2006年12月10日日曜日

映画:硫黄島からの手紙


本日に封切られたばかりの「硫黄島からの手紙」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、日本から見た硫黄島の戦争を描いたものです。「父親たちの星条旗」を観て、是非こちらも観なくてはと思っていましたが、期待以上の出来に心底ビックリです。

映画は渡辺謙が演じる栗林中将と二ノ宮和也が演じる一兵卒の西郷。この二つの軸を中心に、硫黄島で何が起きたのかを淡々と描いていきます。人物像と背景の描き方に過度の感情移入を廃している点、日本映画だと、もしかすると、残された家族への愛惜やそれを逆転した愛国心、あるいは無残に死んだ兵士の姿を過度に表現しがちですが、この映画はかなり抑制的な表現です。

戦場における日本の指揮官たちの愚昧さも、日本兵の自決シーンも、批判的に描いているというよりは、「そこで起きた事実とはこうだった」というような客観的視点があるように思えます。戦闘シーンは「父親達の星条旗」ほどには激烈ではありません。さらに日本兵の実態は、米軍との圧倒的な物量の違いとか、水や食料のなさなど、実際はもっともっと悲惨で酷かったであろうとは思うため、随分と甘い描写であるとは思います。しかし、それでも戦争の泡立つような恐怖と理不尽さに、私は映画の終わりまで身動きすることさえできませんでした。

一方で「手紙」ということから連想する、日本に残された家族や恋人たちのシーンは意外な程に少ない。というか「手紙」を受け取る家族の姿は、一度も出てきません。手紙を書くのはもっぱら硫黄島の兵士ばかりです。

戦場での彼らは「手紙」という抽象的な、あるかないか分からないばかりの繋がりのみを頼りとして自己を守りぬます。自分が自分であることを「手紙」により確認し、本国に残った者には想像だにできない戦場の狂気に身を置いていたということが伝わってきます。

「自らが正義と思える行動を取るように」というアメリカ兵捕虜への母親からの手紙に共感する元憲兵の日本人。彼らが守ったものは、もしかすると家族でも国家でもなく、絶対に譲れない自己であったのかもしれません。命令に背く部下を罰する上官も、もはやこれまでと自決した兵士も、逃走した兵士も、皆な同等な存在と思えてきます。そういう意味からは、非常に内的な映画であるとも感じました。

映画では合理的精神の象徴として栗林忠道中将を描いています。玉砕を禁じ、優秀な指揮官振りを示した人物であることは事実の通りのようです。最期は「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」の言葉を残し突撃戦を敢行。映画では、この戦闘で傷を負い、そして苦渋を秘めて自決します。このシーンは全編の中で最も重く感情的に描かれています。冷静とシニカルさを保っていた西郷が、遂に自己を抑制できなくなったのは、残された家族を思ってでも、戦友の死でも、自己の死の予感でもありませんでした。イーストウッドは、彼らの心情をアメリカ人的に理解したかったのではないでしょうか。

蛇足ですが、二ノ宮和也のような「顔」の日本人が当時いたわけがない、という一部の感想には同感です。イーストウッドが共感した日本人兵士の合理的精神も、所詮はアメリカの視点であることは忘れてはならいでしょう。

それにしても、おそらく多くの人が感じると思いますが、こういう映画をアメリカ人に作られてしまうとは、ほとほと、トホホです。

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