるアンサンブルです。この小編成のアンサンブルが極めて秀逸です。小気味良い劇進行、歌手陣をしっかりと支え、引き立たせ、そして場合によっては対等の対話を行います。好色と狡猾故の陰鬱な物語ながら、イタリアの乾いた風を感じさせる心地よさが全編に漂うのは、アンサンブル・アウロラの伴奏のせいかもしれません。

曲の最初のシンフォニアだけでも聴いてみると良いかもしれません(買わないと聴けませんが)。ノンヴィヴラートの単調なヴァイオリンの響きによる短い導入はスザンナの内面を表象するかのような暗さを湛えています。その後、打って変わって快活な悦びが満ち溢れ、神への感謝と崇高ささえ感じる音楽となります。ガッティは自在に歌い、流麗に流れ、その馥郁たる響きは惚れ惚れするほどです。ガッティ好きならば、シンフォニアを聴いただけでニヤニヤしてしまうかもしれません。

このように、そもそもといえば、ガッティのヴァイオリンを聴こうと思って購入した盤ではありました。ところが繰り返し聴くにつけ(そう、繰り返し聴くに値するのです)、曲の美しさがジワジワと染み出してきまして、いまやガッティのヴァイオリンがなくとも(いや、「ない」と困りますが)愛すべき盤となってしまいました。それ程にストラデッラの曲が美しいのです、歌手陣も良いのです。

ガッティはマイナーな曲の発掘に精力を傾けていますが、彼が敢えてこの曲を選んだわけも分かろうというものです。



せっかく再開しましたが、今日はここまでです。その後のエントリはまだ白紙です。誰に読ませるでもない、個人的な「覚え書き」ですからね(^^;;。
次は、曲をひとつづつ解説するのも何ですのから、聴き所がどこかということを簡単に書こうと思ってはいるのですが、はてさて、いつになりますか。

2007年9月18日火曜日

[NML]ヘンデルの歌劇「フロリダンテ」を聴いてみる


戯れに、NMLで歌劇「フロリダンテ」を聴いてみました。
はっきり言って対訳もなく、あらすじも分からずに歌劇をNMLで聴くというのは苦行以外の何ものでもありません。ネットで調べても、ほとんど情報は得られません。

数少ない情報によると下記のような物語らしく。
王女エルミーラは英雄フロリダンテの凱旋を喜んでいます。ところが本来ならば二人は結婚する約束だったのに、暴君のオロンテ王がそれを認めないばかりか、フロリダンテを国外に追放し何と自分がエルミーラと結婚しようとします。エルミーラの妹と捕虜であるティマンテ(グリコーネ)は愛し合っており、フロリダンテとエルミーラを何とか助けようとします。フロリダンテとエルミーラは逃亡するのですが失敗、もうこれまでと毒杯をあおろうとしたところを、暴君オロンテに捉われてしまいます。あわや二人が殺されようとしたときに・・・。
禁じられた愛に逃亡、友情、裏切り、復讐劇と、結構ドロドロした物語ですが、最後はハッピーエンド。しかし、全体にクライ物語ですから、ひたすらラメント節が延々と続くワケで・・・、はっきり言ってつきあっておられません。最後まで聴くのは、相当の忍耐力が要ります。

以上のような貧弱な知識を仕入れ、NMLの曲目をネットで調べた日本語訳に当てはめてみると(間違っているところもあるかもしれません)、聴き所が何となく分かってきます。

エルミーラやフロリダンテの嘆きに耳を傾けるのも良いでしょう。コラルボに裏切られた暴君オロンテの驚きを聴くのも良いでしょう。ハッとするアリアや、美しい旋律もあります。でも全体に地味です・・・ね。

何しろCD3枚分です、力尽きましたです!(下のリスト作るだけで疲れました)。誰が誰の役を歌っていようが、もう、どうでもいいです。間違っても、もう一度全曲通して聴こうとは思わないでしょう。ヘンデルでも他に聴くべきものはありますから。

それにしても、今日も暑かったですね。残暑もそろそろウンザリです。

Floridante, HWV 14
序曲
第1幕
第1場 / Scena I
  1. Aria: Dimmi, o spene! (Elmira) 「私に告げてください、希望よ」
  2. Recitative: Oggi di Tracia (Elmira, Rossane) 「今日、勇士であられるトラキアの王子が」
  3. Aria: Godi, o spene (Elmira) 「喜んで、希望よ」
  4. Recitative: Avventurosa Elmira! (Rossane) 「幸運に恵まれたエルミーラ!」
  5. Aria: Ma un dolce mio pensiero (Rossane) 「それでも私の甘い思いが」

第2場 / Scena II
  1. 行進曲
  2. Recitative: Questo de' miei trionfi (Floridante, Elmira) 「これは僕の勝利の」
  3. Aria: Alma mia (Floridante) 「私の魂のお人よ」

第3場 / Scena III
  1. Recitative: Giove, compensator (Rossane, Floridante, Elmira, Timante)「ジョーヴェが、偉業に報いたまうあの御方が」
第4場 / Scena IV
  1. Recitative: Oronte, il Re de Persi (Coralbo, Floridante, Elimira, Rossane) 「オロンテが、ペルシアの王が」
  2. Recitative: Ch'io parta? (Floridante, Elmira) 「私が出立するようにと?」/「私があなたを失うなど」
  3. Aria: Ma pria vedro le stelle (Elmira) 「でも先に私はみることでしょう、星々が」
  4. Recitative: Fammi bersaglio (Floridante) 「さあ、私をおまえの」
  5. Aria: Sventurato (Floridante) 「不運であっても喜べ、置き去りとなった心よ!」
第5場 / Scena V
  1. Recitative: Cinto d'allori (Rossane, Oronte) 「月桂樹を戴いて」
  2. Aria: Finche lo strale (Oronte) 「矢が的に届くまでは」
  3. Recitative: Novo aspetto di cose (Rossane) 「物事の新たな成り行きは」
第6場 / Scena VI
  1. Recitative: Ma viene il prigionier (Rossane, Timante) 「まあ、囚われ人が来るわ」
  2. Aria: Sospiro, e vero (Rossane) 「溜息しています、確かに」
  3. Recitative: Per quali vie lontane (Timante) 「何という人間の思考のおよばぬ」
  4. Aria: Dopo il nembo e procella (Timante) 「黒雲と大嵐のあとには」
第7場 / Scena VII
  1. Recitative: Al primo cenno (Floridonte, Oronte) 「ご指示があるやすぐ、陛下、」
第8場 / Scena VIII
  1. Recitative: Padre, Signor (Elmira, Oronte, Floridante) 「父上、陛下、怒りをお抑えください」
  2. Duet: Ah, mia cara (Elmira, Floridante) 「ああ、僕の愛しの人、貴女がこのまま留まるなら」
第2幕 / ATTO SECONDO
第1場 / Scena I
  1. Recitative: Ecco il vago mio sol (Timante, Rossane) 「麗しい僕の太陽がこちらへ」
  2. Lascioti, o bella (Timante) 「貴女様においてまいります、美しきお方、この顔を」
  3. Recitative: O fortunati affetti miei (Rossane) 「幸運な私の愛情よ」
  4. Aria: Gode l'alma inamorata (Rossane) 「恋する魂は享受します」
第2場 / Scena II
  1. Recitatives: Difficil cosa (Timante, Floridante) 「貴方様と見抜くのは難しいことです」
第3場 / Scena III
  1. Recitatives: Fedele Elmira! (Elmira, Floridante) 「真心篤いエルミーラ!」/「愛するフロリダンテ」
第4場 / Scena IV
  1. Recitatives: Glicon, se sei (Rossane, Timante, Floridante, Elmira) 「グリコーネ、もしそなたが真実を申しているなら」
  2. Aria: Bramo te sola (Floridante) 「僕は貴女のみ熱望する」
  3. Recitative: Oronte un messo (Timante, Elmira, Rossane) 「オロンテが伝言をよこされました」
第5場 / Scena V
  1. Recitatives: Questo e il tempo (Oronte, Elmira) 「これは運命の時である」
  2. Aria: Barbaro! (Elmira) 「残虐なお方、私は貴方に死を望むほど憎みます」
第6場 / Scena VI
  1. Recitative: Convien lasciar libero il corso (Oronte) 「なるがままに任せておくことだ」
  2. Aria: Ma non s'aspetti (Oronte) 「やはり待つべきでない、いや」
  3. Recitative: Ormai tutta silenzio (Rossane, Timante) 「夜も更けてすっかり静寂ですわ」
  4. Duet: Fuor di periglio (Rossane, Timante) 「厳しい魔手の」
第7場 / Scena VII
  1. Arioso e Recitativo: Notte cara - Parmi ascoltare (Elmira) 「微かな動きを耳にしたよう」
第8場 / Scena VIII
    41. レチタティーヴォ:(フロリダンテ、エルミーラ)
  1. Recitative: O facil porta (Floridante, Elmira) 「たやすい扉よ」

第9場 / Scena IX
  1. Recitative: Qual buona sorte (Oronte, Elmira, Floridante) 「何と運の良い!」
  2. Aria: Tacero (Floridante) 「私は黙ろう、だが貴方に叶うことはない」
  3. Recitative: Guardia a costei (Oronte) 「この女に厳しい見張りを」
  4. Recitativo accompagnato: Sorte nemica (Elmira) 「敵意ある運命よ」― 「おまえは災いうちの最悪を」
  5. Aria: Ma che vuoi piu da me (Elmira) 「でもこれ以上、私に何を望むのです」
第3幕
第1場 / Scena I
  1. Recitative: Giunsi allor (Timante, Rossane) 00:55
  2. Aria: No, non piangete (Timante) 03:11
  3. Recitative: O sventurati e vani (Rossane, Elmira, Coralbi) 「ああ、不運で甲斐ない」
  4. Aria: Se risolvi abbandonarmi (Rossane) 「もし貴女が私を見捨てることにしたら」
  5. Recitative: Or mi si svela (Coralbo, Elmira) 「もし貴女が私を見捨てることにしたら」
  6. Aria: Non lasciar (Coralbo) 「任せておおきなされますな」
第2場 / Scena II
  1. Recitative: Elmira, a te … (Oronte, Elmira) 「エルミーラ、そなたのもとへ戻ろう」
第3場 / Scena III
  1. Recitative: Numi, che aspetto … (Floridante, Oronte, Elmira 「まさか、何たる悲惨な姿!」
  2. Aria: Se dolce m'era gia (Floridante) 「僕にとりこれまで甘かったのであれば」
  3. Recitative: Si mora, si (Elmira) 「死ぬことだわ、そう」
  4. Aria: Vivere per penare (Elmira) 「苦しむために生きること」
第4場 / Scena IV
  1. Recitative: Nella vasta, citta (Timante, Rossane) 「広い町ではすでに」
  2. Aria: Vanne, segui 'l mio desio! (Rossane) 「いらしてください、私の願いをお分かりください」
  3. Recitative: Servasi alla mia bella (Timante) 「僕の美しき人のため役立とう」
  4. Amor commanda (Timante) 「愛が命じ」
第5場 / Scena V
  1. Questi ceppi (Floridante) 「この足枷とこの戦慄の場は」
第6場 / Scena VI
  1. レチタティーヴォ:「哀れな、愛する王子様」(エルミーラ、フロリダンテ)
第7場 / Scena VII
  1. Recitatives: Misero amato 「わたしの命令はこのようではなかった!」
第8場 / Scena VIII
  1. Recitatives: S'uccida 「殺されよう」 (Coralbo, Oronte, Timante, Elmira, Floridante)
  2. Aria: Si, coronar vogl'io (Elmira) 「そうです、私は飾りたいのです」
  3. Recitative: Ah! traditor Coralbo! (Oronte) 「ああ、裏切り者のコラルボ」
  4. Aria: Che veggio? (Oronte) 「何を見ている?何を感じる?」
最終場 / Scena ultima
  1. シンフォニーア
  2. Recitative: Fido e guerriero (Elmira, Floridante, Rossane, Timante) 「忠実にして戦い恐れぬ」
  3. Aria: Mia bella (Floridante) 「僕の美しき人、僕は心から嬉しい」
  4. Recitative: La cittade (Elmira) 「町も、王宮も」
  5. Chorus: Quando pena la costanza (All) 「不変の心が苦悶するとき」

[NML]David Hobsonでヘンデルのテノール・アリアを聴く

行き当たりばったりですが、今日はNMLでヘンデルのテノール・アリアを聴いてみました。

ヘンデルのアリアの魅力って何なんですかね。ヴィヴァルディのように、一瞬にして人を捕まえて話さないという類の強烈さはありません。しっとり歌う部分、技巧的な部分、音楽性は多彩です。それでも、感情が発散しないというか、適度の抑制が効いています。底が抜けないというのでしょうか、ヘンデルの性格なんでしょうか。

David Hobsonのテノールを聴いていると、更にそう感じます。綺麗な声です、どこにもひっかからず、歌声がサラサラと流れていきます、声質は軽くどこまでも明るい。彼はオーストラリアで最も有名で人気のオペラ歌手であり、作曲家だと知ると(→公式サイト)成る程なと(オーストラリアについては、何も知らないのですけど)。日本酒でいえば上前如水みたいな・・・。深刻にラメントな淵に落ち込まないだけ、良いといえましょうか。例えば、Judas Maccabaeus, HWV 63 のSound an alarm!など、ハイドン的な管弦楽の伴奏に合唱まで加わって、それなりのカタルシスは得られますか。青空に浮かぶヘンデルつーか。

それにしてもヘンデルです。彼は何と多くの歌劇やオラトリオを作曲しているんでしょう。改めて調べてみて驚くばかりです。バッハと並び称される割には、「ハレルヤ・コーラス」とか「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」「調子のよい鍛冶屋」くらいしかピンと来ないんです・・・。

2007年9月17日月曜日

[NML]Sarah Connollyでヘンデルのメゾソプラノ・アリアを聴く

ヘンデルのアリアということで、Harry ChristophersとSarah Connolly(MS)によるアルバムも聴いてみました。

アルバムは、Alcina、Solomon、Ariodante、Herculesと、ヘンデルの「英雄モノ」のオペラです。'Heroes and Heroines'とあるように、音楽は多彩。Connollyのちょっと暗い歌声は、英雄たちの悲哀や嘆きを切々と唄っています。

しかし、なんだかちょっと響かない。解説によると(→こちら)ヨーロッパだけではなくアメリカも請われているメゾ・ソプラノ歌手であるらしいんですけど。抑えの効いた歌声がワタシ的にはイマひとつなのか、結局ワタシは、スコーンと抜けた技巧的ソプラノが好きってことなの?それぢゃあ、あまりにも単純なご趣味ではあります。

伴奏のThe SixteenはHarry Christophersが設立し指揮もしているイギリスの合唱とピリオド楽器のオーケストラ(→公式サイト)。こちらも抑制が効いた、そして品のある小気味良い演奏です、イギリス的とでもいうのでしょうか、華やかさや過激さはありません、しかし、悪くはないですよ。

いかにも以前から知っているような書き方していますが、全て今日初めて知った知識です、念のため。

[NML]Yvonne Kennyでヘンデルのソプラノ・アリアを聴く

��D購入意欲も活動意欲も減退しておりまして、今日はNMLでYvonne Kennyの唄うヘンデルのアリアを聴いてみました。私はディープなクラヲにもバロクーにもなりきれない中途半端なリスナーですから、ヘンデルのオペラやオラトリオなどほとんど聴いたことなどないんです。(というか、ヘンデルそのものを殆ど聴いていない!)

何気に聴いてみたものの、これが結構ハマります。

Giulio Cesare in Egitto,HWV17 Act III Scene 7: Da tempesteなど、いかにもバロック的巧的に満ちた曲と言えましょうか。Serse, HWV 40 Act I Scene 7: Ne men con l'ombreも良いです。何を唄っているのかは皆目分かりませんが、こういう快活な曲は単純に楽しめます。いや、いや、しっとりとした曲も素晴らしい。Rinaldo,NMV 7 ActII Scene IV: Lascia ch'io piangaはずっと聴いていても良いです。いやでもしかし、Alcina, HWV 34 Act 8で Ah! mio corと悲嘆に満ちて唄う曲が、本盤の中の一番かなあ。

曲の良し悪しや演奏について評することなどできませんが、ヘンデルって結構聴き所満載なのですね、全く知りませんでした。

Yvonne Kennyはシドニー生まれのソプラノ歌手。1975年にロンドンでドニゼッティの「ロズモンダ」でオペラ・デビューをしています。NMLのラインナップを眺めると録音も豊富です。伴奏のオーストラリア・ブランデンブルク管弦楽団は、決して尖らずに心地よい演奏を聴かせてくれます。

それにしてもヴィヴァルディだって聴いていない曲が沢山あるというのに・・・、困ったものです。

2007年9月16日日曜日

行楽シーズンですね、ということでパキスタン・・・


三連休で東京は天気が良いですね、まだ残暑厳しいですが行楽シーズン到来といったところでしょうか。


さて、日本の総裁選以上にパキスタン情勢が面白いというわけでもありませんが、個人的な覚え書きとして、その後の状況を少し調べてみました。今後もパキスタン情勢について書き続けるわけではありませんよ。




そもそもパキスタンという国は、独立以来アメリカと共同関係にあり、インドとはカシミール問題で対立しています。中国とは友好関係にあり、中国と共同開発している戦闘機のミサイルとレーダをフランスから購入するという記事が1週間前の新聞に出ていましたかね。北朝鮮とは核兵器開発疑惑の関係にありますね。そういうフクザツな国でありながら、日本(当時の小泉政権)は2002年に日パキスタン国交樹立50周年を契機に友好関係の増進を図っています。


1999年の無血クーデターで現ムシャラフ大統領による独裁政権が誕生しています。ムシャラフ政権をアメリカは支持しており、パキスタン政府が「テロとの戦い」としての国際治安支援部隊(ISAF)=多国籍軍の中では、唯一のイスラム国であることは以前書きましたか。


アメリカ支援によるテロ掃討作戦によるイスラム教徒への圧迫が、国内の反ムシャラフ勢力の不満を掻き立てているようです。


さて、そんな中で11月の総選挙に向けて復活を目論むシャリフ元首相とブットー元首相が相次いでパキスタンに戻ろうとしたわけです。シャリフ元首相は、政策的には徹底的に反ムシャラフを貫いていますから、ムシャラフとは犬猿の仲。パキスタンに着いたと思ったら、数時間で国外追放されてしまいました。


一方で、冷静でタフなブットー前首相は、シャリフ前首相のようなオマヌケは避けているようです。ムシャラフ大統領に譲歩と歩み寄りの気配さえ見せながら、復帰を狙っています。しかし、アメリカ筋の新聞を読んでいると、ブットー前首相がムシャラフと組むのか、あるいは敵対するのか、その動向は未だつかめないとしています。特にパキスタンは大統領選を10月初旬に早めました。ブットー前首相が何故大統領選の終わった後(10/18)に帰国するのか、その意図は彼女の陣営はコメントを拒否しています。


ワシントン・ポストによると、ブットーとムシャラフが何らかの取引(ムシャラフ再選支持と帰国のバーター取引)をしているにせよ、両陣営が組むことはどちらにとっても両刃の刃であるように書いています。ムシャラフが現権力を維持するにはブットーの協力が必要なのですが、ムシャラフ陣営はブットーが実現させようとしている民主主義に対して懸念を示しています。彼女のCNNへのインタビューには(何を言っているのか私の英語力ではさっぱりですが)'democracy'という言葉が何度も出てきました。


隣国のインドの人々のパキスタン政局に対する見方は無関心です。どちらが首相になったところで、軍がパキスタンを支配し、最も重要な問題(インド外交、アフガニスタン問題、USとの関係、核兵器、テロリズム)についての決定も軍が継続するだろうとしています。文民支配はパキスタンにおいては実現しないだろうと。ブットー前首相の所属する政党PPPはパキスタン内で大きな支持を得ていますが、インド人のブットー前首相の見方は下記のように冷淡です。



Benazir created the Taliban, J&K insurgency, bought missiles from North Korea and was scam-tainted.


The Times of India:Whatever happens, Pak army will call the shots

16 Sep 2007, 0134 hrs IST,Indrani Bagchi,TNN


ただし、インドにおいてもテロリズムは脅威であり、パキスタンの政情安定はインドも望むところではあるようです。

Pakistan is in for a sustained period of instability as its political dramas play themselves out. It's bad news for India in the longer term, because it gives space for the Taliban, Al Qaida and other Islamist terrorist groups to grow and prosper. India has now become established as one of the target countries of the Al Qaida ― and the current political confusion is not a good sign.


アメリカは、パキスタンに現在の政策が継続されることを望んでいることは言うまでもありません。テロとの戦いからパキスタンが抜けることは、アメリカの大義にとっても非常に懸念される問題ですから。


日本にとってはアメリカというフィルターを通したパキスタン外交というスタンスしかありえませんから、パキスタンを誰が統治しようとインドのエスタブリッシュメント以上に'supreme disinterest'な問題でしかありませんね。

2007年9月15日土曜日

福田氏優勢らしいですが・・・パキスタンについてです

自民党総裁選ですが福田氏が、あっという間に党内シンパをつくり麻生氏を圧倒したようですね。安倍元首相は「テロとの戦い」を主張して、テロ特措法によるインド洋上での海上支援活動を進めることが、自分にとって一番大事なことと判断していました。

しかし、肝心のそのパキスタン政府ですが、現在日本以上に政局は混沌としています。 

米国に支えられたムシャラフ現大統領と、7年の国外追放の後に戻ってきたシャリフ元首相*1)。国内の反米意識の高まりからムシャラフ現大統領の国内での支持率は低く、ビン・ラディンの方が人気との報告もあるそうです。2007年11月の総選挙にはブットー前首相*2)も加わります。反米野党がムシャラフ政権を倒し、更にパキスタンがISAF(国際治安支援部隊=国連安保理決議1386号)から離脱したら・・・。まあ、イロイロ複雑なことになるでしょうねえ。パキスタンはずっと親米政権を維持*3)していまいしたが、アメリカにも日本にとってもパキスタンって微妙かと。

そういう意味では、日本の政局よりも興味深かったりします。日本は所詮自民党内での権力闘争、誰がなったって一緒でしょうから。

上記のエントリは、安倍さんがあんなに拘ったテロ特措法について、ヒマだったんで昼休みにネットで調べた*4)程度の知識をベースにしていますから、深く突っ込まないでくださいよ。給油されている燃料の8割が実はイラク戦争に使われているという江田議員の指摘もあったように、ワイドショーで知識を仕入れている方の方がお詳しいかと。

  1. シャリフ元首相は9/10の帰国と同時に国外に再追放されたままです。
  2. ブッドー元首相は10/18に帰国すると発表されています。彼女は帰国に際してシャリフ元首相のようなメにあうことはなさそうです。
  3. パキスタンにとって「テロとの闘い」は国内的にも大きな懸念事項であり、その点はムシャラフ大統領と同じ認識なのでしょう。しかしシャリフ氏のbrotherがTIME誌のインタビューに、次のように語って、ムシャラフ大統領との立場の違いについて言及しています。

    This issue of terrorism is as much an issue for Pakistan as it is a Western issue. But somehow, because of this strained environment, because of his relationship with the U.S., people have come to believe that Musharraf is only an American stooge supporting an American agenda, which is not correct. Extremism and terrorism is Pakistan’s problem, and Pakistan’s job to combat. It is on our agenda, and we must fight it, but fight it differently than how we have been doing.

    Interview: Shahbaz Sharif on His Brother
    Thursday, Sep. 13, 2007 By ARYN BAKER/ISLAMABAD
    http://www.time.com/

  4. 9/15に追記、一部修正しています。

2007年9月3日月曜日

重松清:疾走(上)(下)


救いようのない物語。14歳から15歳の、たかが中学生に、作者がここまで過酷な運命を背負わせたこと。絶望というには生ぬるく、物語は最初からお終いまで、壊れ堕ち続ける短い人生を描きます。ここまで極端なプロットを用いないと、現代の青少年を描き切れない程に闇は深いのかと。重松氏の「言葉」は、誰に届くのか、届いて欲しい人に。

友情が、兄弟が、親子が、夫婦が、家族が、親戚が、人間が、いや「にんげん」が壊れていくということ。絆も関係も消え去り「ひとり」が残る。恐ろしい程の虚空と「孤独」。「孤独」と「孤立」と「孤高」の違いが物語の途中で語られます。「強さ」とは、何に裏付けられた強さなのか。弱さを克服するとは。救いようのない孤独の中で、主人公が求めるもの、叫び、捨てられるもの、あがき捨てきれないもの。

主人公は、徹底的な孤独の中で、いったん「言葉」を捨てます。「風景」さえ捨てる手段を身に着けました。彼が最後のバランスを取って「生きる」ために取った手段だったのかもしれません。彼には兄のような「壊れ方」をする程には人間が安易にはできてはいなかった。まさに「考えたら壊れる」程の体験をさせられても、自分を捨て、そして自分を守りきります。

どんなに不幸だと思う時代であっても、後から考えると、その不幸なこと自体が「幸せ」であったという人生。主人公にとっては、作品評価の分かれる大阪のホテルにおける「地獄」でさえも、まだ最悪ではなかったのかもしれません。あれが取り返しの付かない、かけがえのない「時」であったと気付く時。それを過ごしている時には、絶対に分からない。だから。

言葉に絶望しながらも、しかし、彼は最後まで「言葉」を捨てられない。彼にとっての「聖書」は超越的な存在としての「神」ではなかったのでしょう。「言葉」そのもの。「ことばとはなんだろう」。主人公はかつて問いました。彼が最後のギリギリの場面で聞いたのも、見ず知らずの者の「言葉」。

物語に救いはあったか、彼は、救われたのでしょうか。彼を確かに見守っていた存在。彼の存在そのものを許し、信じていた存在。人生が、ここまで堕ちるほどに、人間がここまで壊れるほどに酷くないならば、いや酷くても、だからこそ信じ、そしてどこかに確かに救いの手はあるのかと。

読んで愉しい本では全くありません。ドストエフスキー*1)の過酷さ*2)は、いつか読み返す気になったとしても、本書を再び読み返したいとは思わないかもしれません。

  1. ドストエフスキーは最終的には魂の救済と神の問題を扱っていたような気がする。重松氏は「旧約聖書」を引用したとしても、宗教に救済を求めたわけではなさそうである。amazonの書評もざっと眺めたが、聖書の「言葉」は読者には「届いていなかった」ように思える。
  2. この小説の「過酷さ」はゲンダイ日本における「過酷さ」であって、これより「過酷な」人生は、実は他にも存在する(した)ハズで、そういう点からは、彼ら主人公さえ「あれが不幸なら、世の中に不幸なぞ存在しない」と言い切る人も、どこか遠い世界と時代には居る(た)かもしれない・・・。ロクに不幸とか絶望を知らないクセに蛇足でしたか。

展覧会:山口晃展「今度は武者絵だ!」

ついこの間、上野の森美術館で「アートで候 会田誠・山口晃展」をやったばかりというのに、今度は練馬区立美術館で再び個展です。NHKの「トップランナー」にゲストとして登場したのも、つい2週間前(8/25)でしたかね。若者ばかりではなく老若男女幅広い層にまで、その人気は当分衰えることがなさそうです。

今日は14時から、山口さんのトークもあるというので、行ってきました。個展の題目は「今度は武者絵だ!」。上野と若干かぶる作品も展示されていますが、目玉は何と言っても「トップランナー」でも紹介された《続・無残ノ介》しょうか。妖刀を手に入れた男の物語。番組の中で、ライブ・ペインティングされた絵が、ロビー正面にデンと据えられいます。

あの、ライブ・パフォーマンスは面白かったですね。キャンバスに向うなり、画面情報に「ダンっ!」とばかりに筆を叩きつける。そして自ら、それで勢いを付けたかのように、画に集中する。最初の筆は何をなぞっているのか判然としません。しかし、次第にそれが人の、しかも刀の妖気に取り憑かれた男を描き出します。筆致は早く、そして的確。アーティストは描く行為そのものがパフォーマンスになるのですね。

《続・無残の介》について、山口さんは番組でこんなことを言っていました。「マンガとは違って、目の前を大きな画(等身大に近いものも)で物語が流れたらどんな感じがするだろう、自分でも見てみたかったので描いてみた」と。全く、自分が描きたいモノを描いているのだなあと。《続・無残の介》の物語は、書くのも憚られるほど「オバカ」な内容で、しびれるくらいにステキです。文字を追うのを辛抱しきれずに、流して観ている人もいましたが、それも一つの見方でしょう。

展覧会の詳細は、TAKさんの「弐代目・青い日記帳」に譲ります。

それにしても山口さんの面白さって何でしょう。チマチマとした細かさを読み解く面白さや、精密にして的確なタッチの快感。人物造型の素直なカッコ良さ。時間軸や空間軸が重層的に重なりあった独特の世界観、古さと新しさの同居した日本人的な懐かしさ、風景、人々。子供のような遊び心、ユーモア、技巧の遊戯とギャップ。確信犯的なテーマ設定と、それを批評する人さえも逆批判する眼。自分の好きなことだけを描き続けてきたというスタンス・・・。

チマチマと評しても無駄です。じっくりと作品を見て、山口さんの「綿飴」のような話を聞き、そしてまた作品を眺め、つくづくと、心の底から、「こいつは~なァ~」と嘆息し、そしてワケも分からずに「クソーっ!」と悔しがり、「今回も、やられちゃったなァ」という思いで美術館を後にするのでした。

でも、ふと思います。山口さんも自分で話されていた「作品の新しさ」ということ。同じ事をやっていたら「マンネリ」と思われる。山口さんが批判し逃れた画壇は、今も彼を無視しているのでしょうか。山口さんは確かに全く別次元を切り開いてしまいました。さてさて、その先には何があるのでしょう。彼の批評精神と、アーティストとしての「稚気」と「毒気」は、彼を利用したい山のような商業(消費)主義と、どう折り合っていくのか。全く興味は尽きません。