映画館にはほとんど足を運ばなくなったので、こちらもJALの機内で適当に選んだ作品。
なんとも後味の悪い、ブラックで美味しくいただけない映画でありました。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
鹿児島テレビ放送が作った、松元ヒロさんを題材としたドキュメンタリー映画「テレビに会えない芸人」の東京での封切り上映を観てきました。
ポレポレ東中野という小さな映画館ですから、封切り初日ではすでに完売でした。事前予約することで12時の回を見ることができました。
有楽町マリオンにあるPlanetaria Tokyoのチケットがあったので行ってきました。コニカミノルタが提供するプラネタリウムです。
プラネタリウムなんてと思っていましたが、今のそれは、ムカシ(と言っても前世紀の大昔ですが)とは全く別物ですね。ストーリー性があり、映像も迫力があり、座席もゆったりとしていて、とても見やすいです。下の写真のように、プレミアムのペアシートもあります。
山の上などで星を見ようとすると、そこまでの道のり、眠さ、見ている間の寒さや首の痛さなど、色々ハードルがありますから、やっぱりプラネタリウムはお手軽です。
新宿バルト9で上映されているUKオペラCinema 「ジュリオ・チェーザレ」(ヘンデル作曲、グラインドボーン音楽祭2005年)を観てきました。DVDにもなっている本作品は、クレオパトラ役のダニエル・デ・ニースを一躍有名にした公演。
映画館でオペラというのは何度か観た事があります。貴重な映像を大画面で観る事ができるのは有難いのですが、音量と音響がちょっと酷い。クラシックを知らない人には適正な音量というものが理解できていない、ただ単に「大音量であれば迫力がある」としか考えていないのでしょう。音は割れ、高音もヒステリック。クリスティ率いるエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団の微妙なハーモニーが騒音としか聴こえないのが何とも哀しい。歌手の歌声は肉声のそれではなく、ハンドマイクを通した街頭演説さながら。
歌手のドアップ映像もつらい。ハリウッドのスターではない。大アップでの熱唱はビジュアル的に耐えることができません。
そのような音楽的、ビジュアル的悲惨な面があったとしても、デ・ニースのクレオパトラは素晴らしい。彼女が登場すると世界が全然変ります。ジュリオ・チェーザレ役のサラ・コノリーやセトス役のキルヒシュラーガーなど並み居るヘンデルを得意とする歌手陣を向こうにまわしての圧倒的な存在感。これにはデイヴィッド・マクヴィカーの演出によるところも大きいのだと思います。ドロドロした復讐劇に、少し軽目のエンタテのトッピングをかけている。その対比が上手い。
デ・ニースには文字通り「つま先」まで痺れてしまいます。でかい口、大きな眼。チャーミングにしてコケティッシュ、健康的な色香。いわゆるエロかわいいてやつでしょうか。最後、さながらミュージカルのように歌って踊る「Da tempeste il legno infranto」がアタマにこびりついて離れません。確かにデ・ニースがフィガロのスザンナ役を演じたならばハマリ役でしょう。
二度の休憩をはさんで227分。観るのも結構体力が要ります。デ・ニース観たさに映画館に脚を運びましたけど、さらに別のオペラを観たいかと考えると、この音響では勘弁といったところでしょうか。新宿では16日(金)までですから、観るならお早めにといったところでしょうか。
キアヌ・リーブスが出演している「地球が静止する日」を観てきました。結論から申上げますと、とてもではありませんが正視するに耐えない映画でした。莫大な予算と時間と労力をかけて、これほどに壮大かつ無意味・無感動な映像を造り上げる馬鹿さ加減に呆れ果てます。まったく、ハリウッドってやつはです。
51年のロバート・ワイズ監督による同名映画のリメイクですが、最新のSFX技術を駆使して巨大ロボットゴートや地球が破壊される様を描きたいという欲求で造られたといったところでしょうか。女性科学者演ずるジェニファー・コネリーのみが唯一の見所。それにしても浅い、中途半端!突っ込みどころ満載。中盤からラストにかけては呆然、これでオワリ!?
人類の叡智をもってしても到底抗うことのできない、圧倒的な差のある敵からの攻撃や蹂躙とか侮蔑。主人公が、わずかなチャンスを生かして戦うというのは、古今東西、永遠に尽きることのないテーマ。それをどう料理するかが腕の見せ所だと思うのです。特殊撮影技術が主ではありません。
人類が消えれば地球は助かるという発想は、以前に読んだアラン・ワイズマン著のベストセラー『人類が消えた日(The World Without Us』を思い出しました。こちらは渾身のノンフィクションでした。
ジョン・ウー監督の「レッド・クリフ Part1」を観てきました。
イロイロと多忙な師走にあって、このような完璧なエンターテイメントは、ひとときのカタルシスを与えてくれます。圧倒的な戦闘シーンは、今ままで観たこともないほどの迫力と残酷さ、そして壮大さがあります。
ジョン・ウーの暴力シーンは賛否両論があります。ここに「男の美学」を感じるか否かが、彼の作品を好きになるか嫌悪するかの重要な境目となりましょうか。(私は、彼の表現はちょっと「やりすぎ」と感じる程の穏健派ではあります)
ジョン・ウーの描く「美学」は派手かつ官能的と言えるほどの戦闘シーンだけにあるわけではなく、その戦闘を行うに至る原因や必然性にこそ「男」が痺れる要素があるように思うので、単純化された図式は彼の持ち味を少しばかり損なっているかもしれません。
本編は「三国志」の中で有名な「赤壁の戦い」を扱っています。善悪を分かりやすくするために、曹操を悪玉に、諸葛孔明を有する劉備軍と周瑜を有する孫権軍の同盟軍を善玉としています。これが物語を平明なものにしています。
「三国志」といえばゲームになるほど人口に膾炙していますから、語り始めるとキリのない人も多いでしょう。私は久しぶりに吉川英治の「三国志」を取り出して、「赤壁の巻」をつらつら暇に任せて読んだりしています。
ケネス・ブラナー監督の映画「魔笛」を、新宿テアトルタイムズスクエアで観てきました。「魔笛」が映画でどのように変化させられているのか興味ありましたし、いちおうクラファンを装っていますから・・・。
しかし、私が良く訪れるクラ・サイトではいまひとつ評判は芳しくない。
といった具合です。私はDVD含めて「魔笛」舞台映像に接したことはありませんから、オペラ演出と比べて云々というとは全く語れません。それでも、これって、モーツァルトの音楽かなあと観ながらにして思ったことは確か、歌詞も英語ですし。
舞台が第一次世界大戦とパンフなどに唄われていますが、それは本当の世界大戦ではなく、対立する二つの集団の武器や衣装などをその時代から借用した程度の使われ方。戦車も飛行機もオモチャのよう。これには全く予想を裏切られます。まあしかし戦争映画を観たかったわけではありませんから、それもいいでしょう。
シカネーダによる台本の捩れは、映画でもそのままではあります。それでも原作以上に善と悪、暗と明、夜と昼、戦争と平和、対立と愛みたいな構図がひどくキッパリと区分されすぎていて、不可解な矛盾までは表現されていません。「魔笛」の一番の肝の部分が換骨脱退されているような・・・。愛だとか平和のようなテーマとモーツァルトというのも、少し馴染みません。モーツァルトってもっと、欲望と人間くささに満ちていますからね。
音楽も聴いていて、ちょっと疲れますね。台詞がほとんどなく、ひたすらにアリアが続きます。それが映画館の誇張されだドルビー音響で鳴らされるので、ちっとも心地よくありません。
ぢゃあ、観て失敗だったかと言うと、まあ、そうでもないかなと。音楽が元になった映像イマジネーションという点では、なかなか面白いと思いましたよ。それらを列記すると・・・
という具合にツッコミところ満載です。基本的には感動の物語というよりも喜劇ですかね。役柄的には、ザラストロ(ルネ・パーペ)が立派過ぎるので、こちらはあんまり突っ込めない。タミーノとパミーナも、そっとしておいてあげましょう。
◇
恵比寿ガーデンシネマで上映されていた、デイヴィット・リンチ監督の『インランド・エンパイア』を観てきました。私は映画ファンではありませんので、前作『マルホランド・ドライブ』は観ていません。学生時代に『イレイザーヘッド』(1976)、『エレファント・マン』(1980)を観ましたが、全く理解不能で気分が悪くなったことを思い出します。TVでブレイクした『ツイン・ピークス』、これはハマりました。しかし意味の半分も理解していましたか・・・。
で、3時間にも及ぶ本作です。かなりスリリングな映画で、次の展開が全く読めませんからぼんやりと寝ている暇なんてありません。目をつぶったら最後、自分が今眼にしている映像が、何時の時代で何処の場所の物語なのか、誰が出ているのかさえ分からなくなってしまうかもしれないのですから。
映画解説や雑誌には、錯綜する五つの物語が重層構造的になって展開するように説明されています。次第にこれは、ハリウッドの世界だとか、ポーランドの何処かだとかは分かってきます。しかし、それが分かったところで、何になるというのでしょう。作品の振幅は大きく、ゆらぎ、そして時空ごと乱れていきます。
一体に、主役である女優ニッキー(ローラ・ダーン)は何歳という設定なのでしょう。それ程の美人ではないので、映像のアップを眺めるのはかなり苦しい(そもそも、人物アップがとても多い映像)。それでも役によってめまぐるしく変わる彼女の風貌は、作品に得も言われぬ深みと、ある種の厚みを与えていました。
��Vを観て泣く女、冒頭から陰鬱です。何故に泣いているのか、彼女は何を観ているのか。最後にその謎らしきものが分かります。しかし、その「解釈」とて、彼女の復讐と救済の物語だったなんて考えると、途端に白けてしまいます。それだったら今までのフリは、この3時間は一体何だったの!と。
泣き女は救われたとしても、ぢゃあ、ニッキーは救われないのか?確かに救われませんね。あのラストの脳天気さにカタルシスを感じますか?ヤケっぱちささえ感じますが・・・脳天気に踊っているのは彼女ではありませんよね。彼女は、何事もなかったかのように、いや、全てを経験したかのように、微笑みながらソファに横座りしています。あの浮浪者に看取られての「死」のシーンは強烈でしたからね。
それにしても、これは女性の物語です。リンチは本作をabout a woman in trouble, and it's a mystery, and that's all I want to say about it.
と語っているそうです。womenではなくA womanですから、ニッキーを指しているのは自明でしょうか。それでも登場する女性達の運命は、それぞれです。男性も登場しますが、支配的で性的にして暴力的という描かれ方に終始し、女性の送る人生に比べ刺身のツマ程度の役割しか果たしていません。夫なのにツマとはこれいかにです。そのツマが女性の運命を暗くも明るくもします。娼婦たちの退廃した明るさは儚くもエロティックで、しぶとく、強く、そして美しい。助監督のズルさとは対照的です。
いや本作に意味や物語を求めるのは野暮でしょうか。自らの行動の曖昧さ、現実と幻想の、現在と過去の溶解。重なり輻輳する人生と突き動かされる内なる衝動、崩壊。催眠と無意識。行動には結果が伴うという蓋然と偶然。愛とエロス。生と死。それらにノイズとノスタルジーが被さり、茫と霞んでゆく・・・。
音楽はキャロル・キングの「ロコモーション」がベタで印象的。ベックやペンデレツキなども使用されていたようです。私は映像と合わせて、ずっとノイズが鳴っていたような気がしています。いや、映像そのものが、壮大なノイズであり混沌。生半可な解釈はやはり不要でしょうか。
��S.
ペンデレツキの何と言う曲が使われていたか知りませ。NMLでヴァイオリン・ソナタを聴きながらレビュを書きました。ペンデレツキ!いいぢゃないですかっ!(>いちおうクラ音楽ブログだしね)
音楽をベルリン・フィルとラトルが担当というだけで、クラ界ではそれなりの話題性があるハズなんですが、定期巡回しているブログではTakuyaさんとyusukeさんのところにエントリがあるくらい。そろそろ上映期間も終わりに近づきましたので観てきましたが、直後の第一印象としては随分とおぞましい映画を観てしまったなと。映像の綺麗な官能サイコパス映画と捉えても良いけど、それだけぢゃあ、つまらないので少し・・・
おぞましさは、映像のグロさや主人公グルヌイユの猟奇性に起因するわけではありません。それは犯罪性とか人間の生活にまみれた汚濁とか醜悪さの中から、群集はおろか司祭や為政者までをも支配してしまうほどの力と神聖さを獲得するという、そのこと。彼の「行為」と目的の無垢さと純粋さ、その純粋な悪意に胸が悪くなる程のおぞましさがある。
彼が自身、体臭を持たないと気付いた時、彼は自分の存在の欠落に気付きます。しかし、それをきっかけとして彼が人間的感情を欠落させたわけではありません。彼には天賦の才能(「香り」の世界のモーツァルトに匹敵する天才性)がありながらも、人間性をもともと有してはいなかった。それ故にかどうかは分かりませんが、失われた香り(彼が初めて嗅いだ女性ではなく、それは最初から失われていた)への強烈な焦燥と固執、地獄のような欠落を埋めるために神をも怖れぬ邪悪な行為を続け、その結果が神をも惑わす奇跡に繋がる・・・なんて茶番を、いったい正視できましょうか。
いや、いや、それでも正視してしまうのです。全くに意表を付く処刑場のシーンは苦笑を禁じえないと同時に、このクライマックスが何故に必要であったのかと、やはり考えざるを得ない。すなわち彼の獲得した全能性は彼を幸福にはしない、彼の欠落を埋めることもない、悪意の野望は実現しない。彼の与えた奇跡は一過性のもので、万人の記憶に留めたくない類のものであった。
人間性すなわち愛を欠落したままの彼は、生まれた場所に引きずられるかのように帰り、自らの存在証明である香水の魔力ゆえに群集に蛙(=グルヌイユ)のように押しつぶされて死ぬというのは余りにも暗示的です。彼の存在はその瞬間に無と帰しましてしまいます。ああ、やりきれません。
それにしても、映像における18世紀のパリの描写のリアルさよ。街が汚いだけではなく、衣服も人も汚い、手も首も爪も!汚れて真っ黒であるということ。そういう世界から生まれた香水。香水は日常を聖へ、汚濁を清浄へ、処女性から性愛へ、そして憎悪を愛へと導くということか。いやァ~、本当にドイツ人の考えることは、良く分からんス。やっぱ香りと同じで文化の違いなんでしょうか。
あれ?ラトルは?ベルリンは?
フジテレビで「硫黄島~戦場の郵便配達~」という2時間ドラマが放映されていました。映画「硫黄島からの手紙」に触発されて作られた番組でありましょうから、もののついでということで観てみました。感想としては、番組制作者の意図を汲んだとしても、ドラマとしては鑑賞に耐えうるものではなく、「話題つくり」的な拙速さが目に付きました。市丸少将率いる硫黄島の兵士たちの姿も、酷い描き方でした。
これならばいっそのこと、インタビューを交えたドキュメンタリー(*1)にした方が、よほど訴求力があったのではないかと思います。ドラマに挿入されるご遺族の行動や言葉を聞きますと、戦争は決して終わったものではないのだと身に染みる気がしました。
また実在した市丸少将を軸にドラマを展開したのですから、彼の遺書とも言うべき『ルーズベルトニ与フル書』についてもっと言及すべきではなかったのでしょうか。Wikipediaによりますと日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くもの
であったとのこと。その「手紙」が米国で丁重に保管(*2)されているというのも、不思議な気がします。
私は硫黄島のことも、戦争のことも、ほとんど無知と言っていい。硫黄島は「玉砕の島」と火炎放射器という断片的な知識を有しているのみです。「硫黄島からの手紙」を主演した渡辺謙氏も、この映画の話が来るまで栗原中将どころか、硫黄島の事も全く知らなかったと語っています。おそらくは他の日本の俳優しかりでしょう。
イーストウッドの映画は、非常にリアリティのある映画でしたが(*3)、それでも戦場の現実からは程遠い(ような気がします)(*4)。
戦争を「リアル」に感じるというのは、どういうことなのか。当時の日本が、一体どういう戦争をしていたのか。当時の世界情勢を考えたとき、戦略的にどうであったのか。日本の取った行動は間違っていたのか、他の選択肢があったのか、何故それは潰されたのか。そして当時の人たちは戦争をどう考えていたのか。戦場に行くということは、敵を倒す(殺す)ということは、個人にどういう意味をもたらすのか。そういうことを私は全く知りません。
イーストウッドは、「戦争がなくなって欲しいとは思うが、歴史は戦争がなくならないことを教えている。しかし理想は捨ててはいけない。」という主旨のことを、12/7の筑紫哲也 NEWS23で語っていました。筑紫氏が「戦争映画は戦争を顕彰することになり、次なる戦争の準備とならないか。愛国心についてどう考えるか。」という質問をしました。イーストウッドは「愛国心(patriotism)」という言葉に一瞬考えながらも、「愛国心は誰にでもある。しかし、それが理由になって(個人や国家を)縛るようなことがあってはいけない。」と答えていたのが印象的でした。
誠実なドキュメンタリーにおち入りがちな穴、
あまりにも取材を重ねたために、取材にからめとられて、テーマを見失う、
日米双方の主張を並べて、あとは視聴者が考えて欲しいということになったと評しています。
映画は渡辺謙が演じる栗林中将と二ノ宮和也が演じる一兵卒の西郷。この二つの軸を中心に、硫黄島で何が起きたのかを淡々と描いていきます。人物像と背景の描き方に過度の感情移入を廃している点、日本映画だと、もしかすると、残された家族への愛惜やそれを逆転した愛国心、あるいは無残に死んだ兵士の姿を過度に表現しがちですが、この映画はかなり抑制的な表現です。
戦場における日本の指揮官たちの愚昧さも、日本兵の自決シーンも、批判的に描いているというよりは、「そこで起きた事実とはこうだった」というような客観的視点があるように思えます。戦闘シーンは「父親達の星条旗」ほどには激烈ではありません。さらに日本兵の実態は、米軍との圧倒的な物量の違いとか、水や食料のなさなど、実際はもっともっと悲惨で酷かったであろうとは思うため、随分と甘い描写であるとは思います。しかし、それでも戦争の泡立つような恐怖と理不尽さに、私は映画の終わりまで身動きすることさえできませんでした。
一方で「手紙」ということから連想する、日本に残された家族や恋人たちのシーンは意外な程に少ない。というか「手紙」を受け取る家族の姿は、一度も出てきません。手紙を書くのはもっぱら硫黄島の兵士ばかりです。
戦場での彼らは「手紙」という抽象的な、あるかないか分からないばかりの繋がりのみを頼りとして自己を守りぬます。自分が自分であることを「手紙」により確認し、本国に残った者には想像だにできない戦場の狂気に身を置いていたということが伝わってきます。
「自らが正義と思える行動を取るように」というアメリカ兵捕虜への母親からの手紙に共感する元憲兵の日本人。彼らが守ったものは、もしかすると家族でも国家でもなく、絶対に譲れない自己であったのかもしれません。命令に背く部下を罰する上官も、もはやこれまでと自決した兵士も、逃走した兵士も、皆な同等な存在と思えてきます。そういう意味からは、非常に内的な映画であるとも感じました。
映画では合理的精神の象徴として栗林忠道中将を描いています。玉砕を禁じ、優秀な指揮官振りを示した人物であることは事実の通りのようです。最期は「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」の言葉を残し突撃戦を敢行。映画では、この戦闘で傷を負い、そして苦渋を秘めて自決します。このシーンは全編の中で最も重く感情的に描かれています。冷静とシニカルさを保っていた西郷が、遂に自己を抑制できなくなったのは、残された家族を思ってでも、戦友の死でも、自己の死の予感でもありませんでした。イーストウッドは、彼らの心情をアメリカ人的に理解したかったのではないでしょうか。
蛇足ですが、二ノ宮和也のような「顔」の日本人が当時いたわけがない、という一部の感想には同感です。イーストウッドが共感した日本人兵士の合理的精神も、所詮はアメリカの視点であることは忘れてはならいでしょう。
それにしても、おそらく多くの人が感じると思いますが、こういう映画をアメリカ人に作られてしまうとは、ほとほと、トホホです。
28日に封切られたばかりの「父親たちの星条旗」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、アメリカから見た硫黄島の戦争を描いたものです。
実はほとんど予備知識なく観たのですが、こいつにはビックリです。クリント・イーストウッドは「戦争映画を描いたつもりはない、人間のドラマを描いた」と述べていますが、いやたしかに、人間ドラマもとてつもなく重いのですが、それにしても、この戦闘シーンの凄まじさよ。
スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」が描いたノルマンディ上陸の戦闘シーンも凄かったのですが(というか、映像を観ながら、ほとんど恐怖におののき、吐き気がした)こちらの映像の迫力はその上を行くのではないでしょうか。敵も味方もない、無情にして非情な戦闘シーンの連続。アメリカの圧倒的な物量は映像で観るものを(ことに硫黄島決戦を良く知らない日本人を)圧倒しますが、それを支えた米国の内情にまでは、当時の日本人は(今も?)決して思い至らなかったハズです。国家は日本もアメリカもギリギリまで追い込まれながら、虚しい闘いを続けていたわけです。
そういう戦場シーンがあるからこそ、星条旗の持つ意味、すなわち写真の虚構と真実が重さを持ちます。彼らが命と半生を賭けたもの何であったのかが伝わってきます。
戦場の残酷さと故国のギャップは、戦争映画としては月並みな描き方です。しかしステロタイプな扱い方であってさえも、その対比が訴える力は少しも削がれはしません。映像に描かれたものを言葉に置き換えた瞬間に全てが陳腐にります。言葉では書ききれない重さが映像にあります。
本作は実話に基づく映画であるとのこと。国家が何を望み、個人や家族が何を望んでいたのか、戦争の英雄の実像と虚像。惨めな半生と決して口を割ろうとはしなかった過去の痛ましさ。戦闘シーンと同様に勝者も敗者もありません。愛国心などと言う言葉で括るのも軽がるし過ぎる。人は何故闘ったのか、何故そこに残ったのか、何故そこにまた戻ったのか。
かつての名作「ディァ・ハンター」のように、ひたすら戦争の傷を舐めるという類の映画でもありません。戦争の無意味さを強く主張する映画でもなさそうです。それでいて、戦争と言うものの底辺と真実がイヤと言うほどに実寸大で見えてきます。
おそるべし、イーストウッドです。硫黄島決戦というと、穴倉に火炎放射器を容赦なく浴びせかける米軍兵の映像などが夏のヒストリー・チャンネルやNHKで繰り返し流されますが、それとて何かが欠けていた視線だったのかもしれません。12月9日に公開される「硫黄島からの手紙」は日本の視点から描いたものです。これは是非観なくてはならなくなりました。
k-tanakaの映画的箱庭で何度も紹介されていました、話題作「ホテル・ルワンダ」をユナイテッド・シネマ豊島園で観てきました。あちこちで絶賛の嵐ですから、あえてここでは内容の詳細については触れません。
映画は本当に良く出来ています。メッセージ性も極めて高く感動的です。日々報じられるメディア裏側の真実とメディアの限界、国連平和維持軍の実態などイロイロ考えさせられますが、素直に訴えかけるのはドン・チードルが演じるホテル支配人ポール・ルセサバギナの家族愛と行動力。
彼が最後までホテルマンとして振舞ったことは、一見滑稽でありながら極めて意義のあることです。彼が「アフリカ人」であるがゆえに、彼の勤めるベルギー系4星ホテルの「支配人」にはなれても決して「オーナー」にはなれない。はからずも国連平和維持軍のオリバー大佐に指摘され、彼も自分が「思い上がっていた」ことに痛烈な侮恨を感じますが、それでも彼を支えているのは「ホテルマンとして社会に位置づけられていた自我」であることを映画は描いています。それを捨てては全ての繋がりを失う。
彼は高邁な理想を持ったヒーローでもなければ、ハリウッド的超人力を発揮するわけでもありません。また家族を守るためだからと自ら武器を持つこともありません(持とうともしない)。銃声の鳴り止まぬ絶望的な状況の中で、彼は限りない家族愛を示し、ホテルマンとしての矜持を失わず、可能な限りの等身大の行動を取ります。ポールが家族と別れホテルに残ることを突然決心したことも、彼が高次の人間愛に目覚めたというよりは、彼のものであったホテルに「客」が残っている以上、それ以外に選択できる行動がなかったのだろうと思います。
この映画を観ることは、やたら政治的になることよりも、自分の中に「内なるルワンダ」が居るかもしれないことを恐れると同時に、自らの「ポール的なるもの」を問い直すことになるような気がします。ラストのポールの言葉「いつでも部屋は空いていた」は、全てを言い表しています。
自分で書いておいて、没企画(「CDでワーグナーの歌劇・楽劇を聴く」という無謀なシリーズ)になっていたものだからすっかり忘れていました。スター・ウォーズと指環の類似性について言及した海外サイトが、そういえばあったのですよね。
Richard Wagner Web Siteというサイトの中の「スターウォーズ・シリーズとワーグナーの《指環》~構成、主題そして音楽のつながり(The Star Wars series and Wagner's Ring
Structural, thematic and musical connections)」というページです。あの時は内容を読まずにスルーしたので今まで全く忘れていました。テキストは膨大でまだ触りしか読んでいませんが、せめてタイトルだけでも拾っておきましょう。
Introduction
■Structural identities
タイトルを眺めるだけで、ワーグナー好きな方でスター・ウォーズも好きな方には興味深い内容ではないかと思います。英語が読めない人でも、ライトモチーフの項は楽譜とMIDIファイルが提供されていますので両者の類似性を目と耳で楽しむことができます。あまりにも鮮やかな解説です。(>そうか、デス・スターがリングだったのか!)